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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 ポツダム宣言受諾までの流れ                  平成25年12月15日 作成 五月女菊夫


1.ポツダム宣言受諾までの略式年表
1943(昭和18)年
  12/1 カイロ宣言(日本の無条件降伏に言及)
1945(昭和20)年
  2月 ヤルタ会談(米・英・ソ)
  5/28 米、「皇室存続」を含めた対日降伏条件を起草(後述)
  7/16 米、原爆実験成功
  7/17 ポツダム会談始まる(米・英・ソ)
  7/25 原爆投下命令下る
  7/26 ポツダム宣言公表 (「皇室存続」の降伏条件は削除)
  8/ 6 原爆投下(広島)
  8/ 8 ソ連参戦
  8/ 9 2つめの原爆投下(長崎)
  8/14 日本政府、ポツダム宣言を受諾

2.鈴木貫太郎、首相に就任
  昭和20年4月1日米軍が沖縄本島に上陸を開始し、この危機の中4月5日、東條内閣の後を受けた小磯内閣は無為無策のまま
 総辞職した 。後継首相を決める重臣会議では、ほとんど全員が表向き「後継首相にはあくまでも戦争をやり遂げる人を選ばねばな
 らぬ」と徹底抗戦を唱 えたが、本音では次が終戦内閣になるとひそかに思っていた。本音が言えなかったのは、重臣の1人に徹底
 抗戦論者の東条英機がいたせいも あるが、それより大きかったのは当時の国民の抗戦感情はまだまだ強く公然と和平問題を口に出
 せない空気があったためである。東條以外の 重臣たちは、和平の任に当たる総理は現役、退役、陸海軍を問わず軍人であり、従来
 の行きがかりがなく、国民の信頼があり、特に天皇の信 任の厚い人物でなければならないと考えた。そしてそのような人物は、鈴
 木貫太郎しかいなかった。
   鈴木貫太郎:海軍大将。77歳。日清・日露戦争で武勲をあげ、海軍トップの軍令部部長まで登りつめた。
         退役後は侍従長を8年間務め、昭和天皇の信任は特に厚い。また侍従長時代、2.26事件
         で青年将校に襲撃され4発もの銃弾を受けるが、奇跡的に九死に一生を得た。
  鈴木は天皇から組閣の大命を受け、初めは異例の辞退を申し出るも、結局は日本史上最難局の総理大臣となった。昭和天皇の意
 を受け戦争終結に向けて動き出した鈴木は、阿南惟幾(あなみこれちか)を陸軍大臣に選んだ。阿南が陸軍内でも人気があり、全
 陸軍を統率し、政府との摩擦を避けられると考えたからである。さらに鈴木が侍従長だった時期のうち、阿南は4年間侍従武官を
 勤めたことがある。
 鈴木は表向き「徹底抗戦」を掲げていた。阿南を陸相にする際に陸軍が示した「戦争目的完遂」などの条件も丸呑みし、組閣翌日
 のラジオ演説でも「われわれが必死の覚悟を以て、すなわち捨て身であくまで戦い抜いていくならば必ずやそこに勝利の機会を生
 みまして、敵を徹底的に打倒し得ることを確信するものであります」と言っている。さらに「私の最後のご奉公と考えますると同
 時に、まず私が一億国民諸君の真っ先にたって死に花を咲かすならば、国民諸君は私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されま
 すことを確信いたしまして…」とつけ加えたが、この「屍を越えて行け」に込めた意味を鈴木は戦後「1つは機を見て終戦に導く
 、そして殺されるということ」「もう1つは命を国に捧げるという誠忠の意味だ」と語っている。
  一方の阿南は全陸軍を代表する立場であり、表に出た発言はすべて「徹底抗戦」であった。しかし阿南の秘書官は、阿南は陸相
 就任当初から終戦を考えていて「私との密談の席の言葉と他への言葉とは全く違っていた。鈴木総理も阿南陸相もその点では初め
 から腹芸をやっていたと言える」と証言している。
  日本がすぐ降伏に踏み切れなかったのは、国内の強硬派のせいだけではなかった。米国は1943(昭和18)年12月のカイ
 ロ宣言により日本に「無条件降伏」を求めていた。しかし1945(昭和20)年5月7日にドイツが無条件降伏し、鈴木内閣は
 ソ連に講和の仲介を依頼する方針を決め、初めて「講和」を口にした(ソ連は2月のヤルタ会談でドイツ降伏3ヵ月後に、日ソ中
 立条約を無視して対日参戦することを決めていた)。さらに6月22日の御前会議の冒頭で、昭和天皇は「これは命令ではなくあ
 くまで懇談ではあるが」と前置きした上で異例の発言をした。それは「…あくまで戦争を継続するという方針を決定したけれども
 、この際今までの観念にとらわれることなく、戦争終結についてもすみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを
 望むのであるが皆はどう思うか」というものであった。
 カイロ宣言:対日方針を協議するため1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催されたルーズベルト米大
       統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて12月1日に発表された。この会談で蒋
       介石は、ルーズベルトに対し天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した
       宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及し
       た宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。

