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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 大正デモクラシー                      平成25年2月24日 作成 正岡 富士夫



1 概要
 大正デモクラシーとは、明治末期の1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な風潮・思潮の総称である。

 「大正デモクラシー」という用語は、大正時代政治史研究のパイオニアであった信夫清三郎 が昭和29(1954)年に自著『大正デモクラシー史』でその呼称を提唱して以来定着した戦後の造語であり、確たる学問上の定義が存在するわけではない。

 明治維新以来、官民国家総力を挙げて取り組んできた近代化・富国強兵策が日清・日露戦争の勝利によって一つの節目を迎えるとともに、維新の元勲の多くがこの世を去り、国家の中軸を担った人々の世代交代が進みつつあった中で、ある意味必然的に起きた社会・民衆の成熟現象であったといえる。

 その萌芽は、すでに明治7(1874)年、板垣退助らが立ち上げた愛国公党の主張するところに表れている。愛国公党は、「すべての人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想」すなわち「天賦人権論」に立脚して、旧士族や富裕層などの選挙によって選ばれた議会を開設すべきだとし、政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。その主旨は、大久保利通らが進めていた「有司専制(官僚独裁)」を批判し、「人民(国民)によって選出された議員」によって政府の行う専制的政治を抑制・制御すべきというものであった。

 明治憲法は欽定憲法の形式をとり、主権(統治権)は天皇にあるとしながらも、政治の実態は、元老の指名を受けた内閣総理大臣とその指名する閣僚(陸海軍大臣を除く)及び選挙で選ばれた議会によって運営されていた。立憲政友会をはじめとする政党の成長も著しく、明治35(1902)年の衆議院選挙では190議席を獲得して過半数を制した。日露戦争前75万人だった有権数は、戦後150万人と倍増した(納税額10円以上)。都市部を中心として、経済的にゆとりのある中小企業経営者・会社員・新聞記者・弁護士・教師・学者などの中間所得者数が大幅に増えたことによるものであった。これらの勢力は、日本古来の伝統的価値観と調和した「天賦人権論」的な近代民主思想を支持する国民的覚醒を遂げた階層であり、権力剥き出しの政治や汚れた情実政治に強く反発し、一部の富豪者が官僚と結んで横暴をふるうことを激しく憎むものであった。明治44(1911)年の第27議会では、こういった思潮を反映して、普通選挙法案が初めて衆議院を通過したが、保守性の強い貴族院によってその成立を阻まれた。

 明治40(1907)年、山県有朋の上奏草案をもとに、内閣とは無関係に「帝国国防方針」が決定された。国防方針という国家政治の基本にある問題が、内閣の関与なく統帥部(軍令部)だけで決め得るという明治憲法の致命的な欠陥が露呈した最初の表れであった。伊藤博文ら優れた維新功労者の死とともに、すでに憲法の制度疲労が始まっていたのである。


 信夫清三郎:明治42(1909)年~平成4(1992)年は、政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。昭和9(1934)年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、昭和13(1938)年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。晩年は、著書・論文で「大東亜戦争」の呼称を用いるようになり、「アジア・太平洋戦争」の呼称を提唱していた周囲から諌められたが、耳を貸そうとはしなかった。


 民衆運動が政治を動かすというデモクラシー発現の大きな契機となったのは、明治38(1905)年9月5日から7日にかけて引き起こされた「日比谷焼打ち事件」であった。日露講和条約に賠償金が盛り込まれなかったことに不満を持つ民衆が、日比谷公園に集結、反対決起大会を開催、その後内務大臣公邸や新聞社を焼き討ちし、警官隊などと衝突したものであった。数万を超える人々が過激な行動を起こした大衆運動としては、日本史上初めての事件であったが、計画性や組織性はなかった。この騒擾に参加したのは、職人、小売商、学生、店員、車夫などまさに巷にあふれる庶民層であり、日露戦争の出費を賄うための増税によって苦しむ一般民衆が苦節の末に得た戦勝の果実を得られなかったことに対する憤りが爆発したものであった。

 「日比谷焼打ち事件」は、死者17人、負傷者無数、逮捕起訴された者311人という大きな人的被害を出した。新聞はデモ隊に対する当局の対応を批判し、弁護士会は警察部隊の鎮圧手段の狂暴さを非難した。東京弁護士会は、独自に被害調査・聞き取りを行い、それを『警察官による虐待その他不法行為』として公表するとともに、動きの鈍い検察を批判し、検事長に対する問責演説会を催した。弁護士たちのこうした活動は、『人権擁護』として集約され、明治42(1909)年、「人権問題政談大演説会」が開催され、「人権問題」が日本社会に浸透・拡散していく源流となった。人権は、決して戦後特有のもの、GHQより与えられた思想ではなかったのである。

 戦前の大日本帝国憲法下の日本は、民主主義ではなく「軍国主義」と「天皇専制」によって民衆が抑圧された時代だったする史観が大勢を占める。現用中学校歴史教科書では、圧倒的なシェア―を占める東京書籍24年度版が「非軍事化と並ぶGHQの占領政策の基本方針は、民主化でした」と記すように、敗戦後のGHQの占領政策によって日本人が初めて民主主義を経験したかのように教えている。

 明治末期から大正時代に起きた政治、社会、文化などの様々な面からの民主主義的な運動等を子細に見れば、日本人は、GHQ占領政策によって教えられるまでもなく、明治末から昭和初期にかけて、戦後の民主主義にほぼ近い精神・思潮・運動を経験していたことがわかる。そればかりではなく政党の離合集散現象などを一瞥すると現代の日本社会に余りにも酷似していることがわかる。その例は、政治面においては、普通選挙運動や言論・集会・結社の自由を求める運動あるいは国民への負担が大きい海外派兵の停止を求める思潮であり、社会面においては、男女平等・女権拡大、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動であった。以下、主要なデモクラシー発揚の事例などについて列挙する。


2 民本主義と天皇機関説

 ヨーロッパの労働運動など民主化の進んだ社会を見聞して帰国した吉野作造 は、大正5(1916)年、雑誌『中央公論』に100ページを超える論文『憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず』を発表、一躍「民本主義」を代表する論客となった。

 吉野は、「民本主義」を「デモクラシー」の訳語だとし、デモクラシーを「民主主義」と訳すのは日本に相応しくないと論じた。「民主主義」においては、国家の主権は国民におかざるを得ず、「国家主権は天皇にある」ということを明確にしている大日本帝国憲法下では「民主主義」は成り立たないという立場であった。したがって、デモクラシーを、主権の在り場所ではなく、主権の運用に係る理念としたうえで、政治の目的を国民の福利に置き、政策の決定は国民の意嚮(意向)を重視する政治理念としての「民本主義」を提唱したのである。

吉野作造:明治11(1878)年~昭和8(1933)年。

宮城県志田郡大柿村(現・大崎市古川)に綿屋を営む家の長男として生まれた。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)、同大学院進学、同大工科大
学講師就任。明治39年、中国に渡り、袁世凱の長男の家庭教師等を務めた。晩年
は無産政党との関係を強め、右派無産政党である社会民衆党の結成に関わってい
る。

 吉野が民本主義を提唱する前の大正元(1912)年、美濃部達吉 が『憲法講話』を著し、「天皇機関説」発表した。「君主は国家における一つのかつ最高の機関である」としたドイツのゲオルグ・イェリネック が主唱した国家法人説に基づくものだった。同年、東京帝国大学法科大学長に就任し、「天皇主権説」を唱えた上杉慎吉 教授と論争を展開した。こののち天皇機関説は大正天皇や、当時の政治家にとっても自明のこととして受け入れられるようになっていった。

 「天皇主権説」を唱えて美濃部と論争した保守色の濃い上杉は、吉野の主要な論的であった。民本主義を唱えた吉野の目指すところは、明確に「国家主権は天皇にある」としながらも美濃部の主張と重なる部分が多かった。

 上杉は、天皇大権の行使には国務大臣の輔弼は要しないとし、国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うものであり、天皇は国務大臣を自由に任免できるとした。この「天皇主権説」の考え方は絶対君主制の考え方であり、維新以来の天皇制の実運用とかけ離れているばかりか、日本古来の朝廷の伝統にも反するものであったが、超保守的な勢力からの根強い支持があった。

 「天皇機関説」は、天皇に統治権があると定められているものの、憲法全体の大きな枠組みによって天皇の実質権限が自制されたものになっており、憲法や法令に遵うことによって立憲君主制の理想的姿が具現されるという考え方である。国務大臣の輔弼についてはこれを不可欠とし、議会に対して責任を負い、議会の信任を失えば辞任すべきだとした。憲法など法令に依らずして君主が何事も決め得るとするのは、第一次世界大戦前の帝政ロシアや帝政ドイツのごとき「絶対君主制」である。天皇は明らかにそれらと一線を画し「絶対君主」ではなく、戦前の日本は戦後と同じく立憲君主国であったことは明らかである。

 大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められている。
第1条:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権)
第4条:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ
此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権) 

 しかしながら、こういった立憲君主の考え方は、国としての統一見解とはなっておらず、それを明確に理解していたのは、天皇ご自身と伊藤博文など明治の元勲や一部の知識人に限られたものと思われる。天皇制という憲法の根本に関わることが学問的な解釈によって異なることもまた明治憲法の問題点であったといえるかもしれず、それは新憲法における9条解釈論に似ている感がする。
 美濃部達吉:明治6(1873)年~昭和23(1948)年。
兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。東京帝国大学を卒業し、
内務省に勤務。明治35年、東京帝国大学教授。昭和9(1934)年、国体明徴運動が起こり、政
府は天皇機関説を異端の学説と断罪した。戦後、占領軍の憲法改正作業において、内閣の憲
法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与。しかし、「占領軍は国家の根本規範
を改正する権限を有しない」との理解を前提に、新憲法の有効性について懐疑的見解を示し
、国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対。枢密院における新憲法
草案の審議でも、議会提出前の採決でも、唯一反対の態度を示し、議会通過後の採決も欠席
棄権するなどして抵抗した。息子亮吉とは一味違う硬骨漢の学者である。
 
