教育の発達度は文化の成熟度と正比例的に相関するもので、文化が発達すれば教育もそれに伴って発達するものであるから、文化は教育の程度を、教育は文化の程度を計る物差しとなる。 古墳時代以前の教育は近世以降の制度的に整った塾などの明確な教育組織の輪郭をもつものではなかったが、下野一円にわたって散在している縄文や弥生の遺跡・遺物などから推測されることは、そこに豊かな文化が形成されており、したがって何らかの教育がなされたということであろう。 |
国府は地方における文化の中心地であり、下野の国府(栃木市田村町300)もその例にもれなかった。そこで律令制の下で教育機関として整備されたのが国学(都における大学に相当)であった。都では中央官吏の養成を目的とした大学が設立され、明経道(ミョウギョウドウ:儒学)、紀伝道、書道、算道、明法道(法学)等が教授された。国学は国ごとに1校を設けられ、下野にもその国府に学校(国学)が設置された。国学は国司の管轄に属し、国司は国博士・国医師を任じ、学制を補し、試験を行い、これを評価して官吏登用を進貢した。学生は、国の規模によって大小あり、大国50人、上国40人、中国30人、下国20人とし、下野国は上国であるから学生定員は40人であった。ここでは郡司の子弟を入学させたが、定員に満たなければ庶民の入学も許される規定となっていた。 明経道は儒教の経書のうち重要な一書を学ばせるもので、孝経と論語は必須であった。紀伝道は史学と文章すなわち現代の国語と歴史(ただし支那の歴史のみ)を修めるもので、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国史』を学ぶものであった。明法道は法律及び制度を学ぶもので、律令制を理解させるためのものであった。算道は、算術のほか天文と暦術を習得することを目的としたが、学生の生業に応じて履修するものであった。 |
なお勝道上人は、後に述べる円仁(慈覚大師)に先立つこと60年前に活躍した古代下野の先哲であり、少年期から山林修行を勤め、天平宝字2(676)年、下野薬師寺で得度・受戒した。天平神護元(765)年には出流山満願寺を、延暦元(782)年、四本龍寺(現輪王寺)を建てるなど二荒山神社や輪王寺などにつながる日光山繁栄の源を創り上げた古の偉人である。桓武天皇の勅命によって上野国総講師に任ぜられたというから、隣国の伊博士某とは何かと交流があったのであろう。 |
下野薬師寺(下野市薬師寺1636、現在は安国寺として寺務は存続)は下野特有の寺院である。その創立は奈良時代よりも古く、『続日本紀』には天武天皇9年(白鳳8(674)年)と記されており、国分寺に先立つこと半世紀以上前に建立されたことは疑いない。薬師寺は時代とともに規模を拡大し、天平勝宝元(749)年には、法隆寺、四天王寺、筑紫・観音寺等とともに墾田5百町を施入され、畿内の諸大寺と比肩される隆盛に沸いた。前述のように東日本で唯一の戒壇院が設けられたので、信濃以東の僧侶の受戒の場となり、仏教界の一大拠点となった。当時の薬師寺の盛観が『続日本紀』に次のように記述されている。〈その建築は巍然として中空にそびえ、七大寺に匹敵する壮大さである。坂東十か国の人士が集まり得度したので、十か国の中心は下野であり、薬師寺がその教化の道場となった。〉薬師寺は国分寺とともに陸奥鎮守府へ至る大道(東山道)に沿っていたので、僧俗はここに集まり、一大門前町を形成したであろう。 |
大慈寺(下都賀郡岩舟町小野寺2247)の正確な創立年代は不明ながら隣接する村檜(ムラヒ)神社(創建は大化2(646)年)の境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、この地(岩船町)に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かである。9世紀、慈覚大師・円仁が住職を務めた頃の大慈寺は、関東に並びない大伽藍を誇ったが、天正年間に至り小田原北条氏のために兵火にあって消滅し、その後再建されたもののその後の兵乱の中で衰微し、古の盛観に復し得ないままに今日に及んでいる。 |
中世の戦乱に明け暮れる時代に、文化の伝統を継承しその命脈を保ちえたのは、教養のある武士階級と僧侶の力に負うところが大きかった。足利学校の庠主(ショウシュ:校長)は歴代僧侶が就き、特色のある教育が行われた。 その創立は昔から諸説があり確定していない。①小野篁(平安時代前期の文人・公卿)、②国学(地方の学校)の遺制、③藤原秀郷の曾孫、④足利尊氏、⑤足利義兼、と各説があるが、最も信憑性の高いのは、⑤足利義兼の創建とする説である。義兼は足利氏の祖義康(清和天皇から8代目の子孫)の子で、北条時政の娘を妻に迎えている。義兼は、居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立、晩年出家して鑁阿と号した。その子義氏が伽藍を整備して鑁阿寺が完成する。義兼創建とすれば、足利学校創立年は、平安時代末期から鎌倉初期の11世紀後半と考えられる。 |