3.7月26日 午前6時ポツダム宣言(米英支3国。ソ連は含まれず)傍受
 ポツダム宣言(口語訳)
 第1条  アメリカ、イギリス、支那は協議して戦争を終える機会を日本に与えることで合意した。
 第2条  アメリカ、イギリス、支那の3国は日本に最後的打撃を加える体制を整えた。
 第3条  我々の軍事力は日本の本土を壊滅することができるレベルになっている。
 第4条  日本は決定すべき時期が来た。
 第5条  我々の条件は以下のとおりで、それ以外の条件はない。遅延は認めない。
 第6条  軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する。
 第7条  日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する。
 第8条  「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、そして我々が決定する島に限定される。
 第9条  日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる。
 第10条 我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の捕虜を虐待したものを含む戦争犯罪人に対
      しては厳重に処罰する。日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の
      尊重を確立しなければならない。
 第11条 日本は、経済、産業を維持することを許されるが、再軍備の産業は除く。原料の入手は許可され、将来、世界貿易への
      参加も許される。
 第12条 前期の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに
      日本より撤収する。
 第13条 我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障することを要求する。そうでなけれ
      ば日本はすぐに壊滅されるだけである。

 翌日、閣議が開かれた。ポツダム宣言は、カイロ宣言(昭和18年12月1日)とは違って日本に「降伏条件」を提示しており
「無条件降伏」の方針を転換するものだった。その降伏条件は非常に厳しかったが、日本人を奴隷化するような意図はないと表明し
ていた。ただし天皇の地位については何も触れていなかった。これに対して阿南は「ポツダム宣言を受諾したわけではないのだから、ポツダム宣言反対意見を発表すべきだ。でないと軍の指揮にかかわり、前線が動揺する」と主張した。
天皇が護られない限りポツダム宣言は受諾できず、かといって完全に拒絶して和平の道を閉ざすわけにもいかないので、政府はとり
あえず公式見解はなしにして事態を静観し、なおもソ連の仲介に期待することにした。
 報道陣には「目立たないように報道すること。政府は無視の構えとつけ加えてもいい」と告げた。新聞は「笑止、対日降伏条件」
などの見出しを掲げたが、多くの国民は関心を示さなかった。しかし軍の第1線や強硬派からは、ポツダム宣言拒否を明確にするよ
う政府に迫る声が相次いだ。鈴木首相は仕方なく記者会見を開き、ポツダム宣言には積極的には答えないが新聞の質問に答える形に
した。政府は「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しで、重視する要なきものと思う」と発表し、国内の新聞はこれを「政府は黙殺
」とし国民に大々的に報道した。同盟通信は海外に向け「ignore(無視、黙殺)」と翻訳、これを米英の通信社は「reject(拒否、
拒絶)」と言い換えた。こうして鈴木首相の 「黙殺」発言が米国民を激昂させたという「神話」が作られた。

 ポツダム会談の前日7月16日に原爆実験が成功した知らせがトルーマン大統領に伝わり、トルーマンは7月25日(ポツダム宣
言発表の前日)に米軍に原爆投下命令を発令した。彼は2種類の原爆(ウラニウム型とプルトニウム型)による人体実験が必要であ
り、第2次大戦後のソ連に力の差を見せつけねばならなかったこともあり、原爆投下はなんとしても決行したかった、そのためには
原爆投下の前に日本に降伏されては困ると考えていた。一方米国務次官グルー(駐日大使を長く務めた知日派)は天皇の地位さえ保
証すれば日本は速やかに降伏すると確信しており、5月末に作ったポツダム宣言の第12条後半には、戦後に樹立される日本政府に
ついて「現在の皇室の下での立憲君主政体も含まれよう」という文言を加えておいた。この文言を加えなければ、天皇を中心とする
2000年来の日本の国家体制=国体は消滅し共和制に変えられてしまうかも知れない、日本が日本でなくなるかもしれないという
危機感から、日本側が降伏条件を受諾しそうにないことは目に見えていたからだ。ドイツ降伏後の昭和20年5月末から何度もトル
ーマンにそれを進言し、陸軍長官のスチムソンや他の政府高官たちも同じ認識を持ち、トルーマンに働きかけていた。しかしトルー
マンは日本が簡単には降伏できないよう、グルーの降伏勧告草案から肝心の「皇室存続」を保証する文言を削除してポツダム宣言を
発表した。
 一方ソ連はすでに前述したようにドイツ降伏3ヵ月後に対日参戦すると米英に確約していたため、日本の和平仲介の依頼に対して
態度を曖昧にして時間稼ぎをした。そして原爆投下の報を聞き、「日本が降伏する前に」ソ連は大急ぎで8月9日未明に宣戦布告し
たのである。
 長らく「日本政府は即座にポツダム宣言を受諾しなかったから原爆投下とソ連参戦を許した」というデマが信じられてきたが、今
では原爆 投下もソ連参戦もポツダム宣言公表以前から決まっていた規定路線だったことが証明されている。
  8月6日 広島原爆投下
  米側「即時降伏に応じない限り、他の場所にも原爆を落とす」と通告
  8月9日 ソ連参戦

