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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 GHQ占領政策                    平成25年10月20日 作成 五月女



 「GHQ占領軍が東京入りしたとき、日本人の間に戦争贖罪意識はまったくといっていいほど存在しなかった。彼らは日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、兵士の犯し た残虐行為を知らず道徳的過失の感情はほとんどなかった。日本の敗北は単に産業と科学の劣勢と原爆のゆえであるという信念がいきわたっていた。」(GHQ月報)
 にもかかわらず、戦後の日本人が過剰な戦争贖罪意識を持つようになった背景にはGHQの立案したウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Info rmation Program 「戦争有罪周知計画」訳五月女)があった。これはA級戦犯のみならず、日本国民にも「侵略戦争」に加担した罪があることを周知徹底させ、東京裁判の 判決を日本国民に受け入れさせることを容易にする思想的地ならしを狙った情報宣伝計画だった。
 第1段階:物的武装解除……①
 第2段階:精神的武装解除…②
  ①について
   1.旧日本軍の解体
   2.大本営廃止(昭和20年9月13日)
   3.参謀本部・軍令部廃止(昭和20年10月15日)
   4.陸・海軍省廃止(昭和20年11月30日)
   5.民間人の武装解除  日本刀・軍刀、銃剣などを没収
 ②について
  1.修身、国史、地理教科書、教師用参考書回収
  2.関係する宣伝用刊行物焼却(軍国主義、超国家主義、非民主主義的図書)
  3.神道指令(昭和20年12月15日発令)
   「公文書において『大東亜戦争』『八紘一宇』なる用語乃至その他の用語にして日本語としてその意味の連想が国家神道、
    軍国主義  、過激なる国家主義と切り離し得ざる ものは、これを使用することを禁止する。而してかかる用語の即刻
    停止を命令する」
   「大東亜戦争」→×(→「太平洋戦争」)
   「八紘一宇」→×「神州」→× 
   「大東亜共栄圏」→× 
   「大東亜の盟主」→×
   「大和魂」→× 
   「敵」→×
   「四海同胞」→× 
   「万邦帰一」→× 
   「紀元暦」→×
   「合戦」→×  例:「紅白歌合戦」→ 一時「紅白音楽試合」
    次の記事は神道指令発令以前に検閲を通過したもののようで、「大東亜戦争」の用語も検閲を免れた稀有な例であるが、
   それにしてもまるで60年後の今日を予見したか のごとき書きぶりはどうだろう。遺憾ながら、その危惧は的中したと言
   わざるを得ないのである。(以下は柳田泉『我観』昭和20年12月より)
     「われらは、新聞紙上において、連合諸国その他の世論が、囂々(ゴウゴウ)として侵略者に日本の罪悪を責めつつある
   ことを、すでに毎日読んでいるのであるが、 それが次第に浮動から定着して、今日の動きが歴史となるにつれて、日本の
   大東亜戦争は侵略の戦争なりという結論が、千載の青史の上にはっきりのこることになるにちが いない。…さて、私の恐
   れるのは、そのために、日本そのものが昔から侵略主義で建設され、成長させられてきた国家であったという議論にまで拡
   大されはせぬかというこ とである。…これは全く堪らぬことである。…日本人でありながら、明治以後における日本の成
   長をただ侵略主義によったものとのみ考え込む人があるに至っては、実に何 としてもやりきれない。」
  4.「太平洋戦争史」をすべての全国紙に掲載
    「太平洋戦争史」は、1945(昭和20)年12月8日より12月17日まで10回にわたり、GHQ提供の記述とし
    てすべての全国紙に連載された宣伝記事で ある。執筆者は元戦時情報局員CIE企画課長スミス・ブラッドフォードで、
    戦時中、太平洋地域の責任者として対日放送などの心理戦争活動に従事していた。内容は満州 事変、日中事変、日本軍閥
    独裁制の発展、連合軍の対日猛攻、東條首相の没落、敗戦、無条件降伏など20章から構成され、「真実なき軍国日本の崩
    壊」を生々しく物語って いく。それまで国民に知らされていなかった太平洋戦争の真相を暴露するとし、特に日本軍の残
    虐行為を強調した。国民は完全なる歴史を知るべきだ、軍国主義者の行なっ た侵略を白日に、などという趣意により、―
    奉天事件よりミゾリー号降伏調印まで―という副題に掲げられた期間を対象として記述された、宣伝占領政策の一つであっ
    た。 一方GHQによる言論統制のため、これらの宣伝政策に対しては批判や反論、検証などは一切許されなかった。
     さらに翌年4月に、同名の単行本が高山書院から刊行され、10万部のベストセラーとなった。副題は、「~奉天事件よ
    り無條件降伏まで~」に変えられている。また訳 者の言葉として当局の厳密なる校閲を仰いだことも記されている。旧文部
    省からも、日本の子供たちにアメリカの戦争の見方を植えつける目的で学校の教材として使用する よう命ぜられた。ラジオ
    宣伝番組「眞相はかうだ」のもとにもなる。戦後の日本国民の抱く歴史認識の形成は、「太平洋戦争史」の新聞記事および
    同単行本から始まったと 言っても過言ではないだろう。以下は同書のうち、序文と本文の一部である(原文は旧仮名遣いで
    あるが、本資料は現代仮名遣いで記述した)。


中屋健弌訳 高山書院刊
             太平洋戦争史
                    (連合軍司令部民間情報教育局資料提供)
                      ―奉天事件より無条件降伏までー
訳者の言葉
 今次戦争が日本にとって全く無意味な戦争であったことは、既に我々が十分了解していることである。しかしこの無意味なりし戦争がなぜに起こったか、そしてまた日本 軍閥が我々の自由をいかに横暴に奪い去り、善意なる国民を欺瞞してきたか、についてこれを明確にすることは、その渦中に巻き込まれていた日本人の立場を以てしては今 のところ極めて困難である。この連合軍総司令部の論述した太平洋戦争史は、日本国民と日本軍閥の間に立って冷静な立場から第三者としてこの問題に明快な解決を与えて いる。終戦後極めて短日月の間に起草されまた我々としてはさらに詳細なる論述を希望するものであるが、一読してわれわれが知らんとして知り得なかった諸事実が次々に 白日の下に曝され、その公正なる資料と共に、戦後我々が目に触れたこの種文献中の最高峰たる地位を占めるものであることは疑いない。この一文によって初めて、われわ れは今次戦争の責任ないし原因が太平洋戦争のみにあるのではなくして、遠く満州事変に遡るものであることを教えられ、また太平洋戦争がいかに日本にとって無理な戦争 であったかを知ることができた。

