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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義―①    平成25年8月24日 作成 五月女 菊夫


三田村武夫著 自由社
 本書の旧題は、「戦争と共産主義」であったが、今回、復刊に際し、ご遺族の了解を得て、
「大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義―」と改題した。
昭和62年1月26日第1刷発行
平成16年5月26日第2刷発行

まえがき
悪夢の15年
  満州事変から敗戦まで、われわれの日本は、まるで熱病にでも憑かれたごとく、軍国調一色に塗りつぶされてきた。思えば、軍歌と、日の丸の旗と、万歳の声で埋め尽くされた戦争狂想曲の連鎖であったが、この熱病の根源は果たして何であったろうか、そしてまた戦争狂想曲の作者はだれであっただろうか。

  今日の一般常識は、軍部だ、軍閥だということになっている。東京の軍事裁判で明らかにされた通り、この軍部、軍閥の戦争責任については私も異論がない。しかしながらこの軍閥の演じた戦争劇は、果たして、真実彼らの自作自演であったのだろうか。熱病の疾患部は、確かに軍部であったし、戦争狂想曲のタクトを振り「無謀な戦争劇」を実演した者も確かに軍部であったが、その病原菌は何であったか、また作詞、作曲者は誰か、脚本を書いたのは誰か、という問題になるといまだ何人も権威ある結論を出していない。これはきわめて重大な問題だ。

  私は、昭和3(1928)年6月から同7(1932)年1月まで、内務省警保局に勤務し、いわゆる3.15事件(後述)以来、日本の思想界を「赤一色」に塗りつぶし、思想国難の叫ばれた時代の約4年間、社会主義運動取締りの立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に調査研究する事務に携わってきた。次いで、昭和7(1932)年10月から同10(1935)年6月まで、拓務省管理局に勤務し、再び朝鮮、満州、中国を舞台とした国際共産党の活動に関し、表裏両面の調査研究に没頭してきたが、この頃は、満州事変後の政治的激動期で、国際的には第2次世界大戦の危機が叫ばれ、国内的には軍部の政治的進出が甚だしく積極化し、その裏面では、コミンテルンの極東攻勢が著しく前進態勢を取ってきた時代であった。

  ついで私は、同11(1936)年2月の衆議院議員総選挙に立候補し、爾来10年間、今度は逆に憲兵と特高警察から追い回される立場に立ち、反政府、反軍部的政治闘争に専念し、ついに捕えられて巣鴨まで行ってきたのであるが、この政治運動に身を投じてからの最大関心事は、激変する国際情報と第2次世界大戦の嵐の中で、モスクワを本拠とする共産主義運動がいかなる戦略戦術を展開していくか、さらに軍閥の独善的戦争推進の背後にあって、世界革命への謀略コースをいかにして推し進めていくかを怠りなく注視し研究することであった。そしてその間に私が体験し、調査し、研究して得た結論が本書の内容である。
                                           1950年3月 三田村 武夫


まえがき
序説  コミュニストの立場から
 1. コミンテルンの立場から
 2. 日本の革命をいかにして実践するか

第1章 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
 1. 裏返した軍閥戦争
 2. コミンテルンの究極目的と敗戦革命
 3. 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想 ――尾崎秀実の手記より――

第2章 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について 
 1. 3.15事件から満州事変へ
 2. 満州事変から日華事変へ

第3章 日華事変を太平洋戦争に追い込み、日本帝国主義を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
  1. 敗戦革命への謀略配置
  2. 日華事変より太平洋戦争へ
  3. 太平洋戦争より敗戦革命へ


序説 コミュニストの立場から
 私は、世界がこの激しい転換期に入った1930年頃から頭の中にいつも新しい1つのテーマを置いて考えてみることにしている。それはコミンテルンの究極目標たる世界共産主義革命成否の問題だ。そして私は、この問題を考えるときいつでも「自分がコミュニストだったら」という立場に頭の位置を置き換え「何をなすべきか」を考えてみる。以下は、この立場から、私の頭の中に描かれてきた共産主義革命の戦略戦術論だ。

1.コミンテルンの立場から
 ア.第2次世界大戦とコミンテルン
   1930年と言えば、その2年前アメリカのウォール街から捲き起こった経済恐慌の嵐が全世界を吹きまくっていたときだ。
  そこでまずこの経済恐慌は、世界資本主義の末期的症状が露呈されてきたものと見る。そして世界の資本主義諸国家はこの経
  済的危機打開のために、必然的に帝国主義政策を露骨に強行するであろうことを前提として考える。
  その結果は、
  (1)経済的鎖国主義の強化
  (2)米、英、日、独などの強大国を中心としたブロック体制の強化
  (3)植民地、反植民地の獲得競争
  (4)資本主義列国間の対立激化
  (5)帝国主義諸列国の軍備拡張競争
  となり、結局は第2次世界大戦となる客観情勢が強まってきた。これがコミンテルンの立場から見た当時の客観情勢の認識だ。
 しからばこの客観情勢の認識の上に立ってコミンテルンはどうするか。

   コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ。この世界共産主義革命実現のためには、何としても、国際
 資本主義の支柱をなす米、英、日、独などの強大国を倒さなければならない。どうして倒すか。その方途に2つある。1つは、その
 国の共産党勢力を強化して革命を起こさしめ、ブルジョア支配権力を内部から覆滅崩壊せしめること、その2は、資本主義国家を外
 部から武力で叩き潰すことである。この戦略戦術論から、各国の客観的、主体的条件を検討してみる。ところが、米、英、日、独い
 ずれも共産党の力が弱くプロレタリア革命成功の成算がない。また外部から武力で叩きつぶすだけの準備と力が現在のコミンテルン
 にはない。
   しからばどうするか。まず第2次世界大戦の危機について考えてみよう。第2次世界大戦が起こることは、コミンテルンのために
 つまり世界共産主義革命実現のために、好ましいことか、好ましくないことか。好ましいことだ。なぜなら資本主義国家と資本主義
 国家が2つの陣営に分かれて噛み合いの大戦争をやれば、どちらか一方の陣営が必ず敗ける。敗けた国は、資本主義体制すなわち現
 在の政治的支配権力が根底から動揺し無秩序混乱状態となるから、共産主義革命実現の客観的、社会的条件が具備される。勝った側
 でも現代戦は一大消耗戦だから、それだけ資本主義体制が弱められる。すなわち戦時中の消耗によって資本主義経済そのものがガタ
 ガタになっている上に、最高度に高められた軍事生産機構が非常な重荷となり、これを平時体制に切り替えんとすれば必ず恐慌がお
 こる。それだけ世界の資本主義体制が弱体化することになるから、第2次世界大戦の勃発は世界共産主義革命の客観的、主体的条件
 を100歩、1000歩前進せしめることになる。第2次世界大戦万歳!全世界共産主義革命万歳だ。ただしこの場合、ソ連は第2
 次世界大戦に巻き込まれないように用心しなければならない。これは戦略的に絶対必要な政治的見識だ。