4.8月9日 午前10:30「最高戦争指導会議」開催
    総理:鈴木貫太郎  外務:東郷茂徳  陸軍:阿南惟幾  海軍:米内光政
    参謀総長(陸軍最高指揮官):梅津美治郎
    軍令部総長(海軍最高指揮官):豊田副武
 鈴木首相は会議の冒頭「広島の原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を
受諾し、戦争を終結させる他はない。ついては各人のご意見を承りたい。」と切り出した。徹底抗戦を唱える阿南、梅津、豊田は完
全に機先を制され、ポツダム宣言受諾を前提に、日本側がつける希望条件についての討議となった。米内、東郷は国体護持すなわち
「天皇の国法上の地位を変更しない」の一点のみを条件とすることを主張した。鈴木もこの意見に近かった。一方阿南、梅津、豊田
は「国体護持」に加え、「占領は最小限の期間であること」「武装解除は日本人の手によって行なうこと」「戦争犯罪人の処分は日
本側で行なうこと」の4条件を提示し、連合国側が受け入れない場合はあくまで戦争遂行を主張した。1条件か4条件かで会議は紛
糾した。会議の最中、長崎に原爆投下の報が届いたが 、結論は出ないまま、午後から閣議の予定があったため会議は一時中断した。
一時中断のときに、鈴木首相は天皇に会議の報告を行なうが、その際「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお
助けをお願いいたします」と述べておいた。(後述)

5.8月9日 午後2:30 閣議開始
 東郷外務大臣は「1以外の条件は、連合軍は受け入れないだろう。絶対的な条件以外は差し控えたい。和平の時期を逃す」と述べ
たが、阿南は徹底抗戦論を展開し「武装解除の後では、連合国側に向かって『それでは約束が違う』と抗議してももうどうにもなら
ない。イタリアの先例もあり、その轍を踏んではならない。もちろん原子爆弾、ソ連参戦となった今、ソロバンずくでは勝ち目はな
い。しかし大和民族の名誉のため戦い続けているうちには何らかのチャンスがある」と論陣を張った。(阿南の後半の発言は予言的
であった。戦勝国が敗戦国の憲法を作りかえるなどということはハーグ条約違反であり、ポツダム宣言にもそのような条件は提示さ
れていなかったが、実際には占領軍はそれを平然と行ない、「それでは約束が違う」と抗議してももうどうにもならなかった)。海
軍は「国力がもたない」と発言したが、閣議は紛糾し、休憩を挟んで7時間に及んだ。
 阿南陸相の意思1つで内閣は簡単に崩壊する状況にあった。当時の制度では陸相・海相が辞任し、陸軍・海軍が後任を出さなけれ
ば、内閣は総辞職に追い込まれた。その後継内閣も陸海軍が大臣を出さなければ成立しない。阿南が辞職して鈴木内閣を崩壊させ、
さらに陸軍が後継内閣に大臣を出さず、組閣を不可能にして直接軍政を敷き、本土決戦を敢行するという事態も現実にはあり得た。

