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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 反日熟考                              平成26年1月26日 


はじめに 
  反日、排日、抗日、侮日、克日、嫌日と日本を相手取って非難・対決する用語はたくさんある。
 特定の国名をあげてこれに対抗しようとする言葉をこれほど豊富に持っている国は世界広しといえども唯一日本だけであろう。
 (最近韓国では「用日」という語が表れているという)

  呉善花は『虚言と虚飾の国・韓国』という著作の中で次のように述べている。
  〈戦後の韓国・北朝鮮の反日主義は、日本統治を直接の原因として立ち起こった政治思想ではない。伝統的な侮日観を、民族
   国家の政治的・文化的なレベルでの侮日へと組織することで成立した反日主義なのである。
   戦後のインドになぜ強固な反英主義がみられないのか。ベトナムになぜ強固な反仏主義や反米主義がみられないのか。東南
   アジア諸国になぜ強固な反日主義がみられないのか。政治的な関係が変われば、政治的な反英や反仏・反米を強固に持ち続
   ける理由がなくなるからである。そしてそれらの地域には、歴史的な侮英観、侮仏観、侮米観、侮日観などの伝統がなかっ
   たからである。〉

  そして彼女は、この侮日・反日の背景には2千年近く続いている華夷秩序及び小中華主義があるとしている。したがって華夷
 秩序の及ばない欧米や東南アジア諸国においては反日が唱導されることはないというのである。ところが以下本稿に述べるよう
 に、反日には呉善花の考える以上に広く奥深い世界が存在することがわかった。
  反日と反米、それが戦後日本社会の一大特徴である。嫌中・嫌韓という言葉は目にすることがしばしばあるが、不思議にも反
 露・反中・反韓という言葉を耳にすることは少ない。「嫌」は気持ちだけの表現に止まるが、「反」には時として強い政治的・
 思想的な意味が込められている場合がある。

  在特会(在日特権を許さない会)の叫ぶ反対活動は、その範囲は日本国内に限られており、在特会の反対はどちらかといえば
 嫌に近く、朝鮮半島における韓国の存在そのものに反対しているわけではない。ところが韓国人や支那人の叫ぶ反日は日本列島
 に も及んでいるのである。いや日本列島どころかアメリカ大陸にもヨーロッパにもほぼ世界じゅうに広がっている。

  さらに反日の極めて特異な点は、国内の日本人のなかにも反日分子が多数存在し、その反日日本人の言動によって、古今東西
 例を見ないような祖国への背信が創造され、培養され、海外へ発信されているのである。それがアメリカ国内に組織された反日
 組織によって増幅され、こだまのように欧米人の声となって返ってきている。アメリカはまさに反日の増幅装置と化しているの
 である。

  現在までのところ、日本政府特に外務省あるいは政党が、この反日問題をわが国の将来を左右するおそれのある重要問題とし
 て正面から取り上げたことは寡聞にして聞かない。支那共産党及び韓国の行っている世界的反日活動について、それは日本及び
 日本国民を不当に貶めるものだといった反論をしたということも聞かない。明らかな事実誤認とわかる慰安婦問題などについて
 現地領事などが若干の事実を提示する程度のものでしかない。いわゆる日本人特有の大人の対応ということであろうか。

  しかし、支那共産党と韓国の反日は常軌を逸するほどに激しいものであり、これが長期間世代を越えて継続されれば、大きな
 災厄となって将来の日本国民に降り注ぐ可能性は決して低くなく、私たちは今日行われている反日について熟慮し、凛とした適
 確な対応をとることが迫られているのである。

1 支那における反日の起源

  反日は明治以前の世界にはなかったことは確かである。その起源は、どんなに溯っても明治33(1900)年に起こった北清事変
 (義和団の乱)以降にある。日清戦争で清国を圧倒した日本が、西欧列強と肩を並べ強国化するとともに生じたのが排日・抗日
 であり反日であった。つまり日本が強国にならなければ起こり得なかった現象、それが反日である。

  北清事変は、義和団と称する宗教秘密教団が中核となった農民・都市労働者・知識階級等による一大排外運動、特に西欧列強
 の帝国主義的侵略のお先棒を担いでいたキリスト教布教活動への反発を端緒とするものであり、蜂起した当初は「反清復明滅洋
 」を掲げていたが、西太后がこの反乱を支持すると「扶清滅洋」に変わり、清朝が欧米列国に宣戦布告したため北清事変という
 国家間紛争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強連合軍は天津・北京を制圧、清朝は降伏し、莫大な賠
 償金の支払いを余儀なくされ、下記に示すごとく清朝が事実上独立国とはみなせないような条約が列強と清国との間で締結され
 た。
    ① 清国の武器弾薬及び武器弾薬の原料の輸入の禁止
    ② 賠償金4億5000万両(6億2400万円)(清朝年間歳入の約5倍)の支払い(年利4%39年間分割払)
      (利息を含めると8億5000万両、その後減免を受け1938年6億5000万両支払って完済)
    ③ 各国公使館区域の清国主権の放棄
    ④ 大沽(天津市)砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台の完全撤去
    ⑤ 
海岸から北京までの自由交通を阻害しないための列国の占領軍の駐留
    ⑥ 外国人殺害のあった市府の5年間の科挙受験禁止
    ⑦ 
排外運動の禁止と清国政府による厳しい取り締まり
    ⑧ 列国が有用と認める通商及び航海条約の修正等に関する検討

  この北京議定書は辛亥革命によって清朝が滅亡し中華民国が成立した以降も見直されたことはなく、第二次世界大戦の終了まで
 事実上有効であり維持されたという事実は重要だ。盧溝橋事件や第2次上海事変において「なぜ日本が支那の領域深くまで駐留軍
 を置いていたのか、それ自体が侵略行為であり、その侵略的行為が日支事変(彼らの言う日中戦争)拡大の原因だ」と言うおそまつ
 な歴史家が多く、大多数の歴史教科書はそれを前提に記述している。

  日本からすれば北京議定書に基づく正当な権利の行使に基づいた合法的駐留だった。日本を含む8ヶ国の列強は、辛亥革命後、
 複数の腐敗した軍閥が割拠し、外国人への襲撃が相次いだ支那本土で、居留民や領事館等を保護するため各地に軍隊を駐留させる
 ことはやむを得ず、実態的にも不可欠かつ正当な措置であった。

  義和団の主敵はキリスト教教会を中心とする西洋文化・文明と西洋人であったが、日本も北京や上海などで欧米諸国とともに外
 国人居留地にいたため、外国勢力の一つとして攻撃の対象となった。その排外主義が日露戦争と第1次世界大戦の戦勝国となった
 日本の支那権益の拡大に伴い抗日へと変容していったと考えられるものの、その変容の過程には不可解な部分が多い。

  北清事変に際して最も大きな働きをしたのは日本であった。そして最も寛容で人道的な対応をしたのも日本であった。日本軍が
 外国軍隊と協同して戦ったのはこの北清事変が最初である。本事変を通じて日本軍の際立った軍紀厳正さと勇敢さが列国の称賛す
 るところとなった(イタリア、ロシア等西欧の兵士が余りにも臆病・卑怯・非道・無規律だったために余計に目立った)。

  連合軍による天津城への攻撃では、日本軍の損害が最も大きく、連合軍死傷者総数約600名のうち日本兵の死傷は250余名、死
 者は51名のうち50名という大被害を受けたにもかかわらず、天津陥落後、列国兵は掠奪、放火、強姦の限りを尽したのに対し、
 日本兵には暴虐行為を働く者はほとんど見られず、天津の清国人は「大日本順民」と書いた日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表
 明したといわれる。(ウッドハウス瑛子『北京燃ゆ/義和団事変とモリソン』)。

  北京籠城戦における公使館付武官柴五郎中佐の高い指揮能力と緻密な作戦能力、明朗な性格と行動能力の素晴らしさ並びに勇敢
 で我慢強く規律厳正な日本兵は、籠城した欧米十か国の公使館員や清国人(教民)すべてに賞賛と感謝の念を抱かせた。また日本
 軍が主力となって北京公使館区域の籠城者を救出したニュースは広く世界の知るところとなり、称賛を博した。上記『北京燃ゆ』
 によれば、1900.8.28付ロンドンタイムス社説は「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交
 団の虐殺とか国旗侮辱を免れ得たのは、ひとえに日本のお蔭である。日本は欧米列強の伴侶たるに相応しい国である」と書き、同
 日付スタンダード紙社説は「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正
 さ、その勇気溌溂たるは、真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」と激賞するなど、英紙はこぞって日本及び日
 本軍を絶賛した。