 
ゲオルグ・イェリネック:19世紀ドイツを代表する公法学者、著名な行政法学者。    
               
 上杉慎吉:明治11(1878)年~昭和4(1929)年。
憲法学者。帝大法学部政治学科卒(卒業時恩賜の銀時計を授与)、同年には同大学助教授に
就任。上杉の学説を熱心に支持する学生達は昭和14(1925)年に帝大七生社を結成し、天皇
主権説に基づいた国粋主義思想活動をするようになり、のち昭和7(1932)年に起きた血盟団
事件では4人の会員が犯行グループに参加した。二人の息子は日本共産党員となった。
  


 美濃部は、仮に天皇が法人的性格をもたず、憲法に定める天皇大権が天皇個人に属するとなれば、例えば、国際条約は天皇の個人的契約となり、国税は天皇個人の収入ということになるといった不条理が生じるとした。その他多くの国民や政治家たちは、「天皇機関説」を自明的なものとして受け入れており、多少の強弱はあれ、その考え方は大東亜戦争の終結まで残った。

 吉野は、デモクラシーの基本単位は「国民」にあるとし、諸制度を運用していく様々な局面における国民のデモクラシー的な存在と活動に着目していた。国政選挙における国民の1票は国家の運命を左右し、投票は国家のために為すものであるとした。そのため国民の育成を図り、よりよき国民国家の経営を行い得るデモクラシーの運営がなされなければならないと考えていた。つまり「民本主義」とは、国民を基点とし、大日本帝国憲法の運用によって政治・社会の改良を進めていくという主張であったといえよう。

 吉野の主張するところは「ご都合主義的」と批判される向きもあるが、その考え方は、原則論的な硬直性を排し、国民の選挙権の拡張や言論の抑圧を含むさまざまな社会的問題の解決について議論することに比重を置いた現実的かつ実効的なものであった。

 この時代の世界は、欧米列強の帝国主義的国益追求が当然と考えられていたいわゆる弱肉強食の時代であり、先進国の仲間入りを果たしたばかりの日本が、欧米に伍し国家・国民の繁栄を図るには、欧米諸国に見習ってある程度まで帝国主義的膨張を追求することは許されるものであるばかりか、不可欠だという現実があったことを忘れてはならない。

 吉野の「民本主義」は、「内に立憲主義、外に帝国主義」を唱えた浮田和民 の思想を受継ぎつつ、さらに強硬な帝国主義(軍事的なオプション)を許容した「民本主義」であった。

 それに対し浮田和民は、現今(20世紀)の帝国主義には19世紀以前の帝国主義の時代とは異なり、多くの倫理的要素が加えられており、経済的膨張は容認されるとした。国民を主体とした立憲主義においては、帝国主義は再定義されるべきだとし、武力侵略による領土的膨張ではなく、経済的な膨張であると定義したのである。すなわち、帝国主義の本質は、主権国家が経済的な利益を求めて起こした経済的膨張であり、武力侵略もそれによる領土の拡張もその手段にしか過ぎなかったのである。経済的な利益拡大が保障されるならば、領土的撤退も問題にしないのが20世紀の帝国主義の本質であるとしたのである。

 現在の国際経済も経済的国益を追求するということにおいては、原則的に経済的膨張を許容していると見ることができる。しかしその主体は民間の市場原理に遵った膨張が主体であり、20世紀と21世紀の違いは、国家・政府の直接的な膨張政策への介入の程度の差に過ぎないと考えられる。そういう意味では21世紀の中華人民共和国の計画経済と市場原理を併用したアフリカなど第三世界へ勢力を扶植していくやりかたは、まさに浮田和民の容認した経済膨張主義の典型的実例である。すなわち支那共産党こそが現代における新帝国主義の具現者だといえるが、同時に海洋権益に絡む領土拡大を志向する支那の姿は19世紀型の古典的な帝国主義の様相も示していることに留意する必要がある。

 この点に深い理解を示し、帝国主義的膨張主義を否定したのは、『東洋経済新報 』の主宰者であった三浦銕太郎 である。三浦は『大日本主義乎小日本主義乎』、『満州放棄乎軍備拡張乎』といった論文を『東洋経済新報』に連載し、「内地の改善、個人の自由と活動力の増進」を重視する「小日本主義」によって生きるのが日本の進むべき最善の道であるとした。三浦は、財政上の数値を挙げながら、「大日本主義」の誤りを指摘し、
台湾、朝鮮、樺太及び満洲を領有することの「国民的大浪費」を訴えたのである。さらに、「大日本主義」の経済的浪費に止まらず、それが必然的にもたらす「軍閥の跋扈」、「軍人政治の出現」、「軍事謳歌の感情」をその禍害として挙げた。「大日本主義」の大いなる幻影を厳しく批判し、日本の有り様を憂えての批判であった。これに対し、当然ながら「大日本主義」を支持する論文も発表されたが、『東洋経済新報』は、あくまで経済的な合理主義の立場から、「小日本主義」を唱えて、海外領土の領有に疑義を呈し、軍備拡張にも反対するとともに、「民本主義」の急進的な論陣を張っていった。三浦銕太郎のこの考え方は、石橋湛山に引継がれ、戦後の日本において、完璧或はそれ以上の正しさをもって証明されたのである。結果論的に言えば、台湾はともかくも、朝鮮半島と満洲という大きな荷物は、日本国民に大きな幻想を抱かせただけではなく、経済的に得るところはほとんどないばかりか大きな国民的負担となり、多大な人命を失うだけに終わった国家的大失策であったといえよう。
  浮田和民:熊本藩士の子。安政6(1860)年~昭和21(1946)年。法学博士。早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。「内に立憲主義、外に帝国主義」という「倫理的帝国主義」を標榜しており、のちの民本主義につながる理論を最初に提唱したのは浮田であるとされ、吉野作造の民本主義は彼の理論を受け継いだものだと言われている。坪内逍遥は、大隈重信のブレーンでもあった彼を評して「早稲田の至宝」と呼んだ。



 3 婦人解放運動(新しい女)と演劇大衆文化の高揚
 
 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞ったわが太陽を今や取り戻さねばならぬ。」雑誌『青鞜 』の創刊号(明治44(1911)年9月)に掲げられた平塚らいてう の評論の書き出しである。

 『青鞜』の発起人のほとんどは日本女子大学校の卒業生であり、当時としては比較的な裕福な家庭に育った才女たちであった。青鞜社の規約の第1条に、「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」と謳っているように、彼女たちの運動は初めから女性の解放を目指すといった政治的なものではなく、若い乙女たちの文学への憧れから発した文芸的・観念的な色彩をもったものであった。ところがジャーナリズムが「新しい女」と名付け煽ったためか、世間からさまざま反発を蒙った平塚らは、さらにそれに反感し、文学への憧れといった乙女くさい観念論を女性の社会的位置づけという具体的な社会問題に結びつける方向へ舵をとったのである。以降、『青鞜』の中でも婦人問題を特集し、積極的に婦人解放の問題に取り組むようになる。

 東洋経済新報:現在の雑誌名は「週刊東洋経済」。明治28(1895)年、のちに政治家に転身し立憲民政党総裁となる町田忠治によって創業。大正8(1919)年より週刊化、昭和36年より現誌名。創刊当初は渋沢栄一らの支援を受けた影響で自由経済・政党政を支持していたものの、比較的親政府と見られていた。ところが、日露戦争前後より政府の財政を無視した軍拡を批判して次第に民本政治・普通選挙支持に転じ、特に大正元年に新主筆となった三浦銕太郎が発表した「産業上の第二維新」を機に帝国主義と軍国主義に反対する路線を明確に示した。その後、三浦と後継の石橋によって満州などの放棄による小日本主義をはじめ、対華21か条要求・シベリア出兵・金解禁・満州事変などを厳しく批判した。言論の自由を擁護して統制経済に反対したため、度々圧迫を受けながら大東亜戦争終結まで刊行を継続した。しかし、軍部の圧迫などもあって、昭和8年には満州事変を容認する姿勢に転換した。現在発行されている週刊誌の中では日本最古だが、販売面では『日経ビジネス』『週刊ダイヤモンド』に続く3位。
 三浦銕太郎:明治7(1874)年~昭和47(1972)年。東洋経済新報社主幹として、石橋湛山らを鍛え上げた。静岡県志太郡相川村(現・焼津市)地主の子。大正10(1921)年、東洋経済新報社を株式会社化し、代表取締役となる。退任後、商工審議会・日満経済懇談会・昭和研究会・損害補償委員会の委員や、経済倶楽部の幹事・理事長などを歴任した。戦後、民主人民戦線の世話人となる。石橋湛山が大蔵大臣に就任したため、東洋経済新報社の会長となった。1949年、社団法人日本関税協会の設立に伴い、会長に就任。
 青鞜はブルーストッキングの訳語。18世紀のイギリスでサロンに集まって芸術や科学について論じた新しい夫人たちがいずれもブルーのストッキングを穿いていたことに由来する。
 平塚らいてう:本名は平塚 明(はる)。明治19(1886)年~昭和46(1971)年。
戦前と戦後に亘る女性解放運動・婦人運動の指導者。父・平塚定二郎は紀州藩士の
出で明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた。母・
光沢(つや)は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の出。戦後は、日本共産
党の同伴者として活動し、一貫して反戦・平和運動を推進した