 昭和20年12月8日の全国各新聞は、「奉天事件よりミゾリー号降伏調印まで」と題してこの太平洋戦争史を掲載したが、その国民に与えた反響は極めて大きく、『ポ ツダム宣言』の示すわが国の民主化革命の行方を示す好指針として、全国民の熟読玩味すべき文献となった。
 訳者はこの邦訳に際して、極めて原文に忠実ならんことを期し、訳文は総司令部民間情報教育局当局の厳密なる校閲を仰いだ。民間情報教育局の好意によって上梓するに 当たり、終始これが翻訳に懇切なる指導を惜しまなかったダムスガード中尉および訳者に協力していただいた同僚今井○次氏、古野忠の両君並びに年表作成の労をとってい ただいた垣内政彦君に深く感謝の意を表する次第である。
1946年1月
                                                     共同通信社にて
                                                          訳者
            太平洋戦争史 目次
 第 1章 序言
 第 2章 満州事変
 第 3章 日本の華北侵略―第2次世界大戦の序曲
 第 4章 国内の政治的不安
 第 5章 国際的火薬庫(1933~1935)
 第 6章 国際的火薬庫(1935~1937)
 第 7章 日支事変
 第 8章 日本軍閥独裁制の発展
 第 9章 欧州の危機は遂に大戦乱へ
 第10章 太平洋における戦い
 第11章 日本軍ニューギニアに進出
 第12章 戦機の大転換
 第13章 連合軍の対日猛攻
 第14章 連合軍の攻勢益々熾烈化す
 第15章 東條首相の没落
 第16章 フィリッピンの戦い(1)
 第17章 フィリッピンの戦い(2)
 第18章 硫黄島と沖縄
 第19章 敗戦の年
 第20章 無条件降伏
 ポツダム宣言 全文



 
第1章 序言
 日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くはいまだ白日の下にさらされておらず、 時の経つに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されていくことになろう。これによって始めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、 また戦争犯罪者たちに気兼ねすることもなく詳細にかつ完全に暴露されるであろう。
 これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力乱用、国民の自由剥奪、捕虜および非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱いなどである が、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは「真実の隠蔽」であろう。この真実の「管制」は何も最近の出来事ではなく、19 25(大正14)年、治安維持法が議会を通過した瞬間に始まったものである。この法律が国民の言論圧迫を目的として約20年間にわたり益々その過酷の度を増し政治犯 人がいかに非道なる取り扱いを受け人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。軍国主義者と同一の戦線に立たなかったものは皆、国家の安寧を乱す「危険」 分子としての烙印を押され、しかも一度の審問を行なうことすらなく獄舎に放り込まれるという横暴ぶりにあったのである。
  1930(昭和5)年の初頭、日本の政治史は政治的陰謀、粛正、そしてその頃漸く台頭しつつあった軍閥の専制的政策に反対した政府高官の暗殺とによって一大転換期 を画したのであった。そして自由分子によるその権利の主張は無残にもまた故意に抑圧されてしまった。
 1931年(昭和6年)の総選挙は国民が政府の政策に全く不満であり、支那に対する宣戦せられざる戦争の責任者たる関東軍に対し各方面とも明らかに反対であるとい う争うべからざる証明を与えた。ことの急展開に驚愕した軍部は、現代において最も惨忍なる粛清工作の1つを行なうにいたり、また軍部が政府の支配力を獲得することによ って来るべき争乱の時代に彼らの支配力を拡大し地位を確保するに便ならしむるに至った。
 1932年(昭和7年)2月9日、選挙運動の最中に大蔵大臣井上準之助が暗殺 され、5月5日には団琢磨が反動団体血盟団の一員によって暗殺された。引き続き5月15日の午後には犬養首相の暗殺された有名な5.15事件が勃発した。
 1933(昭和8)年から1936(昭和11)年の間に、いわゆる「危険思想」の抱懐者、主張者、実行者という「嫌疑」で検挙された者の数は5万9千を超えるに至 った。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成せられ、国民に対しその指導者の言に盲従することと一切の批判を許さぬことを教えることになった。
 しかし一方、かかる言論抑圧政策にもかかわらず国事の運営に対する発言権を得るための闘争は依然継続され、1935(昭和10)年初頭の第67議会においては勢力 を得つつあった自由主義に対する問題及び国家社会主義の活動に対する批判が行われたが、この傾向は議会の絶対多数党たる政友会が1936年(昭和11年)の総選挙に おいて敗れたことによってますます強められるに至った。同時に取締り当局によっては大して問題視されていなかったが社会大衆党員18名が議席を得たことは注目すべき ことであった。同時にこの時期が軍国主義の上昇期にあったときでもあったことは重要な意義を持つものである。

 しかし、この突如起こった民主主義的勢力の復活は、短命に終わった。1936(昭和11)年2月26日未明、1400名以上の陸軍軍人は紊乱を起し、齋藤内府、高 橋蔵相、渡辺教育統監などを暗殺し、時の侍従長鈴木貫太郎大将に重症を負わしめた。軍国主義者の支配力が増大するに伴い検閲の法規を強化し言論の自由を剥奪するため の新しい法律が制定されたが、これらの統制はほんの序の口に過ぎないのであって、取締り制度はますます強化されていった。そしてこの制度こそは、支那事変より連合国 との戦争終了まで継続された。
 日米、日英戦争の初期においては、日本の勝利は比較的国民の反駁を受けずに宣伝することができたが、戦局が進み軍部の地位が次第に維持し得なくなってくるにつれて、 当局の公表はがらりと真実から遠いものに変わっていった。日本が多くの戦線において敗退しその海軍が最早存在しなくなってからも、その真実の情勢は決して公表されな かった。最近においても天皇が自身で仰せられている通り、日本が警告なしに真珠湾を攻撃したことは、陛下ご自身のご意思ではなかったのだ。憲兵はこの情報が国民に知 られることを極力防いでいたのだ。
 連合国軍最高司令官は1945(昭和20)年10月5日、治安維持法の撤廃を命令し、新聞に対するこの制限を破壊する方法をとり、戦争に関する完全なる情報を日本 国民に与えるよう布告した。軍国主義者の犯罪は単に日本国民に対して言語に絶した苦難と悲痛を与えたばかりでなく、日本がこれまで国際場裡において享有していた尊敬 を失わしめたものであった。事実、彼等軍国主義者たちは日本を歴史上かつてなき最も危険なる時期に陥れたのであった。
 いまや日本国民が今次戦争の完全なる歴史を知ることは絶対に必要である。日本国民はこれによって、如何にして敗れたか、またなぜに軍国主義によってかかる悲惨な目 に遭わねばならぬかを理解することができよう。これによってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し、国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識と気力とを 持ち得るのである。