上杉氏の没落後も、家来筋の足利・長尾氏が6代125年間にわたって足利学校を保護したが、秀吉の奥州征伐に伴い財源であった所領を没収され、さらに古典籍を愛した豊臣秀忠によって学校の図書が持ち出されるなどして衰微しかかったものの、江戸時代に入ると、幕府と領主の保護が加えられ、足利近郊の人々が学ぶ郷学として江戸中期に二度目の隆盛期を迎えた。 中世において足利学校に比肩される学問の中心地が益子にあったことを知る人は少ない。現在の芳賀郡益子町大字大沢にある浄土宗円通寺に開かれた大沢文庫である。応永9(1402)年も創建とされ、初代住職良栄以降の各代の住職が文庫書物の充実に努めたので、16世紀半ばには広壮優美な大伽藍が造営され、38棟もの学寮が林立するに至り、一時は大沢文庫に集まり来るもの門前市をなすが如きの有様であったと伝えられる。 |
学事奨励に関する仰せ出だされ書(意訳) 人々が社会の中で身を立て、身代を守り、仕事に励み、意味ある人生を送ることができる所以は、自ら行いを律し心を正し、知恵を培い、能力や技術を伸ばすことによるのであり、そのためには学問をすることが不可欠である。これが学校を設置する理由である。 日々の行い、言葉づかい、読み書き算盤をはじめとして、役人・農民・商人・様々な職人・技芸に携わる人、及び法律・政治・天文・医療等に至るまで、およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。人はその生れ持った才能のあるところに応じて学問に努め、そうして初めて自分の生活を整え、資産をつくり、仕事を盛んにすることができるであろう。そうであるから、学問は身を立てるための資本ともいうべきものであって、人と生れて学問をしないでよいということがあってはならないのである。 路頭に迷い、飢餓に陥り、家を破産させ、わが身を滅ぼすような人たちは、結局は学問をしなかったことに起因して人生の過ちを生じたのである。 我が国では昔から学校(塾や寺小屋)が設けられて長い年月が経っているが、必ずしもすべての人が学校に学ぶことはなかった。学問は武士階級以上の人のすることと考えて、農業・工業・商業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものとし、学問がどういうものであるかをわきまえていない者も少なくない。また、武士階級以上の人で学問する者があっても、どうかすると学問は国家のためにするのだと言い、学問が自分の立身の基礎であることを知らずにいる者もいる。ある者は文章を暗記するなど瑣末なことに走ったり、空理・空論や事実に基づかない議論に陥ったりし、その言っている論は高尚であるかのように見えるけれども、実践することのできないものが少なくない。学問をしないために長い間の昔からの悪習に従い、文明が行き渡らず、能力と技術が伸びないために、貧乏な者や破産する者、家を失う者といったことになる。こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである。 学問をするためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今後、一般の人民(華族・士族・卒族(足軽)・農民・職人・商人及び女性や子ども)は、必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしなければならない。父兄は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育てる情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。 高度な学問については、人それぞれの生れ持った才能に任せるけれども、幼い子弟は男女の別なく小学校に学ばせなければならず、それをしないのはその父兄の手落ちと認めざるを得ない。 これまでの悪い習慣であったところの、「学問は武士階級以上の人のことだとすること並びに学問は国家のためにすることだ」という理由から、国からの給付がないことに戸惑い、学費及びその衣類や食事の費用に至るまで、多くを官に頼り、これを給付してくれるのでなければ学ばないと思い、一生を自分から駄目にしてしまう者が少なくないが、甚だしい思い違いである。今後、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げ捨ててでも、自分から奮って必ず学問に(自分自身を)従事させるよう心得るべきである。 右の通り仰せ出だされましたので、各地方官においては、片田舎の身分の低い人民に至るまで漏らすことのないよう、適宜、(学制の)意味を説明し、学校へ通うことの詳細を申し渡し、文部省規則に従い、学問が普及致しますよう、地域の実情に合わせて実効の上がるよう措置されたい。 |