  公使館区域を救出・開放した後、連合軍は北京城内を国別に分割管理した。その中で日本区域は治安維持が最も優れており、「
 英米の管轄区域は仏露の区域よりは良かった。しかし、日本軍のそれと比べると遠く及ばなかった」と評された。特に酷かったの
 はロシア地区で、軍紀紊乱のため、露兵(将校も含む)は暴徒と化し、虐殺・放火・強姦など蛮行の限りを尽した。その結果ロシア
 地区では、「死よりも甚だしいことが毎日くり返され、階上から飛び下りて死を図るもの、水に投じて死ぬもの、縊死するもの、
 御用済みの後で殺されるなど悲運の婦女子があり、ここから日本地区へ避難する人々まるで洪水の如くであった」という。
 (ジョージ・リンチ『文明の戦争』)
  たまりかねた聯芳・北京市長は8月19日、英公使に苦情を訴え、ロシア兵の残虐行為の実例を列挙して「男は殺され、女は暴行
 されている。強姦の屈辱を免れるために婦女子の自殺する家庭が続出している。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、是非
 取計らって欲しい」と哀願したことが記録されている(『北京燃ゆ』より)。

  義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったのは日本であったが、日本は賠償金の要求においては列強に比し控えめで
 あった。最も多額の賠償金を要求したのは、籠城者救出を妨害(連合軍協同作戦の無視・抜け駆け)しようとした上、救出には日
 本の4割しか出兵しなかったロシア(1億8000万円)であった。次は、北京救出に一兵も参加しなかったドイツ(1億3000万円)、
 第3位は日本の50分の1の出兵しか行わなかったフランス(1億600万円)、第4位はイギリス6500万円)という順であった。
 我が国は第5位(5000万円)の要求で甘んじた。因みに第6位は日本の20%しか出兵しなかった米で4500万円であったが、後に
 これを図書館や大学の建設という形で返還した(『北京燃ゆ』より)。

  ロシアとドイツが分け前を求めて醜い争いをしたのとは対称的に、我が国がその功績にもかかわらず賠償金要求で自制したこと
 は、清国の人心に日本への感謝と信頼を生み、日本へ留学する清国学生の急増を見るに至る一因になったといわれる。

  延べ数万人もの支那人留学生が、明治29(1896)年から明治44(1911)年までのわずか15年間に、日本の帝国大学等官立大学、
 早稲田・法政等の私学、高等師範学校、高等学校、専門学校、女学校及び軍学校に押し寄せた(下表参照)。それは世界の留学史上
 前例のないことであった。
  また、軍事留学生についてみれば、清朝政府による最初の派遣は1898年の48名であり、彼らは日本の軍事教育の予備学校であ
 る成城学校に入学した。1903年に成城学校が支那軍事留学生の受け入れを停止するまで、1900年に45人、1901年に30人、    1902年 に7人、1903年に93人の、合計175人の卒業生を輩出した。1903 年から支那人軍事留学生に対する予備教育を実施する
 機関が振武学校に変わった。振武学校を卒業した後に、士官候補生として各連隊に配属され、1年の軍事教育を受けた後に陸軍士
 官学校に入学した。

  陸軍士官学校には明治34(1901)年に大挙として40名が、それ以降昭和2(1927)年まで25名を定員として留学してきた。統計資
 料が紛失したため、正確な修了生の人数は把握できないが、1914年の閉校までに1000人以上の支那人の軍事人材を育成したこと
 は疑いがないとされる。

   表-1 明治40(1907)年12月現在における文部省直轄学校の支那人留学生の在籍者数
   
学校種別   学生総数   学校名(学生数)
帝国大学    45 東京帝大(35)、京都帝大(10)
官立大学   19  札幌農科大(19)
高等師範学校   46  東京(44)、広島(2)
高等学校    58 一高(31)、二高(5)、三高(13)、五高(3)、七高(6)
専門学校    195 盛岡高農(9)、東京高工(73)、大阪高工(23)、京都工芸(2)、東京高商(41)、
東京外語(15)、東京美術(4)、東京音楽(9)、千葉医専(18)、長崎医専(1)
合計   363


  表-2 在東京公私立学校の支那人留学生の在籍者数(1907 年12 月)
学校区分 学生数 主な学校名・学生数
専門学校 3422 法政1,125、早稲田820、明治454、日大109、中央104、慶応義塾11
予備学校 2608 宏文学院911、経緯学堂542、東斌学校321、振武学校286、成城学校110、実践女学校47
            出典:高 明珠著『日本留学生の歴史的貢献からみた清末留学生派遣政策の効果』より(Web)
                       *なお平成23年度の支那留学生数は87,533人(文科省調べ)である。

  北清事変後このような親日的な状況が生まれたにもかかわらず、悪逆の限りを尽くした白人列強への排外気分は忘れられ、抗日
 一辺倒へと変化していった理由は何であったのだろうか。
  支那における排日運動の先駆けとなったのは、北清事変の8年後の明治41(1908)年、マカオ沖で起きた日本船第二辰丸の拿捕
 事件であった。この事件は、アモイのポルトガル人銃砲商が発注した銃器、弾薬及び石炭等を積載して神戸を出た第二辰丸がア
 モイ前面の水域において清国巡視船に武器密輸の嫌疑で拿捕され 、日章旗を撤去され、広東に回航されたのに対し、日本が清国
 政府に対し武力を背景とした強硬な交渉を行い、船及び乗組員の釈放、損害賠償、謝罪礼砲、兵器買収など5カ条の要求を受け入
 れさせたというものである。事件発生地である広東の民衆はこれに憤慨し、辰丸が釈放される日に国恥記念大会を結集し、日貨
 排斥を決議した。いわゆるボイコットである。この運動は、広東省内はもちろん支那全土へもおよび、不況下の日本へ深刻な打
 撃を与えた。

  これ以前にも欧米の強硬な対支政策に対し無力な清朝政府に憤慨した支那人民衆が政治的武器としてボイコット運動を行う例
 は見られた。昭和6(1931)年までの約25年間に大規模な日貨排斥のボイコット運動は9回も行われた。
  初期のボイコット方式は、排斥する国の商品を買わないようにすることに止まっていた。しかし次第に運動の範囲は広がって、
 その国に対して支那の商品を輸出しない、あるいは支那にいる日本人に対してすべてのサービスを拒絶するといったふうに拡張
 されていった。そしてついに日本との間のすべての経済関係を完全に遮断するようになった。

  昭和に入るとボイコット組織に決定的な変化が起こった。支那国民党はその創設以来、ボイコット運動を支援してきたが、次
 第に脇役から主役となり、民心を刺激するために巧妙に選ばれた評語や支那全土で統一的に実行された猛烈な宣伝などによって、
 商工組織・学生組織など諸団体を調整し、その方法を組織化し、統一し、強力な党組織による精神的・物質的重みを加えるように
 なった。政府による公然とした反日運動が常態化したのである。

  支那民衆に対して「日貨不買」が愛国的な義務であることを印象付けるためにあらゆる手段がとられた。支那の新聞紙面はこ
 の種の宣伝で満たされ、市内の建築物の壁は不買を訴えるポスターで覆われた。それらのポスターにはしばしば激烈に反日的な
 ものがあり、反日標語は、紙幣、電報用紙などにも印刷されていった。

  上海には「上海反日会」が組織された。昭和6(1931)年7月に開催された「上海反日会」の第1回会議では日本製商品の排除の
 ための4原則が宣言された。
  ボイコットは商売だけに限られなかった。支那人は日本の船で旅行をしたり、日本の銀行を利用したりすることを禁じられ、
 業務上であれ私事であれ、いかなる資格においても日本人に仕えることがないよう警告され、こうした命令を無視するものは各
 種の非難や脅迫に晒された。

  とはいえ主として経済的な手段による反日運動はいわば一過性のものであり、真の問題は国民党政府や張学良政府の行った青
 少年の教育にあった。諸学校の教科書は、外国特に日本への憎悪に満ちた不健全なナショナリズムで満たされ、「支那人は虐待さ
 れている」という被害者意識を強調したものであった。その結果、学校で植えつけられ、社会生活のあらゆる方面で実行されてい
 る毒々しいまでの排日宣伝は、学生を政治運動に駆り立て、両刃の剣となって時には国務大臣その他の官憲の身体や住まい、官
 庁などを襲わせ、さらには政府の転覆をはかるような事態を生起させたのである。



2 戦前支那における反日の変質・増幅
  
  支那における反日運動は、昭和12(1937)年に始まった第2次上海事変を機に大きな転機を迎えた。11月、国民党内部組織に対 外宣伝工作を所掌する「国際宣伝部」が設立され、その下部組織として「国際宣伝処」が置かれたのである。(図‐1参照)これは国際的なネットワークと部門別専門機能を備えた強力な党内組織であった。また、昭和13(1938)年4月には、国民政府内の軍事委員会(委員長蒋介石)の政治部の下に宣伝を所掌する「三庁」が設立され、その下に動員工作、芸術宣伝、対敵宣伝を担当する部署が作られた。この宣伝組織によって後に「南京大虐殺」の捏造写真などが制作されることになる。

