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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 教育の国・日本(栃木教育史を中心として)           平成26年3月16日 作成 


1 古代の教育
 
教育の発達度は文化の成熟度と正比例的に相関するもので、文化が発達すれば教育もそれに伴って発達するものであるから、文化は教育の程度を、教育は文化の程度を計る物差しとなる。

古墳時代以前の教育は近世以降の制度的に整った塾などの明確な教育組織の輪郭をもつものではなかったが、下野一円にわたって散在している縄文や弥生の遺跡・遺物などから推測されることは、そこに豊かな文化が形成されており、したがって何らかの教育がなされたということであろう。

 古代、下野は上野(コウズケ)とともに毛野(ケノ又はケヌ)国と呼ばれ一国になっていた。この毛野国には古墳が多く、現在の両毛線に沿っ
て古墳群を形作っているところがある。このことはこの一帯に古代豪族が勢力を張り、縄文・弥生時代よりは進んだ文化が醸成され
たことを思わせる。『日本書紀』には、毛野国に第10代崇神天皇の第1皇子の豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)が下向し下野・上野の国造(クニノミヤツコ)の始祖となったと記され、東国にも都の文化が伝えられたことが推量できる。(古代朝廷は、末子相続が主流、弟の活目尊
が垂仁天皇に即位)

 5世紀以前は、毛野国に対して那須国が一国を形成していた。那須国造は第8代孝元天皇の第1皇子の大彦命の子である武淳川別命(タケヌカワワケノミコト)の子孫系統が任ぜられとされる。第41代持統天皇の御代、韋提(イデ)(笠石神社に那須国造碑が祀られている)という
人物が国造に任じられ善政を布いたと伝えられ、那須野原には新羅より帰化の民が入植し土着したといわれる。

 第40代天武期から第41代持統期にかけての7世紀末、下野薬師寺が創建された。下野の文化が全国的に高い地歩を確保したのは、奈良時代に入り天平宝治5(761)年、下野薬師寺に戒壇院が設けられ、奈良東大寺(755年)、筑紫観音寺(761年)とともに日本三戒壇の一つとしての教化活動を始めてからである。当時下野は蝦夷との境界にあり、白河の関を挟んで蝦夷と抗争を続け、彼らの南下を阻んでいた。すなわち下野は大和の北限に位置し、大宰府が西端に位置して大陸民族の侵攻に備えたのと好対照をなしていたのであり、畿内とともに三大文化の中心であったと見ることもできよう。

 蝦夷討伐やその経営のために都から武将が軍勢を率いて東下すると、下野は奥州に向けての策源地となり下野の百姓は多くがこれに従軍した。このため下野の人士は練武の術に長じ勇壮な武士の素養を備えるものが多かった。防人の歌の中に下野出身者が多いのはそのためであり、当時の家庭教育においては尚武の資質と武士(モノノフ)の教養を培う教えが重視されたのは必然であった。

(1) 国学
  律令は天智天皇以来撰修され、大宝元(701)年、『大宝律令』として一応の完成をみた。「律」は今日でいう刑法である。「令」は刑法以外の行政法・民法に相当し、官制、戸制、田制、軍防制、税制など27令の治世に必要な制度とともに
学制が定められた。
唐に倣ったにせよこの時代に我が国最初の教育制度が法律として整備されたのである。
国府は地方における文化の中心地であり、下野の国府(栃木市田村町300)もその例にもれなかった。そこで律令制の下で教育機関として整備されたのが国学(都における大学に相当)であった。都では中央官吏の養成を目的とした大学が設立され、明経道(ミョウギョウドウ:儒学)、紀伝道、書道、算道、明法道(法学)等が教授された。国学は国ごとに1校を設けられ、下野にもその国府に学校(国学)が設置された。国学は国司の管轄に属し、国司は国博士・国医師を任じ、学制を補し、試験を行い、これを評価して官吏登用を進貢した。学生は、国の規模によって大小あり、大国50人、上国40人、中国30人、下国20人とし、下野国は上国であるから学生定員は40人であった。ここでは郡司の子弟を入学させたが、定員に満たなければ庶民の入学も許される規定となっていた。
明経道は儒教の経書のうち重要な一書を学ばせるもので、孝経と論語は必須であった。紀伝道は史学と文章すなわち現代の国語と歴史(ただし支那の歴史のみ)を修めるもので、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国史』を学ぶものであった。明法道は法律及び制度を学ぶもので、律令制を理解させるためのものであった。算道は、算術のほか天文と暦術を習得することを目的としたが、学生の生業に応じて履修するものであった。


 大学・国学ともに学生は13歳以上16歳以下の者で聡明にして善良なる子供が選抜された。入学すると、学生は大学においては式部補、国学においては国司補に任じられた。入学に際しては、学生はその師に対して束脩の礼(入学料)をなさなければならなかった。この習慣は釈奠(セキテン:先哲を祀る儀式)とともに遥か後世の江戸時代末期まで引継がれた。休日は十日に1日、1年のうち百日欠席すると退学となった。国学は平安時代を通じて隆盛を極めたが、平安末期になると綱紀が弛緩し教育制度としての実体を失っていった。

 下野における国学の面影を断片的ながら伝える資料がある。それは空海の詩文集に遺されている「勝道上人補陀洛(二荒)山碑(ショウドショウニンホダラサンピ)」と呼ばれるもので、日光山を開いた勝道上人を称える碑文である。意訳は〈下野の前の国学の先生であった伊博士某は勝道と友人であった。伊博士が任期終了して京都に帰ることになったとき、勝道は伊博士に対して、『空海にこの(日光山の)景観を描いた文章を書いてもらうよう頼んでみてくれないか』と依頼した。伊博士某とは昔からの知り合いだから断り切れず、ともかくも筆をとることにした。そこで作った銘がこれである。〉というもので、国学の教師が都から派遣されたことがわかる。
 なお勝道上人は、後に述べる円仁(慈覚大師)に先立つこと60年前に活躍した古代下野の先哲であり、少年期から山林修行を勤め、天平宝字2(676)年、下野薬師寺で得度・受戒した。天平神護元(765)年には出流山満願寺を、延暦元(782)年、四本龍寺(現輪王寺)を建てるなど二荒山神社や輪王寺などにつながる日光山繁栄の源を創り上げた古の偉人である。桓武天皇の勅命によって上野国総講師に任ぜられたというから、隣国の伊博士某とは何かと交流があったのであろう。

(2) 三大寺
  古代における学問の場は、前述の国学(地方の学校)のほか寺院における仏教を通じての教育が主なものであった。下野におけるその中心は、国分寺、薬師寺及び大慈寺の三大寺である。
 
下野国分寺(下野市国分寺993)は国府の近傍に建立された仏教普及の本山であり、主に僧侶の教育機関となったが同時に国の安寧、五穀豊穣を祈願する場でもあったので、庶民の信仰を集め、その教えに導かれることも行われた。下野国分寺の建立が何年であったかは不明だが、天平9(737)年、聖武天皇が詔(ミコトノリ)して、国ごとに釈迦仏像や大般若経を祀れと命じていることから、天平9年から10年間ほどの時代に全国各地に国分寺が造営されたものと見られる。
 国分寺には僧寺と尼寺が並立し、この時代女性にも等しく仏教を学ぶ場が置かれたのである。そこでは金光明最勝王経や妙法蓮華経の写経や読経が盛んに行われ、都から講師の派遣も行われた。派遣された名僧たちによって、奈良の文化は国分寺を中心として伝えられたのである。
 国分寺は大規模に造営され、僧寺・尼寺ともに奴3人と婢3人が隷属された。(彼ら奴婢は60歳になると解放され良民となった)その規模の大きさは下野国分寺の遺址によっても想像でき、総面積は1万7千坪(東京ドームの1.2倍)にも及ぶ。延喜式によると、通常の国分寺の予算は「稲2万束」とあるが、下野のそれは「稲4万束」とあり、諸国の国分寺よりも大規模で優遇されていた。
 下野薬師寺(下野市薬師寺1636、現在は安国寺として寺務は存続)は下野特有の寺院である。その創立は奈良時代よりも古く、『続日本紀』には天武天皇9年(白鳳8(674)年)と記されており、国分寺に先立つこと半世紀以上前に建立されたことは疑いない。薬師寺は時代とともに規模を拡大し、天平勝宝元(749)年には、法隆寺、四天王寺、筑紫・観音寺等とともに墾田5百町を施入され、畿内の諸大寺と比肩される隆盛に沸いた。前述のように東日本で唯一の戒壇院が設けられたので、信濃以東の僧侶の受戒の場となり、仏教界の一大拠点となった。当時の薬師寺の盛観が『続日本紀』に次のように記述されている。〈その建築は巍然として中空にそびえ、七大寺に匹敵する壮大さである。坂東十か国の人士が集まり得度したので、十か国の中心は下野であり、薬師寺がその教化の道場となった。〉薬師寺は国分寺とともに陸奥鎮守府へ至る大道(東山道)に沿っていたので、僧俗はここに集まり、一大門前町を形成したであろう。

