活 動 報 告report
満州事変・支那事変をめぐる流れ 平成25年6月16日 作成 五月女
●はじめに
最近ようやく一部で知られるようになったこととして、満州事変・支那事変を含む昭和初期の諸事件・事変の背後にはコミンテルン(国際共産主義 本部モスクワ)の存在があり、その策略が日本にも中国にも及んでいたという事実がある。このコミンテルンの策略を抜きにして、1920年代から敗戦に至るまでの約25年に渡る日中関係を語ることは絶対にできない。「あの戦争は日本側が領土欲をむき出しにして一方的に攻め込んでいく侵略戦争であった」と言い切って事足りるような単純な戦争では決してなかった。日本だけでなく中国国民党もまた、コミンテルンの策略に巻き込まれ、両者は全面戦争に陥り、戦争拡大の一途を辿った。日本側では首相の側近として尾崎秀実らの共産主義グループが諜報活動をしていたし、国民党側では蒋介石がコミンテルン支配下の中国共産党と国共合作を強いられていた。このような状況では、日中和平工作が実を結ばなくても不思議ではないように思えてくる。1920年代からの歴史を追っていくと、張作霖事件(新説あり・後述)、満州事変、華北分離工作などいくつかの局面においては、確かに日本軍からの工作や働きかけはあったが、大筋においては、満州事変は日本の権益と居留民を守るために満州を支那から切り離して満州国建国を目的とした戦争、盧溝橋事件を初めとする支那事変は、必死の和平工作にもかかわらず、日本が泥沼に引きずり込まれていった目的のない戦争だったと言えるのではないだろうか。コミンテルンの動向を抜きにして当時の歴史はつかめないという観点から、本論では1917(大正6)年のロシア革命からの流れを見ていきたい。
また今回はあまり触れなかったが、アメリカの戦略は、中国と日本を戦わせることによって日本を疲労困憊させ、本番の日米決戦を少しでも有利に導き、彼らの言う太平洋戦争で日本を倒し、日本を大陸から追放し、日本に変わってアメリカが東アジアを支配するというものであったという。その証拠にアメリカの対支軍事援助は満州事変当時から始まり、第2次上海事変(昭和12年)頃から露骨になってきた。記録によれば、米英の軍事顧問団だけでも数百名にのぼり、戦闘に参加した米英将兵は2000人を超えた。米国飛行士が米軍機により対日空中戦に参加した事実、これを米は黙認しあえて奨励していた事実、さらに蒋介石に対し経済軍事顧問団を派遣し多額の借款を供与しそして戦争資材・兵器・弾薬などを提供した事実…このような日本に対する敵対行為について、東京裁判の検察側でさえ、これらの事実をはっきり認め、「米国が中国に対して、経済的にも軍事的にも非交戦国としてはかつて見られなかった規模において援助し、かつアメリカ市民の若者は日本の侵略に対して中国人とともに戦闘に参加した」と正直に認めている。
結局、ソ連・共産主義思想が当時シナ大陸で展開されていた激烈な民族運動を後押しし、一方アメリカの東アジア政策が蒋介石に加担して、日本は大陸に持っていた権益を守るため、この2つの勢力によって仕掛けられた戦いに対処していくうちに泥沼にひきずりこまれていったという構図が見えてくるのではないだろうか。
1917(大6)
11 ロシア革命
1918(大7)
11 第1次大戦終結
1919(大8)
3 「共産主義インターナショナル(コミンテルン)」設立(於モスクワ)
「各国共産党はコミンテルン大会の一切の決議を無条件に実行する。
各共産党員は反革命と干渉に対するソ連の闘争を支持する。」
1920(大9)
3 ニコライエフスク港事件 ソ連パルチザンにより日本守備隊・居留民700名が惨殺
1921(大10)
7 中国共産党成立(於上海)
1922(大11)
11 ソ連、日本共産党をコミンテルン日本支部として承認
1923(大12)
8 蒋介石ソ連視察団報告
(1) ソ連共産党政権の根本思想はロシア王朝時代と変わらず、専制的、恐怖的であり、一度力を得れば強烈な帝国主
義国となろう。三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定を指し、清朝打倒時のスローガン)とは相容れない。
(2) ソ連の対華政策は満蒙、新彊、チベットの諸地域をまず「ソビエト」とし、ついで中国本部を窺う可能性もある。
(3) コミンテルンは策謀多く信用できない。蒋介石は「国民党の連ソ・容共政策は一時的には西洋の植民地政策に対抗
できるが、決して国家の独立・自由を達成し得るものではない。ソ連の世界革命の策略目的は東洋の民族独立運動
にとってむしろ西洋の植民地政策よりもいっそう危険なものである」と考えたが、孫文は連ソ・容共を変えず、国
民党が容共を決定すると共産党員のほぼすべてが国民党に混入してきた。
1924(大13)
1 国民党第1回全国代表大会(第1次国共合作 於広東)
①国民党改組(ソ連共産党型政党へ)
②連ソ・容共(ソ連共産党と協力して、中国共産党を受け入れる)
③黄埔軍官学校設立(軍閥に頼らず、独自の革命軍を育成)
ソ連の財政的支援、ボロディンの指導、校長蒋介石、政治部副主任周恩来
④大会宣言 三民主義
⑤革命外交
「一切の不平等条約、例えば外国人租借地、領事裁判権、外国人関税管理権及び外国人が中国領土内において政治
的権力を行使して中国の主権を侵略するようなことは、皆これを取り消し相互に主権を尊重する条約を新ためて締
結する」
第一期 関税自主権回復
第二期 治外法権撤廃
第三期 租界回収
第四期 租借地返還(含む旅順・大連)
第五期 鉄道利権など回収(含む満鉄)
1925(大14)
7 広東国民政府樹立(要職はボロディンの指導により左派が多数を占める)
日本、ソ連と国交を樹立
1926(大15~昭和元)
3 蒋介石、クーデターにより国民党内共産党員を罷免、ロシア顧問団を強制帰国
7 北伐開始(各地に割拠する軍閥政府を打倒して、国内統一を目指す)
11 国民党第2回全国代表大会(共産党が主導)
1927(昭2)
2 北伐軍内の左派、国民党政府を武漢へ移す 首席汪兆銘(事実上共産党政府)
3 第1次南京事件
日本居留民を含む外国人を殺害・略奪。国民革命軍内の共産党員による陰謀。
4 南京国民政府樹立(蒋介石が国民党左派に対してクーデターを敢行 国共合作瓦解)
5 第1次山東出兵(居留民保護)
国民革命軍が北軍に大敗したため、北伐中断。日本も派遣部隊を撤退。
6 東方会議
幣原喜重郎の方策(=共同の政府成立の機運が起こる場合はこれを歓迎し、統一政府としての発達を助成する)を踏