6.8月9日 午後11:50「最高戦争指導会議」(御前会議)開催
 「最高戦争指導会議」の6人に加え、平沼騏一郎枢密院議長と陸海軍両軍務局長、内閣総合計画局長官、書記官長が陪席した。特
に平沼枢密院議長は会議の正式なメンバーとされ、会議は通常の6名ではなく7名で行なわれることになった。憲法上、条約締結に
ついては会議で決定した後で枢密院に諮る必要がある。だがこの切迫した状況下ではそんな時間などない。そこで平沼議長を直接参
加させ、枢密院の手続きを省略してもいいようにする…というのが公式の理由だった。しかし平沼を参加させたのは他に重大な意味
があった。鈴木総理が閣議の経過を報告し、ついで東郷外相があらためて「1条件」案を説明した。これに対して阿南陸相は強硬に
「4条件」案を主張した。「1条件」案を主張したのは、東郷、米内、平沼であり、「4条件」案を主張したのは、阿南、梅津、豊
田であった。ここに平沼を会議に入れた理由があった。御前会議はもともと結論を決めておいて行なわれる「儀式」だったこともあ
り、総理大臣が務める議長は、あくまでも議事進行をつかさどるだけということになっていた。そのため通常の6人で会議を開けば
、鈴木首相を除いた5人では2対3で「4条件」案が有利となってしまう。ここはどうしても真っ向から対立して会議では結論が出
せないという状況にしなければならなかった。そこでポツダム宣言受諾へ傾いていた平沼を参加させたというわけだった。
 会議は3対3のまま膠着し、日付が変わって2時間余りすぎても決着の見通しは全く見えなかった。鈴木は「意見の対立がある以
上、はなはだ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮を以て本会議の決定とします。」と言った。そして昭和天皇
は「それならば意見を述べよう。私は外務大臣の意見に賛成である。これ以上の戦争継続は、わが民族を滅亡させることになる。速
やかに終結せしめたり」と 「聖断」を下した。

 散会後、吉積軍務局長が鈴木に詰め寄り「これでは約束が違う」と詰め寄ったが、阿南は鈴木首相の「騙まし討ち」のような手段
に対し「辞職」という伝家の宝刀を抜くどころか抗議ひとつせず、ただ吉積軍務局長に「もうよいではないか」と言った。天皇の聖
断が下ったといっても、憲法上これは単に「意見」に過ぎず何の法的拘束力もなく、閣議で決定し、改めて天皇の裁可を受けなけれ
ば国家の方針とはならないのである。そのため鈴木首相は直ちに閣議を再開した。

7.8月10日 午前3:00閣議再開
 閣議は御前会議の決定をそのまま採択し、午前4時全閣僚は必要な文書に署名し、ここに「国体護持」の1条件をつけてポツダム
宣言を受諾することが決定した。外務省は「条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に
、帝国政府は右宣言を受諾す。帝国政府は右の諒解に誤りなく、貴国政府がその旨明確なる意志を速やかに表面せられんことを切望
す」という主旨の電文を直ちに連合国に通告し、これに対する回答を待った。

8.8月10日 午前9時30分
 阿南は陸軍省高級部員全員を集め、「聖断によりポツダム宣言受諾」の報告をした。愕然とする一同に阿南は、もし国体護持の条
件が容れられなければ戦争は継続されると述べた上で、全軍の一糸乱れぬ団結を訴え、特に声を強めて言った。阿南は陸軍内の統制
が取れなくなる事最も危惧していた。現にこの日以降、陸軍は降伏を受け入れようとする者と、あくまでも徹底抗戦しようとする者
が無秩序に交差し、揺れ始めた。

9.8月12日午後0:45 アメリカからの回答届く
(1)降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のためその必要と認むる措置をとる連合軍最高司令官の
   制限の下に置かる(=subject to)ものとす。
(2)最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす。

   特に問題となったのは、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に「subject to」するというものだった
  (subject to~ 「~に従わねばならない 支配を受ける、従属する」)。外務省は軍の反発を恐れてこれを「制限の下に置
   かる」と訳したが、陸海軍も通信を傍受し、「従属する」「隷属する」と訳していた。これでは日本を連合国の属国とする
   という条件にも解釈できる。軍の抗戦意識は再び強烈になった。陸軍の中堅将校の中では、和平派を一掃する軍事クーデタ
   ー計画まで動いていた。その計画は全軍一致のクーデターを考えており、全陸軍を動かせる人物である阿南を担ぐことが前
   提となっていた。依然として阿南の態度1つで日本の運命が左右される状況は続いていた。

   では天皇制問題に対する、この時点におけるアメリカの真意はどうであったのか。この時点ではまだ結論が出ていなかった。
   8月10日の日本からの申し入れについて、トルーマン大統領は、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、リーヒ元帥
   と協議したが、スティムソンとリーヒは「日本の申し入れを承認すべきだ」と述べた。しかしバーンズは、日本側が持ち出
   した条件を受諾する形はとりたくないという理由から「回答の形式は連合国側から新たな条件を出した形にすべきである」
   と主張し、その場でペンをとって起草したのがこの回答であった。トルーマンがこれに賛成し、英支ソ3国の同意を得て日
   本に通達されたものであった。