  5. 宣伝映画を上映
    日本の戦争犯罪を告発。計9本制作・上映。3000万人を観客動員。
   「犯罪者はだれか」(大映) 「喜劇は終わりぬ」(松竹) 「民衆の敵」(東宝)  「我が青春に悔いなし」(東宝)
   監督:黒澤 明 主演:原 節子 藤田 進

  6.宣伝番組をラジオで放送
    ①「眞相はかうだ」NHK第1・第2で同時放送。
      昭和20年12月9日(日)第1回開始
      昭和21年2月10日(日)番組打ち切り
     (日曜日午後8:00~8:30放送。月曜日午後0:30、木曜日午前11:00、子供向けとして夕方5:00に
     それぞれ再放送)
      日本軍の「侵略」をドラマ仕立てで「再現」。CIEラジオ課が脚本を担当し、アメリカのドキュメンタリー番組
     「March of Time」を真似た形式。聴取者をひきつけるため、前後に人気コメディアンと歌手が出演する番組を編
      成。第1回目は徳川夢声の物語「千夜一夜譚」と轟夕起子「歌と軽音楽」にはさまれて放送された。その後の放送
      も、並木路子、高峰三枝子、淡谷のり子などの歌謡番組などで前後の枠が占められていた。しかし元日本兵からの
      抗議が殺到して当初の計画を変更し10週で打ち切り。番組は 毎回次のような形で開始された。
     (ナレーター)――我々日本国民を裏切った人々は、今や白日の下にさらされております。戦争犯罪容疑者たる軍閥の
               顔ぶれはもう分かっています。
     (別の声)――それ はだれですか。
     (別の声)――だれです?
     (別の声)――というと?
     (ナレーター1)――まあまあ、待ってください。
            (音楽が高まり、徐々に低くなる)
     (ナレーター 2)――これが、連続放送「眞相はかうだ」の第1回目であります。この放送によって、大戦の偽りのない
                事実と、戦争を引き起こすに至ったいきさつがお分かりになるこ とと存じます。これは皆様に関
                係の深い話であります。
     この後、反軍国家主義思想の持ち主の文筆家が太郎という少年に戦中の話を聞かせるものである。メインテーマはベートー
     ベンの交響曲5番〔運命〕からとっている。戦争を連想させる生々しい音声を大げさに使いながら、情況を盛り上げていく
     ドキュメンタリー形式の、しかし、中身は米軍広報ドラマである。幼い太郎に文筆家は早口の断定口調で、「軍国日本の犯
     罪と崩壊」そして「民主主義の誕生」を丁寧に教えていくのである。
      「眞相はかうだ」の最終回は昭和20年の太平洋戦争の最終局面と日本降伏までを取り上げている。
     そのポイントは以下のとおり。
      a.戦時中の日本軍大本営発表は嘘ばかりだった。
      b.捕虜になった日本兵は連合軍の待遇がよいことに驚き、自由の身に感謝の日々を送った。
      c.ポツダム宣言はこの上なく人道的で寛大かつ非懲罰的な降伏条件である。
      d.原子爆弾の投下は、膨大な被害を出した戦いをなお続けようとするなら、日本は迅速かつ徹底的な破壊を被るという連
       合軍側の予告を、日本の指導者が無視し、 なんら回答しなかったために実行されたのだ。
      e.戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然だ。
      f.日本国民はこれまでの過ちを反省して、青年たちは世界に誇れる新日本の建設に立ち上がるべきだ。
    ②「眞相はかうだ 質問箱」
      昭和21年1月8日(金)夜8:00~8:15 第1回開始
     (「眞相はかうだ」第6回と第7回の間から開始)
    ③「眞相箱」(後に単行本化 後述)
      昭和21年2月17日(日)夜8:00~8:30 第1回開始
      (昭和21年6月28日(金)から金曜日夜8:00~8:30へ移動)
       昭和21年11月29日(金)最終回
    ④「質問箱」
      昭和21年12月11日(水)夜8:00~8:30 第1回開始
      昭和23年1月4日最終回
    ⑤「インフォメーションアワー」 昭和23年1月以降毎晩8:00~8:30
      民主主義思想の啓発
      月曜日「新しい農村」        火曜日「労働の時間」
      水曜日「問題の鍵」後「社会の窓」  木曜日「産業の夕」
      金曜日「ローカル・ショー」     土曜日「家庭の話題」
      日曜日「時の動き」
    「眞相はかうだ」に始まる一連のプログラムに関する報道や批判は、日本が主権を回復した昭和27年以降になってよう
     やく見られるようになった。それまでの間、国民の反発を受けながらも、番組の情報について公に言及されることは遂
     にないまま、番組はなんと3年以上も続けられたのである。…虚偽の情報が積み重なっていけば、長い時間の中でそれ
     らは「真実」に変身していく。しかもGHQの手法は「眞相はかうだ」から「眞相箱」にいたる過程で、より洗練され
     、やわらかいタッチになっていった。日本人の強い拒絶反応から、彼らは学習したのだ。その結果、「眞相箱」では断
     定的な口調ではなく、聴取者からの質問に答える形で日本の過ちを説き、アメリカの民主主義思想を教示した。
     聴取者の質問に答える「双方向性」の形を取り入れた上、日本人の善行を紹介する「両面性」も採用した。…日本を断
     罪するアメリカの価値観が、幼い子供たちや若い世代など日本人が戦争に突入していった経緯を知らない人々に刷り込
     まれていったことを考えるとき、戦争世代が語り継いでいれば、「洗脳」を解くこともできたかもしれないと口惜しく
     思う。先に触れたが、戦争世代が語り継ぎをしてこなかったのは、彼らだけの責任ではない。検閲で皆が沈黙していっ
     たのだ。私たちの歴史は、この憎むべき検閲の中で他者によって歪曲されていったのである。自分自身を見つめる目が
     、日本人の視点からアメリカ人の視点に少しずつ移されていった民族を「抹殺」するのは武器ではない。それは情報で
     あり、教育なのだと痛感する。GHQの戦後政策の検証とそこからの脱却が必要なゆえんだ。…私たちが私たちを取り
     戻すためには、日本と日本人が全否定されたあの時代を知ることから始めなければならない…一方的で司法の名に値し
     ない東京裁判と日本占領の実態は何だったのか。私たちは今こそ知るべきである。それをせずに、本当の意味で日本人
     としての自分を取り戻すことは不可能である。