襲したもの。
しかし「共産分子によるわが在支権益や居留民の生命財産の侵害には断固自衛措置をとること、動乱が満蒙に波及して
わが特殊地位権益が脅かされたときには機を逸せずこれを防御すること」を表明。
7 武漢政府、共産党と絶縁(ボロディン追放 国共合作崩壊)
9 武漢政府が南京政府と合体して国民党政権統一
12 国民党、ソ連と国交断絶
1928(昭3)
5/3 済南事件(北伐軍と日本軍との衝突。蒋介石による治安維持の約束があったにもかかわらず、日本人居留民14名
を惨殺、30余名を暴行侮辱)
6/4 張作霖爆殺事件
1928(昭和3年)6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺
された事件。別名「奉天事件」。しかし最近では張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説により、張作霖爆殺事件は、通説
の日本人軍人であった河本大作による策謀ではなく、ソ連赤軍特務機関による犯行であると唱えられ出している(ロシ
ア人歴史作家ドミトリー・プロホロフが主張)。
6/9 北伐完了(於北京)
11 中国共産党満州中央委員会発足。満州民衆に排日を呼びかけ、鉄道利権抗争推進、土地譲渡反対、旅順・大連回収、対日
経済断交を叫ぶ
12 張学良、国民政府に同調(満洲易幟)
満州の反日事件は、暗殺・襲撃といった形で続発し、公然と直接行動・非合法活動も行われるようになったが、東三省
当局はこのような暴動を有効に取り締まることはできなかった。一方北伐完成による南北統一後も中国本土には内紛が
絶えず、1929~30年にかけて中国は再び内戦状態に陥った。民族意識が極めて強烈で、世論は「主権回復」を要
求し、特に満州の排日は中央政府の統制が全く不可能なまでに激化していった。
1931(昭6)
9/18 満州事変
●教科書の記述
自由社 「関東軍が、奉天郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側の仕業だとして、満鉄沿線都市を
占領した。政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍は、全満州の主要部を占領し、政府もこれを
追認した。満州で日本人が受けていた不法な被害を解決できない政府の外交方針に不満をつのらせていた
国民の中には、関東軍の行動を支持するものが多く、陸軍には多額の支援金が寄せられた。」
育鵬社 「1931(昭和6)年9月、満州を軍事占領して問題を解決しようとした関東軍は、奉天郊外の柳条湖で
満鉄線路を爆破し、これを中国の仕業として軍事行動を起こしました(満州事変)。日本政府は不拡大方
針を発表し関東軍の動きをおさえようとしました。しかし、関東軍は満州全土を占領し、翌年には満州国
を建国し、清朝最後の皇帝であった溥儀がその元首の座に就きました。新聞や世論はこの動きを熱狂的に
支持し、政府の外交を弱腰だと批判しました。」
東京書籍 「満州を中国から分離することを主張していた現地の日本の軍部(関東軍)は、1931年9月18日、奉
天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました(満州事変)。満州の主要部
を占領した関東軍は1932年3月、清の最後の皇帝溥儀を元首とする満州国の建国を宣言し、実質的に
支配しました。」
日本は、日露戦争後のポーツマス講和条約(1905)により
ア.遼東半島南部(後の関東州)の租借権獲得
イ.南満州鉄道(満鉄)権益獲得
ウ.南樺太領有権獲得
昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいて、その保護と関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸
軍部隊(関東軍)が駐屯していた。
●満州事変の背景
① 満鉄包囲鉄道網の完成(条約違反)による満鉄経営悪化
日清満州善後条約(1905年調印):満鉄併行線の禁止権つまり満鉄線付近に、これに併行する幹線または支線を清国政府に
敷設させない権利
② 商租権の侵害
③ 排日教育の激化
●リットン調査団報告書の要点
「日本が満州に有する権益は、その歴史的経緯からも、日本の経済発展にとって重要なものとして尊重されなければならない。
治安の悪化と、たびたび繰り返される日本製品の排斥は、それが中国国民の国民感情に支持されているものだとしても、不法行
為を含み、国民党によって組織的に命令されており、日本の経済的利益に対して重大な被害を与えている。しかし、満州国の建
国は、これらの解決にはならない。必要なのは、満州における中国の主権を承認し、法と秩序を維持できる政権の樹立である。」
日本政府も参謀本部も満州独立運動に声援を与えたことはなく、それどころか幣原外相及び南陸相は9月26日付けで「日本人
の満州における新政権樹立運動に関与することを厳禁する訓令」を発したほどであった。しかし事変勃発直後の9月24日袁金
凱(エンキンガイ)は遼寧省に、9月26日煕治(キイハ)は吉林省に、9月27日張景恵(チョウケイケイ)は東省特別区に
、9月29日湯玉麟(トウギョクリン)は熱河省に、さらに10月1日張海鵬(チョウカイホウ)は挑南に、それぞれ独立を宣
言した(張作霖、張学良父子は満州人の怨嗟の的になっていた)。また遼寧省治安維持会は11月7日、張学良の旧東北政権及
び南京の国民政府と絶縁して遼寧省政府の政権を代行することとし、同時に遼寧省を奉天省と改称した。
●重光葵
「満州問題は日本人の生活上、日に日に重要性を加えていった。日本人の勤勉は生きんがためであって、生活水準を引き上げる
ためであった。世界は欧州各国を中心として閉鎖経済に逆転してしまった。国際連盟の唱える経済自由の原則などは全く忘れら
れていた。…対支貿易は支那の排日運動のため重大なる打撃を受け、日本の権益は支那本土においてのみならず満州においても
張学良の手によって甚だしく迫害される運命におかれた。…幣原外交は外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは疑う余
地はなかったが、その弱点は満州問題のごとき日本の死活問題について国民の納得する解決案を持たぬことであった。政府が国