  皮肉なことに日露戦争・北清事変以降の約30年の間に日本が受け入れた数万の支那留学生の日本に関する知識・語学能力がこれらの反日組織の原動力となった。蒋介石自身が20歳の時(明治40(1907)年)に振武学校に渡日留学、2年間修学し、陸軍士官学校に入らないままに第13師団高田聯隊(現上越市)で野戦砲兵中隊の隊付き初級将校勤務を経験していた。これらの極めて充実した宣伝組織によって、反日宣伝がアメリカ本土を中心に展開されていくのである。

  この反日宣伝は、アメリカ政府からの軍事支援を得るためアメリカ国民の支那への同情心を掻き立てるとともに、アメリカの対
 日政策が日本への厳しい姿勢を強めるべくアメリカ世論を誘導することが目的であった。昭和12(1937)年以降、アメリカの対
 日外交は圧迫性・強硬さを強めたが、それにこの反日宣伝活動が寄与したところは極めて大であった。昭和13(1938)年、対日
 禁輸をアメリカ政府に要求する反日組織「日本の支那侵略に加担しないアメリカ委員会」が結成された(図‐2参照)。この組織は
 支那国民党国際宣伝処の出先機関的な存在であった。

  しかし、これら反日組織の真の恐ろしさは、単に支那国民党の指示だけを受けたものではなかったということだ。アメリカにお
 ける闇の総元締めは1919(大正8)年に結成されたアメリカ共産党であり、さらにその背後にはスターリンすなわちコミンテルンの
 いたことがヴェノナ文書の公開によって明らかになった。また、コミンテルンがアメリカ共産党に反日宣伝工作を指示した証拠も
 残されている。1938年4月、コミンテルンは世界の各支部に向けて、「支那のための国際運動をさらに強化し、支那における日本
 の罪行及び支那の英雄行為を宣伝せよ」、「反日集会及びデモを盛んに開催せよ」、「日本に対する大衆の怨嗟(ボイコット)組織
 を作り拡大せよ」といった指令を発した。

  「日本の支那侵略に加担しないアメリカ委員会」と表裏一体であった組織に「アメリカ平和民主主義連盟」と名を変えた反ファ
 シズム団体がある。名誉会長はなんとF・ルーズベルト大統領の実母であった。フランクリンの実母サラ・デラノの一族は阿片戦争
 の頃から支那とアヘンを含む貿易を手広く行って財をなしており支那との深い関係があった。常任理事にはヴェノナ文書によって
 ソ連のスパイであったことがわかったフィリップ・ジャフェ(実質的な指導者)が就き、事務局長にはミルレード・プライス女史が
 就いている。彼女はその姉妹であるマリー・プライスとともにソ連のスパイであったことが判明している。

               図-1 昭和13(1938)年当時の中華民国宣伝組織図

                                *松尾一郎著『プロパガンダ戦「南京事件」』光人社刊より

  では日本政府はこのことをまったく知らずにいたのか。そうではないことが近年の外交機密文書の公開によって明らかになった。
 昭和13年7月20日付で当時の在ニューヨーク若杉要総領事から宇垣一成外務大臣に宛てた「当地方における支那側宣伝に関する
 件」という「機密第560号」文書が見つかった。その文書はアメリカにおける反日宣伝組織とその活動目的を分析したものであ
 り、ヴェノナ文書の信憑性を裏書きするものだった。まず組織については、大別して、①支那国民党系、②キリスト教系・人道
 団体系、③アメリカ共産党系があると大別し極めて的確に分析している。
  その活動目的については、
「日米関係を悪化させること」、直接的には「支那を援助し、その長期抵抗を可能にすること」、
 間接的には「ソ連に対する日本の圧力を弱めること」
であるとまさに 正鵠を射た分析であった。そしてアメリカ共産党の前衛
 組織として「アメリカ平和民主主義連盟」があること、同連盟はアメリカ 共産党の指導方針に従って行動していること、同連
 盟は全米24州109都市に支部を置き、2000団体、会員300万人を擁する巨大組織であること、この連盟の下に「支那援助協会」
 が結成され、反日ボイコットや支那侵略を抗議する反日デモを企画していること、上院下院議員に対日禁輸を陳情するロビー活
 動を精力的に展開していることを解説して報告している。
 そして在米反日組織による反日宣伝の実態を次のように分析し、
本国政府(近衛内閣)に対し「ルーズベルト政権の反日政策の背後
 にはアメリカ共産党の存在がある」ことを強調し、共産党(コミンテルン)による日米分断策謀に乗らないよう警告
したのであった。

  1. 支那事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している支那」という構図で、
    支那の被害状況をセンセーショナルに報道している。
  2. ルーズベルト政権と議会は世論に極めて敏感なので、このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても
    反日的になりがちである。
  3. アメリカで最もうけがいいのは蒋介石と宋美齢夫人である。彼らは「デモクラシーとキリスト教の擁護者だ」とアメ
    リカの一般国民から思われているため、その言動は常に注目を集めている。
   (蒋介石は宋美齢と結婚後キリスト教に入信)
  4. 一方、日本は日独防共協定を結んでいるため、ナチスと同様のファシズム独裁国家だと見なされている。
  5. 共産党系反日組織は、表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作
    は侮りがたいほどの成功を収めている。
  6. アメリカ共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させて、支那事変を長期化させ、結
    果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることである。

  さらに昭和15年7月25日、若杉総領事は発足したばかりの第二次近衛内閣の松岡外相に対して『米国内の反日支援運動』
  という報告書を提出し、次のように訴えた。
   1. アメリカにおける反日援支運動は、大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し、効果を上げているだけでは
     なく、新聞雑誌やラジオ、そして支那支援集会の開催などによって一般民衆に反日感情を鼓吹している。
   2. この反日運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンがそそのかしたものである。
   3. その目的は、支那救済を名目にしてアメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制すること
     によって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することにある。
   4. 支那救済を名目にしてアメリカの各界に入りこもうとするいわばアメリカ共産党・コミンテルンによる「トロイの
     木馬」作戦の成功例が「日本の支那侵略に加担しないアメリカ委員会」である。この委員会は、共産党関係者を表
     面に出さず、ヘレン・ケラーといった社会的信用があるリベラル派有識者を前面に出すことで、政界、宗教界、新
     聞界をはじめ一般知識人階級に対してかなり浸透している。
   5. 共産党のこのような作戦に気づいて苦々しく思っている知識人もアメリカにはいるが、一般民衆の反日感情のため、
     反日親支運動に対する声を出しにくくなっている。

  
若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は尾崎秀実らの主宰する昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米
 勢力の排除を目指す基本国策要綱を閣議決定、翌年昭和16年4月には日ソ中立条約を締結するに至る。

  盧溝橋事件を契機に昭和12(1937)年の夏から始まった本格的な日支事変は日本側の不拡大方針をあざ笑うように北京から
 上海、そして南京へと戦線が拡大していった。現在、この責任の大半はコミンテルンと蒋介石側にあることが明確になってい
 るが、当時「日本の支那侵略に加担しないアメリカ委員会」は、「日支事変の原因は、軍国主義国家日本の侵略にある。その
 日本軍に燃料や軍需品の大半を供給しているのはアメリカだ。残虐な日本軍の支那侵略を食い止めるため、アメリカ政府は対
 日禁輸に踏み切るべきだ」と訴え、著名な作家ヘレン・ケラーも発起人に名を連ねて、ブックレット6万部、パンフレット
 22,000部を上下院議員全員、全米各地の大学、キリスト教団体、婦人団体、ビジネス団体、国際関係団体、労働組合に送付し
 た。その結果1938年12月、ルーズベルトは支那に2500万㌦の借款供与を決定、明確に支那側に立つ姿勢を示したのである。

              図‐2 戦前の反日ネットワーク(昭和13(1938)年)              
*注1:
赤字の名前は、『ヴェノナ文書』でコミンテルンの関係者とされた人物(共産主義者)
*注2:
緑の名前は、共産主義者の疑いのある人物
*注3:点線で囲んだグループは、支那国民党系、
赤枠で囲んだグループは、コミンテルン・アメリカ共産党系
*注4:矢印は「工作指示」の関係、太線は「連携協力」の関係を示す。
*注5:
赤枠の組織は共産党系の組織を示す。


 3 戦後の支那における反日の推移
   この政府と党が一体となった反日宣伝活動は大東亜戦争の終結まで継続されたが、当然ながら日本の敗戦によってこの組織は
  存在意義を失い、国民党と共産党の間で戦われた内戦によって昭和20(1945)年以降は活動を完全停止する。昭和24(1949)年10
  月、内戦に勝利して成立した中華人民共和国の毛沢東の政権下でも反日はまったく忘れられていた。