 彼女たちは当時の男性社会を成り立たせている「良妻賢母」思想を批判の対象とし始める。「良妻賢母」という価値観は、一見女性の役割を認めているように見えるが、その本質は女性の主体的存在を否定し、男女間の不平等と女性の不自由を作りだすものだと厳しく批判した。その考え方は徐々にエスカレートし、自由恋愛を奨励し、結婚制度を否定、さらに貞操、避妊、堕胎など女性の性に関わる特有な問題を取り上げて、社会における女性の自立、男性との並行的存在を追究する主張へと進んだ。それは性別に基礎を置く役割分担への疑問、すなわちジェンダー・フリー的な色彩を帯びていった点でも現代との類似点を見ることができる。

 こうしたなか、家庭生活の合理化、衣食住にわたる日常的知識などを求める主婦層の需要に応じ、『婦人画報』(明治38(1905)年)に続いて、『婦人公論』(大正5(1916)年)、『主婦之友』(大正6(1917)年)、『婦人倶楽部』(大正10(1920)年)と次々と婦人向け雑誌が創刊された。『主婦之友』は、家計に照準を合わせた中流家庭のやりくりを論じ、主婦の才覚の発揮を促すものであった。「成功した貯金の実験」、「上品で利益の多い内職の経験」、「中流家庭のいろいろ」などの実例を示し、「こうすれば経済的な買物ができる」、「家庭経済の十五秘訣」などといった現在のワイドショー風の記事が掲載された。

 また、育児と家事のあり方が改善され、新しい家事のための知恵と技術が提示された。主婦としての女性の役割が強調され、女性たちの閉塞感が取り払われた。家庭衛生においては夫の体調管理、子供の健康管理の大切さが説明され、妻として母としての女性の役割の重要性が謳われた。

 女性たちをとらえていたのは女性解放運動だけではない。明治34(1910)年設立された愛国婦人会は、日露戦争出征兵士の送迎、留守家族・傷病兵・戦死者遺族の慰問、出征先への慰問袋贈答など幅広い支援活動を行い、間接的に女性が国防に貢献するという女性主体の草の根活動が行われた。各地に愛国婦人会支部が作られ、地域の名家の夫人たちが集って運動を盛り上げていった。女性が国民の一人として出征部隊等を支援するという女性の役割が強く意識された。その背景には、そういった活動が結果的に女性の地位向上へとつながるという考えがあったものとみられる。

 また、大正デモクラシー期は、思想・文学・演劇の世界でも、自由を求める新たな動きが広範に湧きあがった時代であった。(細部略)

4 政党政治の成長と第一次憲政擁護運動(護憲運動)

 日露戦争前の明治34(1901)年から大正2(1913)年までの間、陸軍山県閥の桂太郎と立憲政友会総裁伊藤博文の跡を継いだ西園寺公望が交互に政権を担当した。この約10年間の時代を「桂園時代」という。「桂園時代」は、特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものであった。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。

 両者の関係は、日露戦争終結後の明治39(1906)年1月、桂が西園寺を後継首相として指名し退陣したことから本格化し、大正元(1912)年12月に2個師団増設問題で西園寺・政友会VS桂・陸軍が対立して第二次西園寺内閣が崩壊するまで続いた。

 明治45(1912)年の第11回衆議院総選挙において381議席中過半数の209議席を獲得した政友会総裁の第二次西園寺内閣は、世論に応えて行財政の整理を看板に掲げ、大蔵大臣に財界から勧銀総裁を起用、臨時制度整理局を設けるとともに、大正2年度の予算編成にあたっては、各省横並びで経常歳出額を10%以上削減することを閣議決定した。

 そのような中、陸軍は、韓国併合後の朝鮮・支那の情勢に対応して、朝鮮に2個師団増設を求める予算要求を行った。西園寺が閣議で上原勇作陸相に増師案を否決したと申し渡すと、
上原陸相は帷幄上奏の特権を使って大正天皇に直接辞表を提出した。軍部大臣現役武官制の下で、後任陸相の人選を得られなかった西園寺内閣は総辞職した。
軍部大臣不在のため内閣が総辞職したのはこのときが初めてであり、世人はこれを「陸軍のストライキ」と評したが、ここにも憲法が時代の要請に応えられない制度疲労のシグナルが表れていたのである。

 この総辞職は、日本全国に大きな衝撃を与え、その背後にいる山県有朋ら藩閥を根城とする閥族掃滅・打破及び増師阻止を唱える運動が沸き起こった。全国政友会支部はもちろんのことジャーナリズム、弁護士会、産業界などが動きだし、「閥族打破憲政擁護」の旗印を掲げたのである。歌舞伎座で第1回憲政擁護大会が開催されると、事業家・有志家・書生・町人など3000名を超える民衆が集まり、会場からあふれた人波は電車を止めたほどであった。会場正面の舞台には、板垣退助をはじめ、日頃は対立している政友・国民両党の有志代議士が居並んだ。発起人の一人が「閥族の横暴跋扈今やその極に達し憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断固妥協を排して閥族政治を根絶して以て憲政を擁護せんことを期す」と発言すると、満場の聴衆は割れるような喝采でこれを可決した。

 後継内閣の首班人選は、元老会議が指名する者の辞退や海相の留任拒否で難航、勅語による裁定に助けられて、西園寺内閣総辞職の後16日を過ぎてやっと第三次桂内閣が成立した。
 大阪毎日新聞社社長・本山彦一が逓信大臣・後藤新平に宛てた次の報告文は当時の巷の状況をよく伝えている。
 今回の政変は、有識者有志者は勿論、男女学生より素町人土百姓馬丁車夫に至るまで、湯屋髪結床にて噂の種となり、元老会議の不始末に対しては、裏店井戸端会議に上り、炊婦こまつかいまでがひそかに罵り合候ようの次第にて、近来珍しき政治思想の変化普及を実現いたし、万一新聞紙が教唆の態度に出たりしならば、焼き討ち事件の再燃ありたらんも知れずと相考え候位に御座候。

 第三次桂内閣の最初の衆議院議会が開会されると、数万の民衆が議事堂を囲み、政友会と国民党は共同で内閣不信任案を上程、これに署名した議員は234名と大きく過半数を超えていた。桂首相は詔書をもって5日間の停会を命じたが、5日後議会が再開されると「憲政擁護」を叫ぶ国民大会が都内の数か所で開かれ、数万の群衆が護憲派代議士を先頭に議事堂へ向けて押し寄せた。警視庁は騎馬隊も動員して警備にあたったが、登院する議員とともに進む群衆を制止できなかった。桂は、不信任案が撤回されなければ衆議院を解散すると決めていたが、衆議院議長から「議院の前では民衆が警官の馬蹄にかけられている。議会が解散になると、激昂した民衆は血を見ないでは止まない。場合によっては内乱を惹起するかもしれない。閣下の御考慮を願う」と勧告されると、桂は一転、内閣総辞職を決心した。
民衆運動の高揚におされて内閣が総辞職したのは、明治憲法の下では唯一の出来事であった。

 しかし、総辞職とともに議会も3日間の停会となると、事情を知らされていなかった群衆はさらに憤激した。官僚派を支持した御用新聞社と民衆の弾圧にあたった警察にその怒りの矛先は向けられた。攻撃目標は京橋にあった国民新聞社に始まり、やまと新聞、報知新聞、読売新聞、二六新報など政府系の新聞社の社屋、印刷工場が次々と襲われ、窓ガラスが割られ、火がつけられた。夜に入ると、銀座、日本橋、下谷の大通りの交番が襲われ、上野では警察署が襲撃された。消防が出動して消火にあたったが、放水が警察署へ向けられると、ホースを消火栓から抜いて妨げた。午後7時、ついに軍隊に出動命令が下り騒擾が鎮静化に向かった。ところが翌日には東京の騒動が関西方面へ飛び火、大阪、神戸、京都、広島などでも大きな騒動が起こった。

 第三次桂内閣は大正2(1913)年2月11日に総辞職した。わずか50日あまりの記録破りの短命内閣となったのである。
 元老会議は、西園寺の推薦によって海軍薩閥の山本権兵衛を時期首班に指名、山本は政友会が閣僚をおくって支援することを条件に受諾した。憲政擁護運動を進める国民党などはこれに反発したが、陸海相の閣僚を政友会など政党から入閣させることで妥協した。

 休会続きの第30議会は再開され、その劈頭、山本は野党の質問に対し、「行財政の整理」、「軍部大臣現役武官制の改革」、「文官任用令」の改正について野党の要求をのむ答弁を行った。これらは「第一次憲政擁護運動」の成果と言われる。
 山本内閣は、178の法令・勅令を改廃、官吏1万人以上の人員削減を行い、これに伴う財政支出の削減額は7037万円、大正2年度についてみると節減額は6600万円、同年度の歳出総額の11%にあたるという財政健全化策となった。
 「文官任用令」とは、明治26(1893)年に定められた試験による「奏任官」の採用制度であり、勅令第183号として公布された。だが、この任用令は、「奏任官」より上位の高級官僚に相当する「勅任官」には適用されなかったため、いわば無試験で高級官僚になれることから、政党の猟官活動が頻繁に行われる一因となっていた。

