成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯草(恢国篇第26)(成王の時、越裳(ベトナム)は雉を献じ、倭人は鬯草(チョウソウ)を献ず。) |
成王の在位年代ははっきりわからないが、周王朝の初代武王の息子であることから、紀元前10世紀以前の出来事だと推測される。このほかにもいわゆる「倭人」が周王朝に接触したという記事が数件みられる。つまり、孔子が日本列島のことを耳にしていても不思議はないのである。周代は、日本の弥生時代初期から前期に相当する。その当時、既に支那では日本列島の住人に対する認識があったとみられ、もちろん日本列島人も支那に対する知識が多少はあったと考えられる。同時に、大陸まで使者を派遣するほどの統治勢力が日本列島に芽生えていたことも示唆している。 日本語の起源を考えるとき、縄文時代から弥生時代にかけての日本列島内における文化の成熟度は重要な意味をもつ。確かに日本列島人は明確な文字体系を持たなかった が、縄文の火焔土器(左図)などにみられる精緻巧妙な造形美のなかに表現された高度な知性は、文字文化に匹敵するほどの何かを感じさせるものがある。 |
日本語がアルタイ系のトルコ語、モンゴル語、ツングース語、朝鮮語(左図)などアルタイ系言語の特徴を数多く共有していることは、誰もが認めるところである。日本語は、遥か有史以前に滅んでしまった古い言葉の特徴であった言語の統語法(文法構造)、膠着性(動詞の語尾に接尾辞がついて変化する性質)などを、現在のアルタイ諸語と同じように受継いできたが、旧石器時代以降、彼らとの近親性を証明できないほどに異なる進化の道をたどり、現在では一種のパラゴラス化した言語となった。それは日本列島人が大陸の人々とは異なった民族性を培った年月の長さを証明するものでもある。日本列島が完全に孤島化する縄文早期(12000年前)において、当時の日本列島人が話していた言葉は、アルタイ系の特徴をもった原始日本語であったと考えられ、それが現在の日本語の基層言語となったと考えられる。 |
後漢書東夷伝にある「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」(前述)とする記述の意味について、過去さまざまな解釈がなされてきた。この記事そのものに対する信憑性も問われたが、1784年、福岡県志賀島で偶然発見された金印(右図)によってその事実が確認された。紀元後すぐという早い時期に、日本の一部族国家が後漢との国交を開くほどに発展していたことは注目すべき史実である。「倭奴国」の王が大夫と自称する使者をもって朝貢させたことはほぼ間違いない。大夫は、春秋戦国時代は貴族、小領主を指したが、その後は地方の長官を意味し、さらに漠然と身分のある者あるいは大臣級の地位にあるものを指したようだが、後漢書が編纂されたのは5世紀であることから、倭奴国の出先機関の長である可能性が高いと思われる。 |
『三国史記』によれば、紀元前50年「倭人が出兵し新羅の辺境に侵入しようとしたが、新羅の始祖(朴赫居世)には神のような威徳があると聞いて引き返した」という記事がみえる。紀元後11年には「倭人が兵船百余隻で海岸地方の民家を略奪した」とある。また、第4代の王、昔脱解の3年(紀元後59年)の夏、倭国と国交を結び使者を交換したとあり、紀元後73年には「倭人が木出島に侵入した。王は角干羽烏(カクカンウウ)を派遣したが敗れた」とある。その後も倭人による半島進出は続いた。九州あるいは対馬から海を渡ってしばしば侵攻することは、当時の海運力を考えればかなり困難な事業であり、侵攻するとなればそれなりの大きな目的を持ちかつ不退転の決意でもって出陣しなければならなかったはずだ。元寇において、フビライのあの大軍をもってしても九州に上陸侵攻できなかったことからも推量できよう。とすれば、結論はただ一つである。倭人の根拠地は朝鮮半島にもあったのだ(右図)。 1980年代以降、韓国で前方後円墳の発見が相次いだ(下図)。当初、前方後円墳も朝鮮半島から日本列島へ文化伝播したと喧伝されたが、放射性炭素C14を使った精確な年代測定により、日本より2~3世紀後の5~6世紀に築造されたことがわかった。古墳文化は日本から朝鮮へ伝播したというのが真実だったのである。古墳は半島南西部に多く分布している。百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとされる全羅南道に11基、全羅北道に2基確認されている。 |
前方後円墳が集まる全羅南道を流れる榮山江流域(左図)では、墳丘形態と円筒埴輪などの外部施設、甕棺による独特な埋葬法や九州北部でも発掘されている鳥足文土器の副葬品などが見つかっている。榮山江流域は、周囲とは異なる文化を持つ地域であったことが見受けられる。このことから、被葬者については、大和朝廷によって当地に派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族、あるいは倭人系百済官僚であるとする見解や、いずれも倭国と縁のある東城王・武寧王に随伴した倭人有力者とする見解などが出ている。榮山江流域には倭人が住んでいたという説も存在する。 このような考古学的事実からも、倭人の朝鮮半島進出はかなり活発であったことが推定される。しかも前方後円墳をもって埋葬するほどの権力者が存在したことも確実だ。その権力者に対して、後漢の皇帝が「金印紫綬」を授与するのも不思議なことではない。 |
