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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 戦後日本の大いなる嘘                    平成25年   作成 早乙女



1.いま日本人に必要な1000年単位の視野
 今、日本は大きな歴史の曲がり角に立っている。「とてつもない大きな転換の流れが迫っている」この直観を近年確かに多くの国民が抱いている。この時代の大きな動きを敏感に感じ取る感性の鋭さを、日本人の多くは失っていない。そのことは、日本の国民の精神的なあり方の一番根底にあるものは変わっておらず、むしろ「文明の本能」のごときものが依然として受け継がれていることを教えてくれる。さらにいえば、その感性がますます研ぎ澄まされていると言ってもよい。

 だが残念なことに、それがいったいどういう意味を持っているのか、ということまでは、ほとんどの人が十分に言葉になしえない。まるでその「もどかしさ」のなかに、今この国の民はうずくまっているかのようだ。歴史の今後の進路はどうなるのか。あるいは、歴史的に見るとこれはいったいどれぐらいのスケールの話であるのか。そのようなことを、多くの人はまだほとんど見通していない。

 戦後の日本人は歴史、そして未来を見るうえでの自分たちの「定点」を失い、大きなスケールの歴史観を持つ素地を失ってしまった。非常に深く大きな「うねり」への予感は鋭く持ちつつも、全体像を探しあぐねているのはそのためである。今、日本人に必要なことは文明的視野を持ってこの時点をとらえなおすことである。「文明的な視野」というのはわかりやすく言えば100年や200年の単位ではなく、最低限1000年の単位で考えるような歴史の視野である。1000年の単位で見るならば、当然のこととして物質的なものはほとんど影をとどめない。問題になるのは、文化や国民の精神、民族性などというもの、つまり、「それがあったからこの国がずっと続いてきている」と言えるような、「歴史を動かす精神的な核」である。それをいかに見るかという視点こそが、ごく簡単に言ってしまえば「文明」というものを見る目である。

2.日本文明の生命力が減退を続けた戦後60年
 戦後の日本とは何であったのか。それを考えるとき浮かび上がるのは2000年を超える日本の歴史の中でも歴史を動かしている精神的な核になる「文明」が、おそらくは最も激しく変動し、変形し、ときには傷つけられ、ときにはその核にまで動揺が起こりかねないような、いわば「危機の60年」だったということである。危機の60年。そう表現すると、奇異な感じを受ける人もあるかもしれない。むしろ日本は昭和20年の敗戦以後は平和が保たれて経済も成功を続け、そして今日の安定した日本社会が形成されてきたように見えるからである。しかし、この認識に、いま重大な「帳尻合わせ」が迫られてきている。本当にこれでよかった、と言えるのか。この直感が、多くの日本人をしてどうも「何かしら大きな転換を迫られているのではないか」という意識に結びついているのである。

 この繁栄、平和、あるいは日本の歴史にもなかったほどの安定した60年というものは、どのような基盤の上に、何を犠牲にし、何を食いつぶして生み出されてきたのか。いま、この問いへの答えを迫られている。
 それを考えるときにまず大きく立ち現われるのは、戦後の日本が「大いなる嘘」に立脚して出発せざるを得なかったということである。それは、誰もが知っていながらあえて見過ごしてきた嘘であった。
 たとえば日本国憲法、なかんずく第9条 ――9条第1項もさることながら、特に9条第2項は誰が見ても「全き嘘」の条項でしかない。このために、日本の戦後民主主義(後述)の経験の大半の時間は、この嘘をいかに取り繕うかという、いわば「嘘の上に嘘を固める」という作業のために割かれざるを得なかった。