 第2次山縣有朋内閣はそれを防ぐという理由並びに政党員が官僚に進出するのを防止するため文官任用令を全部改正した(明治32年3月28日勅令第61号)。一部の特別任用以外の勅任官は、文官高等試験の奏任官より任用することとし、試験任用を拡大することによって政党などが持ちこむ政治任用を制限したのである。これによって勅任官の多くも高等文官試験の合格者が占めるようになった。試験に合格すれば、出自を問わず高級官僚への道が開けるという画期的な制度でもあった。この制度は、現在の国家公務員任用制度にも受け継がれ、高等文官試験は一種(上級)のキャリア試験に相当する。

 政治任用を制限したこの制度は、当然ながら代議士の間では評判が悪かった。山本権兵衛内閣は、護憲運動が活発化し政党の影響力が強くなっていた情勢に鑑み、政党の要請に応じて「文官任用令」緩和の大改正を行い、「勅任官」の特別任用の任用条件を拡大したのである(大正2年8月1日勅令第261号)。これによって各省次官(陸海軍省を除く)、法制局長官、内務省警保局長、警視総監、各省勅任参事官等に特別任用が認められた。

 山本内閣の登場によって「第一次憲政擁護運動」は一段落した。大正2(1913)年、第31議会が開幕し、政党の間に離散集合が起きた。政友倶楽部の一部が与党政友会に復帰し、残った政友倶楽部の代議士は小会派と合同して新党(中正会)を作った。桂太郎が同年春に立ち上げた立憲同志会は、党首の桂がその夏には重態に陥り10月に没すると、後藤新平らが脱党、立憲同志会は苦境に立たされた。
 ところが翌大正3年の1月、山本内閣を死地に追い込む「シーメンス事件」という海軍の大汚職事件が発覚した。立憲同志会はこれを予算委員会で取り上げ、山本内閣に鋭く迫った。海軍は査問委員会を設け、少将と大佐の2名が軍法会議に付された。さらに別件で軍艦「金剛」の建造に絡んでイギリスのヴィッカー社から収賄した呉鎮守府長官(海軍中将)も収監されるという事件も起こった。立憲同志会などの野党と貴族院は、山本内閣と政友会を一斉攻撃し、野党3党は山本内閣の弾劾決議案を上程した。約1年前、桂内閣が倒れた時と同じように、民衆による内閣糾弾の国民大会が開かれ、数万の群衆が議事堂を取り囲んだ。与党政友会が多数の力で弾劾決議案を否決したことが伝えられると、民衆の激昂は一層高まり、政府系の新聞社にデモをかけた。閣僚や与党議員は議会に閉じ込められ、陸軍に出兵を求めたが、いっこうに出動せず、警官隊によって血路を開かせるという事態となった。

 このとき山本内閣にとどめを刺したのは貴族院であった。貴族院は、山本内閣の海軍偏重と海軍汚職を理由に、艦艇建造費の大幅削減を求め、予算案の修正を求めた。両院協議会が開かれたが、お互いに主張を譲らず、そのため予算案は流産、山本内閣は退陣に追い込まれたのである。

 山本内閣の退陣によって政局は混沌とした。元老会議は次期首班を指名するも次々と拒否され苦境に陥った。元老井上馨は、「明治14年の政変 」で伊藤博文らによって野へ追いやられていた維新元勲の一人であり盟友でもある大隈重信を推薦、大隈は受諾した。大隈は、組閣にあたって野党(同志会、国民党、中正会)への協力を求め、同志会総裁加藤高明ら政友会以外の党派による内閣を立ち上げた。海相には清廉な武人として知られる八代六郎中将を起用、八代は組閣翌日に山本権兵衛・斉藤実という海軍の大御所ともいえる二人の大将を予備役に編入した。

 大隈は、維新以来の大風呂敷で知られたように「政弊刷新・国防充実・国民負担軽減」という矛盾に満ちた政綱を掲げて船出し、八代海相の矢継ぎ早の海軍粛清によって、軍艦建造及び2個師団増設の両予算案について議会への提議の道筋を立てた。とはいえ軍艦建造よりも遥かに閾の高かった増師問題は、第一次護憲運動以来、世論の猛反発をくい、過激な民衆運動を誘発する危険性があり、内閣の命取りになりかねない難問であった。

 ところが大隈内閣に思いがけなく幸運の女神が微笑む。大正3(1914)年7月28日の第一次世界大戦の勃発である。日本は8月23日、対独宣戦布告する。大隈内閣は大正3年末、軍艦建造及び2個師団増設の両予算案を第35議会へ提出、軍艦建造予算は可決されたが、2個師団増設は否決された。大隈首相は衆議院を解散、大正4年春、憲政擁護運動が起こって以来、初めての総選挙が行われた。大隈内閣は、政財界の力を総動員、早稲田系の組織・人脈もフル活用して、大々的な選挙戦を行った。これもまた憲政史上初めてのやり方であった。憲政擁護運動で高まっていた国民の政治熱を巧みに利用、陸・海・内大臣以外のすべての大臣に全国各地を遊説させ、大隈首相自らも横浜などの停車場の展望車上で街頭演説を行った。また、演説を吹き込んだレコードを頒布し、蓄音機遊説も行った。閣僚がほぼ総出で選挙運動の先頭に立つことも前例にはなかった。
有権者の心をつかむ上に絶大な効果を発揮したのである。さらには、電報戦術、警察(内務大臣)系統による選挙干渉、票の買収などさまざまな手段を用いて与党に有利な選挙が行われた。その結果、大隈内閣の与党、すなわち非政友会が大勝、政友会は80名減らして104議席となり、政友会結成以来、初めて第二党に転落した。選挙後、露骨な票の買収活動や官憲による選挙干渉に対し、議会における告発が行われ、検察も動き出し、内務大臣他数名の代議士が拘引される事態となり、大隈内閣は危機に瀕するところに至ったが、大正3年下半期から大戦景気が日本を訪れ、またも大隈内閣は救われた。いずれにしろ、第一次憲政擁護運動以来の政治的高揚ムードは、大隈内閣の下で行われたこの総選挙でその周期を終えたのである。

 明治14年の政変:自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の明治23年に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。



 〈閑話休題〉 明治憲法下の国家公務員(官吏)制度と高等文官試験について補足説明する。
          
【親任官】

 親任官は、最高の官吏であり、内閣総理大臣、各省大臣、枢密院議長・副議長・顧問官、対満事務局総裁、特命全権大使、大審院長、検事総長、会計検査院長、行政裁判所長官、朝鮮総督、朝鮮総督府政務総監、台湾総督、伊勢神宮祭主、企画院総裁、東京都長官(知事)、地方総監などである。天皇の親任式を経て任命され、勅任官とともに敬称に閣下が用いられる。

 武官の場合は文官と違い、官(階級)と職が分れていたため、親任官となるのはあくまで陸海軍大将のみである。ただし親任官相当の職として宮中において親補式を以て補職される「親補職」というものが設けられていた。これに該当する職に中将以下が就いたときは、在職期間中のみ親任官としての待遇を受けるものとされた。陸軍においては、参謀総長、教育総監、航空総監、総軍総司令官、方面軍司令官、軍司令官、師団長、留守師団長、東京警備司令官、関東戒厳司令官、東京防禦総督、東京衛戍総督、侍従武官長(歴代侍従武官長は陸軍からのみ親補されている)、軍事参議官であり、海軍においては、軍令部総長、連合艦隊司令長官、艦隊司令長官、鎮守府司令長官、軍事参議官であった。

 特定の職にある者について、一定の年数以上在職した者や特に功績があった者は、その職自体が親任官の職とはされないものの、「親任官待遇付与奏請内規」に基づいて、親任官待遇を与えられることがあった。同内規によれば、各帝国大学総長(朝鮮、台湾も含む)、北海道庁長官、警視総監、各府県知事、各省次官、内閣書記官長、法制局長官、陸軍司政長官、海軍司政長官、陸軍事務嘱託、海軍事務嘱託に一定年数在任した者が挙げられている。この他、賞勲局総裁、特命全権公使、東京工業大学長、製鉄所長官、神宮大宮司などの職にある者にも、親任官待遇が付与されることがあった。

【勅任官】
 高等官のうち一等及び二等を勅任官と呼び、現在の指定職相当の役職がこれにあたる。中央省庁の次官、局長、府県知事が勅任官とされた。
 武官の場合は、役職ではなく階級によって勅任官とされ、中将及び少将がこれにあたった。
高等官一等 宮内省次官、同掌典長、李王職長官、陸海軍中将
高等官一等又は二等 内閣書記官長、法制局長官、賞勲局総裁、各省次官、特命全権公使、枢密院書記官長、
内大臣府秘書官長、侍従次長、帝国大学総長、府県知事、警視総監
高等官二等 各省局長、各省参与官、陸海軍少将

【奏任官】
 文官は採用形態や勤続期間、職務により分類は多岐に亘る。判任官から昇進する者もいれば、高等文官試験に合格して採用されたキャリア組もいた。
 武官は大佐から少尉までの士官に相当した。それぞれ階級ごとに、大佐は奏任官一等(高等官三等)に、少尉は奏任官六等(高等官八等)に相当するものとされた。

【判任官】
 判任官は、1871年に官等を改定した際に八等出仕以下を意味し、明治憲法下の下級官吏の等級であった。判任官は天皇の任命大権の委任という形式を採って各行政官庁が任命していた。雇員・傭人と異なり、国家と公法上の関係に立つ官吏であり、一等から四等までに分かれていた。
 文官はそれぞれの職務に応じて等級が分かれていた。ただし、警察官など階級で分かれる官吏は、武官と同じく階級ごとに等級が別れていた。警察官は警部、警部補が判任官であった。なお、巡査部長、巡査は判任待遇であった。
 武官は下士官が判任官に相当し、奏任官同様に階級ごとに等級が決まっていた。兵は、帝国臣民(男子)の義務たる徴兵であることから官吏とは認められていなかった。