家の危機を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力とに欠けていたことは悲劇の序幕であり、日本自由主
義破綻の一大原因であった。」
●近衛文麿
「満州事変の有無にかかわらず、日本の周辺には列国の経済ブロックによる経済封鎖の態勢がすでに動きつつあったのである。
英中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロックなどで、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖の状態にならんとしていた。・
・・かく列国の経済ブロックの暗雲が次第に日本の周辺をおおわんとしているときにおこったのが満州事変である。たとえ満州
事変があのときあの形で起こらなくても遅かれ早かれこの暗雲を払いのけて日本の運命の道を切り拓くとする何らかの企ては、
必ず試みられたに違いない。」
いずれも列強の閉鎖的なブロック経済を満州事変の原因と見ている。第1次大戦後、国際協調主義が高唱される中で、それとは
裏腹に列強は排他的なブロック経済で自らの門戸を「持たざる国」に対して閉じつつあった。日本に対して「支那の門戸開放」
をあれほど執拗に求めた米国自身が、日本に対しては米大陸の門戸を閉鎖したのである。
「持たざる国」日本はこのような国際的圧迫の下でその矛盾した国際的枠組みを打破して生存の道を求めるほかなかった。満州
事変はかかる国際環境の中でおきた事件であった。国民党の仕掛けるテロから権益と居留民を守るため止むを得なかったという
事情を米・英の新聞記者・陸軍元帥・公使も認めていた。
●ジョン・マクマリー(駐米米国公使)
「人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を嘲笑し目的実現のためには向う見ずに暴力に訴え、挑発的なやり
方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうになるとおどおどするが、敵対者が何か弱みの兆しを見せると、たち
まち威張り散らす。…中国に好意をもつ外交官たちは、中国が外国に対する敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ、1,2
の国が我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをするだろうと説き聞かせていた。」(自由社の記述より)
●幣原喜重郎
「日本は不平等条約の辛酸をなめ、その撤廃をはかるに当たっては、列国を責めるよりもまずおのれを責めた。打倒帝国主義な
どと叫ばずして、まず静かに国内政治の革新に全力を挙げた。帝国主義時代において、我々の先輩の苦労は容易ならざるものが
あったが、国内の近代化が達成されると、列国は快く対等条約に同意した。日本は外国人が治外法権を享有した時代でも、列国
の帝国主義を呪うことなく国を進歩させた。…我々は必ずしも日本の先例の通りにしろと言うわけではないが、シナが早く平等
の地位を占めることを望むが故に、同国官民の自重を求めざるを得ない。」(自由社の記述より)
結局石原莞爾は満州権益と在留邦人の命を守るため満州を支那から切り離すしかないと 判断し、満州事変を起こし満州国を建
国した。しかし軍部内では、軍は政府に従わなくていいという風潮が決定的となる。しかも現場が本国の参謀本部まで無視して
行動したため、軍の内部でも「下克上」の悪習が広がった。国会も満場一致で満州国を承認、政党政治に代わって軍部への期待
が圧倒的に強まった。一方5.15事件、2.26事件により、政治家は常に軍のテロを警戒しなければならなくなり政党政治は
全く無効になった。
1932(昭7)
1 第1次上海事変勃発
3 満州国設立(地図のピンク色の部分)執政溥儀
4 中国共産党、日本に宣戦布告
5 第1次上海事変停戦協定締結
5.15事件 海軍青年将校による犬養毅首相暗殺、政党内閣時代の終焉
1933(昭8)
5 塘沽停戦協定成立(満州事変、一応終結)
(1) 中国軍は速やかに延慶、昇平、順義、通州、香河、宝抵、寧河、盧台を通る線以西及び以南の地区に撤退し、
以後同線を越えて前進しない。また一切の挑戦撹乱行為を行わない。
(2) 日本軍は第1項の実行を確認するため、随時飛行機やその他の方法で視察する。中国側はこれを保護し、諸般
の便宜を与えるものとする。
(3) 日本軍は第1項の規定を中国側が遵守することを確認した場合は、前期の中国軍の撤退線を越えて追撃を続行
せずに自主的に概ね長城の線に帰還する。
(4) 長城線と第1項の協定線の間の地域内の治安維持には中国側警察機関が当たるが、この警察機関として、日本
側の感情を刺激するような武力団体は用いないこと。(非武装地帯設置)
1934(昭9)
3 満州帝国設立(清朝最後の皇帝溥儀が満州国皇帝に即位)
1935(昭10)
1 広田外相、日華友好声明「自分の在任中に戦争は断じてない」
2 蒋介石・汪兆銘、広田声明を歓迎し日華親善方針を声明
排日取締りの具体化
ア 新聞通信社に排日言論掲載禁止
イ 排日・排日貨(=日本製品ボイコット)停止案可決
ウ 排日世論を指導してきた宣伝部長を罷免
エ 政府の検定なき教科書の使用禁止命令
日本・中国・英国は互いに公使館を大使館に昇格させた。しかし反日満運動は相変わらずで、国民政府の排日取り締ま
りも効果なく、ことに華北では激烈だった。河北省首席・于学忠、国民党関係者、中央直系軍、藍衣社(テロ組織)な
どがその中心となり、昭和10年1月~5月の間に華北で発生した反日満事件は50数件に上る。1例を挙げると、天
津の中国新聞「国権報」「振報」の2人の親日満社長暗殺事件が発生し、支那駐屯軍の調査の結果、藍衣社中央総裁執
行部が指揮し、北平軍事委員会分会、藍衣社、国民党が関与していたことが判明した。日本政府は「支那官憲の主導に
よる対日テロは塘沽停戦協定違反である」ことを国民政府側に警告した。
6/10
◎「梅津・何応欽協定」(非武装地帯が河北省全域に拡大)
ア 国民党部の河北省撤退
イ 中央軍の河北省撤退
ウ 全国に排日禁止を発令
さらに中央軍第29軍長宋哲元による挑発的行為についての交渉の結果、中国側が自発的に宋哲元を免じ、民政庁長
秦徳純を首席代理とした。
6/27
◎「土肥原・秦徳純協定」
ア チャハル省内の排日機関の撤去
イ 宋哲元軍のチャハル省からの撤退
8 第7回コミンテルン大会
「人民戦線」戦術路線への大転換