 イ.好ましい戦争陣形
  さて、しからば、上の基本方針に従って、具体的に、どんな謀略の手を打つべきか。まず第1にヨーロッパだ。ヨーロッパ大陸の
 共産主義革命実現のために、なんとしても邪魔なのはヒットラーのナチスドイツだ。ナチスドイツは思想的には共産主義排撃の立場
 を取っているが、政治的、経済的には欧州の覇者―というよりも世界現状維持陣営の2大支柱たる、英、米と対立している。そこで
 まず、独と英・仏とを噛み合わせ、次いでアメリカをこの戦争に引込むことを考える。独、英、いずれが負けても欧州の地図は一変
 するし、戦後の混乱は共産主義革命進攻の温床となる。

  第2は極東だ。中国共産党は急速度で実力を備えてきたが、極東革命のためにどうしても叩き潰さねばならないのは、日本と、米
 ・英をバックとする蒋介石政権だ。だから、ここではまず支那大陸に野心を持つ日本と、米英の番犬的存在たる蒋介石軍閥政府を全
 面的に噛み合わせる。この日華戦争には蒋介石政権の背後にある米英が必ず乗り出して来るにちがいない。否、その方向に誘導する
 ことだ。そうすれば、支那大陸と南方米英植民地を舞台として日、華、米、英が三つ巴、四つ巴となり、血みどろの死闘を演ずるだ
 ろう。そして日本軍閥がへとへとに疲れたとき、機を見て一挙に兵を進め、襟首を取って押さえとどめを刺すことだ。この極東戦争
 で、日本帝国も蒋介石政権も必ず崩壊するであろう。あとは中共を中心に極東革命を前進せしめればよい。これで世界革命への前進
 隊形が具備される。

  ウ.新しい戦略戦術
   さて、以上のような基本的戦略体系の上に立って、コミンテルンは新しい戦略戦術を具体的に決定しなければならない。従来のご
 ときプロレタリア革命一本調子の非合法戦術では具合が悪い。もっと幅の広い、思想謀略、政治謀略の面を含めた戦略戦術を採用す
 る必要に迫られてきた。そこで1935(昭和10)年の第7回大会で、思い切った戦略戦術の大転換を決定した。すなわち人民戦
 線戦術だ。この人民戦線戦術は、ファシズム反対、帝国主義戦争反対を表面のスローガンとしたものだが、共産主義運動の戦術的意
 義から見れば、革命闘争の幅と内容をうんと広めたことだ。すなわちこれまで一般のいわゆる社会民主主義団体は共産主義の敵とし
 て排撃し闘争してきたが、これからはこれらの諸勢力もできるだけ利用していくこと、従来の画一的、公式的国際主義を改めて、各
 国それぞれその国情に適した戦略戦術を採用すること、また、今まで共産主義者の堕落として極端に排撃してきた合法場面の活用を
 巧妙に考えることなどである。例えば、中国では、「中共」は蒋介石政権と合作提携して抗日人民戦線を確立し中国全民衆を抗日戦
 線に統一動員すること、日本では従来の小児病的な戦争反対論を引っ込め、むしろ満州事変以来極端に増長してきた日本軍部を巧妙
 に操って無謀な戦争に駆り立て、軍閥政権を自己崩壊せしめる方向に誘導すること、また官憲の最も神経をとがらせる天皇制打倒の
 スローガンなどはしばらく表面に出さず、できるだけ合法面に食い込んで、資本主義支配体制を内部から切り崩していくことだ。

  ここで一言しておきたいことは、共産主義者の道徳的規律の問題だ。これはレーニンの教えているとおり言うまでもないことだが
 、新しい戦略戦術を実践に移す場合、ブルジョア社会の道徳的規準、信義、秩序などに良心的制約を受けてはならない。コミュニス
 トの道徳的規準は、世界共産主義革命を完成し、プロレタリア独裁政権を通じて共産主義社会を実現せしめる以外にない。したがっ
 てこの目的達成のためには、権力者を騙すことも、友人を裏切ることも、白を黒と言い曲げることも躊躇してはならない。表面の主
 張と実際の目的と全然反対な場合でもそのことに道徳的責任を感ずるような弱々しい意思を持ってはならない。共産主義者としての
 立場を守るために必要な場合は、妻でも、親でも、上官でも、親友でも、恩師でも裏切って平気でいられるだけの鉄の意志が必要だ
 。このことは共産主義者の最も大切な行動の規準である。

2.日本の革命をいかにして実践するか
 ア.戦術転換
  日本の共産主義運動は1927(昭和2)年テーゼ以来コミンテルンの指令どおり非合法闘争一本槍できた。32(昭和7)年テ
 ーゼでコミンテルンが2段革命戦術を採用したので、まずブルジョア民主主義革命を行なって封建的権力組織を破壊し、ついでプロ
 レタリア革命に突入する方針でやってきたが、天皇制廃止を中心スローガンとした革命闘争は、官憲の弾圧峻烈を極め、犠牲のみ多
 くして党の実勢力は再建、壊滅を繰り返すのみだ。

  さらに加えて満州事変の勃発で、愛国主義、軍国主義が急速に高まり、非合法的な反国家的な共産主義運動など、どこにも切り込
 んでいく余地がなくなった。このような情勢下で、天皇制打倒、戦争反対などの公式論を振り廻して監獄に叩き込まれるのは愚劣だ
 。知恵のないことだ。のみならず日本にあの強力な陸海軍と天皇制が現存する限り、ブルジョア民主主義革命すら到底実現の見込み
 が立たない。そこでまず、いかにしてこの強大な天皇制でこちこちの軍部をつぶすかを考えねばならない。

  ところが面白いことには、日本の軍部殊に陸軍は特異な存在だ。この日本の陸軍は、ほとんど大部分が貧農と小市民、勤労階級の
 子弟によって構成されている。将校も大多数が中産階級以下の出身者だ。従ってその社会環境と思想傾向は反ブルジョア的だ。だか
 らこの陸軍を背景としたいわゆる国家革新運動は反資本主義的だ。ただ彼らは国体問題に関する限りコチコチの天皇主義者だから、
 この点をうまくごまかせばこの日本の陸軍は十分利用し得る価値がある。真実のコミュニストならこの点に着目しなければ嘘だ。

  コミンテルンはさすがに賢明だ。1935(昭和10)年の人民戦線戦術で各国の特殊性を認めた。合法場面の活用も認めた。そ
 れなら思い切った戦術転換をやろう。天皇制廃止をやめて、天皇制と社会主義は両立するという理論で行こう。天皇と国民との間に
 介在するブルジョア支配階級、搾取階級を取り除いて、天皇を戴いた強力な社会主義国家を建設するのだという理論で行こう。戦争
 反対など言わずに、戦争好きの軍部をおだてて全面戦争に追い込み、この貧弱な国力を徹底的に消耗させ、敗戦―自滅の方向に誘導
 することが最も賢明だ。次に来るべきものは我々の注文どおりの敗戦革命ではないか。