【高等文官試験】
 高等文官試験は、明治27(1894)年から昭和23(1948)年まで実施された。極めて難度高い試験であり、予備試験(筆記)、本試験(筆記、口述)があった。本試験は、司法科(司法試験)、行政科(国家公務員一種)、外交科(外務省専門職試験(外交官)試験)に分かれていた。現在の各種国家資格の受験において、高等文官試験の合格者については、一次試験が免除されるなど優遇措置が採られてきたが、戦後半世紀を越える現在事実上無意味となっている。

 大学別の行政科の合格者数(明治27(1894)年)~昭和22(1947)年)は次のとおり。
東大 5969 東北 188 京城 85 東京外語 45 大阪商科 12
京大 795 早稲田 182 東京文理 56 立命館 26 台北 10
中央 444 逓信官吏 173 鉄道省 56 広島文理 21 北海道 3
日本 306 明治 144 法政 49 慶応義塾 18 総数 8993
東京商科 211 九大 137 関西 48 神戸商業 15
***************************************************

5 第一次世界大戦と社会の変容(明治後半~大正前期1円≒1万円)

  明治末から大正前期は、国内がデモクラシー的な思潮・風潮で高まる中で、台湾と朝鮮の統治が進められていった時期でもあった。日露戦争後の財政が厳しい中で、台湾と朝鮮に投資して近代化を進めることは財政的に困難であり、三浦銕太郎の主張する「小日本主義」は常識の目から見れば現実的かつ妥当であり、世論から受け入れられる余地は十分にあった。

 併合直後の明治44(1911)年の朝鮮の財政は、歳入5200万円のうち、日本からの補充金1200万円、公債1000万円であり、日本政府からの補充金なしには運営不可能な状態であった。この日本からの補充金の朝鮮財政における比率は次第に減少するが、終戦まで援助は続けられた。台湾の場合とは異なり、戦争の結果賠償金を得られなかった中での余分の支出が、財政上厳しい国民の負担となったことは否めず、加えて、台湾が早期に財政の自立を果したのに対し、朝鮮総督府は終に統治が終わる大東亜戦争終結まで財政の自立を為すことはできなかった。なお、日露戦争当時の一般関係予算は、4億2000万円、軍事費(戦費)7億3000万円であった。終戦時、日本が朝鮮に残した資産はさまざまな試算があり明確ではないが、GHQの調査によれば、52億5000万ドル(790億円)といわれる。今日の価値に換算すれば100兆円にも及ぶとみられる。

 台湾は、明治28(1895)年、日清戦争の結果日本の領土となり、開拓と近代化に着手した。日本政府は、当初年間約700万円の補充金を台湾総督府に割き、13年間を目途に台湾の財政が自立できるようになることを目指した。なお、明治28年当時の一般関係予算は8000万円、軍事費(戦費)1億2000万円であった。それが産業振興の順調な進捗と専売や地租収入の増大などによって、10年後の明治38(1905)年には財政の独立を成し遂げた。この10年間の日本政府からの補充金の総額は2424万円であった。明治40(1907)年には、日本の財政に寄与するようになり、日本の国庫を潤すようになった。

 そういった苦しい財政状況を救ったのが、大正3(1914)年7月28日に起こった第一大戦景気であった。戦争が勃発すると、世界経済の中心イギリスをはじめヨーロッパ経済が麻痺状態に陥ったため、為替相場は混乱、海上交通の不安も相俟って、折から景気低迷状態にあった日本経済も大きな打撃を受けた。輸出品の中心をなす生糸・綿糸の相場は暴落、養蚕地は火の消えたようになった。ヨーロッパ向けの輸出産業は大打撃を受け、原料資材をヨーロッパからの輸入に頼っていた産業は稼働出来なくなった。

 ところが、大正4年中頃になると、日本経済は輸出の増加をきっかけに好況に転じる。ロシア、イギリスへの軍需品の輸出が増え始め、同じく大戦景気に沸くアメリカへの生糸の輸出が激増した。戦争で途絶えた欧州製品に替り、日本の商品が支那・インド・東南アジア・豪州・南米諸国へ進出するようになった。日露戦争以降貿易赤字の続いていた日本は、一挙に黒字へ転換、大正4年に1億7500万円の出超、6年には5億6700万円の出超に達した。

 大戦が起こると、政府主導で重化学工業の育成を図り、大戦景気に後押しされて、第二次産業は急速に伸び、船舶輸送の需要が激増した。水力発電による電力供給が増大し、京浜工業地帯など、いわゆる四大工業地帯が形成された。東京や大阪が巨大都市化するとともに、佐世保、神戸、広島など地方都市も発展した。別府などの観光都市も生まれた。大正6年下半期の資本金に対する業種別利益率は、造船166%、海運161%、鉱業120%、綿糸紡績98%、機械車両78%、製紙58%、肥料化学工業49%という好業績を示した。「日本工業倶楽部」が設立されたのもこの頃で、全国に成金が出現、大きな企業へ成長するものも現れた。大正元年に創業した久原鉱業株式会社の子会社から、その後大企業へと成長する日立製作所が設立された(大正8年)。

 国民総生産も急増した。景気の過熱は、当然ながらインフレを招来、労働者の給与も上昇したが、諸物価も上昇し、庶民を苦しめたのである。このような社会状況が後述する「米騒動」の背景となっていく。

 賃金労働者の増加に伴い、労働環境、労働条件など労働者の生活環境に関する問題が大きく表面化した。特に、工場労働者の半数を占める約50万人の紡績関係の女工の労働環境等の問題は深刻であった。劣悪な生活環境の中で結核に罹病する女工が多く、まさに深刻な国家的問題となった。そういった中、大正5(1916)年、やっと我が国最初の社会政策法といえる「工場法」が施行された。しかし、労働者保護が、長い目で見れば企業や国家のためになるという考え方が十分普及・浸透していなかった当時、目先の利益にとらわれ、法の網をかいくぐって不法雇用を続ける工場主たちが多かった。

 近代産業の発展と都市労働者・賃金労働者の増加は、必然的に労働者の権利・保護のための運動を生みだし、高めるようになった。日本の労働運動は、明治30(1897)年、片山潜らによって立ち上げられた「労働組合期成会」に始まるが、明治33(1900)年、第二次山県内閣によって立法化された治安警察法によって解散に追い込まれた。

 大正元(1912)年、東京帝大卒の法学士・鈴木文治が中心となって「友愛会」という穏健な労働問題の調停を目的とする団体が設立された。これには、様々な職種の人々が参加し、その中には警察官もいた。また、労働問題に理解のある有識者や経営者、あるいは大工場の管理職、前日本興業銀行総裁が顧問となった。財界の大御所であった渋沢栄一も後援者となり、「友愛会」に信用と箔が付き、危険団体視されるのを防いだ。

 修養によって勤勉で能力のある労働者を育成することは、資本家も望むところであった。日本にも早晩労働運動が高まることを見通していた目先の利く経営者達は、「友愛会」を通じて労使の協調を図り、労働運動が激化・闘争化することを予防したいと考えていた。10数名でスタートした「友愛会」は、大戦景気に後押しされた経済成長の波に乗って、労使の調停に実績を挙げながら会勢を徐々に拡大、大正5年には1万人の会員数に達した。大正6年4月、会員は2万290名、うち婦人会員1549名、賛助会員348名に達し、世界共産主義の影響を受けて、穏健な方針から労働者の団結権、ストライキ権を要求する労働組合らしい方針へと変貌しつつあった。

 大正9(1920)年頃になると、労働組合が多数つくられ、争議の件数も増えた。大正11年には農村にも「日本農民組合」が全国組織として結成され、小作料の削減を求める運動が行われ、これを実現している。

 このように日本社会は、デモクラシーの空気が支配的な中で、近代産業の発展とともに徐々に変容し、現代社会へと一歩一歩近づきつつあったのである。

6 米騒動と平民宰相の誕生

 大戦勃発直後に暴落した米価は、その後3年近くも物価の上昇に取り残されていたが、大正6年頃になると、逆に急騰し始めた。大戦中の好況によって都市の人口が激増したことも一因となった。これまで雑穀を多く食べていた農家も、養蚕などによる収入増によって米を食べるようになり、酒造米の消費量も増えた。こうして米の消費量が急増する反面、農村から都市への人口流出が続いたため大正6,7年には内地米の収穫高は低下した。大正6年9月、政府は暴利を目的とする米穀類・鉄類・石炭・綿糸などの買い占め又は売り惜しみを禁止する法令を公布した。それでも米価の暴騰は収まらず、寺内内閣がとった措置は、外米の緊急輸入や米の廉売政策、寄付金を募っての救済も行ったが、その一方で警察官の大増員による治安力の強化という国家財政という観点からも的外れと思える政策であった。当時、小学校教員の月給が18円~25円であったが、米価が1升40銭~50銭にも上がり、生活ができない状況に至っていた。大阪市では、警察官が連判して生活救済を署長に嘆願し、各署の巡査が病気と称して出勤しない有様であった。