 大慈寺(下都賀郡岩舟町小野寺2247)の正確な創立年代は不明ながら隣接する村檜(ムラヒ)神社(創建は大化2(646)年)の境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、この地(岩船町)に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かである。9世紀、慈覚大師・円仁が住職を務めた頃の大慈寺は、関東に並びない大伽藍を誇ったが、天正年間に至り小田原北条氏のために兵火にあって消滅し、その後再建されたもののその後の兵乱の中で衰微し、古の盛観に復し得ないままに今日に及んでいる。

 寺伝によれば、大慈寺は天平9年(737年)に行基が開基した寺院とされ、二祖は道忠、三祖は広智とされる。広智のときに、大慈寺で修行していた円仁(慈覚大師、後の第三代天台座主)、安慧(後の第四代天台座主)などを最澄のもとへ弟子入りさせ、天台教学を学ばせている。

 円仁(慈覚大師)は、延暦13(794)年下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の子として生まれ、早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始めた。大慈寺の師・広智は帰化僧鑑真(律宗・天台宗)の弟子筋にあたり、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

 円仁15歳のとき、最澄が唐より帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事した。天台宗の確立に立ち向かう最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛された。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁一人の他にいない。

 弘仁7(816)年23歳の年、三戒壇の一つ東大寺で具足戒を受け、最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広めるため、全国に6か所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。円仁の性格は円満にして温雅であったと言われ、浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

 円仁は、43歳から3年間唐への渡航を試み、2度失敗するも45歳にして入唐を果たした(838年)。唐において長年の労苦のうちに修業を重ね、842年10月、時の皇帝・武宗による仏教弾圧である「会昌の廃仏」に遭遇し、外国人僧の国外追放という形で帰国を果たした。この9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)は、日本人による最初の本格的旅行記であり、「会昌の廃仏」の様子を生々しく伝える史料としても高く評価されている。

 仁寿元(851)年、58歳で大慈寺の住職となり、坂東一帯の寺院の講師も兼務した。円仁は唐から持ち帰った什宝を寺に納め、下野における第一の霊場として地方教化の一役を担ったのである。その後朝廷に招かれ、仁寿4(854)年に延暦寺の座主となり、文徳天皇、清和天皇の師となった。
 目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺も開いたと言われ、慈覚大師・円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余もあるとされる。浅草の浅草寺もその一つである。

(3) 防人歌
  万葉集が成った8世紀後半は下野薬師寺が建立され隆盛を極めた頃であった。その「東歌」の部に、下野から防人として遠く西海へ 旅立った無名の壮丁たちの出発にあたって詠んだ歌が数多く選ばれている。当時の下野の庶民文化の高さを証明するものの一つであ る。
 防人制度は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に敗れたことを契機に、唐や新羅が攻めてくるのではないかとの脅威から設置された辺境防備の兵である。
任期は3年で諸国の軍団から派遣され、壱岐・対馬および筑紫等の諸国に配備された。当初は遠江以東の東国から徴兵されたが、757年以降は西国からの徴用となった。ところが西国兵士が弱くてものにならないという理由で再び東国から防人が派遣されることになった。古来勇武をもってなった東国武士は早くもこの時代から認められていたのである。

天平勝宝7(755)年、西国へ派遣・出発するにあたり彼ら防人たちの詠んだ歌は全部で18首、そのうち拙劣な歌は取り上げられず、11首が採用され、万葉集に遺された。他国においても同様の措置がとられた。その状況は下表のとおりである。採用率で下野を上回るのは上総だけであり、当時の下野の庶民文化レベルは他国に比し劣るものではなかったことを伺わせる。なお、その撰修にあたったのは兵部少輔(現在の防衛省局長に相当?)であった大伴家持である。


 そのうち有名な2首を挙げて、当時の下野の人々の心情の一端に触れてみたい。

   今日よりはかへりみなくて大君の醜(シコ)の御楯と出で立つわれは
                                    火長 今奉部与曾布(イママツリベノヨソウ)
「火」とは古代大和朝廷の軍団における編成の単位で律令の「軍防令」に「凡そ兵士は十人を一火となす」という条があり、「火長(ヒオサ)」はその長つまり現代でいえば分隊長に相当するが、人口の少なかった古代(日本の推定人口は約500万人、1軍団=1,000人)であるから小隊長又は中隊長といった方がいいのかもしれない。この歌は大東亜戦争前にあって士気高揚の歌として有名になった。「醜(シコ)」の意は諸説あるが「頑強」というのが妥当であろう。
この歌につき、国文学者故益田勝美氏(古代文学・法政大学文学部教授)が昭和47年に学徒出陣の思い出話を書いている。氏は当時20歳であった。学内で学徒出陣の壮行会が開かれた。予備役から再召集されて大学の配属将校であった飯尾中佐は「戦場へ行ったら女を犯したり、むやみに罪のない支那人を殺したりせず、学徒らしい『聖戦』をしてほしい」と穏やかな口調で述べた。その訓示に感激した益田氏は壇上に飛び出して「中佐の訓示通りの『聖戦』を貫こうではないか」と演説した。しかし、すかさず壇上に立ったのは当時少壮の万葉学者として鳴らしアララギ派のメンバーであった森本治吉先生で、先の防人歌を引用して「大切な点は、自分たちで聖戦の実をあげるのあげないのという考え方ではいけない。われわれは大君の醜の御楯であって、それ以上ではない。醜の御楯として死ぬ。そういう真に謙虚な心持で戦場へ行ってほしい」と学徒たちを勇ましく叱ったという。学徒たちは長年戦場を経験してきた飯野中佐の言葉に感激しながら、学問の世界だけに生きてきた万葉学者の激越な意見に打ちのめされる思いであったという。

   太小腹(フタホガミ)悪しき人なり疝(アタ)病わがする時に防人にさす
                                    那須郡上丁 大友部広成
「上丁」(カミツヨボロ)とは現代でいえば1等兵、「下丁(シモノヨボロ)」が2等兵を指す。この歌の意は、「まったく根性の悪い人だ、急病で苦しんでいる自分を防人にするなんて」というものであり、自分を防人に指名した国府の長官あるいは郡司を罵っている。「ふたほがみ」は人情を知らない腹の悪い意味と、国府の所在地であった「布多」と長官を指す「ほがみ」と、二つの意味を重ねた表現とする解釈が有力である。ともあれ大友部広成という男はぶつぶつ恨み事を言いながら防人として出かけ、その恨み節が採用されたというのだから、1200余年昔の古代国家日本の世のおおらかさを彷彿させるものである。

2 中世の教育(足利学校と大沢文庫)
  中世は文化的には仏教諸派の興隆、政治的には武家政治が確立・発展していった時代である。下野薬師寺、日光満願寺、那須雲巌寺等の仏教史料が戦国の兵火や秀吉の関東征伐の犠牲となってこの時代の寺院を中心とした文化・教育を実証的に偲ぶことは難しいものの、11世紀から16世紀にかけて現栃木県域に創建された寺院のおびただしい数(500寺院以上)から推し量るに天台、真言、浄土、曹洞、臨済、時宗、日蓮といった寺院を通じての武士や庶民の教化活動は盛んに行われたものと察せられる。下野国誌慶長分限高帳によれば、16世紀末の栃木県寺院総数は、3,266にも及んでいる。