 イ.謀略コース・敗戦革命
  これで、政治謀略、思想謀略の戦術体形はできたが、具体的にどんな手を打つか。
  ①軍閥に理論体系を与えて政治の実権を握らせる。そして議会と政党を骨抜きにする。
  ②官僚を軍部に同調させ、権力専制政治を強行させる。
  ③これは第1の問題と不可分の関係だが、日華事変を長期戦に追い込むために蒋介石との和平交渉を遮断する楔として日本の傀儡
   政府をつくらせる。
  ④米英をして日本の軍事行動に干渉せざるを得ないような方向に日華事変を向けていく。
  ⑤日米を絶対に妥協せしめない政治的、経済的、軍事的条件をつくる。


  ウ.論理の魔術
  以上の謀略コースを軌道に乗せるために、次のごとき巧妙な論理の魔術を展開する。
  ①まず満州事変から日華事変に発展した大陸進出政策の合理性と進歩性を歴史的に理論づける。
  ②現状維持と現状打破  旧秩序と新秩序の対立を世界史的に理論づけ、国際社会と国内社会に共通の理念として展開する。米英的
   旧秩序の打倒、資本主義的現状維持の打倒。
  ③新しい戦争理論の創造―侵略戦争の理念的裏づけ―すなわち帝国主義の止揚、非賠償、非併合、新秩序建設、植民地解放戦争の
   理念的裏づけ。
  ④戦争に勝つために―を至上命令として押し出し、一切の不平不満を押える。
  ⑤自由主義、個人主義、営利主義の否定。犠牲的愛国心の強制。 以上の各条項を、忠実に、巧妙に、大胆に、しかして最も精力的
   に実践すること、これが真実のコミュニストの任務だ。(以上のうち、途中独ソ戦の開始で多少変更されたことを断っておく)
   (この見解は終戦後まとめたものではない。その証拠として、私はこの見解にもとづき、昭和16年2月と同18年2月の2回
   にわたり、国会の委員会で具体的な事例を挙げて政府に警告しておいた事実を付記しておく)



第1章 第2次世界大戦より 世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
1.裏返した軍閥戦争
  日華事変から太平洋戦争へ―そして敗戦への運命の8年間「大日本帝国崩壊史」上に最も大きな役割を演じたものは、公爵近衛文麿を中心としたいわゆる進歩的革新陣営と、陸軍大将東條英機を主役に押し立てた軍閥政治軍人であった。その近衛は、日華事変に対し「不拡大、局地解決」を考え、汪兆銘新政府を育成して東亜の全面和平回復を考え、日米衝突回避の平和交渉に全力を尽くしたと言い、東條は、世紀の英雄を以て自ら任じ、その幕僚と共に太平洋戦争の勝利を確信して全国民に号令し、その威勢まさに当たるべからざるものがあった。しかもこの2者は、いずれもその志と異なった結論を出してしまったのだ。なぜこんなことになってしまったのだろうか。

 ア.ロボットにされた近衛
  昭和18(1943)年4月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、戦局、政局の諸問題につき率直な意見を述べて懇談した際
 、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ
 !」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第1次、第2次近衛内閣当時のことを回想して、「なにもかも、自分
 の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに到って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたよう
 な気がする」と述懐したことがある。彼はこの経験と反省を昭和20(1945)年2月14日天皇に提出した上奏文の中で、「つ
 らつら思うに、わが国内外の情勢はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存せられ候―翻って国内を見るに、共産革
 命達成のあらゆる条件具備せられいく観有之候、すなわち生活の窮乏、労働者発言の増大、英米に対する敵愾心の高揚の半面たる親
 ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍に御座候。特に
 憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候、少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じ居る者のごとく、軍
 部革新論の基調もまたここにありと存候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義的主張を受け入れ
 やすき境遇にあり、また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれおるを以て、共産分子は国体と共産主義の両立
 論をもって彼らを引きずらんとしつつあるものに御座候。そもそも、満州事変、日華事変を越こし、これを拡大してついに大東亜戦
 争にまで導き来れるはこれら軍部内の意識的計画なりしこと、いまや明瞭なりと存じ候。満州事変当時、彼らは事変の目的は国内革
 新にありと公言せるは有名なる事実に御座候。日華事変当時も、「事変長引くがよろしく、事変解決せば国内革新ができなくなる」
 と公言せしはこの中心的人物に御座候。これら、軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く一
 部官僚及び民間有志(これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣をつけた共産主義者なり)は意識的に
 共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。このことは、過
 去10年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたり、交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論
 の鏡にかけて過去10年間の動きを照らし見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

  不肖はこの間に2度までも組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を入れ
 て挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼らの背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致すところにして何
 としても申し訳ない之を深く責任を感ずる次第に御座候」と言っている。つまり近衛は、過去10年間、日本政治の最高責任者とし
 て、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交友を持ってきた自分が、静かに反省して到達した結論は、「軍部、官僚の共産主
 義的革新論とこれを背後より操った左翼分子の暗躍によって、日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部
 、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することのできなかったのは、自分の不明の致すところだ」という
 のである。言い換えれば、自分はこれら革命主義者のロボットとして踊らされたのだと告白しているのだ。


イ.道化役者 ― 政治軍人
   昭和12(1937)年7月7日北支事変の勃発したとき、ちょうど第1次近衛内閣が軍部と革新陣営の与望を担って成立した直
 後で、総選挙後初めて招集された特別議会の開会中であった。そこで国会の論議は期せずしてこの北支事変に集中されたのであった
 が、政府は不拡大、局地解決の方針を繰り返して声明するだけで、軍部の本当の腹がどうしてもわからない。7月末のある日、閣議
 でこの軍部の腹が問題となり、大谷拓相が、「陸軍は大体どの辺で軍事行動を止めるつもりか」と切り出したところ、杉山陸相は黙
 っていて答えない。閣議の席は変に重苦しい空気になった。そこで米内海相が「大体永定河と保定の間の線で止める予定だ」と言う
 と、杉山陸相は顔色を変えて「こんなところでそういうことを言っていいのか」と海相を怒鳴りつけたそうだ――という話が、政界
 消息通の話題にされていたくらい、何かもやもやしたわけのわからない雰囲気であった。その頃筆者は、友人の陸軍省軍事課長田中
 新一大佐を訪ね、「本当に陸軍の腹はどうなんだ。真実のところを聞かしてくれ」と談じ込んだことがある。すると田中大佐は「正
 直なところ俺にもよくわからん。現地の連中がどこまで腹を決めているかもよくわからん、君ひとつ現地に行って天津軍の幕僚と話
 し合ってみてくれんか」と言い出した。そこで筆者は特別議会の終わった翌日すなわち8月9日単身で東京を出発し、途中朝鮮に立
 ち寄り南総督に会い、新京に回って関東軍の東條英機参謀長に会って意見を聞き、8月16日天津に着き、9月1日まで現地に滞在
 して軍首脳部に会見し率直に現地軍の腹を聞いてみた。当時天津軍司令部の高級参謀をして居った大木戸大佐、岡本大佐などには田
 中大佐の意見も伝えて相当突っ込んだ話もしてみた。もちろん軍事上の機密だから明確には言わなかったが、そのときの現地軍の腹
 は、保定の線以上に出る意思のないことだけは明瞭であった。東條関東軍参謀長は、えらく気負い立った態度で、「断乎やる」と言
 っていたが、天津軍幕僚連は「土肥原兵団が青島港外まで来ているが、うっかり揚げると戦線が拡大して困る」などと言っていたこ
 とを記憶している。筆者が冒頭にこの古い一挿話を持ち出したのは他でもない、日華事変勃発当時、中央でも現地でもこのような腹
 しか持っていなかったものが、なぜ全面戦争に発展し、ついに対米英戦争にまで突入したかを掘り下げて検討したいからである。