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は
     、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「戦後民主主義」:自国の歴史を汚辱にまみれた過去と見るイデオロギー。自虐の暗黒史観。自分は国家の社会福祉や教育機関や公共施設の恩恵を享受しておきながら、常に個人と国家を対立させ、国が人間を抑圧する暴力装置のようにみなし、反国家反体制のポーズをとる。
① 国家の恩恵はすべて当然のこととして享受する。
② 反権力の姿勢をとる。つまり国家を、人間を抑圧する暴力装置と定義する。
③ 反防衛つまり防衛する必要なしとする。
④ 反皇室つまり「天皇制」廃止論である。
⑤ 反自由経済。経済の成長、発展を認めない。
⑥ 社会主義国・共産主義国賛美
⑦ 神武天皇以来の日本の歴史、特に近代日本の歩みはすべて出発点から間違った「侵略」、
 「南京大虐殺」、悪逆非道の歴史であったという罪悪史観。
⑧ 自虐史観。原爆を落とされたこと、国中を焼け野原にされたことはすべて日本が悪いから。
⑨ 謝罪史観。日本はアジア全体に謝罪すべきだ。
⑩ 無反省  例:笠信太郎(朝日元論説委員)

そして、この嘘を守り抜くためのより深刻な嘘がさらにそこから生まれた。例えば「戦後」という神話をどうしても支えなければ、という気持ちから、過去の歴史についての全く的外れな反省によって、ますます歴史の真実を見せなくするような議論が横行した。さらには、我々日本人というのは内面に非常に攻撃的で愚かで恐ろしい因子を持っているから、気をつけねばいつまた「もとの道」に戻るかもしれない、というような自虐的な自画像も描き続けられてきた…「経済に専念する」というのは、この大いなる嘘からの逃避以外の何物でもなかったことが今や明らかになったからである。
 さらに国の根本に大きな嘘がある以上、やはり教育においても、嘘を嘘で塗り固めるような努力が続けられた。そのような嘘で成り立つ思考様式が、若い世代の日本人を延々と60年間拘束し腐敗させ、すべての意味あることに背を向けさせる「冷笑の人間像」を作り出し、そうしてすべての日本人の心を深く蝕んできた。
 日本では古来、「明き清き心」や「直き心」という心のあり方が重んじられた。「正直できれいな心」「清潔な心」に大きな価値が与えられていた。さらに先祖から受け継がれてきた「大きな流れ」を辱めまいとする誇り高き心を抱いてきた。かつて、日本にやってきた多くの西洋人が日本人の倫理性の高さを賞賛しているが、それを支えてきたのが、このような人としての美しさを重んじる「心」のありさまだったのである。
 しかし、その「こころ」自体が「大きな嘘」で傷つけられてしまった。「まこと」を基調とする日本人の精神伝統つまり日本文明は、戦後という時代が遺した「うそ」と「貶め」の傷跡によって、今その生命力を大きく減退させている。

3.「3つの軸」が揺らぐとき日本を危機が襲う
 …誰が見ても嘘の条項である日本国憲法第9条が現在のように周辺諸国からの軍事的脅威の高まりつつある中でいかに日本を立ちすくませていることか。また私がよく知る欧米の社会と比べても、現在の日本ほど家庭も学校も社会全体も権威をなくし、大人が教育に全く自信をなくし、様々な局面での深刻な価値観の崩壊に直面している国はない。さらに最近の事例としてみれば、皇位継承についての「皇室典範に関する有識者会議」の議論があれほど不徹底にしか行われなかったことに象徴されるごとく、戦後の日本人は皇室の伝統に対する恐ろしいほどの無関心に支配されてきた。文明史的に見ると、日本の危機というのは、歴史的に常に3つの軸で、しかも、なぜかみな同じタイミングに重なり、すべてが収斂して起こってきていることがわかる。3つの軸というのは、安全保障、国民精神、皇室のあり方である。つまり日本をゆるがす歴史的な安全保障の危機が起こり、国家の存立が外から脅かされるような時代は、往々にして国民精神のあり方が非常に弛緩し、堕落している時代と重なる。そして、なぜか不思議にそういう時代は、それまで半ば忘れられていたかのように見えた国民の「天皇への視線」が一気に蘇り、本来的な天皇観というのが模索され始める時代にも重なるのである。