  一方、教育に特化した機関についてみれば、我が国教育史上特筆すべきものに足利学校があることは論をまたない。
 中世の戦乱に明け暮れる時代に、文化の伝統を継承しその命脈を保ちえたのは、教養のある武士階級と僧侶の力に負うところが大きかった。足利学校の庠主(ショウシュ:校長)は歴代僧侶が就き、特色のある教育が行われた。
 その創立は昔から諸説があり確定していない。①小野篁(平安時代前期の文人・公卿)、②国学(地方の学校)の遺制、③藤原秀郷の曾孫、④足利尊氏、⑤足利義兼、と各説があるが、最も信憑性の高いのは、⑤足利義兼の創建とする説である。義兼は足利氏の祖義康(清和天皇から8代目の子孫)の子で、北条時政の娘を妻に迎えている。義兼は、居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立、晩年出家して鑁阿と号した。その子義氏が伽藍を整備して鑁阿寺が完成する。義兼創建とすれば、足利学校創立年は、平安時代末期から鎌倉初期の11世紀後半と考えられる。

 創立後すぐ荒廃したが、永享4(1432)年、足利の領主になった上杉憲実(関東管領)が再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元(臨済宗僧侶)を庠主に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。上杉氏が三代にわたって内容の充実をはかったので、北は奥羽、南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。
 享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主の九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3,000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校はヨーロッパにまでその名が伝えられた。
 教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。
 上杉氏の没落後も、家来筋の足利・長尾氏が6代125年間にわたって足利学校を保護したが、秀吉の奥州征伐に伴い財源であった所領を没収され、さらに古典籍を愛した豊臣秀忠によって学校の図書が持ち出されるなどして衰微しかかったものの、江戸時代に入ると、幕府と領主の保護が加えられ、足利近郊の人々が学ぶ郷学として江戸中期に二度目の隆盛期を迎えた。
 中世において足利学校に比肩される学問の中心地が益子にあったことを知る人は少ない。現在の芳賀郡益子町大字大沢にある浄土宗円通寺に開かれた大沢文庫である。応永9(1402)年も創建とされ、初代住職良栄以降の各代の住職が文庫書物の充実に努めたので、16世紀半ばには広壮優美な大伽藍が造営され、38棟もの学寮が林立するに至り、一時は大沢文庫に集まり来るもの門前市をなすが如きの有様であったと伝えられる。