    「俳優は東京放送劇団員を使うことになったが、こんな放送に出演すると、一般聴取者から反感を持たれる恐れがある、
     いやそれどころか危害を加えられるかもしれないというので、出演者その他スタッフの名前は一切発表しないとの約束
     だった。(中略)10回放送の『眞相はかうだ』は満州事変の勃発から説き起こして、日本の敗戦にいたるまでの軍閥
     の罪悪史であり、言論逼迫の歴史であったが、その12年間にわたる血なまぐさい年代史を『語り手』が物語っていく
     中に、主要人物が2人登場した。その1人は、満州事変の起きた頃少佐だったが、戦争中にぐんぐん昇進して、敗戦の
     時には少将になっていた。もう1人はその軍人の親友で、民主主義的傾向の強い文筆業者で ある。そして、その軍人が
     軍部の意見を代弁し、その文筆業者の意見や忠告と対立する仕組みになっていた…」(濱田健二「『眞相はかうだ』の
     眞相」文藝春秋臨時増刊号 昭和29年10月号)

     「遂に『眞相はかうだ』の第1回が電波に乗る日が来た。『眞相はかうだ』という10回連続のドラマが始まるという
     予告は連日出された。そしてCIEの意図によりアメリカ側は全然タッチしていない、純然たるNHKの放送であるか
     のように偽装されていた…回を重ねるにつれて脅迫めいた投書は次第に数を増して行った。俳優のA宛には、『貴様は
     それでも日本人か。貴様は声が分からぬと思ってやっているかも知れぬが、貴様だということはよくわかっとるぞ。月
     夜ばかりじゃないからそう思っとれ』といったような脅迫状もきたし、B宛にはつたない女文字で、『私は今の今まで
     あなたという方を見損なっていました。あんな非国民みたいなことがよくも言えますね。日本人ならあんなことは言え
     ないはずです。もしあなたに愛国心のかけらでもあるなら、あんな放送に出演しないで下さい』といったような手紙も
     舞い込んだりした。」(同上)

     「さて、12月9日、言うまでもなく、真珠湾攻撃の日の翌日にこの忌まわしい番組をスタートさせると、果たせるか
     な、批判、非難、攻撃の手紙が見る見るうちに私のデスクに山積し、抗議の電話が鳴りやまない、という事態に追い詰
     められることになった。なにしろNHK自体が突如としてこういう番組を企画し実施したのだと聴取者は思い込んでい
     るはずなので、考えれば無理もないことである。私は山積した投書にざっと目を通すだけで、それをCIE放送課の部
     屋に届けた。ようやく、来るものは非難の投書ばかりだと知ったCIEの係官たちは、そのつどいやな顔をした。」
     (NHK演芸部副部長春日由三氏)

    「自虐的歴史教科書の意図はGHQの洗脳教育番組『眞相箱』と同じ」
     先週末、GHQ(連合国軍総司令部)によるラジオの情報操作番組「眞相箱」を書いたところ、評論家の芳賀綏氏から
     はがきをいただいた。芳賀さんは「眞相箱」の第1回から聴き続けたという。番組は昭和20(1945)年12月9
     日から「眞相はかうだ」というタイトルで日曜夜のゴールデンタイムに始まり、「眞相はかうだ 質問箱」に変わり「
     眞相箱」になった。芳賀さんの実感によると「戦後のラジオであれほど日本人に嫌われた番組はありません」という。
     「『放送』という月刊誌には“人心、眞相箱を離る”という放送評が載り、同誌掲載のラジオ番組人気番付では同番組は
     最下段、つまり不人気で最悪の代表でした。眞相箱は“偽相箱”だという怒りの投書を載せたメディアもありました。」
     占領政策にもCIE(民間情報教育局)指導のラジオにも概して従順だった日本人が、この番組ばかりは相手にしなか
     った。洗脳教育はむしろ逆効果で、日本の歴史観はこれとは別の手段(コミンテルン史観の本や講義や左翼宣伝)でゆ
     がめられたのではないか。芳賀さんはそう指摘されていた。
      日本人はそれほど愚かではなかった、心ある人々は一方的な悪宣伝に反発していたということだろう。ただし小欄な
     どは当時中学1年生だったが、「そうだったのか、そんなに日本は悪いことをしていたのか」と強烈な衝撃を受けた。
     あの放送はいまも耳底に響いている。GHQのねらいは、戦前の日本のすべてを否定し、過去を黒く塗りつぶすことだ
     った。この「眞相箱」ほどではないが、自虐的歴史教科書の意図も同種の日本人再教育にある。中学生たちがどんな影
     響を受けてしまうか、わかるのである。」 (平成14年8月29日 産経新聞朝刊 産経抄より)


     「眞相箱 太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の眞相」
      (連合国最高司令部民間情報教育局編 コズモ出版社 昭和21年8月25日発行)
     「はしがき」
      太平洋戦争に関する正式の報告書、文書類、戦争記録などは、すべて軍部の干渉によって事実を歪曲され、このため
      同戦争の勃発、推移および敗戦の結果について真相を知ることは極めて困難であります。ひとたび終戦となると、完
      全な敗北に初めて目覚めた日本の国民は、真相を求めました。そして連合国最高司令部民間情報教育局あてに寄せら
      れる種々の疑問は、夥しい数に達しました。こうした質問にできる限り速やかに、そして少しでも多く答えるために
      、日本放送協会のラジオ番組に「眞相箱」の時間を設け、毎日曜日の午後8時から8時30分まで、マイクを通じて
      全国民の質問に答えることになったのであります。
       本書には、この「眞相箱」の第1回から第20回までが集録されております。収める回答は、次の諸資料に基づい
      て作製され、また事情の許す限り、この大戦争に参加した各国の戦争記録から資料を得ました。
        大本営公表、米国陸軍公 式報告書、諜報報告書、朝日新聞、ニッポンタイムズ、タイム誌、ニュースウィーク誌
        、「真実こそすべての国にとって、最も強い同盟国である」ということを読者諸君が悟られることを、心から希望
        する次第であります。
         昭和21年7月   連合国最高司令部民間情報教育局

   7.新憲法制定
     GHQ民政局は「憲法改革の問題は、地方自治をゆるやかに育み、政治的成熟を待ちその後我々の助言によって憲法を
    作り新しい社会を築くか、または速やかに現存の明治憲法を解体しその後に新憲法を作るか、どちらかである」と考えた
    。マッカーサーは「民主主義が日本で自然に沸き起こってくる可能性はない、民主主義が育つのを手助けするだけではダ
    メだ、確実に成長するのを見極めねばならない」と判断し、後者を選択した。ゆるやかな民主主義の成長では時間がかか
    りすぎるし、反動内閣、枢密院、天皇たちが一夜にしてその成果を潰してしまうかもしれないという懸念からだった。