年 | 王代 | 『三国史記』の記事 | 備考(日本側の記録等) |
59 | 4 | 倭国と国交を結び、使者を交換 | 〈57〉倭奴国王後漢に遣使、印綬を受ける。 |
73 | 4 | 倭人が木出島へ侵入。王は角干羽烏を派遣し、これを防いだが敗戦。 | |
121 | 6 | 倭人が東部辺境に侵入 | |
122 | 6 | 王都の人たちは、倭兵が大挙して攻めて来たという流言に、先を争って山や谷に逃げ込もうとした。 | |
123 | 6 | 倭国と講和した。 | |
173 | 8 | 倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた。 | |
193 | 9 | 倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人もきた。 | |
208 | 10 | 倭人が国境を犯したので、伊伐滄の利音に軍隊を率いて反撃させた。 | |
232 | 11 | 倭人が突然侵入して金城を包囲した。王が自ら城を出て戦ったので賊軍は潰滅・逃走した。軽装の騎馬隊を派遣して賊軍を追撃し、千余人を殺し捕えた。 | |
233 | 11 | 倭軍が東部の国境を犯した。伊滄の干老が倭人と沙道で戦った。風向きを測って火をつけ倭軍の舟を焼いた。賊兵は溺れてことごとく死んだ。 | |
249 | 12 | 倭人が舒弗邯の干老を殺した。 | |
287 | 14 | 倭人が一礼部を襲い、村々に火をつけて焼き払い、千人もの人々を捕えて立ち去った。 | 慶北星州郡星州面 |
289 | 14 | 倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。 | |
292 | 14 | 倭兵が沙道城を攻め落とそうとした。一吉滄の大谷に命じて、兵を率いて救援させ、この城を確保した。 | |
294 | 14 | 倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、勝てなかった。 | |
295 | 14 | 王は重臣たちにこう言った。「倭人がしばしば我が国の城や村を襲うので、人々は安心して生活することができない。私は百済と共謀して、一時海上に出て、その国を攻撃しようと思うがどうであろうか」舒弗邯の弘権は答えた。「我が国の人々は水上の戦いに慣れていません。危険を冒して遠征すれば、おそらくは思いがけない危険があるでしょう。まして百済は嘘が多く、その上につねに我が国の侵略を企図しております。おそらく百済と共謀して倭を侵略することは困難でしょう」 | |
300 | 15 | 倭国と国使の交換をした。 | |
344 | 16 | 倭国が使者を派遣して、花嫁を求めて来たが、娘はすでに嫁に行ったとして辞退した。 | |
345 | 16 | 倭王が国書を送ってきて、国交を断絶した。 | |
346 | 16 | 倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。王は出て戦おうとしたが伊伐滄の康世が「賊軍は遠くからやってきて、その矛先はあたるべからざるものがあります。賊軍を緩めさせるのがよく、その軍の疲れを待ちたい」と言った。王はこれをよしとして、門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食糧がなくなり退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃させ、これを敗走させた。 | |
364 | 17 | 倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて、対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣を着せ、兵器を持たせて、吐岩山の麓に並べ、勇士千人を斧?の東の野原伏せておいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意打ちをかけた。倭軍が大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。 | 〈369〉倭軍出兵、百済と通交、半島南部を勢力下に置く。 |
393 | 17 | 倭軍が侵入して金城を包囲し、5日も解かなかった。将軍たちは皆城を出て戦いたいと願った。王は「いまは賊軍が船を捨てて内陸深く入り込んで、いわゆる死地にいるので、その鉾先は防ぐことができない。」城門を閉ざして持久戦に持ち込むと、賊軍は得るところなく退却した。そこで王はまず勇敢な騎馬隊300人を派遣し、賊軍の退路を遮断し、歩兵隊千人を派遣して独山に追い込み、挟み撃ちをして倭軍を大敗させ、多くを殺したり捕らえたりした。 | 〈 391〉倭軍出兵、百済、新羅を破る。 |
402 | 18 | 倭国と国交を結び、奈忽王(17代王)の王子未斯欣を人質とした。 〈397〉百済太子を倭に質となす。 | |
405 | 18 | 倭兵が侵入して明活城を攻めたが、勝つことはできずに帰ろうとした。そこで王は騎兵を率いて、倭軍を独山の南で待ち伏せし、再度戦ってこれを破り、3百余人を殺したり捕らえたりした。 | 慶州市普門里 〈404〉倭軍、帯方郡の故地に出兵、高句麗軍と戦う。 |