3 近世の教育
(1) 概観
  近世は、中世と同じ封建社会であったが、織豊政権による全国統一の跡を受けた徳川幕府の長期安定政権の確立に伴い、中世の現世逃避的な仏教支配が否定され、現世肯定の儒教道徳が強調されてその商品経済の発展と高度化が進み、商人などの庶民勢力が勃興していった時代である。
 都を焦土と化した応仁の乱以降、中世の学問を主導した京の僧侶や公家の多くが戦国大名をはじめとする地方の有力者を頼って流寓した。地方に覇を唱えた優れた指導者たちは概して学問を尊重し、家臣や良民の教化に熱心な武将が多かった(大内義隆、北条氏康、上杉謙信など)。
 江戸時代になると、徳川幕府は家康以降の歴代将軍が、公家は勿論武士にも儒教を中心とする教養の修得に励むことを命じた。秩序維持のためには文教政策が必要不可欠だった。5代綱吉自ら諸大名を前に儒学を講じたほどであり、元禄以降、文が治国の中枢となったのである。
 江戸後期になると次第に藩が藩士の教育に力を注ぐようになり、次々と藩学校が設立された。下野では、黒羽、宇都宮、大田原、烏山、喜連川、茂木、壬生、吹上、佐野等の諸藩が藩学校を興した。いずれの藩学校でも藩主自らが先頭に立って教学の指揮をとり、教場視察や聴講を行い、定期的な試験を行い、信賞必罰をもって学業を奨励した。学問に優れた人材の養成こそが大変革の時代において藩を救い、繁栄させる必須の事業であると認識されたのである。
 一方、商品経済の発達を背景とした庶民の台頭はその文化的欲求を刺激し、寺子屋や家塾等が無数といっていいほど乱立した。近世教育史上、世界的に見ても寺小屋等による教育的影響は特筆に値する。寺子屋等の教育的効果が際だった最も大きな理由は、門下生がその塾主の学徳を慕って遠国からも笈(オイ)を背負って来る者が多かったことである。
近世後期に至ると、町人階級の勢力の拡大に伴い農村の都会化及び工業化が進み、町人・農民といえども知的な教養を求められるようになった。都市と農村の交通が活発化し、農村の生活圏が拡大すると同時に、都市の文化が農村へも浸透し、寺小屋等が農村部へも広がっていったのである。
 意外なことだが、
江戸時代の幕藩制社会は農民の読み書き能力の普及を前提とした社会体制だったのである。農民の文字学習の需要は、より本質的には農民の生産力向上に直結した問題であった。作物栽培の新しい知識の導入や金肥や雇用労働力を必要とする農業経営のための帳簿作成は、農民の文字学習を必須とさせた。下表に示すように寺小屋・塾経営者に農民が多い理由が頷ける。
 下野には日光東照宮があり、これに至る通路として日光道、例幣使街道が完備され、江戸より奥州に至る奥州道も整備された。渡良瀬川、巴波川の舟運等の発達とともに江戸文化や上方文化も流入した。
(2) 日光学問所
  徳川幕府は天領に奉行、郡代、代官を置いて領地を治め、江戸の昌平黌(1790年、神田湯島に設立された幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「昌平坂学問所」)の学制にならって幕府子弟の教育のための学問所をつくった。なかでも佐渡修教館、駿府明新館、甲府徴典館、長崎明倫堂と並んで、日光学問所を重視した。
 日光学問所は現在の日光二荒山神社の近傍にあった。ここに学んだのは15~20歳の社家(代々特定神社の神職を世襲してきた家)、山内寺院の子弟が主であったが、庶民の入学も許され、遠く塩原・那須郡等からも来たと言われる。庶民の場合は寺小屋で勉強したのちその素養を認められて就学を許された。学科は朱子学を中心として「四書五経」(四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)史伝、詩文といったものであり、昌平黌など江戸から教授が派遣されることもあった。
(3) 藩学
(壬生学習館)
  正徳3(1713)年、壬生藩が学習館を設けたのが下野における藩学の嚆矢である。壬生藩祖鳥居忠英は、かなりの名君であり、殖産興業とともに文教興隆にも力を注ぎ、他藩に先駆け藩学を興すとともに藩士・子女の教育にあたった。8歳になると士族の子弟は、入学を義務付けられ、朱子学、兵法、算術等を学ばせるとともに刀槍弓馬、砲術、拳法等の訓練を行わせた。女子は、祐筆の家塾に入らせ、読書・習字を学ばせた。学頭、助教師、句読師、算術師などの職制も定め、数十名の職員を置く組織的な運営を行った。生徒は、130名前後から多い時は300名にも及んだという。学習館は、維新後も明治4年の廃藩置県まで盛んであった。その位置は現在の壬生小学校である。
(宇都宮修道館)
  文化12(1815)年、宇都宮藩主戸田忠延は修道館を設置、朱子学と算術及び武道を教えた。士族の入学は極力督励したが、他の私塾等への通学は禁じず、他国の留学生も受け入れた。修道館における課程を修了した者は、願いにより他国への遊学を許可し、そのための給与(扶持米)を支給した。藩主が優秀者に他国修業を命じることもあった。その位置は現在の東武宇都宮駅近くの松ヶ峰2丁目カトリック教会附近とされるが、廃藩置県後、宇都宮県に引き渡され、明治4年11月13日に閉校、現在ではその跡すらとどめていない。
(大田原自習館)
  嘉永3(1850)年2月、藩主大田原清広が創立した。初め館長を命じられた藩士金枝柳村(カネエダリュウソン)の自宅を仮校舎としたが、その後城内に移された。戊辰戦争で兵火にかかり焼失したが、明治2年藩主勝清が再興し、町内の曹洞宗龍谷寺洞泉院(山の手1‐5‐16)に移った。朱子学を基本に、日本外史、大日本史等により皇学を重視、「史記」、「前・後漢書」、「戦国策」、「三国志」、「資治通鑑」等を教え、文武に優れることを重んじた。学生数は75人、教員は館長のほか、1等教授1名、2等教授2名、3等助教3名、4等助教1名の定めであった。
館長金枝柳村の学識は下野にあって珍しいほどの大家であり、維新後権大参事に任ぜられ、集議院議員(明治初期に設けられた立法府)に選ばれた。廃藩置県後は芳賀郡上延生村(現芳賀町上延生)に居を移して子弟を教育した。
(黒羽藩何陋館・作新館)
 藩主大関増業(マスナリ)が藩士の子弟教育のため文化3(1806)年、大田原市(黒羽町)大字前田に創立した。増業は、大名には珍しい神道を究めた学究の徒で、兵法、天文、医学、織物染色などにも通じるとともに神道の3著書を自費出版したほか、『黒羽藩日本書紀』、『日本書紀文字錯乱考』などを刊行するなど、国学の振興に努めた。この名君は安政6(1859)年、藩の世継上の紛争で隠居する事態に陥り、それに伴い何陋館は廃校された。
 増業の跡を継いだ増式(マスツラ)が、何陋館の跡に藩学問所の作新館を設置した。支那学、皇学を教えたが、重きをなしたのは砲術、柔術、槍術など武道の科目であった。
文久元(1861)年、増裕(マスヒロ)が黒羽藩の家督を相続した。増裕は増業と並び称される賢君であり、幕閣にあっては講武所奉行、初代陸軍奉行、海軍奉行を歴任した俊英で、進歩的思想をもって洋書に親しみ、外人とも交わり、西洋の兵式を取り入れて徴兵令に先駆をなした。また農業政策を重視し、よく百姓を愛撫し、勤倹貯蓄の美風を振作して大いに学問を奨励した。したがって、作新館の教科目は、国学、支那学の他に和算、数学、訳書学、洋学、習字、医学など幅広く文化に重点を置いた教育へと発展した。学生は240名ほどで、一人がすべての科目を学んだのではなく、これらのうち一つ又は二、三の科目を選択して勉強した。
なお、作新館の名前は現在の作新学院に受け継がれた形になっているが、実質的には、黒羽藩家老職風野家屋敷跡に設置された大田原市立黒羽小学校に引継がれているという。
(烏山藩学問所)
 烏山藩学問所が創始されたのは享保11(1726)年、烏山藩主に大久保常春が転封された年であった。常春は将軍吉宗に仕えて信任が篤く、烏山に封ぜられると藩政をよく整理し、文武を励まして好学の美風を養い、四民に愛された。
学問所は廃藩置県まで存続したが、心学(「学問とは心を尽くし、性を知る」ということを基本に、日本のCSR(企業の社会的責任)の原点ともいえる社会思想を打ち出し、営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことの重要性を説いた学問)を軸とした社会教育に重心を置いた教育であったためか、概して藩学としては振るわなかったようである。幕末には藩士は学問所ではなく家塾に通って修業した。学制発布により、小学校になり「維新学校」と称した。
(喜連川藩翰林館)
 江戸時代になって、戦国時代まで塩谷氏の領した喜連川領5千石を治めたのは古河公方足利氏の流れをくむ名門足利氏であり、喜連川に移って喜連川氏を称した。その藩学創立年代は諸説あるが明確に藩学の形態を備えたのは、弘化3(1846)年の藩主茂氏のときである。その16年前喜連川中興の祖といわれる英主煕氏は荒土を開拓し学田となし、学校設置を計画したが、教授に足る人材を得ることができず、家塾の「翰林」を興した。茂氏が、その家塾を移転・拡充し学校を作ったのが翰林館である。科目は、当時の藩学と同じ四書五経などの儒学及び和漢の歴史であり、武術も並行して鍛錬した。
(茂木藩弘道館)
 茂木は戦国時代には常陸佐竹氏に属したが、江戸時代初め細川忠興の弟興元が入部し、明治まで細川氏が領した。7代藩主興徳治世下の寛政6(1794)年正月、茂木馬場通りに藩学弘道館が設置され、朱子学を中心とする教育が始まった。生徒は8歳で入学して文を習い、15歳になると武芸も習わせた。入学時には父兄親戚同伴で礼服を着用し、教員宅を回礼しなければならなかった。教頭2名、助教3名で教えた。
(吹上藩学聚館)
 東北自動車道の栃木インターのすぐ北のあたりに1万石の小藩、有馬氏の吹上藩があった。このあたりは幕末まで幕府の直轄地であり、有馬氏怨が入封されて城郭を築いたのは天保12(1841)年である。藩学学聚館を開いたのは明治2年になってからで、学校も小規模であったが、藩士の中から有為な人材を育成して明治政府に送りだそうとする気概は高かった。職員は教授1名、教授佐1名、少助教1名で朱子学を採用した。その活動は賑わず、明治5年には閉鎖された。
(佐野藩観光館)
 元治元(1864)年、佐野藩主堀田正頌(セイショウ、マサノブ)は、城内植野に観光館を設立し、佐野藩学を創始した。家塾形態で、朱子学、蘭学、算学、習字、習礼(行儀見習い)等を教授した。成績優秀者には洋学を究めるため江戸遊学を命じた。医師または豪商の子弟も若干名入学したという。生徒数は、男50、女30の計80名ばかりであった。女子は習字・習礼のみであり、読書と算術は家庭教育に任せた。職員は監督1名、助教2名、会計1名で、満6歳になると生徒は入学時礼服着用父兄同伴で監督へ届け出し、教員宅へ出向いて束脩を渡し訓導をお願いしなければならなかった。年末には1年間の出席調査を行い、皆勤者には翌春の開講式に置いて酒肴量、半紙を授与してこれを賞し、欠席が多く怠惰と認められる者は厳しく罰せられた。観光館も廃藩置県とともに閉鎖への道をたどった。
(足利藩求道館)
 足利藩の当主戸田氏は、宝永2(1705)年に忠利が足利に封ぜられてから約150年間、ほとんど文教に理解を示さなかったようで、中世における天下の教学機関足利学校も僧侶の庵となり衰微し、藩学も設置されることなく子弟教育も放置されていた。
 しかし維新になり新政府に恭順の意を示した藩主忠行は、京都駐在の藩士に命じ、足利学校の維持・復興に奔走させた。近衛公を通じ上奏し、足利学校を戸田氏に託す旨の勅許を得、そのとき旧学校内に藩学求道館を創立した。数名の教員など職員を配し、生徒数は65人、年長生徒には手当1円5銭/月の手当を支給するという厚遇であった。平民に対しても入学を許し、藩主はしばしば臨席して講義を聴講した。皇学を中心として本朝の古典研究、朱子学による人倫の道、洋学、兵学のほか医学所を設け藩医らに西洋医学を修得させた。廃藩置県により藩主が東京へ移住すると、求道館は顧みられず、開校後わずか5年で閉鎖された。