  全面戦争への主役を演じたものは、言うまでもなく軍閥とそのチャンピオン東條英機だ。だが、日本の軍閥および東條は果たして
 自らの見識にもとづく勝算あって、この国家の大事を決行したのであろうか。彼を世紀の英雄に祭り上げ、この全面戦争への暴挙を
 決行せしめた推進力は何であったか。「この戦争は必ず敗ける」ことをちゃんと計算に入れて、近衛の言う無知にして単純なる政治
 軍人を陰で操り、日本を敗戦革命への方向に追い込んできた精緻にして巧妙なる独自の指導部がどこかにあったとしたら、東條およ
 びその一連の軍閥政治軍人が果たした役割は何であったか、東條もまた近衛と同様に、舞台裏の筋書作者、演出者に操られ、悲劇の
 主役を演じた哀れむべき道化役者だったことになる。

  近衛と東條の違いを歴史的に政治的現実面から見るならば、前者は、軍部、官僚、民間のいわゆる進歩的革新論に同調して内外の
 安定勢力を確立し、平和への道を導き出さんことを企てて逆に全面戦争への途を開き、後者は、歴史上偉大なる勝利の上に軍部独裁
 政権の樹立を夢見てついに軍部崩壊への途を驀進したものであり、アジア革命への謀略面からいえば、近衛は革新陣営のホープとし
 ての存在が見逃すことのできない利用価値であったし、東條は性格的に、権力と、名誉と、野心の塊で、かつ軍閥政治軍人のホープ
 であったところに最も御し易い条件を備えていたのである。
 以上大まかに述べてきたことをまとめて一口に言えば、「大日本帝国崩壊史」の表は「軍閥官僚暴政史」であり、裏返してみると、
 共産主義世界革命の一環としての「敗戦革命謀略史」となる。だがこれだけの説明では何人も納得がゆくまい。以下順次事実と証拠
を挙げて述べていこう。


2.コミンテルンの究極目的と敗戦革命 ―世界革命への謀略活動について―
  ア.共産主義者は戦争に反対したか
    共産主義者は「我々は断乎戦争に反対した」「軍閥戦争に反対したのは共産党だけだ」と言い、共産主義者以外の者は、全部戦
  争の協力者であったような言い方をする。だがこのロジックは少々おかしい。のみならず筆者はこの主張と全く反対の事実を知っ
  ている。

   共産主義者の絶対信条はマルクス・レーニン主義だ。とともにレーニンの創設したコミンテルンの綱領である。マルクス・レー
  ニン主義とコミンテルンの綱領を離れた共産主義者も共産主義運動もあり得ない。これはいずれの国の共産主義運動にも例外のな
  い鉄則だ。そしてそのマルクス・レーニン主義とコミンテルンの究極目的は公知の通り全世界の共産主義革命である。すなわち全
  世界の資本主義国家をZ・「崩壊せしめ、共産党独裁政権を樹立して資本主義制度を根こそぎなくすることである。

   レーニンは、コミンテルン綱領並びに彼の書いた多数の文書及び演説の中で、共産主義者の第一目標は、資本主義国家の政治権
  力を倒して共産党独裁政府を樹立することであり、この共産党独裁政治を通じてのみ共産主義社会の実現は可能だということを、
  繰り返し繰り返し教えている。そしてこの基本綱領を実践するためのすなわちプロレタリア革命実践のための戦略戦術を示し、こ
  の目的達成のためには手段方法を選ぶなと言っている。

   しかして、このマルクス・レーニン主義に従えば、資本主義国家の権力的支柱をなすものはその国の武力すなわち軍隊である。
  従って、この資本主義国家の武力―軍隊をいかにして崩壊せしめるかが、共産主義革命の戦略的、戦術的第1目標とされる。そし
  てこの目標の前に2つの方法があるとレーニンは言う。その1つは、ブルジョア国家の軍隊をプロレタリアの同盟軍として味方に
  引き入れ革命の前衛軍足らしめること、第2は軍隊そのものの組織、機構を内部崩壊せしめることである。つまりブルジョア国家
  の軍隊を自滅せしめる方向に導くことである。

   またレーニンの戦略論から、戦争そのものについて言えば、共産主義者が戦争に反対する場合は、帝国主義国家(資本主義国家
   )が世界革命の支柱たるソ連邦を攻撃する場合と、資本主義国家が植民地民族の独立戦争を武力で弾圧する場合の2つだけで、帝
  国主義国家と帝国主義国家が相互に噛みあいの戦争をする場合は反対すべきではない、否、この戦争をして資本主義国家とその軍
  隊の自己崩壊に導けと教えている。
   レーニンのこの教義を日華事変と太平洋戦争に当てはめてみると、共産主義者の態度は明瞭となる。
  すなわち日華事変は、日本帝国主義と、アメリカ帝国主義およびイギリス帝国主義の噛みあい戦争と見ることが、レーニン主
  義の立場であり共産主義者の認識論である。従って、日華事変および太平洋戦争に反対することは非レーニン主義的で、共産主義
  者の取るべき態度ではないということになる。事実日本の忠実なるマルクス・レーニン主義者は、日華事変にも太平洋戦争にも反
  対していない。のみならず、実に巧妙にこの両戦争を推進して、レーニンの教えの通り日本政府及び軍部をして敗戦自滅へのコー
  スを驀進せしめたのである。この見解は筆者の独断ではない。以下順次その根拠を明らかにしよう。