ファシズム反対、帝国主義戦争反対を表面のスローガンとしたが、実際には革命闘争の幅を広め内容を深めた。これま
で一般の社会民主主義団体は共産主義の敵として排撃闘争してきたが、これからはこれらの諸勢力もできるだけ利用し
ていくこと、そして各国それぞれの国情に適した戦略戦術を採用すること、それまで共産主義者の堕落として極端に排
撃してきた合法場面の活用を巧妙に考えることなどである。例えば、中国では、共産党は蒋介石政権と合作提携して抗
日人民戦線を確立し、中国全民衆を抗日戦線に統一動員すること、日本では従来の小児病的な戦争反対論を引っ込め、
むしろ満州事変以来極端に増長してきた日本軍部を巧妙にあやつって無謀な戦争にかりたて、軍閥政権を自己崩壊せし
める方向に誘導すること、また官憲の最も神経をとがらせる天皇制打倒のスローガンなどはしばらく表面に出さず、で
きるだけ合法的に食い込んで、資本主義支配体制を内部から切り崩していくことであった。(ファシズム=1党独裁に
よる国家主義的・全体主義的な政治理念およびその政治体制。自由主義・共産主義に反対し、対外的には勢力圏拡大の
ための侵略政策をとる)
コミュニスト(=共産主義者)の道徳的規準は、世界共産主義革命を完成し、プロレタリア独裁政権を通じて共産主義
社会を実現せしめる以外にない。従ってこの目的達成のためには、権力者を騙すことも、友人を裏切ることも、白を黒
と言い曲げることも躊躇してはならない・・・共産主義者としての立場を守るために必要な場合は、妻でも、親でも、
上官でも、親友でも、恩師でも裏切って平気でいられるだけの鉄の意志が必要だ。このことは共産主義者の最も大切な
行動の規準である。
9 中国側3原則(中国側からの度重なる挑発行為についての日本側からの抗議申し込みに対する、中国側からの提案)
ア 両国は相手の完全な独立を尊重すること
イ 両国は真正の友誼を維持すること
ウ 両国の一切の事件は平和的外交手段により解決すること
10 広田3原則(日本側からの逆提案)
ア 排日取り締まりと欧米依存からの脱却
イ 満州国黙認と反満政策の中止
ウ 共同防共
辛亥革命以後、支那本部では諸軍閥が抗争に明け暮れ、やがてソ連の力を背景に共産勢力が浸透するや争乱と国土荒廃は果て
しなき有様となったが、山海関より北方満州の地には支那内乱の惨禍は及ばず、平和な別天地として発展していった。これは
わずか1万の関東軍がよく満州の治安を維持したことと、それが支那本部の争乱を嫌い「保境安民」を求める満州民族の願い
とよく合致したためである。支那の戦乱を逃れんとする多くの漢民族が満州に移住し、その数は毎年100万と言われた。
一方塘沽停戦協定以来、華北の民心は、南京政府10年にわたる華北に対する搾取政策のため必ずしも南京国民政府の治下に
あることを好まず、機会あれば華北自治を望む機運が強く、特に非武装地区の農民にそれが著しかった。関東軍と支那駐屯軍
は、かねてから華北5省(河北、山東、山西、綏遠、チャハル)の自治運動を支援して、ここに第2の満州国を作ろうという
考えを持っていた(地図上の太線内の部分)。この考えと華北住民の動向との相乗効果が自治運動を拡大強化させていた。現
地日本軍は、軍閥の長たちが自治に進もうとしているのを見て、まず塘沽停戦協定で定めた非武装地帯だけの自治を行わせる
こととした。昭和10年11月25日、殷汝耕は第29軍長宋哲元の了解を受けて、「冀東防共自治委員会」(後に「冀東防
共自治政府」と改称)を設置した。(地図上の黒い部分で、「冀」は河北省をさす)他方北平や天津では、自治反対と自治要
請の2つの主張が存在した。事態の急迫を感じた国民政府は、その威令下にある華北政権を樹立しようとした。そこで12月
18日、宋哲元を委員長とする「冀察政務委員会」を発足させ、河北・チャハル2省と北平・天津2市の政務を処理すること
になった(地図上の斜線の部分)。かくして昭和10年末には華北に2つの政府ができたが、前者は南京政府から離脱して独
立を主張し親日的であるのに対し、後者は委員長が日本側意中の宋哲元であるが国民政府の1機関であるという日華双方の妥
協の産物であった。こうして華北は分裂した。
1936(昭11)
2/26 2・26事件
不況と窮乏にあえぐ農村の子弟と起居を共にし、集団生活をする若き青年将校に、深刻陰惨なる社会現象が直接反映し
てきたのは当然である。ここからいわゆる志士「青年将校」の出現となり、この青年将校を中心とした国家改造運動が日本の
軍部をファッショ独裁政治へと押し流していく力の源泉となったのであるが、この青年将校の思想内容には2つの面があるこ
とを注意する必要がある。そのひとつは天皇の軍隊たる立場で、国体への全面的信仰から発生する共産主義への反抗であり、
いまひとつは小市民層及び貧農の生活を護る立場から出発した反資本主義的立場である。従って青年将校を中心とした一団の
ファッショ的勢力が共産主義に対抗して立ったのは共産主義の反国体的性格に反対したものであって、共産主義が資本主義打
倒を目的とするからけしからぬというのではない。すなわち、日本軍部ファッショの持つ特殊な立場は、資本主義擁護の立場
にあるのではなく、資本主義、共産主義両面の排撃をその思想内容としていたところにある。この思想傾向は最後まで共産主
義陣営から利用される重要な要素となったことを見逃してはならない。このいわゆる青年将校の反共産主義、反資本主義の思
想的背景は、北一輝、大川周明の国家改造、維新革命論に刺激されたものであるが、この北、大川を中心とする青年将校との
結合はやがてテロリズム、農本主義とも結び、少壮軍人の国家革新運動に強烈な拍車を加えたのである。
5 リャザノフスキー(コミンテルン天津代表)
「反日感情をかきたてなければならない。反日運動とボイコットを同時に行うこと。日本製品を買うものに対して南京政府
は罰則を用意しているという声明を出すことによって、日本製品の購入を阻止するよう努めること」
12 西安事件
張学良による蒋介石監禁。内戦を停止して抗日に立ち上がるよう要求。国民党の態勢、抗日一辺倒となる(第2次国共
合作)
1937(昭12)
7/7 盧溝橋事件
7月7日夜10:40に最初の不法発砲を受けてから7時間、現地部隊は一発も応射せず、隠忍自重に努め、7時間後の7
月8日午前5:30に3回目(数え方によっては4回目)の射撃を受けて初めて応戦した。現地部隊が鉄帽を用意していな
かったことや演習用の空砲の他に実包は各兵30発(戦闘の際は120発)しか携帯していなかったことなどの事実を見て