(4) 寺小屋・塾
ア 寺小屋のはじめ
  日本教育史資料によると、文明元(1469)年から元和9(1623)年に至る約150年間に18の寺小屋があり、神官、僧侶、医者、修験者等各層の人々が師匠を務めたという。当時は寺小屋とは呼ばれていなかったらしく、慶長見聞集には手習と記されている。
 手習という語は宇治拾遺物語や吾妻鏡など鎌倉時代の作品にも出てくるが、源氏物語54帖の巻名にもあり(匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟が助けられ、死に損なったことを知ると、心を閉ざし身の上も語らず物思いに沈んでは手習にしたためて日を過ごす)、さらに御深草院御記には六条天皇の仁安2(1167)年に始まると記されていることから、平安中期から末期にかけて成立した言葉であったと考えられる。この頃の手習は、単に習字に止まらず音楽、和歌、有職(古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・ 制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと)などの諸学問を含めたものであり、現代語でもお稽古事一般を指す言葉としても使われている。平安末期には稚児教育が始まり、手習本の教科書といえるものが次々出てきて、庶民の子弟に対する教育も行われた。
 鎌倉時代に入ると、庶民仏教が興り、百姓を相手に禅を説き(曹洞宗)、法然は田夫野人に説法することを流行させた(浄土宗)。庶民にわかりやすく説くため、仏法をかながきにすることも始まった。南北朝時代末期から室町時代前期には、『庭訓往来(テイキンオウライ)』という江戸時代にも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書が僧侶によって書かれた。教育の場となった寺院は小学又は村校と呼ばれ、入学することを登山、入寺、入室などと言い、十歳以前に入学し3,4年間学ぶこと、できれば寺に寄宿することが勧められた。入学者は朝臣(アソン)、武士、庶民の各階層にわたった。
 塾という語は礼記の「古之教者党有庠家有塾(古の教えには、党に庠有り、家に塾有り)」を出典とする、私設の学問所である。塾は江戸時代以降盛んになったが、我が国では大化の改新の頃から存在したことが明らかになっている。中大兄皇子が蘇我氏討伐計画をめぐらしたのは南渕請安の塾へ通う行き帰りの牛車のなかであった。菅原道真も塾を開いた。それでは寺小屋と塾の実質的な違いはあったのかというと、教える側、教えられる側、教科どの点においても明確な区別はつけられない。寺小屋の方が庶民的なイメージを感じる程度の違いである。

イ 寺小屋の発達
   江戸時代を通じての下野における寺小屋の発達を通覧すると(下表参照)、慶長(1596年)から承応(1652年)までの約半世紀の間は寺小屋等が開かれた形跡がほとんど見られない。明暦(1665年)の頃、下都賀の三鴨(現在の栃木市藤岡町三鴨地区佐野藤岡インター附近)に加藤塾が営まれたのが初めてで、その後50年間、享保の頃まで上都賀1、下都賀4の5か所だけしかない。元禄の頃に河内郡に北条塾が建てられた。ところが19世紀の文化・文政に入ると各地で一斉に寺小屋等が建てられ始め、その数を急激に伸ばし始める。
 19世紀は、世界に産業革命が進展し帝国主義が興隆した時代であった。我が国でも、享和元(1801)年、伊能忠敬が幕命により伊豆から陸奥の沿岸の測量に向かい、文化4(1808)年、間宮林蔵が樺太を探検するなど、それまでになかった大きな変化の兆しが見え始めていた。そういった時代的背景が当時の人々に学問の必要性を予感させ、寺小屋の林立を招いたと思われる。
 興味深いのは下表に示すようにその経営者(寺小屋の師匠)が極めてさまざまな職業にわたることである。僧侶が最も多いのは当然としても、次に多いのが農民であり、武士、名主、神職など当時の知識人と思われる職種よりも多いのは驚きである。江戸社会にあって人口的に圧倒的に多いのは農民であったが、多数の農民が他人に教えられるほどの教養をどのように身につけたのか不思議にさえ思える。江戸の身分制社会の中で農民が搾取と貧困に喘いでいたとする封建史観に疑問符を打つものである。

ウ 寺小屋教育の状況
  たくさんの寺小屋等があったので紙面上すべてを明らかにすることはできないが、場所、教育内容等が比較的明確にわかっているものから当時の寺小屋教育の様子を推し量ってみた。塾生の数を見ると、女は男よりも少ない場合がほとんどだが、相当数の子女が塾通いをしており、江戸時代において女性への教育がおざなりにされていたとするかつての常識は完全に誤りであることがわかる。なお、『栃木教育史』では、精粗まちまちではあるものの449の寺小屋・塾について調査した資料が提供されている。
(守静塾)宇都宮市上河原町、後、小袋町成田山
 文政8(1826)年~明治5(1873)年、鹿児島静一父子によって経営され、明治3年には男子130名、女子120名の塾生がいたといい、多い時には500名にも上ったとされる。年齢や修学期限に制限はなく、科目は読書と習字、朝8時頃から午後3時まで開講されていた。
(渓雲堂)宇都宮市小伝馬町
 天保15(1845)年~明治5年、修験者であった高橋俊雄、後に質屋を営んだ高橋孝太郎によって経営され、慶応2年には男子118名、女子85名を教えた。学科は、読書、習字を主とし、授業は男女別々に行われ、女子は仮名文字を多く習った。礼儀作法はやかましく、処罰には線香などを使ったという。教室は座敷を3部屋打ち抜いて薄い敷物を敷き、その上にきちんと座って机に向かった。習字の手本は師匠が一々書いて塾生に与え、教科書も塾で貸与したようである。
(手塚塾)宇都宮市寺町
 弘化元(1844)年~文久3(1863)年、手塚藤兵衛夫妻によって営まれた。文久3年には男子100名、女子80名に対し、読書・習字などを教えた。手塚家は当主が代々藤兵衛を名のる旧家であり、質・金融業を営んでいたが、藤兵衛が至極温良かつ読書家であったことから、周りに乞われて家塾を開いた。その妻増子も学識高く、詩歌に優れ、夫と共に弟子たちに教えることをなによりも楽しみにしたという。18歳で手塚家に嫁入りしたのちも、江戸の平田鉄胤に師事して和歌を学んだという。増子は、跡継ぎとなった長女の婿が勤皇運動に挺身し獄につながれた際、病床にあった夫に代わり江戸に出向き、幕府の調査を受けたが、「知らぬ存ぜぬ」の一点張りで屈することのなかったという気丈な女性であった。
(石橋塾:麗澤の舎)鹿沼市石橋町如来堂隣
 天明元(1781)年~幕末まで、鈴木之徳、之綱、之[_(コレツネ)の三代にわたって、鹿沼の地において、君子学、経世済民の道を教え、自らも実践して私財を投じ病者・貧者を救済して施した。したがって、塾生は地元鹿沼だけではなく、下野全域から集まった。鈴木家は代々学問に熱心な素封家で、初代之徳は、昌平黌に学び帰郷して自宅に開塾した。その名声は宇都宮藩主の耳にも入り、藩主に経史を講じ、五人扶持を給せられた。
 之徳は、石橋と号し、教育すること、学問することにより、上下共にその分を守り、秩序を整え、社会を維持することができると考え、上下・貴賤・貧富の別なく教育が不可欠とし、国には国学(学校)を郷には郷学(塾)を建てるべきことを強調している。この塾の塾生からは後に下野の各地で寺子屋等を建てる人材が輩出したことは言うまでもない。
(片柳塾)栃木市室町及び若松町
 天保14(1843)年~明治6年まで、片柳麟斎が手習を主に漢学等を教えた。同塾は文久元(1861)年、元治元(1864)年の二度、火災に遭っているのに、たちまち復興していることから、人気の高い塾だったと推察される。塾生は、中流以上の家庭の子弟が100名以上いた。
(日高塾)栃木市万町1丁目
 文久元(1861)年~明治初年まで、日高頼長が儒学や手習を教えた。日高は東照宮参拝に向かった昌平黌大学頭一行を追いかけて栃木に至り、善野佐治兵衛宅に宿泊したのが縁になって、勧められるままに同家の一角において塾を開設した。管理者は善野佐治兵衛である。
(小野塾)栃木市吹上町
 明和元(1764)年~弘化3(1846)年まで、小野幸太夫が89歳で没するまで手習を教えた。小野は都賀郡川原田村の名主で、幼少より大橋流の書を好み、書名すこぶる高く、門人は280余名に上った。
(磯塾)那須郡黒羽向町
 文久(1861)年間~明治8年まで、漢方医であった磯玄杖が自宅で庶民の子弟を対象にして実用向きの教育を行った。教科書は実語教、庭訓往来、消息往来、日本外史などの素読で、入学する者は机を背負っていった。概ね午前と午後に分かれ、いつ通うかは生徒の自由に任せ、書物の教授の後に習字を練習した。授業料はとらず、塾生男女20名程度であった。