  イ.帝国主義戦争を敗戦革命へ
   ①レーニンの敗戦革命論
   第1次世界大戦勃発直後の1914,5年頃、レーニンはしきりに敗戦主義を説き、同じボルシェビキ(ロシア共産党)の同志を
   すら驚かせたが、彼のもっとも軽蔑したのは、いい加減で戦争を終わらせ、革命の有望な前途をぶち壊す平和論者と良心的な反
   戦主義者であった。
   「ロシアの労働者階級並びに勤労大衆の見地からいえば、ツアー君主制の敗北が望ましいことは一点の疑いも容れない。」
   「我々革命的マルクス主義者にとってはどちらが勝とうが大した違いはないのだ。いたるところで帝国主義戦争を内乱に転嫁す
    るよう努力することが我々の仕事なのだ。」
   「戦争は資本主義の不可避的な一部である。それは資本主義の正統な形態である。良心的な反戦論者のストライキや同じ種類の
    戦争反対は、憐れむべき、卑怯な、下らぬ夢にすぎない。闘争なくして武装したブルジョアを倒せると信ずるのは、バカの骨
    頂だ。『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な、偽善的なスローガンを倒せ」
   「戦争は資本主義のもとでも廃止することができる、という僧侶的な、小ブルジョア的な平和主義論ほど有害なものはない。資
    本主義のもとでは戦争は不可避である。資本主義がZ・「され社会主義が全世界で勝利を得た場合にのみ戦争の廃止が可能とな
    る」
   と彼は言っている。レーニンのこの敗戦革命論は遂に10月革命の勝利を得、彼はその年来の宿志たる世界革命を実行に移すた
   めに、1919(大正8)年3月第3インターナショナル(コミンテルン)を結成し全世界の革命闘争を指導し始めたが、19
   20(大正9)年11月、モスクワ共産党細胞書記長会議で、「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間
   にわたって我々の基本的原則となるべき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互
   いに噛み合わすことである。我々が全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣性である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を
   巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在我々は敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないと
   すれば、敵国が相互に噛み合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして我々が資本主義諸国を打倒し得るほど強
   固となり次第、ただちにその襟首をつかまなければならない」と述べている。

    ②コミンテルン第6回大会の決議
     このレーニンの「帝国主義戦争から敗戦革命へ」の戦略的、戦術的展開を、1928(昭和3)年のコミンテルン第6回大会に
    おいて採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」から、その要点を抜き出してみよう。
   「最近帝国主義諸国家の政策は、反ソ政策と中国革命の圧迫の方向に一歩前進してきたが、同時にまた帝国主義諸列国相互間の
    反目構想甚だしくなり、反ソ戦に先立ちて帝国主義国家間に第2次世界戦争勃発の可能性が高まりつつある。かかる客観情報
    は、第1次大戦においてソ連のプロレタリア革命を成功せしめたと同様、来るべき世界大戦は、国際プロレタリアートの強力
    なる革命闘争を誘発し前進せしめるに違いない。したがって各国共産党の主要任務は、この新たなる世界戦を通じてブルジョ
    ア政府をZ・「し、プロレタリア独裁政権を樹立する方向に大衆を指導し組織することにある」
   「資本主義の存続する限り戦争は避けがたい。だから戦争をなくするためには資本主義そのものをなくさなければならないが、
    資本主義の打倒はレーニンの実証したごとく革命によらなければ不可能である。したがって世界革命闘争を任務とするプロレ
    タリアートはすべての戦争に、無差別に反対すべきではない。すなわちそれぞれ戦争の歴史的、政治的ないし社会的意義を解
    剖し、特に各参戦国支配階級の性格を世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならぬ。
    現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連および革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の
    帝国主義国家に対する革命戦争の3つに分類し得るが、それぞれの戦争の実質をマルクス主義的に解剖することは、その戦争
    に対するプロレタリアートの態度決定に重要なことである。上の分類による第2の戦争は、一方的反動戦争なるがゆえにもち
    ろん断乎反対しなければならない。また第3の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し、帝国主義国家の武力行使に
    反対しなければならないが、第1の帝国主義国家相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートはそれぞれ自国政府の
    失敗と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦たらしめることを活動の主要目的としなければならない」
   「共産主義者の帝国主義戦争反対闘争は、一般平和主義者の戦争反対運動とその根底を異にしている。われわれはこの反戦闘
    争をブルジョア支配階級覆滅を目的とした階級戦と不可分のものとしなければならない。ブルジョアの支配が存続する限り
    帝国主義戦争は避け難いからである」
   「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は
    1.自国政府の敗北を助成すること。
    2.帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
    3.民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるがゆえに、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
     である。
     帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるがゆえに、この革命的前進を阻
     止するいわゆる「戦争防止」運動はこれを拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係ない、またはその発展を
     妨害するような個人的行動またはプチ・ブルの提唱する戦争防止運動も拒絶しなければならぬ。共産主義者は国際ブルジョ
    アジー覆滅のためにする革命のみが、戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない」
   「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争において決定的な意義を有する
    軍隊に十分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊がいかなる階級または政策の武器であるかを十分に検
    討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるので
    はなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるかまたはプロレタリア的であるかにある」
   「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は、第2次大戦の危機を前にして各国ともに
    、人民の全部を軍隊化する傾向が増大してきている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであっ
    て、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。このゆえに共産
    主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、これを内部から崩壊せしめることに努力しなければならな
    い」
   「プロレタリアの帝国主義軍隊に対する関係は、帝国主義戦争に対する関係と密接な関係を持っており、自国政府の失敗を助長
    し、帝国主義戦争を駆って自己崩壊の内乱に誘導する方策は、国防および軍隊の組織問題に対する態度に方向を与える。労働
    者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際しプロレタリアの勝利を導く素地を作るものなるが故に、一般平和主義者の主張
    する反軍国主義的立場とはその立場を異にする。我々の立場は、労働者が武器を取ることに反対せず、ブルジョアのためにす
    る帝国主義的軍国化を、プロレタリアートの武装に置き換えるのである。」(以上第6回大会決議)
    以上によって、資本主義国家の共産主義が戦争の場合にいかなる態度を取るかが明らかにされた。すなわち資本主義国家間の
    戦争は、これに反対するのではなく、これを奨励し推進し、しかもこの戦争の結論に対しては自国政府の敗北を助成し、この
    戦争を通じてブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争から革命への戦略コースを巧妙に大胆に実践せよというので
    ある。このレーニンおよびコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が、日本の軍部および政府に対していかに巧妙に、精緻に
    、しかして見事に適用されたかの具体的事実については後に詳しく述べる。