4.危機を乗り越える核であり続けた皇室伝統
 …昭和20年の経験というのは、あえてごく軽いものであって、白村江の敗戦と同様、「昭和の敗戦」自体は日本の文明史的な活力に与えた影響としてはさほど大したことではなかったということがわかる。あの時点では南北朝から室町期、戦国期のような日本文明の基本構造が陥没してしまうほどの悲劇の「底」を作り出したわけではなかった。敗戦にも関わらず「堪えがたきを堪え耐え忍びがたきを忍び」大きな未来を切り開こうという、昭和天皇の終戦の詔勅のあの言葉の中に、むしろ「文明としての日本」の精神的な安定と強さが見事に現出しているのである。これが昭和20年代、30年代の日本の大きな力となった。

 ところが、当時は「いずれ」払わなければならないと考えていた敗戦の「つけ」が高度成長があまりにも成功したことによってかえって見過ごされてしまった。それこそが憲法の問題であり、戦後教育の清算という問題であり、そして「皇室と日本人」という文明観に基づく視野の回復という問題であった。全く残念なことに、21世紀の明白な危機がやってくるまで、つまり60年間、この「つけ」を放棄したゆえに、今日我々と我々の国の精神の基軸つまり日本文明の存続はギリギリの危機にまた今直面し始めているのである。…危機を乗り越えるための核であり続けた存在、つまり皇室伝統の存在に、今あらためて思いを致すべきなのである。

5.日本文明のあり方を決定づけた皇室伝統
 我々の周囲には現在の人知を超えたものは数限りなくある。そのことをいわば当然と思って生き続けることで、つねに「慎みの心」を失ってはならないという自覚が生まれるのである。そしてそれが我々に「人間らしさ」を保証してくれるのである。「いつかはわかるだろうがでも今はわかっていない」、このことを自らに言い聞かせることが「畏れを知る」ということなのである。そして、その心を持ちつつ、歴史に思いを馳せ、先人の築いた伝統に対し敬意を払う、これが人間として本来の姿なのではないだろうか。

 私の考えでは日本は自ら1国で他のどの文明とも特質を異にする文明を体現する、その意味で基本的に特異な国である。そのような日本文明が形成され得たのは、多くの要素があるはずだが、その中でも誰にもわかる1つの有力な縦軸として、日本の長い歴史の中で常に中心に存在し続けた皇室伝統があった。

 …中華文明に特質的なことは天の思想である。これは典型的に、天がある人物に中華統治の「天命」を与え、その人物は王朝を創始するが、天がその王朝を見限ったとき、天命が改まり王朝が交代するという革命思想に現れる。…つまり暮らしが立ちゆかなくなった人民の蜂起を「天の声」として中華文明は動乱期に入り、それまでの王朝は滅びて「新たな天命」を受けた新しい支配者が動乱に勝ち抜き、新しい王朝 ――それがたとえ共産主義を掲げるものであっても新しい王朝として ――が誕生する。これが中華文明の国家論的な側面における一番の本質なのである。…具体的には「天」の命をうけた(と称する)天子=皇帝への崇拝ということになる。それゆえ、たとえ共産党総書記という名であっても、とにかく1人の人に権力が集中しないと、「天の思想」というのは完結しないである。そして天子が「天命」を失うと、新しい「天命」を受けてその王朝を打倒したものが次の天子になるのだから、これは徹底的に否定の文明論理であり、つまり「断絶の論理」である。とにかくすべてをいったん「更地」にして次の新しいものを作らねば歴史は再生しない国なのである。

 日本と決定的に違うのは、まさにここである。ここで天皇の問題に戻ってくるが、「万世一系」ということの文明史的な重さである。日本の場合「王朝が変わらない」ということはいったい何を意味するのか。それは、あえてすべてを更地にしないという日本の歴史を貫く1個の意志であり、「継承」を本旨とする文明としての自己規定なのである。たとえ、一見新しいことが起こってもいったんはこれまでの古い土壌の中にそれを吸い込んでいき、そして湿潤さが増したり土地が肥えたり痩せたりという変化の中で自ら変質を促し、しかもそれを包み込んでずっと「同じ土」であり続けようとする。そしてその上にさらにまた新たな土が重なってくる。外から異文明が入ってきても、それは前にあったものの上に積み重なって、また「新しい全体」をそこから有機的に作り出していく。そういう文明の同化力、基礎力というものがあるから、「縦軸」が抽象化されずに目に見えるものとして生き延びてゆく。