    

    
4 近代の教育(義務教育を中心として)
  明治新政府は富国強兵の根本策は国民の教育にあるとし、欧米(特にフランス)の教育制度を取り入れた。明治4年7月文部省が設置され、学制(太政官布告第124号:明治5年8月3日(9月5日))が発布された。その際文部省は学制発布の趣旨を記した『学事奨励に関する仰せ出だされ書』を国民に布告した。
                  学事奨励に関する仰せ出だされ書(意訳)

人々が社会の中で身を立て、身代を守り、仕事に励み、意味ある人生を送ることができる所以は、自ら行いを律し心を正し、知恵を培い、能力や技術を伸ばすことによるのであり、そのためには学問をすることが不可欠である。これが学校を設置する理由である。
日々の行い、言葉づかい、読み書き算盤をはじめとして、役人・農民・商人・様々な職人・技芸に携わる人、及び法律・政治・天文・医療等に至るまで、およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。人はその生れ持った才能のあるところに応じて学問に努め、そうして初めて自分の生活を整え、資産をつくり、仕事を盛んにすることができるであろう。そうであるから、学問は身を立てるための資本ともいうべきものであって、人と生れて学問をしないでよいということがあってはならないのである。
路頭に迷い、飢餓に陥り、家を破産させ、わが身を滅ぼすような人たちは、結局は学問をしなかったことに起因して人生の過ちを生じたのである。
我が国では昔から学校(塾や寺小屋)が設けられて長い年月が経っているが、必ずしもすべての人が学校に学ぶことはなかった。学問は武士階級以上の人のすることと考えて、農業・工業・商業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものとし、学問がどういうものであるかをわきまえていない者も少なくない。また、武士階級以上の人で学問する者があっても、どうかすると学問は国家のためにするのだと言い、学問が自分の立身の基礎であることを知らずにいる者もいる。ある者は文章を暗記するなど瑣末なことに走ったり、空理・空論や事実に基づかない議論に陥ったりし、その言っている論は高尚であるかのように見えるけれども、実践することのできないものが少なくない。学問をしないために長い間の昔からの悪習に従い、文明が行き渡らず、能力と技術が伸びないために、貧乏な者や破産する者、家を失う者といったことになる。こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである。
学問をするためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今後、一般の人民(華族・士族・卒族(足軽)・農民・職人・商人及び女性や子ども)は、必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしなければならない。父兄は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育てる情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。

高度な学問については、人それぞれの生れ持った才能に任せるけれども、幼い子弟は男女の別なく小学校に学ばせなければならず、それをしないのはその父兄の手落ちと認めざるを得ない。
これまでの悪い習慣であったところの、「学問は武士階級以上の人のことだとすること並びに学問は国家のためにすることだ」という理由から、国からの給付がないことに戸惑い、学費及びその衣類や食事の費用に至るまで、多くを官に頼り、これを給付してくれるのでなければ学ばないと思い、一生を自分から駄目にしてしまう者が少なくないが、甚だしい思い違いである。今後、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げ捨ててでも、自分から奮って必ず学問に(自分自身を)従事させるよう心得るべきである。
 右の通り仰せ出だされましたので、各地方官においては、片田舎の身分の低い人民に至るまで漏らすことのないよう、適宜、(学制の)意味を説明し、学校へ通うことの詳細を申し渡し、文部省規則に従い、学問が普及致しますよう、地域の実情に合わせて実効の上がるよう措置されたい。

 国家興隆のために国民の民度レベルを上げることは緊要かつ効果的・根本的な施策であるが、上記趣旨書では決して国家の為ということではなく、あくまでも国民一人一人が充実した人生を送れるよう学問に励めと諭している。明治初期において、日本人に日本という国家意識が一般にどれほど普及していたかは極めて疑問であり、明治以前の武士を含め庶民一般にとっての国とは、例えば上野であり下野であったというのが事実に近いであろう。
 この学制発布によって日本の義務教育はスタートしたわけであるが、簡単には徹底されることはなく、本県(宇都宮県と栃木県)では学齢児童100人中、小学校入学者は約23人に過ぎなかった。
 明治6年12月時点で本県の公立小学校は74校、私立小学校(私塾・寺小屋の発展したもの)183校であったが、翌年には公立507校、私立1校となった。いかに明治政府及び各県が急速に学校整備を進めたかがわかる。
 学制の発布と同時に師範学校を栃木町に設立して教師の育成にも着手した。明治17年、県庁の宇都宮移転とともに宇都宮へ移った。
 明治8年、女子教育の模範に供するため、栃木女学校を下都賀郡薗部村(栃木市園部)に設立し、普通小学科を教育した。明治12年、栃木県第一女学校と改称し、栃木県における女子中学校の草分けとなった。それに遅れること2年後、栃木師範学校内に附属予備学校を設立し、明治12年、予備学校を独立させて、女学校と並ぶ男子中学校を創始した。
 明治の教育行政は中央集権が徹底されており、一部の例外があったにせよ全国どの府県においてもほぼ同様の進捗をみた。かくて明治末には日本の国力は大いに伸展し、日清・日露の両戦役に勝利して、世界の先進国に伍して堂々と胸を張るに至ったのであるが、これには国民の義務教育がよく行われたことが大きな貢献となっていることは否めない。
 本県の教育も年とともに進み、明治44(1911)年には小学校452校、児童数132,860人、公私立中学校24校、師範学校2校となり、学校は校地・校舎・設備等がおおいに整備され、教育内容も著しく進歩した。(大正2(1913)年12月31日現在栃木県人口1,044,177人Vs現在栃木県人口207万人弱、学校数392校、小学校児童数11万人)
 学制の発布にもかかわらず明治8年頃の尋常小学校就学率は30~40%程度あったが、明治30年代に入ると次第に高まり、明治36年には90%台(男子94.93%、女子85.64%)に、明治43年には98%(男子99.93%、女子97.59%)を超えるに至った。
 その大きな要因となったのが明治33年に施行された第三次小学校令によって特別の場合を除き尋常小学校において授業料を徴収してはならないとされたことによると思われるが、授業料の無償化以前から着実に就学率の向上が見られたことは無視できない。
 明治37(1904)年2月6日、日露の国交断絶が宣言されると文部省は次の訓令を発した。直接教育に関する部分を意訳すると下記のごときものであった。
(前略)今や露国と事を構えるも、もとよりこれは平和を永遠に回復するためであるから、学生生徒は血気に駆られ露国民に対して嘲罵し、さらには他の外国人にまで悪感をもつことがないようにするのは、子女教育の最も注意を要するところである。
 我が忠勇なる陸海軍人が国家のために生還を期さない覚悟で出征するにあたっては、満腔の同情を表するために送迎することをやめよとはいわないが、学生生徒が兵士送迎のために課業をやめて貴重なる時間を費やすることは、忠勇なる軍人が在学子女に期待するところではないことを宜しく注意してもらいたい。
 学生生徒が自ら節約し、得たところの資財を献じて軍費の一端に供しようとすることは、忠愛の至情より出たものとして嘉すべきことなるのみならず節検の美風を養うにおいて意義深いことであるが、献金をするために特に父兄に要求するようなことがあれば、教育の観点から見て喜ぶことでないばかりではなく、国としてもこのような献金を受け取ることはあり得ない。教育現場にいる者は学生生徒によくこの意味するところを理解させてもらいたい。
さらに同年2月20日つぎのような訓令を発した。
 戦地における勤務に起因して死去した者の遺族に対し、市町村立小学校においては授業料を減免すべきことは既に明治29年(日清戦争に関係)勅令第5号で示したところであるが、今回の事変に際し、その趣旨を拡充し、出征又は応召の軍人の子女に対し、小学校は勿論その他の学校においても事情の許す限り授業料を減免し又は学用品を給与するなどの対策をとって、以って軍人の後顧の憂いをないようにしてもらいたい。
 軍費増大は教育費にも影響を及ぼし、教育に係る事業や設備投資を一時的に緊縮せざるを得ないことは事実であるが、このために教員の俸給を削減し又は児童の就学を減少するなど教育効果を減退させるようなことは国力発展の基礎を損傷させるものであるから、努めてこれを避けてもらいたい。(後略)
 この訓令を受け、栃木県においても応召軍人の子女の授業料の減免、校舎新築の延期、臨時費の節約、学級数の整理、二部授業等を実施しつつ努めて上記訓令の精神に沿うよう努力した。
 また明治天皇が東京大学に御臨幸されたのを受け、明治37年7月文部省は次のような訓令を発した。
天皇陛下は軍国多事の時にあたり、この炎熱をも厭われることなく畏くも本月11日、東京大学に御臨幸せられかつ親しく本大臣を召して左の御沙汰を賜われた。
 「軍国多事の際といえども、教育の事は忽(ユルガシ)にしてはならない。その局に当るものはよく励精せよ。」
 本大臣はこの優渥(懇ろで手厚い)な叡旨を拝し感激措くところをしらず、謹みてこれを教育に関係する者すべてに告知するものである。国を挙げて聖意の在るところ奉体し益々奮励して教育の効果を全うせんことを願う。