  ウ.戦略戦術とその政治謀略教程
   共産主義者の任務は全世界の共産主義革命を完成するにある。この目的実現のためには手段方法を選ぶなと教えたレーニンは、
  その戦略、戦術の基準ともいうべき革命家の道徳的体系につきあらゆる角度から論じ、多数の言葉を残しているが、彼が最も熱心
  に精魂を打ち込んで指導してきたコミンテルン第1回大会および第2回大会に際し、自ら筆を執った綱領草案その他党幹部に与え
  た指示、一般の共産主義者に示した文書などから特に注目すべき点を拾ってみよう。彼はまず、革命家の道徳的体系を説いて、「
  政治闘争においては逃げ口上や虚言も必要である」ことを公然と主張し、「共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなけれ
  ばならない。あらゆる種類の詐術、手管、および策略を用いて非合法的方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えな
  い」
  「共産党の戦略戦術は、できるだけ屈伸自在でなければならない。党は武装蜂起から最も反動的な労働組合及び議会への信徒にいた
  るまで、あらゆる闘争方法の利用を学ばねばならない」
  「共産主義者は、大胆に恐れなく攻撃する一方、整然と退却すること、『悪魔とその祖母』とさえ妥協することを能くしなければな
  らない。」
 「党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることができなけ
   ればならない」
 「共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関をいたるとこ
  ろに作らねばならない」
  「我々は即時二重の性格を持つ措置を講ずる必要がある、党は合法的活動と非合法的活動を結びつけねばならない」 と言っている
  。要するに「革命」という目的のためには、ブルジョア社会に存在する一切の道徳的規範を無視して、逃げ口上も、嘘も、あらゆ
  る種類の詐術も、手練手管も、策略も用いよ、また真実をごまかすことも、隠蔽することも、悪魔とその祖母と妥協することも必
  要だ、と言うのである。
  以上述べてきたことは、一般の常識から判断して「そんなバカなことが…」と言う人があるかもしれない。いや「バカなことが…
  」と言う者の方が多いだろう。しかし「バカなことが」と言う方が「バカ」で、冒頭に述べた如く筆者がもし共産主義者だったら
  この通りやる。共産主義の立場からいえば、資本主義制度も、ブルジョア階級も、したがってその政治権力も、まさに不倶戴天の
  仇敵であって、この敵を倒すための手段方法は、それがいかに悪辣不信義なものであっても当然だからである。その不信義、偽瞞
  、謀略を責めることは共産主義の何ものかを知らない者のすることで、彼らの嘲笑を買うのみだ。ここにコミュニスト独特の政治
  謀略、思想謀略があり、表裏全く別の目的を持った秘密活動―戦時中日本に行われた例をとっていえば、表面の主張は「国策の推
  進」「民族の自存自衛のために」「戦争に勝つために」などを掲げ、実際の内在的意図は、社会主義革命を実現せしめるための客
  観条件を作り出す目的を持ったもの、または敗戦革命の結論を頭の中に描きながら行われた謀略活動などがあるのだ。すなわちこ
  れを一言に尽くせば、ブルジョア支配階級を手玉にとって革命を成功せしめるもの、これが最も優れたコミュニストだということ
  になる。


  エ.日本における謀略活動
    しからば、日本にこのような共産主義者の謀略活動があったか。近衛公は前掲上奏文の中で「軍部内一味 の革新運動、これに
  便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍」によって、いまや共産主義革命達成のあらゆる条件
  が具体化せられ行く観があると言い、また、軍部内一味の革新論者を取り巻く一部官僚及び民間有志は、意識的に共産革命にまで
  引きづらんとする意図を包蔵しており、無知にして単純なる軍人これに踊らされたりと言い、このことは過去10年間に3度内閣
  の首班となり、戦争政治の最高責任を負うてきた自分が静かに反省して到達した結論だと言っているが、それはいったい具体的に
  どんなことか。

  ①尾崎・ゾルゲ事件
   まず第1に挙げねばならない事件は、尾崎秀実とリヒアルト・ゾルゲ(表面の身分はドイツ大使館員であったが、実はコミンテ
  ルン本部員で、日本に派遣された秘密機関の責任者)によって構成されたコミンテルン直属の秘密謀略機関である。この秘密機関
  の活動内容は後に詳しく述べるが、尾崎秀実は世上伝えられている如き単純なスパイではない。彼は自ら告白しているとおり、大
  正14(1925)年東大在学当時すでに共産主義を信奉し、昭和3(1928)年から同7年まで上海在勤中に中国共産党上部
  組織およびコミンテルン本部機関に加わり、爾来引き続いてコミンテルンの秘密活動に従事してきた、真実の、最も実践的な共産
  主義者であったが、彼はその共産主義者たる正体をあくまでも秘密にし、10数年間連れ添った最愛の妻にすら知らしめず、「進
  歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」として政界、言論界に重きをなし、第1次近衛内閣以来、近衛陣営の最
  高政治幕僚として軍部首脳部とも密接な関係を持ち、日華事変処理の方向、国内政治経済体制の動向にほとんど決定的な発言と、
  指導的な役割を演じてきたのである。世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍してきたこの尾崎の正体を
  知ったとき、近衛が青くなって驚いたのは当然で、「全く不明の致すところにして何とも申し訳なく、これ深く責任を感ずる次第
  に御座候」と陛下にお 詫びせざるを得なかったのだ。
  ②企画院事件
   第2に取り上げられるのは、いわゆる「企画院事件」の真相である。その内容は後で詳しく述べるが、この事件も戦後世上に喧
  伝された「軍閥政府弾圧の犠牲」として簡単に片づけることは大変な間違いである。戦時中、企画院のいわゆる革新官僚が経済統
  制の実権を握り、戦時国策の名において「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」と主張し、統制法規
  を乱発して、全経済機構を半身不随の動脈硬化症に追い込んできたことは誰でも知っているが、その革新官僚の思想的背景が何で
  あったかは、ほとんど世間に知られていない。ところがこの企画院事件は、昭和10(1935)年コミンテルン第7回大会で決
  定された人民戦線戦術に基づき、国家機構の内部に食い入った共産主義者によるもので、表面は、当時国家の至上命令とされてい
  た「戦争に勝つために」を最高のスローガンとし、国際資本主義体制すなわち現状維持的世界秩序の打倒を目的とした日華事変の
  歴史的意義とその進歩性を認め、東亜新秩序建設のための諸国策を強力に推進してきたが、その内面的意図すなわち思想目的は、
  資本主義制度を根本的に改変し、社会主義革命完成のための客観的、社会的条件を成熟前進せしめる「上からの革命」を意図した
  ものであった。近衛が、上奏文の中で「軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつつあ
  る左翼分子の暗躍」と 言った頭の中には、おそらくこの企画院事件の内容もその一部として描かれていたに違いない。
  ③昭和研究会の正体
    第3に昭和研究会の正体である。この会の果たした役割については、これも後で詳しく述べるが、昭和11(1936)年、「
  新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策の推進に貢献する」ことを目的として発足したこの会は、近衛内閣と不可分の関
  係に立ち、軍部とも密接な関係を持っていわゆる革新国策の理念的裏付けをなし、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推
  進力となり、日本の政治形態を1国1党の軍部官僚独裁組織に持って行ったことは周知の事実であるが、この会の組織は後述す
  るごとく、尾崎秀実を中心とした一連のコミュニストと、企画院グループのいわゆる革新官僚によって構成され、その思想の理念
  的裏づけは、全くマルクス主義を規定としたものであったのだ。近衛が「この結論の鏡にかけて過去10年間の動きを照らし見る
  とき、そこに 思いあたる節々頗る多きを感ずる次第に御座候」と述懐したのも当然である。
  ④軍部内の敗戦謀略
    第4に、軍部内に食い込んだ謀略活動であるが、この問題は本編の主要課題であるから別に詳しく述べることとし、ここでは元
  陸軍省兵務局長田中隆吉氏の意見を引用する程度に留めておこう。 田中氏は、その著「日本軍閥暗闘史」の中で「支那事変の中途
  、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(これを私は転向右翼と名付けた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍
  省部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念は、これがためにさらに飛躍した
  。すなわち大東亜共栄圏の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向右翼との
  握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展したことは、やがて3国同盟の締結となり、大政
  翼賛会の創設となり、さらに翼政会の出現となり、わが日本帝国主義を完全なる全体主義国家に変貌せしめた。しかも太平洋戦争
  の勃発は、憲法を無視する推薦選挙の暴挙を生み、国民から言論・結社の自由を奪い、ここに世界史に稀に見る軍部独裁の政治体
  制を確立したのである。この政治体制は陸軍が転向右翼の戦争に乗ぜられたものでなくて何であろう。統制派の政治軍人が軍人の
  本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派の内部に巣食い、彼ら転向
  右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力に
  よりその付け焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗ぜら
  れたのは当然の帰結である」と言っている。
   筆者は、この田中氏の見解にそのまま賛成するものではないが――例えば、彼が陸軍部内のいわゆる統制派のみに 責任を負わ
  せ、自分はその圏外にあるがごとき態度をとっている…、さらに彼の言う転向右翼は、実は転向を偽装した本物の共産主 義者で
  あったり、その転向右翼の背後に尾崎の巧妙な理論指導があったこと、また尾崎と武藤軍務局長の間には特に緊密な連絡があっ
  たことを見落としている――彼は兵務局長になる前に兵務課長をしており、長く憲兵の総元締めをしておったから、陸軍内部の思
   想傾向にも外部との連絡関係にも相当深い知識を持っていたはずである。その田中氏が、武藤軍務局長を中心とする政治軍人の
  背後には共産主義の理論指導があり、軍閥政治軍人は、この共産主義者の巧妙にして精緻なる祖国敗戦謀略に踊らされたのだと言
  っていることは、特に重視する必要がある。
   この点に関し、近衛公は前掲上奏文の中で「軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に 非ずとするも、これを取り巻く
  一部官僚及び民間有志(これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣をつ けた共産主義者なり)は意
  識的に共産革命にまで引きづらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て 大過なしと存候」と言
  っている。