 対して中華文明は同化しないものをはじく。中華文明があれほど国際的なのは、「はじく」からである。つまり、自分の文明が最も優越していると感じているときは周囲を下に見下すから「あなたも来なさい」「チベット人も来なさい」「朝鮮人もベトナム人も皆来なさい」「アラブ人も来ていい」と言えるわけである。いわゆる国際性とは常に差別の契機を持っていなければ生まれてこない。必ず思想として中華文明が一番上だというピラミッド型のヒエラルキー構造をつくる。それゆえ逆に中国が弱体化し、中華文明が活力を失ったときには排外主義へと走る。これもまた「はじき」の論理なのである。

 …近代西洋の論理に忠実な近現代の日本人は、「連続」というものを本質にしている日本文明の基礎構造、「すべてのものが日本化していく」という不思議な構造を「どうしようもない日本」性と称した。丸山真男の言葉でいうところの「日本の古層」であるが、そのようなものを忌々しげに語る知識人が、明治以降の日本には数多く生まれた。夏目漱石なども、そのような言葉を残している。

 しかし、これは逆に言うと、日本文明の大変な比較優位なのである。まず「連続性」という文明特質がある。現代では見えなくなった過去の過去のそのまた過去、地層でいえば底の底にあるような古層が、実はいまだに生き生きと息づいている。そのような構図が日本文明を考えるときの一番の根本テーマとしてあるのである。出発点としてこの「文明の構図」という視点をしっかり押えておけば、ほかの日本文明の核心部分に関わるような問題はほとんど全部説明できる。

6.日本文明の核心の崩壊という危機

 …この1300年間、日本人が連綿と胸に抱き続けてきた「この国の自画像」は次のようなものである。高天の原にまします天照大神(アマテラスオオミカミ)が、孫君(すめみまぎみ)であられた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という方に、「葦原の中の国を治めたまえ」とお命じになる。そこで天照大神から授けられた「三種の神器」を帯して瓊瓊杵尊が日向(ヒムカ)の高千穂峰に「天孫降臨」し、葦原の中つ国、つまり日本列島の統治に着手され、そのひ孫であられる神武天皇が東征され大和朝廷をひらかれた。これが仮に「神話」だとしても「古事記」「日本書紀」にこれだけの物語性を持って国の始まりが語られ、第1代の神武天皇の即位が今から数えて2666年前(五月女注:この著書の出版年である平成18年=西暦2006年に660を加えると紀元2666年になる)ということで書かれ、それを少なくとも1300年(五月女注:古事記編纂は712年)にわたり我々の祖先は「この国の形」として信じ、そこに文化が生まれ、さらにそれを受け継いで、実につい50数年前まで――昭和23年7月、GHQの圧力による紀元節廃止まで――ほぼすべての日本人がその中に自らの誇りを見出してきたのである。

 …さらに言えば、今日の今上陛下も、最も重要な、そして本来の「ご公務」として続けられておられるのは、列島の神々や皇祖皇宗つまりご祖先の神々へのお祀りである宮中神事なのである。ひとえに「この国の行方安かれ、国民に幸多かれ」それだけをお祈りされておられる。神話につながるご血筋が連綿たる1つの継承の方式によって支えられ、その血筋を受け継がれた方がこのような、国と国民のために神祭りをされておられる。これは犯すべからざる圧倒的な尊さである。そして歴代天皇によるこのお祀りこそが祖霊信仰という、日本の倫理の根本原理を支え続けてきた。さらに神話から続く皇室を中心とする神道の伝統が山や川から穀物に至るまで生きとし生けるものすべてのものが神として息づき得る日本の多神教的価値観の背景となってきた。