407 | 18 | 倭人が東部の辺境に侵入した。また南部の辺境を侵し、百人を奪い掠めた。 | |
408 | 18 | 王は倭人が対馬に軍営を置き、兵器や資材・食糧を貯えて、わが国を襲撃しようと準備しているとの情報を得た。そこで王は、「倭軍の動き出す前に、精兵を選び敵の兵站を撃破したい」と言った。舒弗邯の未斯品は、「軍隊は凶器であり、戦争は危険なことと聞いています。大海を渡って他国を討伐し、万一勝利を失うならば、悔やんでも追いつかないのです。天嶮の地関門を設けて、来たならばこれで防ぎ、侵入して悪いことをしないようにさせましょう。有利になれば、そこで出撃して賊軍を捕らえるのです。これがいわゆる相手を意のままにし、思い通りにさせないことで、もっともよい策略です」と答え、王はこの意見に従った。 | |
415 | 18 | 倭人と風島で戦い、これに勝った。 | |
418 | 19 | 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ってきた。 | |
431 | 19 | 倭兵が侵入して東部の辺境を侵した。ついで明活城を包囲したが得るところなく退却した。 | |
440 | 19 | 倭人が南部の辺境を侵し、住民を掠め取って逃げ去った。また、倭人が東部の辺境を侵した。 | |
444 | 19 | 倭兵が10日間も金城を包囲し、食糧が尽きたので引き上げようとした。王が出兵してこれを追撃しようとしたが、重臣たちが「兵法家の説では、窮地に立った賊軍を追撃してはならないといっています」と引きとめた。王はこの意見を聞き入れないで、数千余騎を引き手追撃し、独山の東で合戦したが、賊軍に敗北し、将兵の大半が戦死した。王は慌てふためいて馬を乗り捨て、山に登った。賊軍はその山を幾重にも囲んだ。突然、濃霧が出て一寸先もわからなくなった。賊軍は、王に神の陰助があるのだと思って、軍隊をまとめて退き帰った。 | |
459 | 20 | 倭人が兵船百余艘を連ねて東海岸を襲撃し、さらに進撃して月城を包囲した。四方からはなたれる矢や石は雨のようであったが、王城を守り抜いた。賊軍が退却しようとしたので、兵を出してこれを撃ち破った。逃げるのを追って海岸に至った。賊軍で溺死するものがその過半であった。 | |
462 | 20 | 倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を連れ去った。 | 不明 |
463 | 20 | 倭人が歃良城を攻めたが、勝てずに退却した。王は伐智と徳智とに命じて、兵を率いて退路に待ち伏せし、迎え撃って大いに賊軍を撃破した。王は倭人がしばしば侵入するので、国境地帯に2城を築かせた。 | 慶北梁山郡梁山面 |
476 | 20 | 倭人が東部の国境地帯を侵した。王は将軍徳智に命じて、これを撃ち払わせた。二百余人を殺したり捕虜にしたりした。 | |
477 | 20 | 倭人の軍隊が、五道を通って侵入したが、得るところなく引き上げた。 | |
482 | 21 | 倭人が辺境を侵した。 | |
486 | 21 | 倭人が国境地帯を侵した。 | |
497 | 21 | 倭人が辺地を侵した。 | |
698 | 32 | 日本国の使者がやってきた。王は崇礼殿で引見した。 | 〈621〉新羅初めて朝貢〈663〉白村江の戦い 〈676〉新羅王子等入貢する。 〈689〉新羅使の無礼を責める。 |
731 | 33 | 日本国の兵船300艘が、海を越えてわが東部の辺境を襲った。王は将軍に命じて出兵し、大いに撃破した。 | 〈732〉新羅、鸚鵡等を献ずる。その請願により貢使を3年に一度とする。 |
742 | 35 | 日本国の使者が来たが、これを受け付けなかった。 | 〈738,742,743〉新羅使を放還 |
753 | 35 | 日本国の使者が来たが、彼らは傲慢でしかも無礼であったので、王は彼らに会わずに追い返した。 | 〈752〉新羅の王子・朝貢使来る。 〈759〉新羅征討の議起こる。 |
802 | 40 | 均貞に大阿滄の官位を授け、仮の王子として、倭国に人質として行かせようとした。均貞はこれを辞退した。 | 〈760,763、774〉新羅使を放還 |
803 | 40 | 日本国と国交を開き、友好関係を結んだ。 | 〈780〉新羅使の朝貢を受ける。 |
804 | 40 | 日本国が使者を派遣し、黄金300両を進上した。 | |
806 | 40 | 日本国の使者が来たので、朝元殿で引見した。 | |
808 | 40 | 日本国の使者が来朝した。王は正式の儀礼で彼らを鄭重に待遇した。 | 〈813〉新羅人、肥前に侵寇 |
864 | 48 | 日本国の使者が来た。 | 〈869〉新羅人、博多に侵寇 |
882 | 49 | 日本国王が使者を派遣してきて、黄金300両と明珠10箇とを進上した。 | 〈929〉新羅朝貢を乞うも許さず。 〈936〉高麗朝貢を乞うも許さず。 |
元号年 | 西暦 | 月日 | 記事の内容 | |
(文武) | 元 | 697 | 閏12.7 | 播磨、備前、備中、周防、阿波、讃岐、伊予などの飢饉。食糧を与え、負税(出挙(スイコ) で借りた稲の返済分(利子))の猶予 |
2 | 698 | 3.7 | 越後で疫病が流行。医師を派遣し、薬を送った。 | |
4.3 | 近江、紀伊で疫病が流行。医師を派遣し、薬を送った。 | |||