も、現地部隊に戦争企図は皆無であったことが立証できよう。政府も陸軍中央も事件発生から3週間にわたって不拡大方針
を堅持したが、蒋介石は7月9日に発令し、11日には大部隊が南京から北上を開始している。7月13・14日の両夜中
国側から夜間射撃があり、17・18日の両夜もさらに激しい射撃が加えられた。また13日には盧溝橋以外のところで、
日本兵4名が爆殺され、14日には騎兵隊の兵1名が射殺された。19日には蒋介石の徹底抗戦の声明が発表され、よく2
0日には盧溝橋において大規模な一斉射撃があり、停戦協定(7月11日締結)は完全に踏みにじられた。その間日本政府
は、内地3個師団の派兵を2回下令しながら、そのつど現地からの情報を信じて2回とも派兵を中止したほど慎重であった
こと、国民政府側も現地解決を望み停戦協定を結んだが、中国側の度重なる背信行為、ことに25日の廊坊事件や26日の
広安門事件発生で、不拡大の中心であった石原莞爾作戦部長も遂に不拡大方針を変えざるを得なかったことなどの経緯は、
現地部隊のみならず陸軍中央もまた紛争の拡大を望んではいなかった事実を物語っている。7月28日未明、天津軍はつい
に決起し、29軍に開戦を通告、攻撃を開始し、29日には北京・天津地方から29軍を追い落とした。
一方、7月7日の事件発生直後の深夜、日本軍特殊情報班が北京大学内の中共秘密無電室より延安の中共軍司令部に緊急発
信された電信を傍受した。『205205010055』(=成功了。うまくいった)というもので、3回反復送信された
という。盧溝橋で日中両軍を衝突させるのに成功したとの報告電信に相違あるまい。事件と中国共産党との深いかかわりを
示唆する内容である。さらに『7月7日夜10時、日本は盧溝橋で中国軍に攻撃を開始した。・・・南京中央政府は29軍
を援助せよ、全陸海空軍、全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本軍に立ち向かうべし』(銚子の海軍無電局で傍受)と全
国に打電した。事件拡大の背後に中国共産党北方局主任・劉少奇の指導のあったことは今や定説といえよう。さらにモスク
ワのコミンテルン本部も直ちに指令を発した。
(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。
(2)右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決(例えば北支を分離せしめることによって戦争を
回避するなど)や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切ろうとする要人は抹殺してよい。
(3)下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきにたち至らしめねばな
らない。
(4)党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならない。日本を援助せんとする第3国に対しては、ボイコット
を以て威嚇する必要がある。
(5)紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならない。
(6)党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士ならびに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。
(興亜院政務部「コミンテルン並びにソ連邦の対支政策に関する基本資料」昭和14年10月発行)
盧溝橋事件は、コミンテルンと中国共産党の周到な謀議のもとで勃発させたものであった。国民党と日本とを戦わせ泥沼に
追い込むことがコミンテルンの企図であり、中国共産党が生きる道であった。だからソ連も中国共産党も和平工作の成立を
最も恐れ、あらゆる妨害を行った。ソ連の戦略は、中国軍の中の共産軍は温存し、蒋介石国民党と日本軍を戦わせ、両者を
疲労困憊させ共倒れに追い込み、共産軍が最後の勝ちを制し、東アジアを赤化、これをソ連が支配するというものであった。
ソ連の対中援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約(昭12 8/21締結)によって、直ちに飛行機400~5
00機と同数の操縦士及び教官を送りソ連士官が中国軍に配備された。1938年(昭13)から1940年(昭15)ま
での間、ソ連は3億ドルの借款を与えて、戦車・飛行機その他の軍需品を中国に送った。
レーニンは「共産主義者が戦争に反対する場合は、帝国主義国家(=資本主義国家)が世界革命の支柱たるソ連邦を攻撃す
る場合と、資本主義国家が植民地民族の独立戦争を武力で弾圧する場合の2つだけで、帝国主義国家と帝国主義国家が相互
に噛み合いの戦争をする場合は反対すべきではない。否、この戦争をして資本主義国家とその軍隊の自己崩壊に導け」と教
えている・・・日華事変は日本帝国主義と蒋介石軍閥政権の噛み合い戦争であり、大東亜戦争は日本帝国主義とアメリカ帝
国主義及びイギリス帝国主義の噛み合い戦争と見ることがレーニン主義の立場であり、共産主義者の認識である。従って日
華事変及び大東亜戦争に反対することは非レーニン主義的で、共産主義者の取るべき態度ではないということになる。事実、
日本の忠実なるマルクス・レーニン主義者は、日華事変にも大東亜戦争にも反対していない。のみならず、実に巧妙にこ両
戦争を推進して、レーニンの教えの通り日本政府及び軍部をして敗戦自滅へのコースを驀進せしめたのである。
尾崎は「我々は支那事変の初期においては、この事変の持つ重大性を予知して、両国のために速やかなる解決と和平の手段
を発見すべきことをひそかに望んだのであるが、その後事変が現在のごとき決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、も
はや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外にはないのである。全
精力的な支那との闘争これ以外に血路は断じてないのである。同じく東洋民族の立場から、また人道的な立場から支那との
提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもしれない。しかしながら現在の瞬間においてこれを考え、これを説くことは意