  毛沢東は、蒋介石と第二次抗日統一戦線を組んでいた大東亜戦争下においても、本気で抗日を実行する考えはなく、スターリン
 の督促を受けてやむなくそのフリをしていたことは『マオ』(ユン・チアン著)の中でくどいほど書かれている。毛沢東は共産党
 軍の指揮官に対して、日本軍が蒋介石軍を打ち負かすのを待ち、日本軍が進軍していった後の後背地を領土として獲得せよと命じ
 ていた。毛沢東は、昭和39(1964)年7月、佐々木更三率いる日本社会党議員団が訪中し、過去の日本との戦争について謝罪したの
 に答えて、日本軍閥が共産党の権力奪取に手を貸してくれたことについて一度ならず感謝の言葉を口にしている。毛沢東が大躍進
 、文化大革命などで支那全土を掻き回して権力闘争をしている間の日支関係は、ほとんど相互に無関心な、ある意味平和な時代を
 過ごしたといえる。皮肉なことに支那における反日が本格的に再開するのは、国交が回復した昭和53(1978)年以降であった。

  しかしここで忘れてはいけないことがある。支那共産党政府が成立した昭和24年の翌年の昭和25年、毛沢東の主導で朝鮮戦争が
 勃発したが、この年に日本国内に「日中友好協会」なる不思議な組織が設立されたことである。まだ日本が独立を果たしておらず
 、戦後復興途上にあった日本において、なぜこのような組織が生まれたのか。この時期(1946年)、アメリカにおいてはソ連情報部
 の暗号解読に成功しており、戦前アメリカを舞台に展開されたコミンテルンの情報工作の証拠をつかみつつあったが、そのことが
 明確になりスパイが告発され始めたのは昭和24(1949)年以降であった。昭和25年時点でマッカーサーはそのことを知っていた可
 能性は十分ある。GHQがなぜ「日中友好協会」の設立を見過ごしたのか理由は不明だが、GHQ政策によって力を得た日本国内左翼
 勢力の蠢動であったことは疑いのないところである。

  現在の会長は5代加藤紘一:2008~であるが、初代は松本治一郎(部落解放同盟委員長):1953~1967、第2代は黒田寿男
(極左の労農党総裁、のち社会党員):1967~1980、第3代は宇都宮徳馬(陸軍大将宇都宮太郎の子息、自民党最左翼):1980
 ~1992、第4代平山郁夫(画家):1992~2008と錚々たる?人物がこの職についており、本協会は外務省所管の特別公益法人
 に指定されている。この協会支部は「支那人強制連行」を広め、そのため犠牲になった「支那人遺骨返還運動」や「中国人俘虜殉
 難碑」の各地建立など日本の支那侵略を批判し、謝罪する運動を進めてきた。機関紙『日中友好新聞』も長年にわたり日本の支那
 侵略を広報・批判するなど侵略史観を広めてきた。

  ところが支那共産党政府が「支日友好協会」を設立したのは、なんと日本に遅れること13年後、昭和38(1963)年であった。こ
 のとき日支間の国交はなかったが、支那政府が国交樹立前に友好協会を作ったのは異例であった。「支日友好協会」の設立に合わ
 せ、支那共産党中央委員会の下部組織として「対日工作委員会」が設置された。事実上、戦前の国民政府内において行われていた
 反日宣伝組織が復活したのである。とはいえ、昭和52(1977)年までの支那内部は、大躍進(1958~1960)、チベット蜂起(1959)
 、人民解放軍のインド侵寇(支印戦争)(1962)、文化大革命(1966~1977)などと内部抗争や国境隣接地帯での紛争が立て続けに起
 こっており、日本に対する目立った反日行動を行う余裕はなかった。

  支那共産党政府は、昭和53(1979)年4月に靖国神社へのA級戦犯合祀が公になったときから昭和60(1985)年7月までの6年余、3
 人の首相が計21回参拝したことに対しては何の反応も示さなかったが、昭和60年8月の中曽根首相の参拝後、「A級戦犯が合祀さ
 れている靖国神社に首相が参拝することは、支那に対する日本の侵略戦争を正当化することであり、絶対に容認しない」という見
 解を表明した。

  このときも具体的な反日運動の火ぶたを切ったのはやはり日本人であった。
  昭和57(1982)年頃、日本社会党委員長を務めた田辺誠が南京市を訪れ、南京に大虐殺記念館を建設するように執拗に勧めた。
 支那当局が資金不足を理由として建設に消極的な姿勢を見せると、総評から3000万円の資金を捻出しこれを南京市に寄付したの
 である。
 南京市はその3000万円の中から870万円を投入して記念館を建設した。(残りの1230万円は党幹部が山分けしたという)社 会党
 田辺誠の再三の建設要求と当時の支那にとっては破格ともいえる資金提供を受けた支那政府及び支那共産党中央委員会は、単に日
 本の侵略行為を非難し反日を訴えるという自閉的な運動に止まることなく、支那全土に日本の支那侵略の記念館・記念碑を建立し
 て、愛国主義教育を推進するという積極戦略へと昇華させた。そして昭和60(1985)年の8月15日に、抗日戦争終結40周年の一環
 として「南京大虐殺記念館(支那語:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」がオープンしたのである。

  支那共産党政府が対日戦略のカードとして「過去の歴史」を使うようになったきっかけの事件も田辺誠が南京を訪れた昭和57年に
 起きた。いわゆる「教科書誤報事件」である。文部省の検定によって「侵略」から「進出」に書き換えられたとする日本マスコミの誤
 報を受けて『人民日報』が批判したのに対し、当時の官房長官宮沢喜一が平身低頭の謝罪談話を出したという情けない事件であっ
 た。教科書の内容について支那共産党政府の関与を事実上許容し、教育に関する主権侵害を容認するという日本政府の意思を示し
 たものであった。
  反日の砦が完成するとともに、反日が金にもなり対日外交戦略カードにも使えるということを、支那共産党が明確に認識したの
 が昭和50年代後半であった。これもまた反日日本人政治家による売国・利敵言動から生じた支那共産党の利得であり戦略であった
 。
  当時の支那共産党政府は教科書問題が内政干渉であるということはわかっていた。だから教科書問題で世界とりわけアメリカを  動かすことはできない。日本を追い詰めるもっとアクティブな運動を始める必要があった。昭和60年以降になると支那共産党によ
 る反日宣伝が本格化、アメリカや国連を舞台に、在米チャイナ・ロビーの活動が始まった。1985年は、ゴルバチョフソ連共産党書
 記長が就任した年であり、急激な緊張緩和と共産主義神話が崩壊の兆しを見せた年でもあった。世界はイデオロギー対立の時代を
 過ぎ、新たなテーマを探していた時期だった。冷戦終焉にもかかわらず依然として共産党一党独裁体制を維持しなければならない
 支那共産党にとっては、支那から世界の目をそらす関心事すなわち新たな敵が必要であった。またもやその標的となったのが日本
 であり、「南京大虐殺」という格好の材料があった。日本国内でも共産主義神話の崩壊によって、左翼勢力は拠り所を失い、新たな
 運動テーマを必要としていた。それが反日であり、ジェンダーフリーであり、日本の伝統的価値観の破壊であった。国内の左翼勢
 力と支那共産党のニーズが見事に一致したのである。

  昭和62(1987)以降、日本の侵略と戦争責任を追及し、賠償と謝罪を日本政府へ求めることを目的とした各種反日組織が、在米
 チャイナ・ロビーを中心として結成されていった。そして平成6(1994)年12月、日本の戦争責任を追及するアメリカ、カナダ、香
 港を中心とする世界中の30もの支那系、韓国系、日系団体が結集した統一組織「世界抗日史実維護連合会(Global Alliance for
 Preserving the History of WW2Ⅱin Asia)」(以下「世界抗日連合」と略す)
が設立されるに至る (図‐3参照)。
 これら反日組織がほぼ共通して声明・要求する事項は、
 ① 日本の支那侵略戦争を正式に謝罪し、その被害者・家族に賠償を行うこと。
 ② 軍備拡大と核保有を行わないこと。
 ③ 国連常任理国入りを断念すること。
 ④ 歴史教科書の歪曲を行わないこと。
  ・日本軍の行ったすべての残虐行為の学校教育への盛り込み法制化
  ・日本の侵略の歴史の修正や否定の法律での禁止
 ⑤ 靖國神社からのすべての戦犯の分祀とあらゆる戦犯の霊への追悼の禁止 である。

  戦前と戦後の大きな違いは、日本国内に世界抗日連合と連携した多くの反日組織があること、ソ連(ロシア)が関与していない
 こと、そして韓国の反日組織と連係していることである。そして何よりも異なることは、戦前は戦争下すなわち有事であったが、
 戦後は戦争のような厳しい国家対立がない一応平和な状態で行われているという点である。
 共通点は北アメリカを主な舞台としたアメリカ政府及びアメリカ世論へのロビー活動が主体となった反日活動だということであり
 、戦前を教訓とするならば日本が軽視しがちなそのロビー活動の恐ろしさを侮ってはならないのである。