10.8月12日 午後3:00 閣議開催
  東郷外相は「回答は満足なものではないが、戦争続行が不可能である以上、ここで交渉をまとめるべきだ」と主張した。これ
 に対して阿南は「回答の真意を再照会すべきだ」と主張、さらに強硬に受諾反対を唱え続け、クーデターを計画する将校たちも
 阿南を頼りにした。
11.8月13日 閣議開催
  鈴木首相は「忠誠を尽くす臣下の側から見れば、戦い抜くことも考えられますが、自分たちの気持ちだけは満足できても日本
 の国はどうなるか、まことに危険であります。こういう危険をご承知の上で(陛下が)聖断を下されるからには、私たちはその
 下にご奉公する以外に道はないと信じます。私は本日の模様を陛下にありのまま申し上げて、重ねてご聖断を仰ぐつもりです」
 と述べて閣議は終了した。阿南は閣議で全く孤立したが、陸軍省には「諸君の意図が閣議において了解される希望も十分あるか
 ら、諸君はしばらく待っておるように。自分が帰るまで静かにしているように」と嘘の電話をかけ軍の暴走を抑えようとしてい
 た。(大本営報道部の若い将校が「皇軍は新たに勅令を拝し、米英支ソ4カ国軍隊に対し、作戦を開始せり」という偽の大本営
 発表をマスコミに流し、ラジオ放送数分前に取り消されるという危機一髪の事態もおきていた。)

  翌日に御前会議を開き、再び聖断を仰ぎそこですべてが決まることはあまりに急であり、抗戦派の暴発を恐れた阿南は、閣議
 後総理室を訪ね、御前会議を2日延期するように願い出た。しかし鈴木総理は「遅れるとソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりでなく
 北海道にもくるだろう。そしてドイツ同様に分割される」と考え、聞き入れなかった。その夜、官邸の阿南を義弟の竹下正信中
 佐が訪ねた。竹下はクーデター計画の首謀者であり、阿南がクーデターに同意すると思い、その計画を説明したが、阿南は明確
 には意思を示さなかった。クーデターは8月14日午前10時ごろ決行の予定だったが、その3時間前、阿南は梅津参謀総長に
 クーデター計画を話すが、梅津は絶対反対を唱え、結局クーデターは不発に終わった。この阿南の対応には、さすがにあまりに
 優柔不断という批判があるが、一方初めから反対するとかえって抗戦派が暴走する危険があったため、梅津が賛成するわけがな
 いと見越した上で計画を話したという見方もある。

  一方鈴木総理は御前会議を開くと決めたものの、「騙まし討ち」のような手はもう使えず、参謀総長、軍令部総長が判を押さ
 なければ御前会議は開けない。そこで「天皇直々の召集」という手段を採った。鈴木総理と木戸内大臣の奏上に天皇は即座に同
 意し、さらに会議には最高戦争指導会議のメンバーだけではなく、閣僚全員を出席させることになった。

12.8月14日 午前10:50 最高戦争指導会議(含む全閣僚) (御前会議)
  会議では、ポツダム宣言受諾に反対のものだけが意見を述べることになり、阿南、梅津、豊田が最後の主張をした。最後に天
 皇が「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前言ったことに変わりはない。私は国内の事実と世界の現状を十分考え
 て、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は
 悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのま
 ま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわか
 る。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持ちもよくわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けた
 いと思う。できることは何でもする。マイクの前にも立とう。陸海軍将兵を納得させることが困難を感ずるのであれば、どこへ
 でも出かけ説き伏せる。内閣は至急、終戦に関する詔書を用意すること。」と述べ、2度目の聖断が下った。(突如号泣の声が
 起き、阿南は立ち上がる天皇にとりすがるようにして慟哭したが、天皇は「阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、
 私には国体を護れる確信がある」と述べたという。)

  天皇の聖断だけではまだ法的拘束力はない。閣議決定前に阿南が辞職し内閣が崩壊すれば、終戦の決定が無効になる可能性は
 まだ残っていた。だが、阿南にその選択肢はなかった。午後の閣議の前に阿南は陸軍省に帰り、大臣室に詰めかけた抗戦派の青
 年将校たちに御前会議の報告をした。阿南を信頼し、徹底抗戦を信じていたものたちは愕然とし、阿南に決心変更の理由を詰め
 寄ったが、阿南は「聖断は下った。今はそれに従うばかりである。不服の者は自分(阿南自身)の屍を越えてゆけ」と言った。

13.8月14日 午後閣議開催
   誰一人異議なく、全閣僚がポツダム宣言受諾の閣議決定書に署名した。その後の審議は「終戦の詔書」の文案の討議となり多
 少の紛糾があったが、証書は午後8時半に完成。午後11時、詔書のすべての手続き完了。