本県の教育も年とともに進み、明治44(1911)年には小学校452校、児童数132,860人、公私立中学校24校、師範学校2校となり、学校は校地・校舎・設備等がおおいに整備され、教育内容も著しく進歩した。(大正2(1913)年12月31日現在栃木県人口1,044,177人Vs現在栃木県人口207万人弱、学校数392校、小学校児童数11万人)
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(前略)今や露国と事を構えるも、もとよりこれは平和を永遠に回復するためであるから、学生生徒は血気に駆られ露国民に対して嘲罵し、さらには他の外国人にまで悪感をもつことがないようにするのは、子女教育の最も注意を要するところである。 我が忠勇なる陸海軍人が国家のために生還を期さない覚悟で出征するにあたっては、満腔の同情を表するために送迎することをやめよとはいわないが、学生生徒が兵士送迎のために課業をやめて貴重なる時間を費やすることは、忠勇なる軍人が在学子女に期待するところではないことを宜しく注意してもらいたい。 学生生徒が自ら節約し、得たところの資財を献じて軍費の一端に供しようとすることは、忠愛の至情より出たものとして嘉すべきことなるのみならず節検の美風を養うにおいて意義深いことであるが、献金をするために特に父兄に要求するようなことがあれば、教育の観点から見て喜ぶことでないばかりではなく、国としてもこのような献金を受け取ることはあり得ない。教育現場にいる者は学生生徒によくこの意味するところを理解させてもらいたい。 |
戦地における勤務に起因して死去した者の遺族に対し、市町村立小学校においては授業料を減免すべきことは既に明治29年(日清戦争に関係)勅令第5号で示したところであるが、今回の事変に際し、その趣旨を拡充し、出征又は応召の軍人の子女に対し、小学校は勿論その他の学校においても事情の許す限り授業料を減免し又は学用品を給与するなどの対策をとって、以って軍人の後顧の憂いをないようにしてもらいたい。 軍費増大は教育費にも影響を及ぼし、教育に係る事業や設備投資を一時的に緊縮せざるを得ないことは事実であるが、このために教員の俸給を削減し又は児童の就学を減少するなど教育効果を減退させるようなことは国力発展の基礎を損傷させるものであるから、努めてこれを避けてもらいたい。(後略) |
天皇陛下は軍国多事の時にあたり、この炎熱をも厭われることなく畏くも本月11日、東京大学に御臨幸せられかつ親しく本大臣を召して左の御沙汰を賜われた。 「軍国多事の際といえども、教育の事は忽(ユルガシ)にしてはならない。その局に当るものはよく励精せよ。」 本大臣はこの優渥(懇ろで手厚い)な叡旨を拝し感激措くところをしらず、謹みてこれを教育に関係する者すべてに告知するものである。国を挙げて聖意の在るところ奉体し益々奮励して教育の効果を全うせんことを願う。 |
島根県仁多郡亀嵩村の出身である陸軍工兵二等卒飛田定四郎(農業)は、満20歳で岡山の工兵大隊に入営し、明治37年4月20日大連港に上陸した。以後その手製の手帳に、鉛筆で克明に従軍日記を書いている。学歴は村の小学校を出ただけだが、その文章に骨太さと野趣があり、この時代の若い無名の庶民の風影がどういうものであったかを、多少はしのぶことができる。 |
乃木軍司令部にいた騎兵の兵卒で丸山某が戦場で昏倒して捕虜になり、露都ペテルブルグに送られた。ロシア陸軍はこの丸山に対してさまざまな尋問をした。 このとき丸山は、軍機に関することは答えず、日本軍の高級司令部のあり方」について述べた。 「将軍の行動と幕僚の執務一般の状況について」というまるで学術論文のような答弁を、丸山はやってのけて、ロシアだけでなくヨーロッパじゅうの兵学界を驚かせた。この丸山の口述についてはのちにドイツの兵事週報に取り上げられ、「日本軍兵士の驚くべき高等知識」という表題のもとに論文が掲載された。 |
南洋群島とは、第一次世界大戦の結果日本の施政下に入ったドイツの植民地、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域であり、国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々である。総人口は、129,104人(1939年12月末)で内訳は、日本人(台湾人・朝鮮人を含む)が77,257人、島民(チャモロ人・カナカ人)51,723人、ドイツ人などその他の外国人124人であった。 |