 4 在米反日ロビーの実像
  (1) アメリカにおけるロビー制度
   ロビー(Lobby)は「控室」を意味する。発祥はイギリスにおける「法の統治」を確立したマグナカルタだとされる。国民の「請
  願の権利」を保証することに起源があると言われ、ロビーは英国議会の院外者との会見室を指している。したがってロビー活動
  の主な目標は議会であった。

   アメリカでのロビーはそれよりも幅広く、議会だけでなく行政府への働きも含んでいる。アメリカにおけるロビー活動に関す
  る学術的研究によれば、ロビーはアメリカ建国以来、国民とともに存続することにより政治組織に深く織り込まれており、ロビ
  ーの歴史こそアメリカ政治の歴史そのものであるという。現在のロビー活動は、合衆国憲法修正第1条を法的根拠としている。す
  なわち「連邦議会は、言論及び出版の自由を制限し、あるいは国民が平穏に集会を行い、また苦痛事の救済に関し、政府に対し
  て請願をする権利を侵すことはできない」という条項であり、つまりロビーとは「政府に対して国民が請願をする権利」を行使
  することを意味している。

   日本においても国民の請願権は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で規定されている。大日本帝国憲法第30条では、「日本臣民
  ハ相當ノ敬禮ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ從ヒ請願ヲ爲スコトヲ得」と定め、日本国憲法第16条は「何人も、損害の救済、公務
  員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願を
  したためにいかなる差別待遇も受けない」としている。日本でも戦前・戦後を問わずロビー活動は活発に行われてきたが、アメ
  リカとの違いは、ロビー活動が単なる請願・陳情の域を出ず、したがってロビー活動に体系的な法制がないことである。

   ロビー活動は個人でも可能だが、日本での請願のように個人ではほとんど効果がない。アメリカのロビー活動の特質は、専門
  化されかつシステム化されていることであり、それが法律よって守られそして規制されていることだ。「ロビイング規制法」、
  「1995年ロビイング開示法」、「2007年誠実リーダーシップ開放政府法」といった法律が施行されており、その中で、ロビー
  活動とは「議会の投票決定及び政府の意思決定への政治介入を目的とする」、ロビイストとは「他の人々あるいは団体を代表し
  て通常、報酬を得て、議員等との直接の接触により議会や政府に影響を与えようとする人」と定義されている。ロビイストは議
  会に四半期ごと登録更新しなければならず、その際ロビー団体又は個人の名称、報酬金額、活動内容を報告することが義務付け
  られている。

   専門のロビイストたちがどれほどいるのか。国家レベルのロビイストは1万~2万人いるといわれ、彼らの多くは、元国防長官
  、元通商代表部首席、元CIA長官など政府高官、上下院の議員、元下院議長などの出身者である。若い頃から特定部門一筋のロ
  ビー活動に関わってきた叩き上げのロビイストもいる。もちろん州議会、市議会レベルでのロビイストも存在する。地方レベル
  におけるロビイストは不明だが膨大な人数になると推定されている。

   アメリカのロビーの際立った特色に外国ロビーという存在がある。そのため「外国代理人登録法」という法律が用意されている。
  アメリカでは、外国の政府機関、企業、個人がアメリカ政府・議会に対しロビー活動ができるのである。外国政府が、前記のプ
  ロのロビイスト雇い、代理人業務を委嘱して、自らに利益をもたらす活動を行うことは、合法であり認められている。「外国代理
  人登録法」では、外国の政府、企業、個人の代理として、①政治活動、②広報活動、③情報収集活動、④政治コンサルタント、
  ⑤募金や融資活動、⑥アメリカ政府の機関や当局者に対する外国当事者の利害の代弁といったさまざまな活動ができると規定さ
  れている。「外国代理人登録法」は、ロビー活動を行う団体等が「外国代理人」の氏名、活動内容、報酬を半期に1回、司法省へ届
  け出るだけでよく、罰則のほとんどない極めて緩い法律である。2008年の司法省の資料によると、「外国代理人」を委嘱したと
  届け出たロビー団体等は約2000、国の数は100である。

   外国ロビーの中で有名なのはイスラエル(ユダヤ)ロビーや台湾ロビーであり、この二国は過去、アメリカ政府の対イスラエル
  政策、対台湾政策について激しいロビー活動を行い、自国に不利な外交政策を覆してきた実績がある。

   現在ではアメリカにとって基本的に体制が異なり潜在的には敵国といえる支那ロビーの活動が台頭してきている。経済力が高
  まり無尽蔵な金を投入することができるようになった支那のロビー活動は、大使館外交ルートによる表の対米工作活動と相俟っ
  て最強となりつつある。支那政府は2006年から2011年まで、221回も頻繁にアメリカ連邦議員の補佐官たちをデラックスな支
  那旅行に招待している。万里の長城、紫禁城などの観光に加え支那の中央及び地方の高官たちとの意見交換も行う。文化交流と
  いう名目であれば外国が経費負担する海外訪問は認められているからだ。ちなみに同様の活動は、台湾が2位で106件、第3位が
  サウジで62件、日本は13件であった。

   支那政府による「外国代理人」を使ったロビー活動も活発に行われている。公式な報告によると、2008年に支那政府機関が支
  払ったロビー経費は123万ドル(約1億2000万円)だったが、2012年には1134万ドル(約11億円)に跳ね上がった。これは支那
  企業による民間分は含まれていない。これら公表されるロビー活動は、支那のような全体主義国家のロビー活動としては氷山の
  一角に過ぎないといわれている。


 (2) 在米支那ロビーの反日活動の実態
    アメリカにおける反日ロビー活動の中心的役割を果たしているのが前述の「世界抗日連合」である。2005年、『人民日報』が
 伝えたところによると、同組織は2005年4月から1か月足らずの短期間に「日本の国連安保理常任理事国入りに反対する4200万人
 分の署名を集め、国連事務総長へ届けた」という。「世界抗日連合」を含めた支那ロビーの活動目的は明確だ。支那の世界戦略遂行
 の一翼を担って、東アジアひいては世界の覇権を握ろうとする支那共産党政府を陰から支援することである。さしあたっての敵は
 日本であり、そのためにアメリカ政府、議会、世論へ働きかけて、日本の印象を悪くし、日米離反を狙う。戦前の蒋介石国民党の
 反日活動とほとんど変わらない。

  戦前と全く違うことは現在の日米関係は極めて緊密であり、強固な日米軍事同盟が存在していることである。しかも戦後の日本
 の政治・経済・外交は、軍事力を背景にしたものは皆無で、他国の批判を受ける弱みはほとんどない。ケチのつけようがないほど
 に平和国家としての道を歩んでいる。そこで日本を責めるには過去すなわち歴史に戻るしかない。第二次世界大戦にまで溯れば、
 日本はアメリカの敵であり、支那はアメリカと連合を組んで日本と戦ったという歴史が浮かび上がるというわけだ。
  「世界抗日連合」が結成された1994(平成6)年は、江沢民が支那の各種機関で愛国反日の教育を開始させようとした年であった。
 河野談話が出されたのがその前年、村山談話がその翌年であった。その本部はカリフォルニア州クパティーノ市に置かれていたが
 、現在はサンフランシスコの郊外へ移設されている。クパティーノ市は下院で慰安婦決議を主導したマイク・ホンダの選挙区内に
 ある。平成24年12月29日の産経新聞で報じられたが、クパティーノ市でも「世界抗日連合」が慰安婦碑の建設を推進しようとして
 いる。
  2007(平成19)年7月にアメリカ下院が日本軍のいわゆる従軍慰安婦を非難する決議を可決した。表面上の主役はマイク・ホンダ議員であり、韓国系アメリカ人が中心となって決議にもって行ったことになっているが、実際にはこの決議の推進には最初から最後まで「世界抗日連合」が最大の役割を果たしていた。マイク・ホンダは決議案の提出者として議会内で記者会見し次のように語ったのである。

「今回の決議成立では、まず世界抗日連合に感謝したい。私がこの慰安婦問題に最初に関わりをもったのは、カリフォルニア州議会の議員だった1996年に同連合がアジアの戦争で起きたことの映像展示会を開いたのに出席し、そこで初めて慰安婦問題の存在を知ったことによる。その後、同連合の人たちと一体になって、カ州議会向けの慰安婦問題についての決議案を作成し、提出した。

その協力と(同連合による)指導は、私が連邦議会の議員となってからも続いた」。ちなみにマイク・ホンダは、1996(平成8)年、カ州議会議員として「日本政府へ日本の戦争犯罪への明白で明確な謝罪と個々の犠牲者への賠償を求める法案」を提出して、99年に採択されるという実績を挙げていた。彼はその実績をもとに「世界抗日連合」の全面的なバックアップを受けて2000(平成12)年11月連邦下院議員の当選を果たしたのである。