     昭和20年10月初め
      マッカーサー、東久邇内閣に憲法改正の草案を作るよう命令
     同10月4日
      近衛文麿(東久邇内閣無任所大臣)は、マッカーサーとアチソン政治顧問に面会し、敗戦日本の将来についての助言
      を求め、「マッカーサーは、憲法を改正すべきである、改正には自由化をふんだんに取り入れるべきであると考えて
      いる」と確信した。
     同10月5日 東久邇内閣総辞職
     同10月7日 近衛・アチソン秘密会談
       1.超憲法的なものの除去
       2.政府に対する軍部の影響の抹殺
       3.人権の保障
     同10月9日 幣原喜重郎内閣成立
     同10月11日 マッカーサー、幣原首相に憲法改正の草案を作るよう命令
           改正の内容
         ① 婦人の参政権を認める
         ② 労働組合の結成を奨励
         ③ 自由な教育を行うための学制改革
         ④ 秘密警察など国民を恐怖させる諸制度の廃止
         ⑤ 経済機構の民主化
     同10月12日 
      幣原首相、国務大臣松本烝治博士を「憲法問題調査委員会」委員長に任命。憲法学者美濃部達吉は、明治憲法を改正
      しなくても民主主義的改革は可能であると主張し、松本を支援した。一方、近衛文麿(含佐々木惣一)は内大臣府の
      御用掛に就任し、天皇から憲法草案に着手するよう命令を受ける。しかし近衛は大東亜戦争への道を開いた中心的人
      物としてアメリカでは見られており、新憲法の起草者に任命されたことは、日本ばかりでなくアメリカでも猛烈な非
      難の声が上がった。
      松本烝治「憲法改正は重要な国務である。国務を行うのは内閣であり、責任を負うのは国務大臣である」
      宮沢俊義東大教授「内大臣府が改憲作業をするのは、不穏当である」
     同10月25日
      近衛記者会見「内大臣府の憲法改正業務は、あくまで下調査であり、政府に希望的意見を進言するにとどまる。」
     同11月1日
      GHQ「東久邇宮内閣の総辞職により、憲法問題に関する近衛公爵と連合軍当局との関係は終了している。GHQは
      近衛公爵を全く支持していない」
     同11月22日
      近衛は「憲法改正要綱」を天皇に提出。
     同11月24日
      佐々木惣一「憲法改正草案」全100カ条を天皇に進講。明治憲法の最初の13条は手つかずに残っていた。天皇大権は
      変更なし。これ以降内大臣府は消滅し、近衛・佐々木の御用掛の職も解かれた。その後、近衛の「要綱」と佐々木の
      「草案」は、GHQからも政府からも一顧だにされていない。
     同12月6日
      マッカーサーは近衛を286人の戦犯容疑者の1人に指名し、正午までに巣鴨刑務所に出頭するよう命令。近衛は早朝
      自宅で青酸カリ服毒自殺。
      朝日新聞
      「近衛公が政治的罪悪を犯し、政治的責任者たりしことは一点疑いを入れない…近衛公自身は戦争犯罪を自覚せず…
      降伏終戦以来、戦争中上層指導の地位はありしものの、1人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない…廃徳
      亡国の感、いよいよ深きを覚える」
      近衛の遺書
      「僕はシナ事変以来、多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じているが、いわゆる戦争犯罪人とし
      て米国の法廷において、裁判を受けることは耐え難いことである。殊に僕は、シナ事変に感ずればこそ、この事変解
      決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の道は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽
      くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは誠に残念に思う。」「戦争に伴う興奮と激情と
      、勝てるものの行き過ぎた増長と、敗れたものの過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言蜚語と、これら一切
      の所謂世論なるものが、いつかは冷静を取り戻し、正常に復するときも来よう。このとき初めて、神の法廷において
      正義の判決が下されよう」

      一方日本政府の憲法問題調査委員会は、3ヶ月間(昭和20年10月中旬から翌年1月中旬)、閣僚たちと頻繁に会議を
      し、天皇大権と民主主義の間に存在する溝をどのような言葉で埋めることができるかと苦悩する。その間、各政党も
      競って独自の提案を出した。GHQ民政局は各党の新憲法案を分析する。
       ア.「進歩党案(天皇は臣民の輔翼に依り憲法の条規に従い統治権を行う)は,全提案の中でも最も保守的であり
         、天皇大権がそのまま残っている…個人の自由、民主的手 続きにも欠けている」
       イ.「自由党案(天皇は統治権の総攬者なり)は、進歩党案と五十歩百歩である」
       ウ.「社会党案は、人権は経済的保障と共に規定され、司法権の独立もあり、国会は3分の2の多数決で憲法改正
         ができるとなっている。また個人の尊重に基づいた政府の機構もできている。国会が国家権力の最高機関にな
         る。市民的自由も完全に保障されている。天皇は政治権力から切り離されている」
       エ.「共産党案は、主権は人民にあり…天皇制は廃止する。基本的人権の完全実施、ことに経済的裏づけに注意を
         払っている」
         共産党案がGHQにとっては最良のものであったが、共産党案であるがゆえにそのようなことは口が裂けても
         言えず、日本共産党はソ連スターリンの出店だとGHQは思っていた。アチソンはマッカーサーに「共産党案
         を除けば、社会党案だけが天皇と人権について我々の意図に近いものだ」と語った。
     昭和21年1月7日
      アチソンがマッカーサーに警告。「政府案(松本案)は、現憲法(明治憲法)の最初の4条について原則的に手をつ
      けないとしている。これら4条は、我々が(敵として)戦ってきた神聖日本国の礎石であり、柱である。現政権下で
      は、自発的な民主的政府を形成できるような改正は望めない」
     同2月1日
      松本草案が毎日新聞にスクープされ、英訳がマッカーサーに手渡される。マッカーサーは「松本草案は、明治憲法の
      言葉を変えたものに過ぎない」「3ヶ月かかって、憲法は全く同じものである。いや悪くなった」「陸海軍が軍隊に
      なっただけである」「松本草案は国民の少ない権利をさらに減らし、義務を増やしただけである。権利の絶対保証は
      全くない。憲法をこの国の最高法とする規定がない。この欠陥は致命的である」「建物の内部構造を変えないで、権
      限だけを新築する彼らの技術は見事である」と酷評した。民政局も「松本案は、最も保守的な非公式草案よりもはる
      」かに遅れたものである」、また松本個人をも「極めて反動的で独断的であり、あらゆる審議を牛耳っていた」「天
      皇制護持と国体維持に最も熱烈で、完璧な保守派である」と非難した。例えば明治憲法では「天皇は神聖にして侵す
      べからず」だったが、松本草案では「天皇は至尊にして侵すべからず」となっていた。1ヶ月前の昭和21年1月1日、
      天皇自らが自己の神性を否定(人間宣言)した後での草案だったので、このような言葉の曲芸がマッカーサーの逆鱗
      に触れた。
       日本政府の方針は「絶対必要とされる改革以外は何も変えない」というものだった。松本自身昭和20年12月8日、
      衆院予算委員会で「天皇が統治権を総攬せられるという大原則は何等変更する必要もないし、また変更する考えもな
      い」と証言している。吉田茂も「政府の思いは明治憲法の基本原則を変えず、ポツダム宣言条項を満足させることだ
      った」と白状した。吉田も松本も、明治憲法は民主主義の聖典だと思っていた。吉田によれば、「明治憲法は明治天
      皇が政治をつかさどるにあたっての日本国民との約束を前提にしている。民主主義という言葉を使わなくとも、民主
      主義はこの国の伝統の一部をなしており、ある人たちが誤解しているように憲法改正によって導入されるものではな
      い。そういう事実をくどくど説明する必要はない」「この基本法の精神は、不幸にして時の流れと共に歪曲され、国
      家的悲劇へと導かれていったのである」「時の流れと共に明治憲法の精神が不幸にも歪曲されることのないように明
      治憲法の改正をおこなうべきではないかとは思っていない」ということだった。