 そのような中、富山県魚津で漁民部落の女房連の井戸端会議から相談がまとまり、資産家や町役場へ集団で押しかけ救済を哀願した。この動きはすぐに近辺の町や村に広がり、千名を越える婦人を中心とした人々が米の廉売を求めて米屋などに押しかけ、米の積み出しを実力で阻止、廉売を勝ち取った。富山の米騒動は、全国の新聞に「越中女一揆」として報道され、このうねりは名古屋、京都、大阪へと伝播し、全国へ燃え広がる動きを見せた。大阪では数十万の民衆が街頭に溢れ軍隊が出動して収まった。

 折から普通選挙運動、労働運動も並行して活発に行われていたので、神戸の三菱造船所や福岡県の炭鉱などでも賃上げ暴動が起きた。呉市では海軍工廠の労働者が蜂起し、陸戦隊との間で市街戦を繰り広げている。都市ばかりではなく、農村においても大地主や高利貸などの資産家が襲われた。米騒動は、50日間にわたり、1道、3府、38県、369か所、29の炭鉱、参加した民衆は百万人を超えたとみられている。騒動が確認されなかったのは、青森、秋田、岩手、栃木そして沖縄だけである。軍隊の出動も、3府、23県、百か所を超え、延べ兵員数は5万7千以上と推定されている。近代日本史上、民衆運動にこれほどの治安兵力が動員されたことはない。

 米騒動の原因については様々に語られているが、最大かつ直接の原因は、米価の高騰からもたらされた国民の不安・不満であることは間違いなく、それに油を注いだのは寺内内閣の時代錯誤的な対応であった。民衆が米屋などに押しかけたのは、「米を時価(高騰前の1升25銭)で売れ」という要求であり、その要求が通らない時に強奪・打ちこわし等の暴動へ移行する行動様式であった。民衆の不満の背景にあったのは、デモクラシー的な考え方が普及しつつある日本社会の中にありながら、「富裕層に見られる不徳」、「過酷な労働実態」、「下層民の虐げられた生活実態」などといった非民主的な現実へのやるかたない憤懣であった。

 米騒動は、結果的に寺内内閣を総辞職に追い込み、民衆の力が侮れないことを改めて認識させることになった。寺内の辞職後、西園寺に組閣が求められたが、辞退して自分のあとの政友会総であった原敬を推挙、原は組閣を命じられてこれを受諾、外相、陸海相を除くすべての閣僚を政友会から選んだ。原内閣は日本憲政史上初めての政党内閣といわれるが、選挙によって勝ち取ったものではなかった。

 原は政党の党首という資格によって首相になり、爵位を持たない平民宰相であったことから、国民の歓迎を受け、野党となった憲政会や国民党も官僚・軍閥に対する政党の勝利だとして原内閣を支持した。吉野作造は「何といっても時勢の進運並びにこれに伴う国民の輿望である」と『中央公論』の中で述べた。しかし、原は政治的闘いの末に政権を獲得したのではなく、官僚・軍閥内閣から譲り受けただけであり、原自身、必ずしも官僚・軍閥と闘う積りはなく、政界の中で権謀術数を駆使して得た権力という認識をしていた。

 とはいえ原内閣の政策は、国民の希求するところに添いながら、政党政治の伸展を策するという巧妙かつ斬新なものであった。①教育施設の改善、②交通機関の整備、③産業及び通商貿易の振興、④国防の充実という具体的なポイントをその政綱に掲げ、デモクラシーが浸透した大戦後の世界に対応しようとした。

 ①の教育については、中等教育機関を大幅に増やし、慶応義塾、早稲田、明治、法政など私立の専門学校であったものを大学へ昇格させた。②の交通機関については、鉄道院を鉄道省に昇格させ、幹線からローカル線へと整備の重点を移し、鉄道網の充実を図った。道路についても、道路法を成立させ、国道・県道などの道路区分と等級を定め、管理責任を規定した。③の産業・通商の振興については、都市計画法を策定し、市街地の用途地域区分すなわち住宅区域・工業区域・商業区域を定めた。④の軍事力については、海軍の要求であった八・八艦隊の建造、陸軍の21個師団の充実、兵器の改良といった軍備の拡張と近代化を図った。

 さらに原は、選挙法を改正し、納税資格を10円から3円へ大幅に引き下げ、有権者を143万人から286万人へと倍増、あわせて小選挙区制を導入し、議員定数も381から466議席に増やした。そして、大正9(1920)年の総選挙で圧勝した。

 原内閣の選挙制度改革は、普通選挙運動を刺激、明治30(1897)年に松本市で普通選挙期成同盟会が結成されて以来、たびたび普通選挙法案が国会へ上程されるも否決され続けてきたが、大正8年、憲法発布30周年を迎えて、大きな盛り上がりをみせ、学生によるデモや全国各地での集会・演説会が開催され全国規模の運動へと進展した。

 原内閣の時代は、日本の統治に関する様々な制度や仕組みが再編され、そして整備されていく時期である。大正デモクラシーの実益的な果実が得られたともいえる。すでに寺内内閣において、臨時外交調査委員会や臨時教育会議が設けられ、新たな国民統合の方途が模索されていた。米騒動を契機に、内務省救護課は社会課とされ、大正9年には社会局に昇格され、社会政策の強化に乗り出した。並行して、結核予防法、トラホーム予防法などの感染疾病対策法のほか、借地法、借家法、職業紹介法、健康保険法、借地借家調停法、小作調停法、労働争議調停法と国民の権利と社会秩序を律する法令が次々と制定されたのである。労働組合法案、小作法案、小作組合法案もその制定が志向されており、その法案の枠組みに沿う形で労働政策・農業政策が施行される。

 人権擁護の観点から、弁護権の拡大、被告人の当事者地位の強化、未決拘留期間の制限、黙秘権の設定などを目的とする刑事訴訟法改正案が第45議会(大正10~11年)に上程された。この法案は、捜査機関の行う強制捜査や権限拡大を行い、治安取締りの強化を狙ったものでもあった。大正11年には少年法を公布し、18歳未満の少年の保護手続きと刑事処分を定めた。大正12年には、陪審法を公布し、一般人を裁判に参加させることとした。

 こういった社会システムの発展があった一方で、デモクラシーが必然的にもたらす人間モラルの低劣化現象が不祥事の多発となって現れた。関東庁阿片密売事件、政友会不正献金要求事件、東京市涜職事件、明治神宮手抜き工事事件など続々と不祥事が明るみに出た。こうしたなか、大正10年11月4日、政友会近畿大会出席のため東京駅に赴いた原敬が政友会にかかわる疑獄に憤慨した青年によって暗殺されたのである。

7 関東大震災後の日本の復興と大衆文化

 大正12(1923)年9月1日11時58分、関東地方南部をM7.9の大地震が襲った。震源地は東京から80キロ離れた相模湾北西部であり、神奈川県と東京海岸部近辺・本所・深川・下谷など北西部が大きな被害を受け、特に火災による被害・人命損失が酷かった。
 9月2日夕刻、東京市とその周辺部の一部に戒厳令が下った。同時に、赤坂離宮の庭にある萩之茶屋で、蝋燭の火をたよりに組閣工作中の調整を止め、拙速に第二次山本権兵衛内閣の親任式があげられた。

 東京衛戍(エイジュ)司令官が戒厳司令官となり、1日夜には近衛・第1師団の全部隊を東京へ呼び寄せた。戒厳令が下ると、習志野の騎兵部隊が東京全市を巡って、軍隊の到着を知らせた。騎兵の馬蹄の響きは恐怖と不安にみちた人々に活気を蘇らせた。大正デモクラシーのなかで無用の長物として侮蔑の対象となっていた軍隊は、大震災によって絶好の活躍の機会を与えられ、国民の間に権威と親近感を打ち立てるチャンスをつかんだのである。

 ちなみに大正デモクラシーは、軍人の経済的地位のみならず社会的地位の低下を促進していた。大戦景気の波に乗り、十分とはいえないまでも資本主義のルールに沿って給与が上昇した一般給与所得者とは一線を画していた軍では、緊縮財政のなかで増師や艦隊増強など装備費の増加を進める都合上、軍人の処遇はほとんど置き去りにされていた。

 山本七平は、『私の中の日本軍』のなかで次のように書いている。
・・・部隊では将校は半身の如き存在である。そこでその勢威から、誰でも彼らが相当立派な門構えの家にでも住んでいるような錯覚を抱く。しかし、現実には、中尉クラスで間借り、大尉クラスで、連隊の裏門に近い一年中日もささないよう百軒長屋がその住居だった。・・・ 将校の社会的地位の低下は、何も昭和に入ってから始まったことではなかった。・・・いわゆる「学士様なら娘をやろか」の時代には、陸軍少尉も学士並みであった。しかし、学士様のほうは勃興する資本主義の波に乗っていけたが、少尉様はそうはいかない。『おはなはん』 や『坂の上の雲』の時代には、佐官は社会の上流階級に位置していた。それが極端な言い方をすれば、昭和の初期には乞食同様と言いたいような地位にまで下落し、学士様とは決定的な差がついてしまったのである。

軍服のままで街を歩くと白い目で見られたということもあったらしい。しかし、それは軍の権威や地位が低下したというわけではなく、あくまでも軍人個人に対する評価であった。軍の勢威は、現在の自衛隊とは比較にならないほど高いものであったが、軍人の経済的・社会的地位は自衛官よりも遥かに低いものであった。大震災は、一時的であれ軍隊と軍人に対する世間の見方を一変したわけであり、その点でも阪神淡路あるいは東日本大震災後の日本社会に酷似しているのである。