7.皇室の永続を願わぬ人たち

 …近年アメリカで明らかになってきた資料によって、やはりGHQは長期的には「天皇制をつぶす」ということを大きな目的にしていたのだということが徐々にわかってきた(五月女注:ちなみに「天皇制」という言葉は日本共産党綱領草案の中で初出し〈1923=大正12年〉、平凡社「大百科事典」に入る〈1950=昭和25年〉)。
1942(昭和17)年頃、CIAの前身であるOSSという情報機関の中に設けられた対日占領政策の基礎を作り上げた組織の文書を見ると、「客観的に見て天皇制は日本民族にとっては計り知れない資産だ」と書いてある。それゆえ、日本からの将来の脅威を極限する、という占領政策の基本コンセプトからすれば「だからつぶさなければいけない」という論理に当然なる。そしてこの関連で「ファシズム国家の解体」という根本目標の具体化を進めたのは、ドイツから来た共産主義の立場に立つユダヤ人亡命者(=フランクフルト学派)であった。ユダヤ教という一民族一宗教の伝統を背にしたものだからこそ「一民族一宗教」である日本の強さを重大な脅威として理解したのであろう。

 そしてその一方で、天皇制を当面利用しようという議論も展開する。「それは矛盾するではないか」という意見に対して、その行間から浮かび上がるのは、「そうではない。これは要するに自分の墓を自分で掘らせることだ」という考えであった。

 …残念ながら日本の国内外には皇室の永続を願わない人たちがいまだ多数いるということは皇室について考えるとき常に忘れてはならないことなのである。皇室の永続を願わないというのはいかなる人たちか。

 第1に挙げられるのは「戦後教育の第2世代」にあたる世代の、迂闊な皇室廃止論である。典型的に明確なのは堀江貴文氏の、よく引用される発言である。堀江氏は、衆院選に立候補した2005年9月6日に日本外国特派員協会で講演し「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのは、はっきり言ってものすごく違和感を感じる。歴代の首相、内閣、議会が変えようとしないのはたぶん、右翼の人たちが怖いから。インターネットの普及で世の中の変化のスピードが速くなっているから、リーダーが強力な権力を持つ大統領制にした方がよい」などということを語ったといわれる(『毎日新聞』2005年9月7日付)。このような大変迂闊な若い世代の皇室廃止論は各所で見受けられる。また「廃止」まではいかなくても、「皇室があってもいいと思う。税金がかからなければ。昔からあるものだし」とか、「憲法で決まっているのだから、一応あってもいいじゃないですか」などという、いわゆる無関心派、無国籍派もその流れである。このような流れが生じるのは、残念ながらひとえに戦後、教育の場から天皇・皇室に関する教育を一切追い出したからである。憲法の第1章に書かれていることなのに、日本にとって「天皇とは何か」ということについて蓋をした。その一つの帰結といえば言いすぎかもしれぬが、こういう若い世代がまだ陸続きとして出てきている。

 第2に挙げられるのは「革命の敗者」として現在ほぞを噛んでいる、団塊の世代を中心とした古い戦後派の世代の人たちである。社会主義・共産主義を聖なる理想としてきた我が国の進歩的文化人はどう身を処したか。はなはだ興味深い情景であるが実に全く何事も起らなかった。理想が虚妄であるとわかって自分の生涯のテーマが否決されたと観念して自殺した人は1人もいない。精神に変調をきたした例も聞かない。私は間違っていましたと自己批判した人もこれまた見事に1人も見当たらない。とすれば事態の真相は誠にはっきりとしている。本物の社会主義者・共産主義者など我が国には初めから1人もいなかったのである。本心から腹の底から共産主義を信じている者はいなかったのだ。…そんな人が1人もいないということは誰も本気ではなかったという実態の証である。全員が営業左翼だったのだ。左翼であるふりをし、適当に恰好をつけていたのである。戦後の左翼思想は流行であった。流行に遅れたら出番がなくなる。便乗しなければ損である。冷戦終結、ソ連崩壊、それと同時に彼らはそっと仮面をはずした。何もなかった寛容な知らぬ顔の半兵衛である。