       この結果、マッカーサーは「日本政府に対し最も有効な手段は、私自身が憲法草案を用意することである」と決断
      した。(マッカーサー3原則)
       1.「天皇は国家の元首の地位にある」
         「皇位の継承は世襲による」
         「天皇の義務と権能は憲法に従って行使され、憲法に示された国民の意思に応じたものでなければならない」
       2.「国家の権利としての戦争行為は放棄する。日本は、(国際)紛争解決および自衛のためでさえも、その手段
          としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには現在世 界に生まれつつある高い理念、理想に頼る」
         「陸、海、空軍は決して認められない。またいかなる交戦権も与えられない」
       3.「日本の封建制は廃止される」
         「皇族以外の爵位は現存のものに限る」 
         「今日以後、貴族特権は政府もしくは民間機関においてなんらの権力も持たない」
         「国家予算はイギリスの制度を見習う」

     同2月4日
        GHQ民政局、「日本国憲法草案」を作成開始(スクープされた松本草案をGHQはすでに検討し、これでは到
        底受け入れられないと判断していた)
     同2月8日
        政府、憲法改正案(松本草案)をGHQに提出
     同2月10日
        GHQ民政局、6日間で「日本国憲法草案」を完成しマッカーサーに提出(マッカーサー草案)
     同2月13日
        ホイットニーはマッカーサー草案を松本と吉田に手渡し「GHQは松本草案に全く満足していない。ここに持参
        した草案(=マッカーサー草案)に基づいてできるだけ早く改正案を作成せよ。マ草案はアメリカ政府ならびに
        極東委員会の承認を得るであろう。もし日本側が即刻改正案を提出しなければ、天皇に何が起きてもGHQは関
        知しない。極東委員会は皇室廃止ばかりでなく、天皇自身の死刑さえ考えており、もし日本政府がマ草案を拒否
        すれば自分としてはどうすることもできない。内閣がマ草案改正案を差し出さねば、マッカーサー元帥はこの草
        案を(日本政府を通さずに)国民の前に提出する用意がある。48時間以内に返答せよ」と吉田に命令した。
     同2月21日
        幣原首相「マッカーサー元帥は天皇を護ることが非常に重要であると思うようになった。しかし極東委員会の対
        日感情がなお強く、ことにソ連、オーストラリアは日本がやがて強国になり連合国に報復するのではないかと懸
        念している。極東委員会が天皇を裁判にかける可能性をなくすため、マッカーサー草案では意識して天皇の定義
        を国家の象徴とし、戦争放棄条項を強調した。」
     同3月4日
        最初の日本政府草案(=マッカーサー草案改正案)がマッカーサーに渡される(松本案は2度と持ち上がること
        はなかった)。
     同3月5日
        マッカーサーの側近と日本側との間で緊密な討議が行われた後、第2の日本政府草案いわゆる「内閣草案」がで
        きあがった。当然のことながら「内閣草案」はマッカーサー草案に極めてよく似ていた。即日、マッカーサーは
        これを承認した。幣原は会見で「日本側が天皇の新しい定義として国家の象徴を提案した」と語っている。マッ
        カーサーからそう言えと厳命されたのだろう。しかし「天皇は国家の象徴」という発想は、当時の日本人には不
        可能な考え方であった。それでも天皇は「この草案を支持する」と言った。
     同3月6日
        幣原内閣、日本政府草案(=内閣草案)を公式決定
     同3月7日
        全文が全国に発表される。
        朝日新聞
         「画期的な平和憲法。政府草案という限りにおいて、それは天下りともいえようが、…われわれはこの草案を
          以て、国民が論議研究するに足りる高い価値を持っていることを断言しうる。これは幣原内閣単独の力のよ
          くなし得るところでなく…アメリカの強力な助言が役立っていると見るべきである。」
         「朕さきに…日本国政治の最終の形態は日本国民の自由に表明したる意思により決定せらるるべきものなるに
          鑑み、日本国民が正義の自覚により平和の生活を享有し文化の向上を希求し進んで戦争を放棄して誼を万邦
          に修むるの決意なるを念い、すなわち国民の総意を基調とし人格の基本的権利を尊重するの主義に則り憲法
          に根本的の改正を加うることを請い願う」(原文カナ)
        マッカーサー
         「私は、天皇ならびに日本政府によって作られた新しい憲法が、私の全面的承認を得て、日本国民に提示され
          たことに深い満足をもつ」
         一般国民の反響はすこぶるよかった。特に「戦争放棄」の条項は、あらゆる層から熱烈に歓迎された。むろん
         アメリカの占領下であるから大なり小なりマッカーサーの意向が働いていることは誰にでも想像できたはずだ
         。にもかかわらず、草案に書かれた永久平和の理念は、戦災にうちのめされた国民の胸を強く打った。
     同6月26日
         「政府草案」が国会審議のため提出された。草案には「今国会に提出された政府憲法草案は、日本の文書であ
          り日本国民のためのものである」というマッカーサーの声明が付けられてあった。衆議院は8月24日まで討
          議を続け、421対8で採択した。反対票8のうち6は共産党であり、同党は皇室廃止と日本の自衛権の承認を
          要求していた。
     同9月10日
          貴族院が審議し採択。この後、貴族院は廃止され、参議院の誕生となる。
     同11月3日(明治節)
          天皇、新憲法を公布。
     昭和22年5月3日
          新憲法施行。マッカーサーは日本国新憲法を「占領の最も重要な成果」と自賛し、それまで禁じていた「日
          の丸」の掲揚を許可し「国旗掲揚を、日本の恒久平和時代の到来を記念するものとせよ」と述べた。吉田も
          「太平洋戦争終結後の最も重要な改革である」「日本国を代表して、閣下が日本国民に国旗掲揚を国会議事
          堂、最高裁、首相官邸および皇居の中で無制限に掲揚できるよう許可されたことに対し、私は深い感動と賞
          賛の意を表明いたします」「翻る国旗は日本国民に真の民主的で平和な国になるよう、より一層の努力を鼓
          舞することは間違いありません」と述べている。マッカーサーは自伝の中で「私は、アメリカ製の憲法を作
          って日本側に押しつけ、それを私の命令で採択させるということはしなかった。憲法改正は日本人自身が強
          制されずに行うべきものだった」と書き込んでいる。
           マッカーサーが、占領政策決定権を持っている極東委員会と事前協議もなく、昭和21年3月6日に憲法
          草案を承認したことは、「政策決定者は誰なのか」という厄介な問題を引き起こした。4日後、極東委員会
          は「この承認は日本国民に誤解を与え、極東委員会がこの草案に同意をしていると受け取られる恐れがある
          」と抗議した。同委員会は、マッカーサーが日本国民に「この承認は今後、国会に提出されるほかの草案を
          排除するものではない」と声明を出すよう要請したが、マッカーサーがそのようなものを出すわけがなく、
          同草案のみが国会の審議すべき唯一のものだった。さらに同委員会は「同草案がポツダム宣言に合致してい
          るかどうかを検討するので、最終草案を委員会に差し出せ」と要求した。2日後の3月12日バーンズ国務長官
          は極東委員会に「憲法が採択される前に、極東委員会に審議してもらう」と確約した。憲法採択に決定的な
          影響を及ぼす戦後初の衆議院の選挙が、1ヵ月後の4月10日に予定されていた。マッカーサーはこの選挙が「
          事実上、国民投票の意味を持つ」と述べた。3月20日、極東委員会は、草案が日本国民に提出されてから選
          挙までの期間が短すぎ、「反動的保守政党」だけが有利になり、「この草案賛成派に政治的利点を与えるこ
          とになるよう、選挙を延期せよ」と要求した。マッカーサーは「もし選挙の結果、占領目的に不利になるよ
          うなことがあれば、私は国会を解散し、再選挙をさせる」と反論し、極東委員会を無視した。マッカーサー
          は全候補者の徹底的な人物調査を行い、好ましからざる候補者を追放した。選挙は予定通り行われ、その結
          果にマッカーサーは満足し、「民主主義は前進した」と述べた。一方ソ連は「マッカーサーは日本帝国主義
          の犯罪に責任ある反動政党の支配を再確認し、彼らを支持した」と手厳しく批判した。
          選挙の2日後、極東委員会はマッカーサーに質問状を打電した。
           ア 他の草案が、いかなる方法で日本国民に知らされ、討議されたのか。
           イ 日本国民が、新憲法を検討したとき、いかなる民主主義的原則を適用したのか。その証拠は何か。
           ウ 日本国民はどのような方法で皇室を廃止し民主改革するよう鼓舞されたか。
          結局マッカーサーは国務省とも連絡をとりながら極東委員会の動きを抑えてしまった。