14.8月15日 午前4時40分  阿南惟幾 割腹自殺 介錯を断り、午前7時10分絶命。
   「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」昭和20年8月14日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ
   「大君の深き恵に浴みし身は 言いのこすへき片言もなし」
   実際に阿南が切腹したのは日付の上では15日だが、遺書の日付は14日になっている。自決の直前、阿南は14日が父親
   の命日であり、また15日の玉音放送を聴くに忍びないという意味から14日ということにすると語った。一方自決が20
   日では遅くなるとも言っていた。阿南の自決については、戦後処理を投げ出して無責任だという見方もある。実際、自決の
   直前、青年将校畑中健二少佐らが近衛師団長を殺害 し、偽命令を発して玉音放送の録音盤を奪取しようとする事件が起こっ
   ていたが、何も手を打たないまま自決を実行している。

   一方軍事課長荒尾興功氏によると「陸軍は昭和20年8月14日朝までは、戦争を継続すべきであると考えていた。しかし
   この日から、ポツダム宣言受諾の天皇の命令に即刻添わねばならぬことになった。この天皇の命令に全陸軍が直ちに従うた
   めには、単なる命令だけでは徹底しない。電撃的ショックを必要とするのである。全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹
   こそ全軍に最も強いショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。これにより全陸軍は戦争継続からポ
   ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。それまで激烈な戦争継続要請の電報が前線から来ていたが、ピタリと止んだ。
   換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった」であり、そのためにはやはり、阿南の自
   決は終戦の詔書と同じ日でなければならなかった。阿南は自分の命と引き換えに、天皇の聖断を現実に効力のあるものとし
   たのだった。

15.東京裁判におけるポツダム宣言への言及
    裁判中に弁護側から出された反論のうち、特に重要だと思われる「管轄権問題」すなわち「その法廷が被告を裁く法的権限
  ・資格があるか 否かを問う問題」に関して、ポツダム宣言の内容がどのように扱われたかを、当時のことばをできるだけ引用
  しながら再現してみる。

  清瀬弁護人
    「当裁判所においては『平和に対する罪』『人道に対する罪』について裁く権限はない。言うまでもなく、当裁判所は連合
   国が昭和20年 7月26日ポツダムにおいて発した降伏勧告の宣言の中の、第10条に述べられている『…吾等の俘虜を虐
   待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし…』という条項が根源である。一方第5条には
   『吾ら連合国の条件は、左の如し…我らは右条件より離脱することなかるべし、右に変わる条件存立せず』と明記してあり、
   第6条から第13条までその条件が列記されている。それゆえにポツダム宣言の条項はわが国を拘束するのみならず、ある意
   味においては連合国もまたその拘束を受けるものであって、この裁判所はポツダム宣言第10条において戦争犯罪人と称する
   者に対する起訴を受けることはできるが、同条項で戦争犯罪人と称していない者の裁判をなす権限はない。 本法廷の裁判所
   条例においては、『平和に対する罪』『人道に対する罪』という文言があるが、その当時まで世界各国において知られていた
   戦争犯罪の意味は、戦争の法規、慣例を犯した罪という意味である。
   その実例として
    1.交戦者の戦争法規違反
    2.非交戦者の戦争行為
    3.略奪
    4.間諜(=スパイ行為)および戦時反逆
    この4つが戦争犯罪の典型的なものだ。しかし戦争自体を計画すること、準備すること、始めること、および戦争それ自体
    を罪とするということは、昭和20年7月当時の文明国共通の観念にはなっていない。」

   つまり清瀬は、「ポツダム宣言では、『戦争犯罪人』を裁くと言い、われわれもそれを承諾した。しかるに戦争が終わって裁
   判所が設けられると、国際法が定めた『戦争犯罪人』ではなくて、戦争法規にも慣例にもないいまだかつて聞いたこともない
   『平和に対する罪』『人道に対する罪』などという全く新しい法概念を持ち出して、それに当てはめて被告を裁こうとしてい
   る。これは違法ではないか。ポツダム宣言は条約である。連合国といえども、これを遵守する義務がある。敗戦の弱みにつけ
   入って、戦争犯罪人でもない者を新しい法規まで作って裁くとは何事か、それは法の原則である事後法の禁止を犯すことにな
   りはしないか。これは本裁判所の管轄権外である。連合国から委任されたマッカーサー司令官がこのような裁判所条例を制定
   してこれで裁けというのは越権行為ではないか」ということを述べた。 これに対して、当然のことながら検事側から激しい
   反発があった。しかしそれは、感情論や戦勝者の敗戦者に対する威圧的言論にすぎなかった。キーナン検事は「本法廷に代表
   を送った11ヶ国を含む多くの国家は、枢軸国の侵略戦争により多くの人的物的資源を損失したにもかかわらず、この侵略国
   家の残虐行為に対し、これを処罰し得ない理屈があるだろうか。11ヶ国は武力によりこの侵略戦争を終結させたのに、この
   侵略戦争の責任者をなんら処罰することなく、不問に付することができるだろうか」といった調子で復讐裁判の本質を露呈し
   たが、それは清瀬氏の法理論に対する反駁ではなかった。さらに清瀬は発言を続けた。