 しかし、指導者根性だけは残った。かつての左翼全盛時代、自分たちは国民を教え導いてやっているのだとうぬぼれる優越感が何とも堪えられぬ快感であった。左翼風の説教をまき散らしている我々は優れた思想を宣伝しているのだから選民である。このエリート意識は陶酔を誘う。この自尊心の満足だけはいつまでも味わっていたい。

 このような人物は依然として、有識者会議に参加した学者の属する世界にはたくさん存在する。共産革命を夢見て戦後ずっとやってきた人が、共産主義イデオロギーの全面崩壊によっても「理想は間違っていなかった」と称して、その思想の清算を拒み続け、それ故に根深いルサンチマン(=怨念)につき動かされて、伝統や秩序の破壊のみを理想として固執している。この人たちの中にははっきりと次のようなことを述べる人がいる。「社会主義はもう実現できないことは認める。しかし、我々の究極の理想は実は社会主義革命ではなかった。あの戦争を引き起こした日本というものを問い詰め、天皇制を廃止することである。これは、これからむしろより大切な理想となってきた。」このような主張とそれに共鳴する傾向は、かつての「32年テーゼ」(1932―昭和7―年、ソ連のコミンテルンが日本人に対して「天皇制廃止こそ日本革命の大目標」と指令した革命戦略の計画)以来共産党系以外にも、広く知識人や学者の中にあるし、特に教育関係者やマスコミ人の中には今も強固に残存している。…考えようによっては、彼らはGHQの呪縛から逃れられぬ「かわいそうな世代」だとも言える。いまだにそれとは知らずにGHQやCIAの下働きをしているわけである。そして彼らはそれがいかにこの国を劣化させているかという現状にまったく目がいかない。

 第3に挙げられるのは今の政党の中にあるいは社会に非常に影響力を持った団体の中にある「天皇制は差別の根源をなしているものだ」というような考え方をする勢力である。彼らはそれは可及的的速やかに「除去」していくべきだと考える。またあるいは宗教的理由から皇室の伝統の核心にある神道と皇室のつながりを極端に排斥したい団体や政党も存在する。それがときには政治権力に近く影響力をもつことになる。

 それから第4に挙げられるのが、2005―平成17―年1月に問題になった安倍晋三、中川昭一両代議士による「NHK番組圧力問題」と言われた問題で象徴的に噴出した構図である。この問題の核心には政治家が圧力をかけたかどうかという問題よりも(それはその後、朝日新聞の「実質的」な虚偽報道だったことが判明し、朝日が謝罪している)、もっと由々しい問題があった。それは日本の唯一の公共放送であるNHKが、「昭和天皇の性犯罪を戦犯として裁く」という触れ込みで行われた左翼女性団体を中心とした模擬法廷の模様を、テレビで特別に延々一時間近くにわたって放送したということ、そしてさらに、実はその法廷に検事役として出た北朝鮮の工作員とされる人物がきわめて大きな役割を担っていたということである。北朝鮮の工作員の背後には、当然北朝鮮のパトロン国家であるアジアの大国が控えていることもわかる。両国の工作機関は、日本に対してはしばしば共同行動をとることが多いからである。日本の近隣諸国の中には皇室の永続を願わないことを国策にしている国が、残念ながらあるということである。このことは、心ある日本人はぜひとも覚えておく必要があろう。彼らが日本の皇室の永続を願わないのはなぜか。それは決して「あの侵略戦争の責任は天皇にあり」などと言うことを延々と言いつのるだけが目的なのではない。つまるところ、この日本という国は天皇・皇室が残る限り、日本人が皇室を中心にまとまりを保ち国家としての活力を持ち続ける、ということを警戒しているからである。「皇室がなくなれば、日本などどうにでもなる」、この意識は中国と南北朝鮮の基本的な対日認識である。