 関東大震災による被害は、概ね次のようなものであった。
 ・ 日本経済中枢の東京市と横浜港はほぼ壊滅状態となり、一帯の経済活動はほぼ1カ月停止
 ・ 罹災者:340万余人(死者91,344人、行方不明13,275人、負傷者52,704人)
 ・ 家屋全焼447,128戸、家屋全壊12万余戸、家屋半壊12万余戸
 ・ 被害金額(日銀推算)45億7000万円=当年度の一般会計予算の約3倍に相当
  (神社仏閣、書画骨董、船舶、樹木、金融資産暴落、救助・救済費用、家畜などの被害を除外)

 復興のため帝都復興院が組織され、台湾や満洲でインフラ整備や都市建設に敏腕を振るった後藤新平が内務大臣の職にあって復興院総裁となり、有能な人材が集められた。道路、公園、橋梁を中核に復興計画が作られ、「昭和通り」、「大正(靖国)通り」を中心に52の幹線道路が東京駅を中心とした環状線や放射線の道路体系が設置された。道路幅は広く舗装され、街路樹が植えられた。耐震・耐火の橋が隅田川にかけられ、隅田公園、浜地公園なども作られた。小学校には隣接して小公園が作られた。

 12NHK連続テレビ小説の第6作。昭和41(1966)年から1年間放送された。平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%。放映当時、その人気ゆえに毎朝放映時間になると水道の使用量が激減する現象が全国で見られたという。明治中期の愛媛県大洲市を舞台に明るく生きる主人公・おはなは、県立女学校(現在の県立松山南高校)を卒業後、軍人とお見合いで結婚。子供も授かったが夫は病で他界。女手一つで息子を育て、あらゆる波を越えて成長していく。


 甚大な被害であったにもかかわらず、震災後の東京の発展はめざましかった。中央郵便局をはじめ八重洲ビル、丸の内ビルなどが続々と竣工し、一流会社はこれらのビルに争うように移って来た。丸の内が脚光を浴びたのはこの地域が震災でほとんど無傷だったからであった。
 丸の内と並んで、震災後めざましい発展を遂げたのは渋谷・新宿などの副都心と呼ばれるようになった地域であった。下町で焼け出された人々が山の手に移住し、世田谷などの郊外居住者が急増したことがターミナルとしての渋谷・新宿を副都心として拠点化したのである。
 国電渋谷駅の乗降者数は、震災後わずか2カ月で、震災前の3万3,000人余から6万5,000余人へと急増した。
 新宿では、三越が震災後、追分にマーケットを開いたとき、坪単価1,500円といわれて人々を驚かせた。だが、新宿にはその地価さえ安く思われるほど人々が集まってきた。
 丸の内の発展と呼応して銀座にもデパートが続々と進出した。大正13年に松坂屋、翌14年に松屋が、昭和5年三越がそれぞれ銀座に出店した。昭和6年には伊勢丹が新宿に進出した。
 国電は、震災翌々年の大正14年、東京―上野間が開通して山手環状線が完成した。昭和2年には、東海道線の東京―国府津間が電化され、翌3年には中央線の飯田町―中野間が複々線化して急行電車の運行が始まったのである。
 また東京の私鉄網もこの時期にほぼ完成しつつあった。明治年間に京浜電鉄と東武鉄道が営業を始めていたが、大正後半から昭和初期にかけて、東横・小田急・目蒲・京王・京成・西武などの私鉄各社が運行を始めた。
 震災を境にして、川崎・鶴見を中心とする京浜南部工業地帯がめざましく発展した。鉄道網と大送電網が張り巡らされたこの地域に、震災で被害を受けた重化学工業の大工場が建設された。昭和元年の京浜・阪神両工業地帯の生産額は、全国総生産額に対して京浜が18.1%、阪神が30.2%と西が大きな比重を占めていたが、徐々に京浜の比率が高まり昭和10年代には逆転する。
 東京や大阪ではこれら大企業の本社・支社が置かれ、そこに働くサラリーマンや労働者が大都会の主人公になりつつあった。かつて東京・京都両帝大生のほとんどは官吏になっていたが、明治末から大正になると盛んに民間企業に就職するようになり、サラリーマンの社会的地位が向上した。
 職業婦人が増えたのも震災後の東京の変貌の一つだった。丸の内に働くサラリーマンの1割以上を女性が占めるようになった。
 国電・私鉄などの交通網の便利性の向上と都市機能の近代化に伴い、サラリーマンや労働者の生活スタイルも変化していった。高価なハイヤーから安いタクシーが出現したのもこの頃だった。郊外には文化住宅が建設された。震災の後、都市生活は一層モダンになったのである。デパートも一部の上流階級ではなくサラリーマンやその主婦、職業婦人などの一般庶民階級を主たる顧客とする商法へ変化し、土足のまま店内を徘徊できる方式へと変わった。高級品を扱ってきた三越でも、主力商品を廉価な実用品へ変え、売り上げが大きく改善、利益率も上昇した。国民全般の消費生活の活発化に伴い国内消費が大きく伸び、GNPを上昇させるとともに国民生活の質が向上したのである。
昭和4年、阪急電鉄が梅田駅に阪急デパートを開業し、電鉄会社が駅と連係したデパートを経営するというスタイルの先駆けとなった。
 そして震災後7年を経た昭和5(1930)年には、天皇御臨席の下に「帝都復興祭」が挙行された。

8 大正デモクラシーの終焉と内外情勢の緊迫

 大正14(1925)年3月19日に「治安維持法」が、その10日後に「普通選挙法」が相次いで成立した。枢密院は、普通選挙法案を可決するにあたって、「当局は教育の整備、思想の善導及び矯激な言動の防遏に資すべき諸般の施策を為すべきだ」という付帯決議をしており、この両法は矛盾ではなくむしろ表裏一体的な性格を帯びるかのようであったが、実のところ当時の内相若槻礼次郎の戦後談によれば「治安維持法」は共産主義の脅威に備えるためのかねてからの内務省の宿題でもあったという。

 政府(加藤高明内閣)は、「治安維持法案」を議会提出するにあたり「この法案は無政府主義・共産主義が近年著しく発展し、とりわけ日ソ復交によってその活発化が予想されるため、これを取り締まるとともに、一般社会を戒めることを目的とするものであり、穏健な労働運動や社会運動を抑圧するものではない」と述べた。

 昭和6(1931)年の満洲事変の勃発は、国内における社会風潮の転機をもたらした。その原動力となったのはマスコミであった。東京朝日新聞は、昭和6年11月18日「湧きたつ祖国愛の血 全日本にみなぎる!」という見出しで、「吹雪の荒野。砲弾下の塹壕に母国の生命線を死守する我派遣軍将士に対する国民の感激は日増しに著しくなり」と煽情的に記し、慰問金が1日平均1500~1600円、慰問袋は平均3万個にも及んでいると報じた。満洲事変を契機に、日本人の感情は一挙に挙国的となったが、それをリードしたのはマスコミであることは現代と変わらない。

 労働運動も変容した。昭和7年、東京地下鉄の労働争議では「女性の生理休暇1週間」獲得を目標に掲げつつも、同時に「出征者の賃金補償」を要求した。この時期、動員応召者の日給全額補償を求めて争議が起こされることが少なくなかった。

 吉野作造は、満洲事変における日本軍の軍事活動を「帝国主義」の観点から再吟味する必要があると述べ、マスコミが一律に出兵賛美に傾き、社会主義達が自由闊達な批判を行わないことに苦言を呈した。現に、社会民衆党は、柳条湖事件の直後に現地視察団を派遣しながら、軍部を支持する「満蒙問題に関する指令」を発表した。

 公娼制度を批判する廃娼運動は、明治半ばに始まり大正デモクラシーの一翼を担う運動としてさまざまな団体が結成されていた。群馬を皮切りに、秋田、福島、福井など県で公娼制度における廃娼を実現していたが、その趣旨は「日本帝国の体面を汚す」さらには「健全なる国家の膨張を損なう」という帝国主義との調和を希求する論理で一貫していた。

 昭和7年1月3日付け東京朝日新聞は、「政治の習律となってまだ日浅き政党政治が、既に国民の倦怠を買い、さらに憎悪の的にまでなった原因は第一に腐敗、第二に無能である。・・・しかも最近政治の局面が満州事変、財界大動揺によって未曽有の重大性を帯ぶるにつれ、一層政党政治を頼りなく思うの情が強化した」とまで記したのである。満洲事変をきっかけとする事態によって、社会運動と政界に変質と地盤崩壊が起こり、大正デモクラシーは終焉していった。

 明治末から大正・昭和初期にかけての日本人の民主主義に対する理解は現在に及ばないにしても、現代と同じような政治行動や社会現象が現れていたことは興味深い。大正デモクラシーの終焉は国家的危機によってもたらされたのであるが、現代とても国家の存続が危うくなるような事態が生じれば、過剰なほどの自由放漫主義の満ちた日本社会が、一気に振り子を大きく振って国家主義的・専制的な政治リーダーの出現を求めるかもしれないのである。

 これは今後あらためて深く研究する必要のある問題であるが、結局は政党政治が熟することができなかったあるいはわが国の政治家の質は民主主義の成熟度に反比例するのかもしれないということであり、現在の普天間移設問題の迷走に見られるような政党政治の未成熟を念頭に置くとき、統帥権干犯問題のようにいたずらに憲政を政局化し選挙を優先する戦前と現代の政治家及び政党政治の実態が酷似していることは驚嘆に値するほどである。