 明治の庶民の学力レベルがどの程度であったか定量的に計ったデータはないが、当時の庶民の学力を彷彿とさせる話を『坂の上の雲』から引き出してみた。もちろん個人差も少なからずあり、すべての庶民が以下のようであったと言いたいわけではない。ちなみに当時の義務教育年限は尋常小学校の4カ年であった。尋常小学校が現在のような6年となるのは明治40(1907)年である。

島根県仁多郡亀嵩村の出身である陸軍工兵二等卒飛田定四郎(農業)は、満20歳で岡山の工兵大隊に入営し、明治37年4月20日大連港に上陸した。以後その手製の手帳に、鉛筆で克明に従軍日記を書いている。学歴は村の小学校を出ただけだが、その文章に骨太さと野趣があり、この時代の若い無名の庶民の風影がどういうものであったかを、多少はしのぶことができる。
乃木軍司令部にいた騎兵の兵卒で丸山某が戦場で昏倒して捕虜になり、露都ペテルブルグに送られた。ロシア陸軍はこの丸山に対してさまざまな尋問をした。
 このとき丸山は、軍機に関することは答えず、日本軍の高級司令部のあり方」について述べた。
「将軍の行動と幕僚の執務一般の状況について」というまるで学術論文のような答弁を、丸山はやってのけて、ロシアだけでなくヨーロッパじゅうの兵学界を驚かせた。この丸山の口述についてはのちにドイツの兵事週報に取り上げられ、「日本軍兵士の驚くべき高等知識」という表題のもとに論文が掲載された。
日露戦争は国民の教育の重要性を一層痛感させることとなった。明治40(1907)年の小学校令の改正によって、義務教育年限は4年から6年へと延長され、それが大東亜戦争開戦まで30年間維持された。尋常小学校の学科も充実され、修身、国語、算術、日本史、地理、理科、図画、唱歌、体操とし、女子には裁縫を、また土地の状況によっては手工(工作・図工)を加えた。
 小学校の教科書は明治20(1887)年から検定制度が設けられていたが、検定教科書の内容への批判や教科書採択を巡っての好ましくない事案が噂されるようになり、国定教科書にすべきという主張が高まって来ていた。そういった情勢の中で教科書採択を巡って大不祥事が明るみにされた。それまでの制度では文部省の検定をパスした教科書の中から府県の審査委員会の審査によって府県ごとに使用する教科書を採択するというものであった。教科書の出版会社にとっては自社発行の教科書が採択されるか否かは死活的な問題であった。
明治35(1902)年、ついに教科書採択を巡っての贈収賄が摘発された。教科書出版社社長、営業社員はもちろん収賄側の知事、代議士、師範学校長など200人が拘引され、その範囲は30数府県に及んだ。これを契機に検定制度の見直し、国定教科書化が一気に進み、教科書もそれに伴い安価になったのである。

5 教育の国・日本(教育民族・日本人) 
  古代から近代までの日本教育史を概観するとき、日本民族の教育好きに驚きを禁じ得ないというのが率直な思いである。
 さて日本の尋常小学校就学率が98%を超えた明治43(1910)年は、日韓併合がなされた年であり、その15年前の明治28(1895)年には台湾が日本領土に編入されていた。また、日露戦争の結果、日本へ譲渡された南樺太が日本の施政下に入ったのは明治38(1905)年であった。つまり日本が海外領土を統治下においたのはやっと国内(内地)の教育制度を概ね整備した頃である。その外地に日本政府はどのような教育体制を整備したのであろうか。
(1) 台湾
  当初、台湾の初等中等教育制度は台湾人と日本人を対象とするものが区分されていた。内地人(日本人)の初等中等教育は、内地と同じ教育法令により、台湾人には別に定めた台湾教育令によって教育が行われた。昭和4(1929)年に台湾教育令を改正し、中等教育については、中学校に一本化され、台湾人と日本人の共学制が採用された。
同時に初等教育においても「内地人」、「台湾人」という民族による区分が廃止され、常用する言語によって区分する方法をとった。すなわち「日本語を常用する児童」が通うのを内地と同じ「小学校」とし、「日本語を常用しない児童」が学ぶ学校を「公学校」としたのである。民族・人種ではなく、常用言語によって分けるという合理的かつ人道的な施策であった。
昭和16(1941)年3月、台湾教育令の再度改正が行われ、小学校、蕃人公学校と公学校を統合し国民学校として統一された。これにより台湾の教育制度は完全に統一され、特殊な原住民を対象とする教育以外、中央あるいは地方財政で学校が運営され8歳以上14歳未満の学童に対し6年制の義務教育が行われるようになった。
台湾人の就学率は当初緩慢な増加であったが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、昭和19年の台湾では国民学校が944校設置され、就学児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現した。
なお、台湾においても昭和3(1928)年、京城に遅れること4年、大阪に先駆けること7年、帝国大学が設立された。
    

(2) 朝鮮
  明治27(1894)年、日本政府は、朝鮮が独立国であるか否かを李朝執政府に確認したうえで、朝鮮自身による内政改革案5カ条を示し、その実行を強く求めた。いわゆる1894~1896年に行われた甲午改革である。その第5条に「一般の学政を約定すべき事」という一項があり、各地方に小学校を分設し児童を教育すること、小学校の整備が進めばさらに漸次中学・大学を設立することなど具体的な実施事項を示した。これによって朝鮮における近代教育制度が始まったとされるが、明治39(1906)年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けているような状況だった。

  明治38(1905)年、初代統監に就任した伊藤博文は、小学校が40にも満たない現状を見て、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とさせた。伊藤が推進した学校建設事業は、併合後も朝鮮総督府によって継続され、併合以前の明治40(1907)年、日本の統監府保護下で教育令が施行されて学校数を急速に増やした。併合時には、統監府の下で100校(17,000名)まで整備されていたが、識字率は10%に止まっていた。併合以降、普通学校(小学校)は逐年拡充、大正5(1916)年には400校(66,000名)まで急速整備された。大正11(1922)年には、1校/3面(村)、昭和11(1936)年には1校/1面(村)が達成され、識字率も65%に達した(戦後、昭和30年代は日本でも1校/1村が普通)。普通学校以上の教育機関も増設され、1940年代には1,000校を超える各種学校が存在し、普通学校の数も昭和18(1943)年には4,271校に達した。それでも初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。

  朝鮮総督府は教育内容の整備を進め、科目としては日本語、朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「朝鮮事歴」という名前で教育されていた)、修身などが中心であった。
併合当初は、朝鮮における初等中等教育制度も台湾と同様、内地人に対するものと朝鮮人に対するものは別立てであった。内地人向けの小学校、中学校と、朝鮮人向けの普通学校、高等普通学校があったが、昭和13(1938)年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され、内鮮人一体となった共学制が採用された。
 