3 | 699 | 1.26 | 林坊に住む新羅の女・牟久売が、一度に二男・二女を出産。朝廷は、?(アシギヌ) 5疋 、真綿5屯、麻布10端、稲500束と乳母1人を賜った。 | |
4 | 700 | 11.28 | 大倭国葛上郡の鴨君粳売が一度に、二男・一女を出産。朝廷は、?(アシギヌ)4疋、真綿4屯、麻布8端、稲400束と乳母1人を賜った。 | |
12.26 | 大倭国に疫病が流行。医師と薬を下賜。 | |||
大宝 | 元 | 701 | 8.14 | 播磨、淡路、紀伊の水田や園地が、大風と高潮のために被災。使者を派遣し、農業や養蚕の状態を巡察し、人民を慰問。 |
9.9 | 使いを諸国に遣わし産業を巡察させ、人民に物を施し救済。 |
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3 | 703 | 3.17 | 信濃、上野の二国に疫病が流行、薬を支給。 |
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5.16 | 相模国に疫病が流行、薬を支給。 |
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7.5 | 災害や異変がしきりに起こって穀物が不作のため、京畿と太宰府管内の調 を半減し、合わせて全国の庸 を免除。 |
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慶雲 | 元 | 704 | 3.19 | 信濃国に疫病が流行、薬を支給。 |
4.19 | 讃岐国が飢饉のため物資を支給。 |
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4.27 | 備中、備後、安芸、阿波の稲苗が損害を受けたので、物資を補給。 |
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5.16 | 武蔵国が飢饉のため物資を支給。 |
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6.11 | 河内国の古市郡の高屋連薬女が男の三つ子を産んだので、?2疋、真綿2屯、麻布4端を下賜。 |
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7.19 | 京内の80歳上の高齢者に物資を支給。 |
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10.5 | 大雨や日照りのために作柄が悪いので、今年の課役と田租を免除。 |
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12.20 | 伊豆、伊賀の二国に疫病が流行、医師を派遣し、薬を支給。 |
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2 | 705 | 8.11 | 日照りが10日以上も続いたため、大赦を行ったほか、老人、病人、やもめの男女、孤児、孤独の老人など自活することのできない者には、程度に応じて物を恵み与え、諸国の調半分を免除した。 |
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12.27 | 20の国々で飢饉や疫病が発生、それぞれに医師や薬を送り、物資を支給。 |
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3 | 706 | 閏1.5 | 京、畿内、紀伊、因幡、三河、駿河などの国々で疫病が流行、医師を派遣し、薬を支給。 |
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2.14 | 山背国相楽郡の鴨首形名という女が6人の子を3回に分けて産んだ。そのうち最初の二人の男の子を大舎人 とした。 |
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2.26 | 河内、摂津、出雲、安芸、紀伊、讃岐、伊予の七カ国で飢饉、物資を支給。 |
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3.13 | 右京の人、日置須太売が三つ子の男の子を出産。衣服、食糧、乳母を下賜。 |
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5.16 | 美濃国の村国連等志売が三つ子の女の子を出産。籾40石と乳母を下賜。 |
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5.21 | 畿内で長雨のため稲苗が損なわれたので、籾を無利息で貸与。 |
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4 | 707 | 12.4 | 伊予国に疫病が流行、薬を支給。 和銅(元明) |
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和銅 | 元 | 708 | 2.1 | 讃岐国に疫病が流行、薬を支給。 |
3.2 | 山背、備前の二国に疫病が流行、薬を支給。 | |||