*教科書の記述比較
〈東書〉
第一次護憲運動
日露戦争前後の政治は、立憲政友会と、藩閥、官僚勢力が交互に政権を担当しましたが、1912(大正12)年に藩閥の桂太郎が3度目の組閣をすると、議会を無視する態度をとったとして、新聞や知識人などが憲法にもとづく政治を守ろうとする運動を起こしました(第一次護憲運動)。それを支持する民衆運動も各地で起こり、桂内閣は退陣しました。

大正デモクラシーの思想
政党政治が発展し、普通選挙法が成立した大正時代は、デモクラシーが唱えられ、自由主義の風潮が高まった時期でした。第一次世界大戦やロシア革命の影響も受けて、さまざまな社会運動も活発になりました。普通選挙は、こうした運動にほぼ共通した主張でした。 吉野作造は、普通選挙によって国民の意向を政治に反映させることなどを主張し(民本主義)、普通選挙運動は全国的な民衆運動に発展しました。また、憲法学者の美濃部達吉は、主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治するという学説(天皇機関説)を主張して、政党内閣制に理論的な根拠を与えました。二人の主張は、デモクラシーを広めるうえで大きな役割を果しました。

大戦景気と米騒動
第一次世界大戦によって、日本の経済は好況になりました(大戦景気)。綿織物などの日本製品の輸出先がアジア、アフリカに広がる一方、欧米からの輸入がとだえたため重化学工業が発展し、工業国としての基礎が築かれました。 しかし、好況による物価の上昇に加えて、1918年に、シベリア出兵をきっかけとした米の買い占めから、米の値段が上がったため、米の安売りを求める運動(米騒動)が全国に広がりました。政府は軍隊を出動させてこれを鎮圧しました。

政党内閣の成立
米騒動により寺内正毅内閣が退陣すると、衆議院第一党(最も議員の多い政党)の立憲政友会総裁の原敬を首相とし、陸軍、海軍、外務の3大臣以外はすべて立憲政友会の党員で組織する、本格的な政党内閣が成立しました。原は「平民宰相」と呼ばれ、普通選挙には時期が早いとしましたが、選挙法を改正して、有権者数を増加させました。

社会運動の広がり
デモクラシーの高まりや第一次世界大戦による世界の変化の中で、労働運動や農民運動、女性運動、民衆運動が広がりを見せました。 1912年には、労働者の地位の向上をめざして友愛会が結成され、第一次世界大戦中の経済の発展によって労働者が大幅に増加して、労働争議もしきりに起こりました。友愛会は労働組合の全国組織へと発展し、1921年には日本労働総同盟と改称し、労働者の団結と労働条件の改善を求めました。 農村でも、小作料の減額などを求める小作争議がしきりに起こり、1922年に日本農民組合が結成され、農民運動を指導しました。 社会運動の高まりの中で、社会主義の活動が再び活発になりました。ロシア革命の影響で共産主義への関心が急速に広がると、1922年には日本共産党が、ひそかに結成されました。

女性運動の台頭
女性差別からの解放を目指す女性運動も盛んになりました。「新しい女」を目指し、青鞜社を結成して女性の解放を唱えてきた平塚らいてうは、1920年に新婦人協会を設立し、女性の政治活動に自由、女子高等教育の拡充、男女共学、母性保護などを求める運動を繰り広げました。また、女性が政治に参加する権利を求める運動も本格化しました。

解放を求めて
部落差別に苦しんできた被差別部落の人々も、政府に頼らず、自らの力で人間としての平等を勝ち取り、差別化らの解放を目指す運動(部落解放運動)を進めました。1922年に京都で全国水平社が結成され、運動は全国に広がっていきました。 北海道では、差別に苦しむアイヌ民族の解放運動も起こり、1930(昭和5)年には北海道アイヌ協会を結成して、アイヌ民族の日本社会への同化を目指す政策に反対していきました。

男子普通選挙の実現
原内閣のあとは、再び非政党内閣が続きましたが、1924年、政党勢力は、第二次護憲運動を起こし、憲政会総裁の加藤高明を首相とする連立内閣を成立させました。
 1925年、加藤内閣は、納税額による制限を廃止して、満25歳以上の男子に選挙権を与える、普通選挙法を成立させました。これによって有権者は約4倍に増加し、政治に広く国民の意向が反映される道が開かれました。しかし同時に治安維持法が制定され、共産主義に対する取り締まりが強められました。 加藤内閣委穂、1932年に五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、政党の総裁が内閣を組織することが慣例になりました。これを「憲政の常道」といいます。

〈自由〉
政党内閣の誕生

日露戦争後の日本の政治では、立憲政友会という政党と藩閥勢力が、交互に内閣を組織する時期が続いた。明治天皇がなくなり、大正時代が始まった1912(大正元)年ごろから、藩閥政治を批判し、憲法の精神に基づいて国民の意思を反映した政治を求める運動(護憲運動)が起こった。吉野作造は、デモクラシーという言葉を「民本主義」と訳し、普通選挙により議会で多数を占めた政党が政府を組織すべきだとする考え方を広めた。 1918(大正7)年、シベリア出兵をあてこんだ一部商人による米の買い占めのうわさがもとで、米価が上がり、これに怒った群衆が米商人を襲撃する騒乱が、全国各地で起こった(米騒動)。同年、内閣が総辞職すると、立憲政友会の総裁・原敬が首相となり、新内閣を組織した。原は、陸・海・外務の3大臣以外のすべての大臣を衆議院の第一党である立憲政友会の議員の中から任命し、日本で最初の本格的な政党内閣をつくった。

大正デモクラシーと社会運動
大正時代、特に第一次世界大戦後は、対日本帝国憲法の下で、議会に基礎を置く政党政治が定着し、普通選挙運動などの社会運動も活発になり、民主主義(デモクラシー)の思潮と国際協調の世論が強まった。これを大正デモクラシーという。 この時期には、労働組合が多数組織され、農村では小作争議も起こった。1920年には、日本初のメーデーが行われ、労働運動・農民運動も盛んになった。また、1922年に全国水平社が組織され、部落差別撤廃の運動が本格化した。女性の地位を高める婦人運動も開始され、平塚らいてうなどの活躍によって、婦人参政権が主張されるようになった。

憲政の常道
原敬は、1921年、暴漢に暗殺された。政党勢力は有力な指導者を失い、その後は非政党内閣が続いたが、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。これより8年間、衆議院で多数を占める政党の総裁が内閣を組織することが慣例となり、これを「憲政の常道」と呼んだ。加藤内閣は、1925(大正14)年、普通選挙法を成立させた。これによって納税額にかかわらず、25歳以上の男子全員が選挙権を獲得した。1928(昭和3)年、第1回の普通選挙が行われ、政友会が第一党となった。

〈育鵬〉

大戦と好景気

第一次世界大戦による軍需品の需要から、日本には大量の物資の注文が入り、かつてない好況を迎えました(大戦景気)。わが国は一挙に貿易黒字国に転じ、鉄鋼や造船を中心とする重化学工業が発展しました。

大正デモクラシー
日露戦争後、日本の政界では、立憲政友会総裁の西園寺公望と、藩閥を背後にもつ桂太郎が交互に内閣を組織していました。明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位した1912(大正元)年、西園寺内閣が陸軍の圧力で倒れ、桂内閣が成立すると、藩閥への批判や政党による議会政治を求める運動(護憲運動)が尾崎行雄や犬養毅を中心に展開され、桂内閣は退陣に追い込まれました。 政治学者の吉野作造は、民本主義を唱え、選挙で多数を占めた政党が内閣を組織すること(政党政治)が大切であると主張しました。第一次世界大戦後、国際社会に確かな地位を占めていたわが国は、世界的な民主主義の風潮の中、政党政治を目指す方向に向かいました。以後、昭和初期に至るまでの、こうした風潮の高まりを大正デモクラシーといいます。 1918(大正7)年、米の値上がりを予測した商人が米を買い占め、米価がはね上がりました。そうした中、民衆が米の安価な販売を求めて米問屋に押し寄せる事件が富山県で起こりました。この動きは全国に拡大し、暴動を引き起こしました(米騒動)。騒動で内閣が倒れると、立憲政友会の原敬が首相となり、外務、陸・海軍以外の閣僚が政党人からなる本格的な政党内閣を組織しました。しかし、反対勢力も根強く、原が東京駅で暗殺されると、その後は非政党内
閣が3代続きました。 再び護憲運動が高まり、1924(大正13)年、護憲派が総選挙で多数を占めると、衆議院の第一党になった憲政会の加藤高明が、政党内閣をつくりました。その後、8年間は、内閣が辞職した場合、野党第一党の党首が次の内閣を組織するようになり(憲政の常道)、政党内閣が続きました。 加藤内閣は、1925(大正)14年、普通選挙法を成立させ、納税額にかかわらず25歳以上の男子全員に選挙権があたえられました。

社会運動の高まり
大戦景気の反動で不景気になると、労働運動も盛んになり、1921(大正10)年、日本労働総同盟が、翌年、日本農民組合が結成されました。また、全国水平社が組織され、部落差別撤廃を求める運動が本格化しました。女性の地位向上や参政権を求める動きも活発になりました。 一方、ロシア革命の影響で共産主義の思想や運動が知識人や学生の間に広がっていきました。ソ連と国交を結んだこともあり、共産主義運動が国内に広がることをおそれた政府は、1925(大正14)年、君主制の廃止や私有財産制度の否認な
どを目指す活動を取り締まる治安維持法を制定しました。

*参考文献
 ① 『日本の歴史-大正デモクラシー』初版1974.9.10 今井清一 中央公論新社
 ② 『シリーズ日本近現代史④ 大正デモクラシー』初版2007.4.20 成田龍一 岩波書店
 ③ Web. ウィキペディア等