  高等教育については、官公私立の旧制専門学校が多数設立されたほか、大正13(1924)年に京城帝国大学が朝鮮唯一の旧制大学として、また日本で6番目の帝国大学として内地の大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早く設立された。日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。
李氏朝鮮の時代、漢字は重視されたが、ハングルは卑しい文字とされ、教育されることはなかった。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は、算術は言うに及ばず読み書きができない状況だった。日本統治下の学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた。

  朝鮮総督府は明治44(1911)年に第一次教育令を公布し、朝鮮語(ハングル)を必修科目とした。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は大正元(1912)年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、昭和5(1930)年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成しそれを用いた。
(3) 樺太
  占領直後の樺太にはほとんど人は住んでおらず、日本の施政下に入ったことで内地から一攫千金を夢見て多くの渡航者が押しかけた。明治38(1905)年末の時点で在留民の総計は1,990名という状況だった。翌年、小学校設置の動きが各地で具体化した。樺太庁民政署の計画と前後して、住民側からも学校設置の要求が表れた。

  樺太庁民政署は8月、豊原に帝政ロシア時代の建物を仮校舎として樺太第一尋常高等小学校を開校した。次いで大泊には10月に樺太第二尋常高等小学校を建設、開校し、真岡にも同月、ロシア時代の建物を仮校舎に充てて樺太第三尋常高等小学校を開校した。日本人移住者をまずは対象とし、尋常小学校では、修身・国語・算術・体操及び唱歌を、高等小学校(4年制のみ)では修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・体操・唱歌(女児には裁縫)を教授するとした。授業料を徴収しないこと、保護者に就学義務は課さないこととし、長官の裁量により土地の事情を考慮した休日の設定を許可した。これは、樺太の当時の基幹産業である漁業の繁忙期に児童の労働力を必要とする移住者への積極的な「配慮」を示すものであり、彼らの不安定な生活を念頭に置いたものであった。それでも明治39年末の時点で生徒数は、尋常小学校403名、高等小学校130名に達していた。明治41(1908)年、第三次小学校令の改正に伴い、尋常小学校の義務化が行われた。

  樺太における初等教育体制の特徴は、公立小学校に比し私立学校が著しく多いことである。明治39(1906)年時点で6校に過ぎなかった私立小学校が、大正元(1912)年には68校にも急増した。その運営は樺太庁からの補助金もあったが、多くは、住民の拠出金を基本としながらも、共同耕地から収穫した農作物の売上金や、漁業経営者あるいは地域の有志による寄附、漁業組合の収益など様々な方法で学校経費を捻出していたと伝えられる。住民は、「子供の通う学校もない処では到底成功することが覚束ない」と考え、容易ではない生活のなかで授業料を支払い、小学校のために拠出を行ったのである。これは、政府によって普及された「教育の大切さ」という考え方が、明治後半には国民の中に浸透・定着していたことを示す証拠である。

(4) 南洋群島
  南洋群島とは、第一次世界大戦の結果日本の施政下に入ったドイツの植民地、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域であり、国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々である。総人口は、129,104人(1939年12月末)で内訳は、日本人(台湾人・朝鮮人を含む)が77,257人、島民(チャモロ人・カナカ人)51,723人、ドイツ人などその他の外国人124人であった。
 日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になると当時の首都コロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。
日本人子女と島民子女の教育を完全に分離し、前者には内地と同様の教育機関を設けた。日本人は修業年限や教科課程の面で、内地と何ら変わらない教育を受けることができた。
一方、島民子女には、本科3年制の「公学校」が設けられた。修身や国語(日本語)の習熟に重きが置かれた教育で、優秀な児童には更に2年制の補習科に進学する道があった。大正15(1926)年には、更なる進学先として「木工徒弟養成所」を設立し、島民技術者の養成にもあたった。

(5) 教育の国・日本
  以上、義務教育を中心に近代日本の教育体制整備・拡充の一面を見てきた。最後に中学校、高等女学校及び実業学校にみる教育の国・日本の姿をビッグ・データ風に概観したい。
 中学校は「高等の普通学科を授ける所であって、中人以上の業務に就くため又は高等の学校に入るために必須の学科を授けるものとする」とされていた(明治14(1881)年7月29日「文部省中学校教則大綱」)。いってみれば後の大学予科と専門学校を兼ねたような位置づけにあった。
 学科は、文部省令で、修身、国語及び漢文、外国語(英語、仏語、独語)歴史、地理、数学、博物、物理・化学、法制・経済、図画、唱歌、体操と現在の高等学校と同等又はそれ以上に広範囲な教養を身につけさせるものであった。
 栃木県では、栃木中学校が明治12(1879)年2月下都賀郡栃木町師範学校内に設立され、その後明治18(1885)年4月4日に宇都宮へ移転、明治34年宇都宮中学校と改称、現在の宇都宮高等学校の前身となった。
明治29(1896)年、栃木町旧県庁構内に尋常中学校栃木分校が開校され明治34(1901)年に栃木中学校と改称され栃木高等学校の前身となった。
 県下東中方には多数の就学希望者がいたが、宇都宮、栃木だけでは容量的にも受け入れが困難で距離的にも不便であった。そこで芳賀地方の有志が相謀り、現真岡市に1万坪余の敷地と金5千円の建築費を寄付して中学校の設立を要望した。明治33年、栃木県第3中学校として開校、翌34年真岡中学校と改称され、現真岡高等学校の前身となった。ほぼ同時期に佐野に第4中学校が設立され現佐野高等学校の前身となった。
 県北では明治30年代になり大田原町及び近隣市町村の識者間に中学校設立要望が高まり、当時の町長大田原徳盈が中心となって東奔西走し、明治34(1901)年2月26日の文部省告示をもって大田原中学校が設立され、現在の大田原高等学校へ引継がれている。明治44(1911)年、烏山に私立中学校が作られ、大正13(1924)年県立となって現在の烏山高等学校となっている。
 足利方面では、大正元年男子実業教育のための県立工業高校と女子教育のための郡立高等女学校(現足利女子高等学校)があったが、男子教育のための学校がなかった。そのため大田原と同様、地元有志の設立要望が興り、大正10(1921)年文部省の設置認可を得て設立に至った。
 その後石橋中学校(大正13年)、今市中学校(大正14年)と設立されていった。
 最後に、大日本帝国憲法下の日本が日本統治下にあった地域にどれほどの中学校を設立したかを一表で示す。この数が「教育の国・日本」のなんたるかを何よりも雄弁に語ると言って過言ではないだろう。

    
    

    
* 密度は、それぞれ面積及び人口を学校総数で除算したもの。小さいほど密度高く整備されている。
 上表から言えるのは、面積的には朝鮮は内地の1/5、台湾は内地の1/3の密度だが、人口から見れば朝鮮も台湾も内地の1/4で公平な学校整備がされているということである。関東州・満鉄附属地が内地よりも濃い密度で整備されているのは意外である。支那人向けの学校も含まれていることにもよるが、それだけでは説明できないほどの学校数である。また、全地域において女子学校数が男子学校数よりも多いことも、戦後常識とは大きな食い違いである。
 戦前の中学校は現在の高等学校以上の学力を身につけさせる教育機関であり、当然ながらこれほどの多数の中学校や女学校が存在するためには、その底辺にある初等教育機関である小学校は数倍以上の密度で存在しなければならなかったこと、さらには教員養成のための師範学校の整備も不可欠であったことを念頭に置かなければならない。
 朝鮮や台湾あるいはそれ以外の日本統治下にあった外地が果して「植民地」と呼ぶにふさわしい地域であったのか、再考に資すべき恰好の事実でもある。(終)
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*文献 ①『栃木県教育史』   栃木県教育委員会 昭和32年4月10日 (株)栃木県連合教育会
    ②『栃木県の教育史』  入江宏     昭和61年1月10日  (株)思文閣
    ③『防人の歌は愛の歌』 山本藤枝   昭和63年6月      (株)立風書房
    ④『ビジュアル薬師寺』 南河内町教育委員会 平成14年3月31日
    ⑤「下野国庁跡資料館」及び「下野風土記の丘資料館」発行のパンフレット等資料
    ⑥『坂の上の雲』    司馬遼太郎  平成11年1月10日   (株)文芸春秋
    その他Web.資料