           マッカーサーは、敗戦直後の虚脱状態にあった日本国民から、「平和」という甘い言葉を使って「愛国心
          」と「誇り」を誘い出し、それを素手で扼殺した。その死体が第9条である。しかし自分にはその責任がな
          いと断言し、次のように釈明する。
           ア 昭和26年5月5日(=マッカーサーがトルーマン大統領に解任された3週間後)、米議会の公聴会で「
             第9条は幣原が新憲法の中に書き入れた」
           イ「幣原は新憲法が最終決定するときには戦争放棄条項を含めるよう、またいかなる軍事機構も禁止する
             よう提案した。」(「マッカーサー回顧録」から)
             実際には、マッカーサーは松本草案を拒否し「日本が憲法上、戦争できないだけでなく自衛さえもで
             きないようにせよ」と命じ、マ草案では「国権の発動たる戦争は放棄する…自衛のためでさえ…」と
             なった。幣原は昭和21年3月7日(マッカーサー草案と酷似した「内閣草案」が全国に公表された日)
             、記者会見で「GHQと内閣との審議中、日本側は戦争放棄条項に何の反対も表明しなかった」と語
             った。もし日本側から戦争放棄条項を提案したのなら、「GHQ側は反対しなかった」と言うはずだ
             。吉田は「それを提案したのはマッカーサー元帥であり…それに対し、幣原は熱意を持ってそれに応
             じたという印象を持っている」と推測している。

              マッカーサーが自衛権放棄第9条と自分とのかかわりを否定しようとしたのは、自分の名声にとっ
             て都合の悪い現実が次々と出てきたからだった。すなわち冷戦が激化し、中国が共産主義の下に大革
             命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮半島が今にも戦争になりそうになり、あたかもアジア
             全土が共産主義の下に屈服させられるのではないかという情勢が目の前に展開したので、吉田首相に
             命じて警察予備隊(昭和27年)を創設し、共産主義に対して国防・自衛をするようにと命令した。
             警察予備隊が後に自衛隊になり、第9条の精神を冒した。すなわち、マッカーサーは自分の「読み」
             の甘さをさらけ出した。それゆえに、マッカーサーは逃げ口上を並べ立て、責任を回避しようとした
             。「世界情勢が変わり、全人類が自由の防衛のため武器を持って立ち上がり、日本も危機にさらされ
             る事態となったときには、国の資源の許す限り、日本も最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第9
             条は最高の理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈
             は、どうこじつけても出てこない。私はこのことを憲法採択のときに声明し、後に必要になったとき
             に提案した」と「回顧録」の中で説明しているが、真実は、憲法採択のときではなく、それから3年
             以上たった昭和25年1月1日、日本国民への年頭メッセージの中で初めて明言したということだ。
             当時アメリカとソ連はアジア、ヨーロッパで覇権を争い、朝鮮半島は今にも火を噴きそうだった。