味をなさないのである。敵対勢力として立ち向かうものが存在する限り、これを完全に打倒して後、初めてかかる方式を考
えるべきであろう」と述べている。
(尾崎秀美著作集より)
●日中教科書の記述
自由社「日本は義和団事件のあと、ほかの列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5000人の軍隊を駐屯さ
せていた。1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件が
おき、翌日には中国軍と戦闘状態になった(盧溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決がはかられたが、日本は大規
模な派兵を決定し、中国側も動員令を発した。その後も戦闘は絶えず、翌月には、外国の権益が集中し各国の租界がある上海
で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、中国軍が日本人居留区を包囲した。日本は日本人保護のため派兵した。こ
うして日中戦争(日本は当時「支那事変」とよんだ)が始まり、拡大した。日本軍は国民政府の首都南京を落とせば蒋介石は
降伏すると考え、12月、南京を占領した。しかし、蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、抗戦を続けた。
※南京占領の際に、日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。
育鵬社「日本は義和団事件のあと、条約により北京周辺に5000人の軍を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月
、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍は何者かに銃撃を加えられ、中国側と撃ち合いとなりました(盧溝橋事件)。これに対し
て日本政府は不拡大方針をとる一方で、兵力の増強を決定しました。その後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず、8
月には日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大しました。ここにいたって日本政府は不拡大方針を撤回し、日本と
中国は全面戦争に突入していきました(日中戦争)。日本軍は12月に首都南京を占領しましたが、蒋介石は奥地の重慶に
首都を移し、徹底抗戦を続けたため、長期戦に突入しました。
※日本政府はこの戦争を「支那事変」とよんだ。
※このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さ
まざまな見解があり今日でも論争が続いている。
東京書籍「満州を支配下に置いた日本は、さらに中国北部に侵入しました。1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝
橋付近で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)をきっかけに、日中戦争が始まりました。中国では、1927年
の国民政府の樹立以来、国民党と共産党の内戦が続いていましたが、日本の中国北部への侵入に対する抗日運動が盛り上
がる中、毛沢東を指導者とする共産党は、協力して日本に対抗しようと呼びかけ、国民党もこれに応じて、1937年9
月に協力体制が実現し、抗日民族統一戦線が結成されました。戦火は中国北部から中部に拡大し、日本軍は、同年末に首
都の南京を占領しました。その過程で、女性や子供など一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました(南京事
件)。しかし蒋介石は、政府を漢口、次いで重慶に移して、日本軍への抵抗を続けました。中国の民衆の抗日意識は一層
高まり、日中戦争は全面戦争に発展し、長期化していきました。」
人民教育出版社「1937年7月7日、日本軍は盧溝橋付近で軍事演習を行った。日本軍は兵士1人が失踪したことを口実に苑平
県に入って捜索させるよう理不尽な要求をしたが中国の守備軍はこれを拒絶。戦争を挑発したい下心がある日本軍は、盧
溝橋の中国守備軍を攻撃し、さらには苑平県をも砲撃する暴挙に出た。忍耐の限界を超えた中国守備軍は奮起して抵抗し
、全国的な抗日戦争がここから始まった。」
「1937年7月7日の夜、日本軍は1兵士の行方不明を口実に苑平城内の捜索を要求し、中国側守備隊の拒絶に遭った。
ただちに日本軍は苑平城と盧溝橋を攻撃した」
「シナ大陸の真相」(昭和13年 K.K.カワカミ著)
「中国の学生・兵士合わせて毎年数百名の共産主義者たちが祖国へ送り返されそこで彼らはコミンテルンとその現地工作員の指示
のもとに働くのである。中国の広大な地域が次々に共産化していったとしても何の不思議があろうか。アジア経由で共産革命をヨ
ーロッパへ導入するというレーニンの夢は実現するかもしれない。日本は中国の目の前の隣国として他の資本主義諸国よりもはる
かに鋭くその危険を察知している。コミンテルンが中国人の間で宣伝工作活動を推し進める目的のために反日運動に共産主義の要
素を付け加えたとき、この日本の恐怖感はさらに一段と大きなものになった。」
「中国の反日運動は、満州を分離したことから生じたのではなく、それ以前の日本の政策が全く融和的であった10年以上も
の間にすでに進行していた現象であった。…幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、日本に対する敵意を幼児や若者の
心に注入するために利用された。これは国民党が蒋介石の指導の下に、1927(昭2)年に南京に政府を樹立したとき、特に
顕著になった。
ア. 国家の屈辱に関する豊富な資料を、小学校及び中学校の教科書に載せること。
イ. 国家的屈辱に関する事実を宣伝し、どの国が中国の最大の敵であるかを国民に印象づけるために、あらゆる機会を用いて学校を
利用すること。
ウ. 国家の屈辱を描いている地図と絵を用いること。そしてあらゆる機会を利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。