  オ.中国の抗日人民戦線と日華事変
  昭和5(1935)年8月14日付の「中国共産党当面の任務に関する宣言」の1節に「今や帝国主義諸国家相互の矛盾は先鋭化
 し、各国はそれぞれ戦争を準備し、植民地を強奪せんとする空気が充満している。かかる国際的政治情勢は、すでに明らかに資本主
 義の暫定的安定を破壊し、まさに新たなる帝国主義世界戦争と、新たなる全世界の革命闘争を促進するとともに、一切の帝国主義制
 度の死滅を促進しつつある。かかる情勢の下にあって、中国革命は全世界革命の中において頗る重要な地位を占めている。中国の広
 大な勤労大衆の反帝国主義闘争は、必ずや世界革命の普遍的爆発を促進し、各国無産階級の武装暴動を誘起するであろう。我らは、
 ソヴェート連邦擁護、帝国主義戦争反対、植民地革命完成のスローガンの下に、中国革命を世界革命と合体せしめ、共同して帝国主
 義に対する戦争を戦い取らねばならぬ」と言っているが、この主張は言うまでもなくコミンテルンの基本的立場であって、今次の大
 戦を経て中共政権確立への過程において、いかなる戦略戦術となって表れたであろうか。
  前にも述べた如く、1935年のコミンテルン第7回大会において決定された人民戦線戦術は、
  1.ファシズム反対および帝国主義戦争反対の闘争を当面の主要任務とすること。
  2.社会民主主義団体その他との統一戦線を樹立すること。
  3.従来の画一的国際主義を排して各国の国情に即した戦略戦術を採用すること。
  4.合法場面を利用すること。
 の4点であるが、この新戦術によって中国の相貌は一変した。すなわち前記コミンテルン第7回大会で中国当面の敵は日本であると
 決定し、この日本に対抗するために中国共産党および中共軍に対する援助を決議し、さらに「中共」に対し、日本帝国主義打倒のた
 めに、民族革命闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を捲き起こすべしと指令したのである。そこで「中共」はこの新方針に従
 い、抗日人民戦線運動の具体的方策を決定し、昭和11(1936)年8月1日付で「抗日救国宣言」を発し、全中国にわたって「統
 一国民政府および抗日連合軍の創設」を呼びかけたのである。その主張は、「中国および中国民衆の敵は日本だ。日本帝国主義の侵
 略によって中国は過去においても多くのものを失ったが、今や日本帝国主義はさらに武装して中国に迫りつつある。中国および中国
 民衆は国内戦争や国内の対立抗争をやっているときではない。一切の国内抗争を即時停止して抗日の大旗のもとに全中国各階級の民
 衆を組織化し、全面的な抗日闘争を展開せよ」と言うにあった。この抗日救国宣言は全中国に非常な衝撃を与え、抗日戦線統一への
 世論が起こりつつあったとき、同年12月突如として起こったのが西安事件(張学良の蒋介石監禁事件)である。この西安事件によ
 って、蒋介石は長年自己政権(国民党政権)の敵として討伐を続けてきた「中共」と妥協し、ここに「国共合作」が実現した。すな
 わち蒋介石は、「中共」の要求を全面的に容認して、「容共抗日政策」を採用し、抗日即時開戦を提唱して抗日人民戦線の結成を促
 進し、遂に日華事変勃発拡大の口実を日本側に与え、その一面の条件を作り出したのである。

   日華事変に関してコミンテルンが「中共」および中国民衆に与えた文書は無数にあるが、その中で「日華事変は、中国全土に非常
 な波動を起こし、事変の帰結如何にかかわらず、コミンテルンは極東に勢力を確保することが可能であり、また中国におけると同様
 日本にも騒乱を惹起して終局の勝利を得ることを確信している」と言っている。コミンテルンの世界革命綱領実現の見地からいえば
 、極東の安定勢力として強大なる日本帝国が存在することは何としても大きな障害である。極東革命完成のため1度は日本と戦わね
 ばならぬであろう。とすれば、中国と日本を噛みあわせて全面戦争に追い込み、日本の実力を試すことは需要なことだ、と同時に、
 日本の実力を消耗させればさせるだけコミンテルンの革命勢力にとって有利である。日華事変によって蒋介石政府がもし負けても、
 コミンテルンの立場は何らの痛痒も感じない。否むしろ望むところで、敗戦の後に来るものは赤化革命の前進である。さらに日本に
 ついても同様で、戦局の進展如何によっては、一挙に日本帝国主義を撃破崩壊せしめることも可能である――と見るのは当然である
  