             第9条の非現実性が明白になっている今でさえ、日本はマッカーサーの呪いに縛られ、身動きもでき
             ず、かつての敵軍に国土を護ってもらっている。「占領」がいまだに終わっていないとはこのことだ
             。第9条があるかぎり、「戦後」も終わらない。第9条は「生きる本能」、すなわち命を護る「自衛
             本能」を否定する。第9条は、男が女や子供を護る「本能」、親が子を護る、子が親を護るという「
             生命」の自然な「本能」を「悪」として否定し、「戦争」「武力の行使」と呼んで卑下した。女子供
             を護る本能を萎縮させられた日本の男が、戦後日本を、勇気もない信念もないおびえた群衆にしてし
             まったのだ。おびえた国民は、強い用心棒を雇う。高い銭を出し、強いアメリカ兵を雇う。日本を護
             るため、アメリカ兵がこの異郷の地日本で血を噴いて死んでいっても、日本の男たちは平気なのか。
             恥ずかしくないのか。罪悪感も感じないのだろうか。用心棒を雇い、飯を食わせ、銭もやる。この状
             態を「平和」と呼び、「平和憲法」「平和教育」と、あたかも平和踊りを輪になって舞っている日本
             国民は、賢いのか、ずるいのか。それとも、狂気の「亡国踊り」をしながら奈落の底へ堕ちていって
             いるのだろうか。
              日本保守派の困惑をよそに、国民は新憲法を歓迎した。しかし、日本国民が民主主義を理解し始め
             た頃、「配給された民主主義」の矛盾があまりにも歴然となり、アメリカの政策立案者の良心を痛め
             た。

             このアメリカ人の「良心の痛み」を正直に、かつ清々しく告白した本がある。日本占領初期、GHQ
             労働局で労働法立案に携わったヘレン・ミアーズ女史が、帰国後の 昭和23年に書いた「アメリカの
             鏡・日本」である。戦前から占領中にかけ、アメリカ政府およびGHQが「極悪・残酷日本人」観を
             作り上げ、それがアメリカ国民の常識となっていたが、ミアーズはその日本人観をぶち壊した。彼女
             によれば、ペリーの黒船から終戦までの日米関係は次のようなものだ。

             「アメリカ政府は、日本が朝鮮半島やアジア大陸へ侵略をしたから日米戦争になったとアメリカ国民
             と世界中に言いふらしているが、世界地図を見れば、どの国がアジアへ進出したか歴然としている。
             我々アメリカが遠く離れたアジアへ乗り込んでいったのだ。日本は、アメリカ大陸へもヨーロッパ大
             陸へも進出していない。アメリカは、アジアで日本が邪魔になったので、無理難題を投げつけ、日本
             を窮地へ追い込んだ。日本は、自衛のために戦うより他に生きる道はなかったのだ。アメリカは、勝
             つことの分かっていた戦争に日本を引きずり込み、日本を徹底的に破壊し、力尽き果てた日本兵と一
             般市民を殺しまくり、勝敗のついた後でも、原子爆弾を2発も使い、さらなる大量殺戮を実行した。
             占領下、GHQは狂気の軍国主義日本を民主平和国家にすると独善的な言葉を使っているが、すばら
             しい文化と長い歴史を持っている日本に武力でアメリカ様式を押しつけているだけだ。」
             アメリカ人によるこの卓越した本は、マッカーサーにより発売禁止、翻訳禁止の烙印を押された。占
             領下、この本が日本国民に読まれたら、彼の日本統治は崩壊していただろう。ミアーズ女史が心奥深
             く感じた羞恥心にも似た良心の呵責こそ、アメリカが日本に残した民主主義の貴重な教訓であったと
             いえよう。

             主な参考資料:「『眞相箱』の呪縛を解く」  櫻井よしこ 小学館文庫
                    「抹殺された大東亜戦争」   勝岡寛次  明成社
                    「国破れてマッカーサー」中央公論社 西 鋭夫(にしとしお)
                    「憲法はまだか」    角川書店   ジェームス・三木
             育鵬社(p.231)
             日本国憲法の制定
              GHQは、わが国に対し憲法の改正を要求しました。日本側は、大日本帝国憲法は近代立憲主義に
             基づいたものであり、部分的な修正で十分と考えました。しかし、GHQは日本側の改正案を拒否し
             、自ら全面的な改正案を作成すると、これを受け入れるよう日本側に強くせまりました。天皇の地位
             に影響が及ぶことをおそれた政府は、これを受け入れ、日本語に翻訳された改正案を、政府提案とし
             て帝国議会で審議しました。(④)議会審議では、細かな点までGHQとの協議が必要であり、議員
             はGHQの意向に反対の声を上げることができず、ほとんど無修正で採択されました。こうして19
             46(昭和21)年11月3日、日本国憲法が公布され、半年後の5月3日から施行されました。

             日本国憲法の最大の特色は、交戦権の否認、戦力の不保持などを定めた、他国に例を見ない徹底した
             戦争放棄(平和主義⑤)の考えでした。この規定は、占領が終わり、わが国が独立国家として国際社
             会に責任ある地位を占めるようになるにつれ、多くの議論をよぶことになりました。

             ④この憲法の改正案がGHQの手によるものであることを公表するのはかたく禁止された。
             ⑤国民主権、基本的人権の尊重とともに日本国憲法の三大原則とされた。また、天皇については、日
              本国および日本国民の統合の象徴と定めた(象徴天皇制)。

             自由社(p.245)
             日本国憲法
              GHQは、大日本帝国憲法の改正を求めた。日本側では、すでに大正デモクラシーの経験があり、
             明治憲法に多少の修正をほどこすだけで、民主化は可能だと考えていた。しかし、GHQは1946
             (昭和21)年2月、わずか約1週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本
             的な改正を強くせまった。
             政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けた(④)が、それを拒否した場合、天皇の地位が
             存続できなくなる恐れがあると考え、やむを得ずこれを受け入れた。GHQの草案に基づいて政府は
             憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、11月3日、日本国憲法が公布された。(⑤)
             日本国憲法は、天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めた。さらに国民主権をうたい、国会を
             国権の最高機関とし、議院内閣制を明記するとともに、基本的人権に関する規定が整備された。また
             、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄だけでなく、そのための戦力をもたないと定めたこと
             では、世界で他に例を見ないものとなっ た。

             ④交戦権の否認(のちの9条)などが書かれており、国家の主体性を否定するものと、指導者たちは
              受けとめた。
             ⑤1947年5月3日施行。

             東京書籍(p.228)
             日本国憲法の制定
              民主化の中心は、憲法の改正でした。GHQの指示を受けて日本政府がはじめに作成した改正案は
             、大日本帝国憲法を手直ししたものにすぎませんでした。そこで、徹底した民主化をめざすGHQは
             、日本の民間団体の案も参考にしながら、自ら草案をまとめました。日本政府は、GHQの草案を受
             け入れ、それをもとに改正案を作成しました。そして、帝国議会の審議を経て、1946(昭和21
             )年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年の5月3日から施行されました。
              新憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理としました。天皇は、国と国
             民統合の象徴となって、統治権を失いました。かわって、国民を代表する国会が国権の最高機関とな
             り、内閣が国会に責任を負う議院内閣制が導入されました。