日系3世 1941年生
民主党


  「世界抗日連合」の主な活動はアメリカ国内における日本のイメージを悪くするためのプロパガンダであることは言うまでもない
 。戦前の日本の残虐行為や戦争犯罪を映像・写真などグラフィックな手法を多用してアメリカ人の脳裏に刻みつけるのである。
   同連合は1996(平成8)年12月のパールハーバーと重なる3日間、カ州スタンフォード大学で「第二次大戦における日本の残虐
 行為の責任」と題する大規模な国際シンポジウムを開催した。掲げられたテーマは、「日本軍の戦争犯罪」、「日本の軍国主義復活」
 、「南京大虐殺」、「日本軍の細菌兵器使用」、「日本軍の性的奴隷」などお決まりの材料で、講演や討論会が行われた。マイク・ホン
 ダはこのシンポジウムでの見聞を機に反日政治家へ転身したという。

  このシンポジウムに長身で長い黒髪、きりりとした容姿の若い支那系美人女性が出席していた。彼女はシンポジウムの開会・閉会の辞を述べるなど主催者側の中でも際立ってスポットライトを浴びる役割が割り当てられていた。
この女性こそが当時28歳のジャーナリスト・作家のアイリス・チャンであった。
その翌年、彼女は『ザ・レイプ・オブ・南京~第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』を上梓した。
「世界抗日連合」はこれを受けて「南京大虐殺」の宣伝に特に力を入れるようになり、組織を挙げてこの本の拡散・宣伝に努めた。メディアでも『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』、C-SPANNテレビなどがアイリス・チャンを登場させ、この偽書を衝撃の史実を暴露した貴重な著作として好意的に紹介した。
「世界抗日連合」の目論見は成果を収め、アメリカにおける日本の印象は急落下したのである。
(その7年後2004年11月、アイリス・チャンは自宅近くに止めた車の中で拳銃自殺した)

   その後「世界抗日連合」は日本の戦争犯罪をテーマとするこの種のシンポジウム、講演会、討論会、展示会などを全米各地で頻
  繁に開いた。その一例は次のようなものである。
  ◆ 日支戦争での日本軍の残虐についての写真展示と音楽のつどい
  ◆ ゴア副大統領を囲み日支戦争や日米同盟を語る会
  ◆ プリンストン大学での南京虐殺会議
  ◆ 南京虐殺についての連邦議会スタッフ向け説明会
  ◆ アジアの忘れられたホロコースト・日本軍の細菌戦争と人体実験の写真類展示会
  ◆ 50年間の否定~日本とその戦争責任
  図‐3に示すように戦後の反日ネットワークは、アメリカを中心としてカナダ、オーストラリア、フィリピン、支那本土、台湾、
 南北朝鮮そして日本国内に張り巡らされている。その中心は「世界抗日連合」であるが、その中でも最もきめ細かな組織を形成して
 いるのは日本国内だということに注意する必要がある。

 5 国内の反日
    安部首相が平成24年12月26日、ついに念願の靖国参拝を断行した。これに対するメディアの反応はおどろおどろしいほど
  凄まじい表現で批判した支那当局、韓国政府のメッセージを凄い勢いで紹介するものであった。「粗暴にも支那とその他のアジ
  アの被害国の国民の感情を踏みにじり、公然と歴史の正義と人類の良識に挑戦した行動」だという。明日にでも東アジアで戦端
  が開かれるかの如き騒ぎようで異様な違和感を味わった。30日、支那の王毅外相がロシアのラブロフ外相との電話会談で語った
  内容が期せずして彼らの反日活動の真の狙いを教えてくれた。安部首相の靖国参拝は「第二次世界大戦後の国際秩序を損なう行
  為」だとして支露の立場が完全に一致したというものである。米・ソ・支などの戦勝国が得た果実は失われてはならない、そう
  いう意味でかつての連合国が一致したという意味であろう。その点ではアメリカも「失望」して当然なのかもしれない。未来永
  劫、日本を東京裁判史観の獄の中に閉じ込めておくことが彼らの一致した利益だということだ。

   多くの良識的日本人は、反日日本人の脳みそを解剖してその思想、心理、狙いなどを仔細に分析してみたいと思ったことがあ
  るに違いない。まことに理解困難な人間だからだ。ネットを中心に反日メディアなどの糾弾活動を行っている古谷経衡氏は、反
  日日本人あるいは反日メディアには大きく分けて「確信的反日」と「無自覚な反日」の二つのタイプがあると分析している。

                   図-3 戦後世界の反日ネットワーク
   


  「確信的反日」とは図‐3の中で示した各種の反日組織とそれに属する日本人であり、その多くがかつて共産主義を信奉してその
 後反日イデオロギーに転身した者たちである。しかし彼らの論理・心情を理解するのも容易ではない。なぜなら共産主義が健在で
 あった頃、すなわち1989年以前の昭和の時代においてはマルクス・レーニン主義による国家運営によって国民が幸せになれると心
 底から信じていたから、例えば尾崎秀実のようにコミンテルンに協力して最終的には日本の共産化を果たすという大義名分があっ
 たが、平成になって以降は冷戦崩壊やそれに続くITネット情報社会の実現によって共産主義の無残な実態が明々白々になり、共産
 主義は事実上、支那と北朝鮮を除けば完全に死滅したと考えられるからである。それでもなお共産主義社会を目指すというのなら
 わかるが、国内で反日活動に汗を流している人たちが心底から日本の共産化を望んでいるとはとても思えない。とするならば残る
 のは二つしか考えられない。

  一つは、日本がかつて侵略国家であり、支那大陸で「南京大虐殺」をはじめとする残虐・非道な所業を行い、朝鮮半島では白人
 国家顔負けの収奪を行い、さらに朝鮮人の奴隷化の中で朝鮮人女性の性奴隷を銃剣の下で強制連行したと大真面目に信じ込んでい
 る日本人だ。そして現代日本人がそのことを知らずにあるいは知っていても反省も謝罪もしていない、そんなことでは日本が今後
 国際社会の中で生きていけない。それは理屈なしの真実であり、保守的な歴史家が何を言おうが妄言と妄想でしかなく、聞く耳を
 持つ必要は絶対にないという宗教的な境地に達している日本人である。

  一つは、反日を生活の糧にしている場合である。典型的な例がかつての吉田清治であり、多くの反日弁護士がこの部類に入ると
 考えられる。これは人間としての良心・品性並びに日本人としてのモラルの有無に関する問題であり、腹が立つがどうしようもな
 い。このような「確信的反日」にはつける薬はなく、彼らによって善良無垢な日本人が毒されないように対処する術しかないであ
 ろう。幸いなことに今回の安倍首相の靖国参拝の世論調査で明らかになったように少なくとも2/3以上の日本国民は「それでよか
 った」と普通に判断する能力を持っていることである。

  問題は「無自覚な反日」であると古谷経衡は分析している。特に、日本のマスメディアのほとんどが「無自覚な反日」によって
 良識ある国民多数からみれば酷い反日偏向の番組を無意識のうちに垂れ流していると古谷は述べている。我々にすればどう見ても
 意図的と思われる内容であっても、明確なイデオロギーに基づくものではなく、「なんとなく視聴者の共感が得られるかもしれな
 い」程度の感覚で作られたものが多いという。もちろん番組製作者たちは自分たちが売国者だとは夢にも思っていないし、日本を
 不当に貶めようなどとは考えていない。ところが視聴者から激しい抗議を受け、吃驚して当面の対応つまり小手先の訂正とお詫び
 をするが、無自覚な「反日偏向」だから、時と場所が変われば同じような失態を繰り返し視聴者のバッシングを懲りずに受けるの
 である。

  言うまでもなく「確信的反日」の働きかけによって「無自覚な反日」が演出されことも多い。
 日本人が潜在的に持っているといわれる「甘え」に由来するのか、反国家、反権力を標榜しておけば国民の支持を得られるとの
 「無自覚的な甘え」のようなものがあるのが日本マスメディアの特徴である。その根底には「権力は悪」という大前提があり、そ
 れから導かれるものとして「国家は悪いことをするもの」、それを一般化すれば「大きな組織ほど悪いもの」ということが新聞や
 テレビなどマスメディアの基礎的な判断基準となっているようにみえる。公的な組織であれば、国家よりは地方自治体の方が正し
 く(普天間報道に見られるごとく)、民間企業であれば大企業になればなるほど悪さが増すというものだ。そして、最も正しいのは
 個人であり、その中でも弱者と言われるほどその正しさが強固になるとする。そして彼らメディア人は、その弱き者の味方であり、
 悪いことをする可能性の高い国家や大企業を監視し、告発し、世間・世論に訴えて裁く崇高な使命を帯びているというものだ。彼
 らは自らが「第4の権力」をもつ権力者であることには言及しない。彼らは国家悪、社会悪を追及する姿勢を見せながら、そして社
 会正義を追求する市民目線をもって大衆の利益を代弁する公器であると謳いながら、実は自らが最も巨大な体制であり、巨大な権
 力者と化して日本の戦後空間に胡坐をかいていることに気づいていないのである。