8.日本文明を担うものとしての一大責任

 「皇室の永遠の安泰」、これは多くの心ある日本人が等しく願っていることである。しかし、願うだけでは立ちいかぬのが、当面の局面なのである。「皇室の安泰」という方向に向けて、より大きな、かつより現実的な視野で真剣に考える必要があるわけである。そう考えると皇室典範改正への動きがなぜ今なのか、ということをあらためて問題にせざるを得ない。「皇室典範を永遠に改正するな」などということではない。外国人が隠された意図を持ってつくった現行典範である以上、必ず改正しなければならない。しかし今改正するのは「1番悪い改正」になる、ということである。なぜならあともう少しすれば、GHQの占領によっていかに「日本文明の基本形」が捻じ曲げられたかということに、さらに多くの日本人がよりはっきり気がつくようになると思われるからである。今刻々と戦前から戦後にわたる様々な歴史の見直しが進んできている。
あと10年、せめてあと10年たてば日本人の歴史意識は間違いなく蘇るし、日本人の本来の文明感覚も本格的な回復の入口に入るだろう。皇室典範の改正を論じるのは、その時期で決して遅くはない。

 …「『継続は力なり』と言いますが、古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にしてきてくれた歴史上の事実とその伝統があるがゆえに、現在でも大多数の人々は『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として、1人1人が何かしら“体感”し、『天子様』を明解な形であれ、否とにこだわらず、敬って下さっているのだと思います。」

 「陛下や皇太子様は、御自分たちの家系のことですから御自身で発言されることはおできになりませんから、民主主義の世であるならば、国民1人1人が我が国を形成する『民草』の一員として2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をしていただかなければ、日本国という『国体』の変更に向かうことになりますし、いつの日か『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」
 この言葉の重みを今我々1人1人が実感せねばならない。我々1人1人に日本人として非常に重大な日本文明の使命、「日本文明」を担ってゆく使命が課せられているのだということを痛感するときなのである。これは日本文明を築き上げてきた2000年に何々とするあるいはそれ以上にわたる我々の祖先に対する責任であると同時に、これから未来永劫日本文明を受け継いでいく子々孫々に対して我々が責任を負っている一大責任であるということを、ゆめ忘れてはならないのである。

(「日本の興廃」中西輝政著 平成18年より抜粋)
(「こんな日本に誰がした」谷沢永一著より抜粋)

〔付録〕
先日高校時代の日記を偶然見つけ、ページを繰って行くうちに次のような記述に出くわしました。今の自分には全く記憶がありませんが、当時のある社会科の教員の発言と、それについての当時の私の乏しい語彙力の、素朴な感想・疑問が表れているのでここに再現したいと思います。当時の学校教育の一端が垣間見えるかもしれません…。 
高校時代の日記よりー1972(昭和47)年3月9日(高校2年末)今日倫社の時、先生が次のようなことを言った。「戦前、天皇は神様的存在だった。天皇がいなければ日本の国はありえなかった。しかし、それはまちがっている。米を作ったのは農民であり、国を富ませたのは労働者たちである。」小生もこれを聞いて同調せざるをえなかった。しかし、本当に戦前の国家体制というものはまちがっていたのか。もしまちがっているとすると、日本という国全体が間違った邪悪な道を歩んでいたことになる。とすると当時の教育を受けた者たちは少なくとも当時はゆがんだ考えを抱いていたことになるのだろうか。先生はこうも言った。「横井さんは帰国して、戦争に負けて天皇陛下に申し訳ない、陛下に対して恥ずかしいといった。何が申し訳ないだ。謝るのはむしろ天皇の方だ。横井さんの青春を28年間奪ってしまったのは誰あろう、天皇そのものだ。戦争を引き起こしたのは天皇ではないか」と。これももっともな考えであると思った。これをきいて小生は本当に天皇陛下というものがわからなくなってきた。戦後の混乱を収拾したことに大きく貢献したのは天皇陛下だったと小生はある程度尊敬しているのだが、今はどう考えてよいか。

「横井さん」:横井庄一を指す。その当時グアムに残っていた隊員にはポツダム宣言(1945年)受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことが知らされなかった。横井はジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日にエビやウナギをとるためにウケをしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した。軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、羽田空港で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。同年2月2日14時から60分間にわたりNHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録した。(インターネット ウィキペディアより)