エ. 中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒がともに学ぶこと。
「南京国民教育会議採択」
7/29 通州事件
北京の西の通州において200人に及ぶ日本居留民が虐殺された。当時通州には、日本軍守備隊と特務機関が在留邦人の保護に当
たっていたが、事件当日は少数の憲兵と通信兵がいるにすぎず、その留守を狙って日本人虐殺が決行された。日本国内では暴支膺
懲の声があがり、日本の世論は激昂した。それまで事変不拡大のために懸命に努めていた日本軍も、ことここに至れば立ち上がら
ざるを得なかった。それほどまでに目を覆う言語に絶した惨状であった。
8/1 船津和平工作
外務省の船津辰一郎(在華紡績同業会理事長、元上海総領事)を通して南京政府に接触し、平和交渉の糸口を開こうとした。
首相・外務・陸軍・海軍各大臣の了承も得た。
日支和平提案
(1) 塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定その他、華北に存する従来の軍事協定一切を解消する
(2) 特定範囲の非武装地帯を設ける
(3) 冀東・冀察両政府を解消する
(4) 日本駐屯軍の兵力を事変前に戻す
国交調整案
(1)支那は満州国を承認あるいは黙認すること
(2)日支防共協定を締結する
(3)排日抗日の取締りを徹底させる
(4)上海停戦協定を解消する
(5)日本機の自由飛行を廃止する
(6)冀東特殊貿易を廃止し、非武装地帯海面での支那側密輸取締りの自由を回復する
さらに、和平成立後は経済援助と治外法権撤廃をも考慮する、という条件を付加する。要するに満州事変以後、わが国が獲得し
た前述の権益のほとんど一切を放棄しようとする寛大極まる申し出であった。日支が交戦中で、しかも北京・天津地方をわが軍
が占領した直後の和平条件としては、まことに思い切った譲歩であった。これらは従来中国側が日支国交改善の条件として求め
ていたほぼ一切の事項を応諾したもので、しかも軍部の賛同をも得ていたわけであるから、この案によるならば日支和平は正に
目前であったといっても過言ではない。ところが8月9日、上海で大山海軍中尉と斉藤海軍一等水兵が視察中、支那保安隊によ
って虐殺されるという事件がおきた。またこの夜から支那軍は正規兵12000名が保安隊に偽装し、上海停戦協定(昭和7年
)を無視して協定線内に侵入、陣地構築を開始し、13日午前にはわが陸戦隊警備兵に突如機関銃を浴びせ、午後にも射撃して
きた(第2次上海事変、船津和平工作頓挫)。日本軍は不拡大方針に基づき隠忍自重、応射しなかったが、午後5時上海陸戦隊
は全軍を戦闘配備につかせた。14日、停泊中の日本海軍「出雲」、陸戦隊本部、総領事館が爆撃された。爆撃は夕刻まで反復
して行われた。日本海軍は14日夕、台湾より報復爆撃をし、翌15日には南京その他の軍事施設に対し渡洋爆撃を敢行、日支
は本格的全面戦争に突入した。
戦闘が勃発した8月13日からほぼ終結した11月8日までの3ヶ月間において、日本軍の損害は戦死傷者合わせて40000
名以上であった。実は満州事変後、蒋介石はドイツ軍事顧問団(ファルケンハウゼン団長)を招聘し、軍の近代化を図っていた。 支那中央軍は30万といわれ、その精鋭中の精鋭といわれる軍団が上海戦に投入された。戦闘は激烈を極めたが、柳川平助中将
率いる第10軍が11月5日払暁、杭州湾に上陸、上海戦線の背後をついたので上海戦線は漸く崩壊し、11月11日頃から支
那軍は総退却に転じ、崩壊した。
上海での戦闘が拡大し、以後全面戦争の様相を呈するに至って、日中間の直接交渉の道をつけるのは難しくなる。そこで和平
のための運動は第3国の仲介に期待を寄せることになった。昭和12年10月27日、広田外相は英米仏独伊に対して、日支交
渉のための第3国の好意的仲介を受諾する用意のあることを伝えた。最初に仲介に動いたのは英国であった。駐日大使クレーギ
ーはすでに9月に日本側の和平条件(船津工作のときとほぼ同じ)を聞き出し、英国政府をとおして日本側条件を蒋介石に伝え
たが、蒋介石はこれを拒否した。ついで和平仲介に動いたのがドイツであった。日本が支那で戦力を消耗することは、それだけ
ソ連軍に余裕を与え、ドイツに不利となる。順調であったドイツと支那との貿易も大打撃を受けている。この2点から日支の戦
いはやめさせなくてはならぬとドイツは考えた。
11/2 トラウトマン(支那駐在ドイツ大使)和平工作
日本側からの条件
①内蒙古自治政権の樹立
②北支非武装地帯の設定
③上海非武装地帯の設定
④抗日政策の停止
⑤防共
⑥関税の引き下げ
⑦外国人の権利の尊重
駐日ドイツ大使ディルクセンは「極めて穏当なもので、南京は面子を失うことなく受諾できるのだから、この条件を受諾するよう
南京政府に圧力を行使することが賢明」であると本国に報告した。蒋介石は初めこれも拒否した。というのは上海事変が起きた直
後、中国はこれを国際連盟に提訴し、対日制裁の結論を期待していたからである。しかし対日制裁の結論は出なかった。ちなみに
日本は国際連盟会議最終日の11月15日、広田がグルー米国大使に「これ以上深く支那軍を追撃する必要はなく、この時期に平
和解決を図るのは、支那自身のためになることで、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かであること」などを述べ、現在なら
日本の和平条件は穏当なものであるから、米国が蒋介石に対し和平交渉に応ずるよう説得してほしいと希望した。このときは南京
攻略要領もまだ出されていない。南京陥落もしていなかったこの時期なら、国民政府も面子を失うことなく和平交渉ができたであ
ろう。だが米国はこの仲介の依頼を断った。12s月2日、蒋介石は日本軍が南京を窺う体制になった様子を見て態度を変え、日
本の提案を受け入れるとトラウトマンに返事をした。この返事は12月7日に日本側に伝わったが、日本軍はこの時点ではすでに
南京攻略の準備を整えていたので、広田は状況が変化した現在では前と同じ条件での提案は不可能だとした。さらに12月13日
南京が陥落し、14日には華北に親日的な「中華民国臨時政府」が成立するなど、華北・華中の情勢が日本に有利に展開したので
、日本は新たなる和平条件をトラウトマン経由で中国側に伝えた。この条件の中には「日本に対する賠償」など、船津案にはなか
った条項が含まれていた。
① 支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。