  反日メディアは、東京裁判(GHQ)で示された価値観を戦後民主主義の真髄とし、反国家・反権力を基調に人権と平和を旗印とし
 て、日本の伝統的価値観や美風いわゆる保守を国民の意識から遠ざけようとするのである。それは日本の過去を否定することへと
 つながっていく。戦前の日本は国民の権利や自由が著しく制限された非民主的な国家であり、帝国主義的な国益を求めてアジア諸
 国を軍靴の下に蹂躙した侵略国家であったとし、現在の日本国家もマスメディアがしっかり監視しておかないと「いつか来た道」
 を歩みかねないと主張する。

  最近ではその典型的な実例を2020年五輪招致関連報道に見ることができる。多数の国民の期待と支持に支えられて招致に成功
 した東京五輪であったが、一方では招致レース終盤から「無自覚な反日」による激しい呪詛と怨嗟に晒された。その急先鋒となっ
 たマスメディアが「チョウニチ新聞」である。この新聞はIOC総会前日(9月7日)に「“東京五輪”実現性は?」と題した大型の特集
 記事を組んだ。同社生え抜きのスポーツ担当記者による座談会である。彼らの一致した結論は「フクシマから250キロしか離れて
 いない東京には立候補する資格すらなく、現状では、招致レース敗退は決定的である。東京五輪は“被災地切り捨て五輪”である」
 という一般国民の感覚からは大きく乖離した見方であった。「チョウニチ新聞」は、汚染水問題や被災地復興といった聞こえの良
 い事案を理由に東京五輪反対を唱えているのだが、背後にある本当の反対理由は「東京五輪が行われることによって、日本人が団
 結し、日本社会が良い意味で沸騰し、〈日本の国威発揚〉につながる」ことが不愉快でたまらないからだ。ましては日本選手が金
 メダルをとればそのたびに「君が代」が演奏され「日の丸」が掲げられる。不愉快極まりないと「チョウニチ新聞」の記者連は考えて
 いても不思議ではない。

  そのことが翌日9月8日の朝、見事に証明されてしまった。ブエノスアイレスの総会における第一次投票の結果、1位日本、イス
 タンブールとマドリードが同票2位となり、2位と3位を決める再投票が行われることになった。ところが「チョウニチ新聞」はこ
 れを早とちりし、嬉しさのあまりか「東京、落選しました(●^o^●)。第一回の投票で最少投票。決選投票へは進めませんで
 した」と発信したのである。

  天皇陛下への直訴で物議をかもした山本太郎参議院議員は、「嘘までついて東京に五輪を呼んだって?(中略)よかったね、お金
 儲け大好物の方々、東京で“企業の祭典”を開催できるなんて!何千億円も招致活動にばらまいて、国内の惨事は、対応する能力の
 ない東電に放りっぱなし。我が国に生きる人々は、一部の金儲けのために、またしても切り捨てられたんだよ。いい根性してる」
 と9月10日のブログに記した。

 東京五輪の決定した9月8日(日)、TBS系情報番組「サンデーモーニング」の
レギュラー・コメンテーター寺島実郎(多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長、
日本総合研究所理事長等)は、五輪招致の感想を求められて次のようなわけのわか
らないコメントを述べた。「今何となく、近隣の国にはなめられたくないなという
小さなナショナリズムにうずくまりがちな日本が、これ(東京五輪)をきっかけに、
別な言い方をすれば戦争のできない国になったというのかな。(中略)日本は戦争の
できない国になって、近隣の国とも正面から向き合っていかなきゃならないんだ、
という気迫を込めて五輪を受けとめるべきだ、こういうことを私は言いたかった」
五輪招致成功のコメントであるはずなのに、なぜか戦争と結び付けての発言、この
意味不明な寺島の言葉は、「国威発揚は戦争への道」とする、戦後文化人の「無自
覚な反日」に由来する。こういう著しく国民の良識感覚とずれている問題のある人
物が数々の有力な機関の長や要職に招かれるという根深い病巣が日本社会には隠れ
ているということだ。

昭和22年生

 
  ところがその後数日過ぎるとどうか。各新聞社が行った世論調査で「東京開催を素直に嬉しい」とする圧倒的な東京五輪支持が
 明らかになると、彼ら反対派はほぼ一斉に口を噤んで知らんぷりを決め込んでしまった。「無自覚な反日」だけに忸怩たるものは
 まったくないのであろう。

  「無自覚な反日」のもう一つの例、それは「特定秘密保護法」でバカ騒ぎをしたマスメディアである。この問題については産経
 ・読売を除くほとんどの新聞・テレビが批判基調で報道したが、最も酷いのが「チョウニチ新聞」、それに並ぶ「毎日新聞」であ
 ったことは言うまでもない。可決後の12月8日の「天声人語」はこう書いた。「戦争に駆り立てられる。何の心当たりのないまま
 罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂に終わる保証はない。一昨日、特定秘密保護法案が
 成立した・・・その先には武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の行使の解禁が控える。安倍政権の野望が成就すれば、平和国
 家という戦後体制は終わる」子供が読んでも、現実離れした評論である。戦前の日本へ逆戻りというのはどういう意味か。戦前、
 戦争に駆り立てたのは「朝日新聞」をはじめとする新聞メディアではなかったのか。

  「特定秘密の保護に関する法律」いわゆる「特定秘密保護法」に反対する意見のほとんどは条文を読んだうえで具体的な問題を
 指摘したものではない。「特定秘密保護法は、政府の下半身を隠すものだ」(下半身を露出すれば犯罪ではないか?)とか「いず
 れ特定秘密だらけになり、国民の知らない間にあらゆる物事が決まる社会になってしまう」といった論理性のない情緒論的な意見
 である。

  この法律の条文を読むと、今まで半世紀以上自衛隊の内部で使用されてきた防衛省・自衛隊の内規としての秘密保全規則とほと
 んど内容は同じであり、おそらく外務省における秘密保護の内規にも同様な決まりがあったと思いたい。防衛関係では戦闘機、イ
 ージス艦、潜水艦などの重要秘密に関わる装備品あるいはその部品等を製造する企業及び企業の社員に対しても自衛隊内部と同等
 又はそれ以上に厳しい秘密取扱規則を作らせて、遵守させている。本法律は、それら各省庁等の中で使われてきた内規を一般法へ
 格上げし、従来は最高、懲戒免職であったものを懲役10年へと厳罰化したものに過ぎず、日本の国益を損壊するスパイの防止には
 ほとんど役に立たない。

  元外交官の佐藤優は、週刊金曜日(12月2日)の福島瑞穂とのインタビューの中で「今回の特定秘密保護法案は多くの公務員の『
 配偶者や家族が外国人かどうか』を調べる。
 実際は、特定の国の人と結婚している人はバツ。いまの日本の政治体制からすると、中国人や韓国人、ロシア人、イラン人などと
 結婚している外務省員は全員、特定秘密保護法案が定める適性評価に引っかかる。特定秘密保護法案は人種差別条項」と批判した。
彼もまた「無自覚な反日」日本人のようだ。

  外務省の中でも特に重要な機密を取り扱う職員の適性を評価するのは当たり前のことであり、仮に配偶者がかつてのオウムのよ
 うなテロ集団の一員であったとき、その職員を秘密取扱者としてもいいのか、それで国民の安全が守れるのかということである。
 今までの外務省にそのような職員の適性評価が行われていなかったとしたら、それこそ大問題であり、外務省は今まで真面目に仕
 事をしてきたのかと疑いたくなる。この法律では、適性評価のチェック項目として、テロ活動等との関係、犯罪・懲戒の経歴、
 情報の取扱いについての非違歴、薬物の濫用・影響、精神疾患、飲酒についての節度、経済的な状況を挙げているが、これに加え
 て日本においては「反日思想」の持ち主ではないかすなわちきちんとした「歴史観・国家観」を有しているかのチェックが不可欠
 であろう。

  以上「無自覚な反日」の最近の顕著な二例を挙げたが、実際のところ我が国のマスメディアでは、ほぼ毎日のように「無自覚な反
 日」報道がなされていると言っても過言ではなく、一日たりとも休むことなく国民の洗脳が行われてきたのである。では、なぜ日
 本のマスメディアは、国民意識や国民感情とは遊離して「無自覚な反日」へと走るのかという疑問が湧いてくる。

 6 反日メディアの正体(まとめ)
   日本のマスメディアが国民の常識からずれてしまい「無自覚な反日」報道をしてしまう原因は、彼らの優越選民意識と閉鎖的な
  「構造的体質」にあると、古谷は分析している。
   大手マスメディアは言うまでもなく東証上場(NHKは除く)の大企業である。しかしその規模は他の製造業などの大企業に比
  べれば驚くほど小さい。