3.27 | 美濃国安八郡の国造千代の妻如是女が一度に3人の男の子を出産、稲400束と乳母を下賜。 |
和銅 (元明) |
元 | 708 | 7.7 | 但馬、伯耆の二国に疫病が流行、薬を支給。 |
7.14 | 隠岐国に長雨と大風があったので、物資を支給。 |
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2 | 709 | 1.21 | 下総国に疫病が流行、薬を支給。 |
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3.4 | 隠岐国の飢饉に物資を支給。 |
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6.9 | 上総、越中の二国に疫病が流行、薬を支給。 |
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6.26 | 紀伊国に疫病が流行、薬を支給。 |
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3 | 710 | 2.11 | 信濃国に疫病が流行、薬を支給。 |
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4 | 711 | 4.5 | 大倭、佐渡の二国に飢饉、両国に物資を支給。 |
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5.7 | 尾張国に疫病が流行、医師を派遣し薬を支給。 |
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7.5 | 山背国相楽郡の狛部宿禰奈売が三つ子の男の子を出産。絁2疋、真綿2屯、麻布4端、稲200束と乳母1人を下賜。 |
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5 | 712 | 2.19 | 京、畿内の高齢者、男女やもめ、孤児、独居老人に?、真綿、米、塩を下賜。 |
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5.4 | 駿河国に疫病が流行、薬を支給。 |
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6 | 713 | 2.23 | 志摩国に疫病が流行、薬を支給。 |
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3.19 | 大倭国に疫病が流行、薬を支給。 |
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4.23 | 讃岐国が飢饉、物資を支給。 |
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11.1 | 伊賀、伊勢、尾張、三河、出羽などの国が大風で秋の収穫に被害を受けたため、これらの国の調と庸を免除。既納の者には稲を下賜。 |
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7 | 714 | 5.27 | 土佐国の物部毛虫咩という女が三つ子を出産。籾4斛と乳母を下賜。 |
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10.1 | 美濃、武蔵、下野、伯耆、播磨、伊予の六国に大風があり、家屋を壊した。この年の租と調を免除。 |
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霊亀 | 元 | 715 | 5.1 | 丹波、丹後の二国が飢饉。税稲も無利息貸与。 |
12.11 | 常陸国久慈郡の占部御蔭女が三つ子の男の子を出産、食糧と乳母を下賜。 |
№ | 文献名 | 著者等 | 発行者等 |
1 | 日本語の歴史1 | 亀井孝ほか | 平凡社 |
2 | 日本人ルーツの謎を解く | 長浜浩明 | 展転社 |
3 | 日韓がタブーにする歴史 | 室谷克実 | 新潮社 |
4 | 倭国伝 | 全訳注:藤堂明保他 | 講談社 |
5 | 四書五経入門 | 竹内照夫 | 平凡社 |
6 | 縄文土器の研究 | 小林達雄 | 学生社 |
7 | 縄文土器の文様構造 | 石井匠 | アム・プロモーション |
8 | 縄文の思考 | 小林達雄 | 筑摩書房 |
9 | 古代朝鮮と倭族 | 鳥越憲三郎 | 中央公論新社 |
10 | 日本の古代道路を探す | 中村太一 | 平凡社 |
11 | 三国史記(1、2) | 金富軾 | 平凡社 |
12 | 論語 | 訳注:貝塚茂樹 | 中央公論新社 |
13 | 魏志倭人伝・後漢書倭伝 | 石原道博編訳 | 岩波書店 |
14 | 日本書紀(全五巻) | 井上光貞ほか校注 | 岩波書店 |
15 | 古事記 | 倉野憲司校注 | 岩波書店 |
16 | 続日本紀(全五巻) | 宇治谷孟校注 | 講談社 |
17 | 日本人とは何か | 山本七平 | PHP研究所 |
18 | 韓国の中学校歴史教科書 | 三橋広夫訳 | 明石書店 |
19 | ウィキペディア ― ― | ― | ― |