② 所要地域に非武装地帯を設け、特殊の機関を設ける。
③ 日満支3国の経済協力を密にする。
④ 支那は日本に賠償をなす。
さらに9項目が追加された。
1満州国の正式承認
2賠償金の要求
3北支に広汎な自治権を有する政権設置
4内蒙自治
5中支占拠地域に非武装地帯設定
6大上海市区域を日支協力して治安維持(以下略)
蒋介石は「抗戦以外に生存の道はない」とこれを拒否してソ連の援助を求める決心を固めた。一方参謀本部は、盧溝橋事件の当初
から現地解決・不拡大に努め、支那と戦うことはソ連を利し、百害あって一利ない、一刻も早く和を結ぶべきである、そのために
は満州事変以来北支において得た諸協定を放棄してもよいという思い切った決断を下した。しかし12月24日、政府側はもし上
述した4か条9項目が拒否された場合は「必ずしも南京政府との交渉成立を期待せず、これと別個の収拾を計り・・・」を閣議決
定した。「別個」とは蒋介石以外となり、12月14日に北京において成立した「中華民国臨時政府」をもり立てる方針であった。 参謀本部は、これでは和平は来ない、この閣議決定を白紙に戻すには御前会議を開催し、天皇陛下より事変の早期終結の御発言を
賜る以外にないとした。
昭和13年1月11日、近衛内閣からの開催の必要なしとする声を参謀本部は強引に押し切って御前会議が開催された。事変の早
期解決を求める参謀本部としては、日支は戦ってはならない、日本と支那とは手を結びソ連に対せねばならないというのが基本戦
略で、そのためには日本の国力を無視した長期戦には絶対反対であり、新政権の育成などという回り道はせず、諸外国が認めてい
る蒋介石政府と講和を結び、平和を回復すべきであると判定していた。しかし結局参謀本部の意図は通らず、政府の原案が御前会
議で確定した。
蒋介石側の返事は1月14日に到着した。内容は「中国政府は慎重な検討と明確な決定を行うために、新たに提議された条件の性
質と内容を確定されることを望む」とあった。政府側は、これは受諾する意志はなく引き伸ばし戦術であると断じた。一方参謀本
部は、相手は交渉条件の細目の提示を求めているのであって、交渉を拒否してきたのではない、細目条件を文書で正式に提示して
交渉に入るべきであるとした。双方が1月15日大本営政府連絡会議に臨んだ。交渉打ち切りか交渉継続かで対立した。
○近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り、わが態度を明らかにすべきである」
○広田外相「外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭である。
参謀次長は外務大臣を信用しないのか」
○杉山陸相「期限までに返電のないのは(1月6日が期限であった)和平に誠意のない証拠である。
蒋介石を相手にせず、彼が屈服するまで戦うべきである」
○米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任ということになる。内閣総 辞職のほかない。
参謀本部がやめるか、内閣がやめるかどちらかだ」
結局政府と統帥部の対立が表面に出ることはまずいということになり、連絡会議は蒋介石政府との交渉打ち切りを決議した。
近衛首相は1月16日「帝国政府ハ今後国民政府ヲ対手トセズ」という史上悪名高い声明を発表、「新興支那政権(中華民国臨
時政府)の成立発展を期待する」という方針を出し、蒋介石政権を見限って、中華民国臨時政府を育成する道を選んだ。かくし
て日支両国は全く解決の見通しのない交戦状態となった。ただ宣戦布告を敢えて行わなかったのは、宣戦布告をした場合、戦時
国際法により、日本はアメリカより石油やくず鉄などの戦略物資を輸入できなくなるからであった。しかしこのことはかえって
支那側に絶大な利益をもたらした。アメリカ、イギリス、ソ連らはいわゆる援蒋物資として、戦車・飛行機をはじめとする軍事
援助を行っても戦時国際法に触れることなく平時と同じく堂々と行われることを意味した。支那事変が泥沼化した原因はここに
もあった。
12/13 南京陥落
12/14 「中華民国臨時政府」成立(於北平) 行政院長王克敏
北支方面軍の指導による華北5省支配
1938(昭13)
1/16 近衛声明「国民政府を対手とせず」(トラウトマン工作失敗)
3/28 「中華民国維新政府」成立(於南京) 行政院長梁鴻志
中支の自治・独立を声明(江蘇・浙江省支配)
9/22 「中華民国連合政府委員会」(臨時政府+維新政府) 主席委員王克敏(於北平)
10/27 漢口陥落(蒋介石軍 重慶へ)
「都市や村落の被った物質的被害は数億ポンドに上っており、支那が復興するには長い年月がかかるだろう。だがこの物資的
被害の大部分が、支那の焦土政策の下で退却を続ける支那兵の引き起こしたものである。住民の健康は無料の診療所と病院によ
って維持されている。何十万の人々がコレラ予防接種をただで受けている。上海および揚子江流域でも数ヶ月前にコレラが猖獗
を極めたことがあった。陸海軍医療班の精力的な活躍によってこのコレラの大流行が迅速に収まったのはまさしく日本軍の面目
躍如たるものがあった。」
(元英国陸軍軍医ホーナブルック 1938(昭和13)10/31「ジャパンタイムズ」誌)
11/3 第2次近衛声明「東亜新秩序」建設
日満支3国提携で東亜に国際正義・共同防共・経済統合を実現
支那国民政府に対し、新秩序建設への参加を呼びかける
(「国民政府を対手とせず」声明修正)
12/18 汪兆銘重慶を脱出してハノイへ(日本との和平工作へ踏み切る)
重慶国民党、汪兆銘の党籍を剥奪
1939(昭14)
1/5 近衛内閣総辞職
5/6 汪兆銘、上海へ脱出。新政権樹立運動へ
1940(昭15)
3/30 「中華民国国民政府(=中華民国新中央政府)」樹立(於南京)汪兆銘主席代理
(「中華民国維新政府」は新中央政府に吸収、「中華民国臨時政府」は出先機関として華北政務委員会となる)
・ 国民政府の「南京への遷都」
・ 米国は蒋介石の重慶政府を引き続き支持
11/30 新中央政府と「日華基本条約」調印 汪兆銘主席
「日満華共同宣言」→大陸における親日和平勢力大団結
参考文献 「支那事変は日本の侵略戦争ではない」大東塾・不二歌道会前代表鈴木正男
「大東亜戦争への道」 中村 粲 (どちらも展転社)
「大東亜戦争を考える 中」 中村一男 未来文化社
「大東亜戦争とスターリンの謀略」 三田村武夫 自由社