               表ー4  テレビ局職員等の起こした犯罪



  上表を一覧してすぐわかるのは、逮捕容疑の欄の赤文字で示すように、痴漢、のぞき、盗撮、公然わいせつといった「性犯罪」
 関連の事案が大半を占め、続いて暴行、傷害、恐喝といった粗暴な罪状での逮捕が目立つことである。背任や偽造といった知能犯
 的な犯罪(青字)は、NHKの18,25、フジテレビの6、テレ朝の8,9,21のわずか6件と驚くほど少ない。一般社会に比べれば、
 華やかで「知性」と「理性」に溢れる職場空間でありながら、なぜこれほど単純な欲望から導かれる性犯罪や粗暴犯罪が多いのか
 。
  しかし何よりも問題は、大企業に比べてはるかに少ない従業員数でありながらこれほど多くの逮捕者が出ることにある。正確
 な比較はできないものの、航空自衛隊は約5万人いるが同期間で逮捕までに至った隊員はNHKの51人には及ばないのではないか。
  古谷は、マスメディアと社会良識との乖離の一因は、その少数精鋭の特権意識、優越意識、非競争性、閉鎖性などにあると述べ
 ているが、最大の原因は、彼らにそれを許しているマスメディア以外のまわりの政治組織、企業、国民にあるとは言えまいか。ど
 この官庁、どこの企業でもマスコミ対応を極めて重視している。記者会見など報道の場での卓越した能力があれば、課長が部長へ
 、部長が取締役役員へと昇任できることさえあり、自衛隊などにおいても高級幹部育成課程でインタビューを受ける訓練を行っ
 ているほどである。二十歳そこそこの記者たちが政治家や企業トップにインタビューする光景を見ると、彼らが日本社会のトップ
 エリートの一員とさえ錯覚してしまっても不思議はない。このような日本社会の特性が次のデータに表れており、それこそがマス
 メディアの住人達が特権化して世間の良識と食い違った感覚で偏った報道を平気で行い、低俗な犯罪を起こしてそれほどこたえな
 い摩訶不思議な企業文化を醸成している最大の理由であろう。

          図‐4世界各国のマスメディアへの信頼度(非常に信頼する、やや信頼するの合計)


  朝日新聞や毎日新聞もテレビ業界に負けず劣らず不祥事を起こしているが、日本では圧倒的な国民の信頼度を得ているのがわか
 る。警察や軍については、どこの国でも70%以上の高い信頼度があり、他の組織を大きく上回っているが、日本においては警察や  自衛隊よりもマスメディアの方がやや高いという驚くべき可笑しな特徴がある。

  国民の意識から大きく乖離し、なおかつ度重なる破廉恥的な事件を起こしていながら、今なお高い支持をマスメディアに与える
 というこの不思議な日本人の国民性こそが彼らをして慢心させ、その再生産を繰り返させる大きな原因と考えて間違いなかろう。
  現在の日本のマスメディアは、昭和17(1942)年、政府の行った新聞社整理統合政策によってその基礎が誕生した。紙など物資
 の極端な不足状態になった昭和17年、1,700紙もあった新聞が昭1県1紙と都市の大手新聞55紙に統合された。地方紙においては
 独占、中央紙においては寡占の体制が作られ、いわば競争相手のほとんどいない非競争業界になったのである。

  戦後GHQによって財閥の解体や農地解放など他の業種では厳しく寡占体制が解体されたが、占領下でもなぜか新聞業界だけは寡
 占・独占体制が守られ、名称の変更等があったものの現在まで同一体制が続いている。その後「読売報知」が「読売新聞」となり
 「日本テレビ」を設立、東京と大阪の「朝日新聞」が統一され「テレビ朝日」を設立、「日本産業経済新聞」が「日本経済新聞」
 となり「テレビ東京」を設立、「大阪毎日」と「東京日日」が「毎日新聞」となって「TBS」を設立、「産業経済新聞」が「産経
 新聞」となってフジテレビを設立した。

  こうした整理統合の見返りとして新聞社は、戦時下の政府から多くの優遇措置を獲得、そのほとんどが現在も法制化という形で
 生きている。すなわち他の一般企業に適用される「有価証券報告書」の提出義務の特別免除などの特例措置を享受し、取材活動の
 特典、事業税免除など税制上の優遇、新聞事業の不可侵性保障といった幅広い特権が与えられてきた。古谷はこういったメディア
 業界に付与された特権が、彼らの「非競争性」、「保障された地位」と絶妙にシンクロナイズし、一般社会と隔離された特異な文
 化を形作ってきたと述べている。

  日清、日露、日支事変、大東亜戦争と常に国民に対し戦争を煽り続け、先の大戦では国家総動員体制の重要な一翼を担ったマス
 メディアが、巧みに保身に走り、戦前政府から付与された特権を守りつつ、戦後自らを「反国家」、「反軍」、「反政府」へと擬
 態することによって、GHQ及び国民からの信頼度を確保したのである。

  「反国家」、「反軍」、「反政府」つまりは「反日」を装うことで、「GHQ」の検閲に協力し、国民の信頼を得られたという特
 異な経験が、今なお彼らをして象牙の塔的な位置に置いていると考えられる。「反国家」及び「反軍」とは「反日」そのものであ
 り、「反政府」とはながらく政府与党であり続けている「自民党政府」に敵対することである。「民主党政権」には甘く、「自民
 党政権」には厳しいマスコミの姿勢の由来を垣間見ることができる。

  日本のマスメディアの一大特徴である「反体制という体制」、「反権力という権力」という擬態で国民を騙し続けてきたが、戦
 後の日本人はその時代に応じて事の真実をある程度わきまえており、ある意味騙されるフリをしてきたのかもしれない。GHQ
 がNHKに放送させた「真相はこうだ」などの番組内容が大嘘であることは当時のまともな成人は知っていたし、戦前の新聞が戦争
 を煽ったことも知っていた。「進駐軍は占領軍」であり、「自衛隊は軍隊」であり、「民間遊技場(パチンコ)は民間賭博場」であ
 ることを知っていた。矛盾を感じながらも誰も大きな声を出してそれを追及することなく、実は誰しもがその実態を知りつつ表層
 に表れた呼称や表現に滲み出た社会矛盾を受け入れる体制こそが実は戦後体制であったと古谷は言う。

  マスメディアがほとんど総掛かりになって自民党政権を攻撃しても、その与党体制は40年も継続し、一時期リベラルな政党にと
 って代わられたもののまたメディアの嫌う自民党政権に復帰した。社会党や共産党が耳に心地よい政策をいくら並べても騙される
 国民は少ない。

  しかし自民党もいつの間にかマスメディアの論調に波長を合わせ、国家の尊厳、国益、国家主権の堅持といった強面の政策を放
 逐し、「反国家」に擬態して国民の歓心を得るという習性を纏う政治家を輩出するようになった。
  ところがここ数年の尖閣、竹島をめぐる支那、韓国の理不尽な行動や従軍慰安婦などの極端な反日政策を目の当たりにした国民
 の声なき声が、マスメディアの「無自覚な反日」をこれ以上許すわけにはいかないといった雰囲気を醸し出しつつある。

  日本が強国である限り支那と韓国による反日は終わらないであろうが、国内における反日、特に「無自覚な反日」によって国益
 を損なわせるマスメディアや政治家を克服することは、日本及び日本人が必ずいつかは乗り越えなければならない高い壁である。
 さらに本研究を通して言えることは、支那や韓国あるいはソ連、さらにはアメリカやドイツなどの欧米との外交を考えるとき、我
 々日本人は、戦前のコミンテルンが採った反日戦略のために、戦争に追い込まれ敗戦の憂き目を見たことを教訓として、靖国問題
 、従軍慰安婦問題、南京大虐殺問題などの裏には間違いなく彼らのどす黒くしたたかな戦略が渦巻いているということを片時も忘
 れてはならないということである。(終)
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  *参考文献等
  ① 『コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾』江崎道朗著 展転社        平成24年12月8日
  ② 『反日メディアの正体』         古谷経衡著 KKベストセラーズ  平成25年12月25日
  ③ 『中・韓反日ロビーの実像』       小森義久 PHP研究所      平成25年10月21日
  ④ 『マオ 誰も知らなかった毛沢東』    ユン・チアン、ジョン・ハリディー 講談社    平成17年11月17日
  ⑤ 『虚言と虚飾の国・韓国』        呉善花 ワック㈱         平成24年9月27日
  ⑥ 『北京燃ゆ―義和団事変とモリソン』   ウッドハウス暎子 東洋経済新報社 平成元年12月21日
  ⑦ リットン報告書【国際連盟日支紛争調査委員会報告書】
  ⑧ 『正論』2月号
  ⑧ その他:産経新聞及びWeb.資