   「ドイツとわが国とは降伏の仕方が
   違う。ドイツは最後まで抵抗して、ヒトラーも戦死し、ゲーリングも戦列を離れ、遂に崩壊してしまって、全く文字通りの『
   無条件降伏』をした。それゆえに、ドイツの戦争犯罪人に対しては、もし極端に言うことを許されるならば、連合国は裁判な
   しで処罰することもできたかも知れない。しかしわが国においてはまだ連合国軍が日本本土に上陸しないうちにポツダム宣言
   が発せられた。その第5条には連合国もまたこの条約を守るであろうと明記されていていくつか条件を示している。わが国の
   政府はこの条件を受け入れてポツダム宣言を受諾したのであって、決して無条件降伏ではない。ニュルンベルク裁判で「平和
   に対する罪」「人道に対する罪」で起訴しているからといって、それを直ちに東京裁判に当てはめるということは絶対に間違
   いである。連合国は今回の裁判の目的のひとつが国際法の尊重であると言っている。されば、国際法の上から見て、戦争犯罪
   の範囲を超越するというようなことはまさかなかろうと、我々は固く信じていた。しかるに日本がポツダム宣言を受諾した後
   、勝手にその字義の解釈を変更するとは理解に苦しむ。ポツダム宣言は昭和20年7月26日現在、日本と連合国との間にあ
   った戦争を終結させるための国際上の宣言である。ゆえに戦争犯罪の範囲も、我々の言う大東亜戦争、あなた方の言う太平洋
   戦争中の犯罪のみに限定すべきものであって、それ以前においてすでに終了した戦争の犯罪人まで起訴できるものとは断じて
   考えられない。(中略)ポツダム宣言には「…戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ…」と書いてあるが、戦争
   を計画し準備したものを処罰するとは書いていない。国際連盟でも戦争は非難しているが、侵略戦争をやった国の個人を犯罪
   者にするという規定はない。ハーグ陸戦協定(1907年制定)でも条約違反を犯罪とはせず、条約に違反した国の指導者個
   人を犯罪人であるとはしていない。パリ不戦条約(1928年制定)でもほぼそれと同様、違反国を犯罪国とはしていない。
   ましてその国の指導者を犯罪者とはしていない。両検事(キーナンとコミンズ・カー)とも文明の擁護のためにこの裁判を行
   うのだと言われるが、それは私も同感だ。しかし文明の範疇の中には、条約の尊重、裁判の公正も入っていないだろうか。も
   しもポツダム宣言の趣旨が私の申すとおりであるなら、今までの行きがかりにとらわれず、断然この起訴を放棄することが文
   明の名に値する処置であると考える。」

   このように清瀬はポツダム宣言の降伏条件にもとづいて「管轄権問題」を論じ、裁判の不当性を断固貫こうとした。
16.休戦協定(降伏文書)の調印
  1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の前方甲板上において、日本と連合国との間で休戦協定
 (降伏文書)の調 印が行われた。重光葵(外務大臣)、梅津美治郎(参謀総長)、ダグラス・マッカーサー(連合国軍最高司
  令官)ほか9人が書名している。


 下名ハ(注:=下に署名した者は)茲ニ(注:=ここに)、合衆国(注:アメリカ)、中華民国及「グレート、ブリテン」国(注:イギリ ス)ノ政府ノ首班ガ1945年7月26日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦(注:ソ連) ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ、 日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス。右4国ハ以下之ヲ聯合国ト称ス

 下名ハ茲ニ日本帝国大本営竝ニ
(注:=並びに)何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国 ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス

 下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国臣民ニ対シ敵対行為ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機竝ニ軍用及 非軍用財産ヲ保存シ之ガ毀損
(注:=棄損)ヲ防止スルコト及聯合国最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ日本国政府ノ諸機関ノ課スベキ一切ノ要 求ニ応ズルコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支 配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ一切ノ官庁、陸軍及海軍ノ職員ニ対シ聯合国最高司令官ガ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ其ノ委任ニ基キ発セシ ムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スベキコトヲ命ジ竝ニ右職員ガ聯合国最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カ レザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ

 下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求 スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル
(注:=かかる)一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

 下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ聯合国俘虜
(注:=捕虜)及被抑留者ヲ直ニ解放スルコ ト竝ニ其ノ保護、手当、給養(注:物を与えて養うこと。)及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ

 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス

1945年9月2日午前9時4分日本国東京湾上ニ於テ署名ス

大日本帝国天皇陛下及日本国政府ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ
重光葵

日本帝国大本営ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ
梅津美治郎

1945年9月2日午前9時8分東京湾上ニ於テ合衆国
(注:アメリカ)、中華民国、聯合王国(注:イギリス)及「ソヴィエト」社会主義共和国聯 邦(注:ソ連)ノ為ニ竝ニ日本国ト戦争状態ニ在ル他ノ聯合諸国家ノ利益ノ為ニ受諾ス

聯合国最高司令官
  ダグラス、マックアーサー
合衆国
(注:アメリカ)代表者
  シー、ダブリュー、ニミッツ
中華民国代表者
  徐永昌
聯合王国
(注:イギリス)代表者
  ブルース、フレーザー
「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦
(注:ソ連)代表者
  クズマ、エヌ、ヂェレヴィヤンコ
「オーストラリア」聯邦代表者
  ティー、ユー、ブレーミー 「カナダ」代表者
  エル、コスグレーブ
「フランス」国代表者
  ジャック、ルクレルク
「オランダ」国代表者
  シェルフ、ヘルフリッヒ
「ニュージーランド」代表者
  エス、エム、イシット

17. 無条件降伏なのか?
  「ポツダム宣言」は日本国軍隊の無条件降伏であって、日本国の無条件降伏ではない。ポツダム宣言が要求しているのは、「 日本国政府が 日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障すること」である。日本はポツダム宣言の諸条件のもと に降伏したのであって、日本の「主権」まで占領軍に差し出したわけではない。 しかし、降伏文書には、バーンズが8月12日 に回答したのと同じく「国家統治の権限は 、連合国最高司令官に"subject to"する(連合国最高司令官の制限の下に置かるるも のとす)があり、日本が「無条件降伏」したかのような 誤った考えを日本国民に信じ込ませた。日本は一切の反論を許されず、 あたかも「無条件降伏」したかのごとく占領統治に徹底的に服従させ られたのである。

  「ポツダム宣言受諾は無条件降伏?(平成25年11月28日産経)   衆院文科委員会で論争 教科書記述も分かれる  先 の大戦で日本は「無条件降伏」したのか、それとも「条件付き降伏」だったのかー。衆院文部科学委員会で27日、こんな議論 があった 。下村博文文部科学相は「事実上の無条件降伏だったと思う」とし、西川京子副大臣は「大変大きな問題で、文科省だ けで発言していいとは 思えない」と答弁した。無条件降伏か否かは、現行の教科書でも記述が分かれており、今後の議論が注目 されそうだ。自民党の池田佳隆氏が 「戦後レジーム(体制)からの脱却をはかる上でも、先の大戦で日本が無条件降伏したかど うかは重要な問題だ」と主張し、文科省の見解を ただした。下村氏は、事実上の無条件降伏との認識を示しつつも、「(無条件 降伏の定義について)一概に答えるのは困難だ」とかわした。  先の大戦で日本が受諾したポツダム宣言には、「われら(連合 国)の条件は左のごとし」として、日本の主権の及ぶ範囲などの条件が示さ れていた。しかし戦後は「無条件降伏」との認識が 広まった。」

18.GHQによる主な占領政策
 連合国総司令部(GHQ)の指揮の下に日本政府が置かれるかたちで占領統治が行われた。GHQは実質的にはアメリカが単独で運営し、 主に次のような施策が実施された。
  (1) 陸海軍の解体
  (2) 言論、思想および宗教の自由 
~実際には検閲や焚書が行われた。
  (3) 報道の自由 
~実際には報道統制が行われた。
  (4) 教育改革
  (5) 財閥解体
  (6) 農地改革(大地主の解体)
  (7) 公職追放
~GHQの意向に沿わない者も含まれている。
  (8) 戦争犯罪者の処罰〔東京裁判のほか、南京(中華民国による)・マニラ・ニュー デリー・ハバロフスク・瀋陽(1956年、   中華人民 共和国による)その他でも軍事裁判が行われた〕
  (9) 新憲法の策定
  (10)公務員のスト禁止
  (11)ドッジ・ラインによる緊縮財政
  (12)単一為替レート(1ドル=360円)の設定
  (13)シャウプ勧告による税制改革

参考文献・資料
  「昭和天皇論」 小林よしのり 幻冬舎
  「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」 角田房子 PHP文庫
  「真の日本の友 グルー」 廣部 泉 ミネルヴァ書房
  「日本のいちばん長い日」 DVD
  「Wikipedia ポツダム宣言」