   日本においては、「英米帝国主義の傀儡蒋介石軍閥政権打倒」「東亜解放の聖戦」を叫んで軍閥戦争を理念づける共産主義者が
 あり、中国においては、「抗日救国」「日本帝国主義打倒」を叫んで、日華全面戦争を強力に指導する「中共」の人民戦線戦術があ
 り、両者激突してコミンテルンの希望通りに日本帝国政府と蒋介石政権を崩壊せしめたのだ。「中共の勝利と新政権」の確立はこの
 謀略の成功を実証するものと言えるであろう。


   カ.アメリカに於ける秘密活動
   最近アメリカで大きなセンセーションを巻き起こしたいわゆる「アルジャー・ヒス事件」は、有罪か無罪か、いまだ最終の結
  論をみていないからここに持ち出すことは早計であるが、日本の新聞が「尾崎秀実アメリカ版」の表題を伏して解説を試みてい
   ることは注目に値する。筆者は、アメリカ連邦政府の名誉のために、ヒス氏の無罪であることを願ってやまないが、もし有罪の
  最終決定を見るようなことになったならば、彼もまた尾崎秀実と同様単なるスパイではあるまいと考えられる。というのは、次の
  如きアメリカ国内に現れた注目すべき記事と、日本における尾崎事件の性格・内容を検討した上で到達した筆者の見解がある。
  1948(昭和23)年2月号の「カソリック・ダイジェスト」に「アメリカを蝕むもの」「モスクワの指令下に米国上層部に食
  い入るソ連秘密警察」と題する注目すべき記事がある。この記事の筆者はエドナ・ロニガンという女の人で1933(昭和8)年
  から1935(昭和10)年まで農業金融局に、35(昭和10)年から40(昭和15)年まで財務省に勤務し、また彼女は大
  学の教授であったと註釈がついているが、この記事の内容は、アメリカ連邦政府内における共産主義者の活動をきわめて大胆に述
  べたもので、ロニガンはまずアメリカの国会委員会がこの問題を取り上げた意義を述べ、「国会は今、ソ連秘密警察のアメリカに
  於ける目的と活動は何か?という実際問題を検討している――事実はこうである。ソ連秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を
  掘らしめるため、その手先のものをアメリカの重要な地位につける仕事に携わらせているのだ」
 「ソ連秘密警察は1933(昭和8)年以来、連邦政府に浸透しようと努力してきた。その最初の細胞は明らかに農務省に設立され
  たのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、1929(昭和4)年というはるか以前から、すなわち不景気が危篤期
  に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学に潜り込ませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コ
  ーダート委員会報告書に証明されている。それぞれの細胞は分裂してほかの細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者たちは、連
  邦政府内部の「機構図表」を持っており、党員を次から次へと重要な地位に移したのである。」「網状組織によって地位につけら
  れた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は夢想的な革命論者であった。しかし大抵は、網状組織に好意を持たれ
  れば速やかに昇進できることに気づいている小利口な、悪賢い人々であった。」
  「有能なソヴィエトの手先がなすべきことは、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼らの仕事は、高官や
  、その夫人たちと親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理智的に、同情的になることであり、昼夜にわたって一
  層大きな責任を引き受ける用意をすることであったのだ。そして、やがてそのような責任ある地位が彼らに与えられたのである。
  かくのごとくして、網状組織は毎年仲間たちをだんだんと高い地位に移していった。戦争が始まったとき、8年間陰謀で鍛えた古
  強者たちは、最高政策を操る地位に到達していたのである」 「この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆ
  る問題においてアメリカの政策を指導し始めた。民主党領袖ファーレイが落伍した後、彼らは重要産業地方の投票を得る仕事を引
  き継ぎ、その報酬として戦争の政治的指導権を握ったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りのところで停止した。
  ――彼らは満州と北朝鮮を共産党に与えた」と言っている。

   ヒス事件は、このロニガンの言う網状組織の一部であるように想像されるが、新聞解説によると、「アルジャー・ヒスはハーバ
  ード大学の法科を首席で卒業したカミソリのように鋭い頭の持ち主、大学を卒業後、一時弁護士の仕事を手伝っていたこともあっ
  たが、ルーズベルトが大統領になって思い切ったニュー・ディール政策を開始するとすぐ、政府の仕事に関係し、1936(昭和
  11)年には連邦検察局から国務省に移り、敏腕を買われ、37,8年頃にはセイヤ―国務次官の右腕として活躍、その後幾多の
  国際会議に出席し、1945年ヤルタで開かれたルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭会議には顧問として参加した」
   「ニュー・ディールに惹かれて政府の仕事に参加していっただけに、ヒスは赤の同伴者だという声も出たことはある。しかしニ
  ュー・ディールが始まった当時は、米ソの関係も好転していて、マルクス主義をひとくさり断じなければ、幅が利かぬといった世
  の中であった。だからヒスは同伴者だと言ったところでこれを気に留めるものは一人もなかった。」
   「ところが、1948(昭和23)年の春、下院の非米活動調査委員会で、当時タイム誌の編集幹部をしていたホイッテーヤー
  ・チャンバースが、自分はかつて共産党の情報伝達係をしていたことを告白すると同時に、米国政府上層部に共産分子が食い込ん
  でいると指摘してヒスの名を挙げた。チャンバースの言うところによると、1934(昭和9)年の初夏、ワシントンのあるレス
  トランで、ピータースと呼ばれている人物と会った。ピータースというのはソ連のスパイの総責任者でバイコフ大佐の別名である
  。大佐のそばに背の高い男が立っていた。それがヒスであった。チャンバースはそれ以来ヒスと直接連絡してヒスの手から政府の
  機密書類を手に入れていた」というのである。
   上の事実がもし真実であったとするならば、日本の尾崎・ゾルゲ事件とそっくりそのままだ。そしてロニガンの言うごとく、ま
  た尾崎秀実のごとく単なるスパイではなく、世界共産主義革命完成の線に沿って何らかの役割を演じたとしたならば、筆者の言う
  巧妙にして精緻なる世界革命のための国際的謀略活動が、米国の中心部にも浮かび上がってくるのである。尾崎がその手記の中で
  、ゾルゲ機関の本質および目的任務を説明して「この一団は、コミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本にお
  ける組織である」と言っていること、ゾルゲがコミンテルンの命により日本に渡って尾崎と連絡をつけたのが1934(昭和9)
  年であったことなど考え合わせてみる必要がある。


3.第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想――尾崎秀実の手記より
 ア.偉大なるコミュニスト
   昭和16(1941)年10月15日早暁、尾崎秀実が突如警視庁に検挙され、その事件の内容は「国際スパイ事件らしい」とい
 うニュースがどこからともなく伝わってきて、当時の政界消息通の間に大きな衝撃を与えた。なぜなら、前にも一言したごとく、彼
 は日華事変勃発の前後から「最も進歩的な愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」として政界、言論界に重要な地位を
 占め、第1次近衛内閣以来近衛の最高政治幕僚の一人として軍部とも密接な関係を持ち、戦時政局の最上層部で縦横に活躍していた
 からである。この尾崎が突如、国際スパイ事件の中心人物として検挙されたのだから驚いたのも当然である。

  だが彼は単純なスパイであっただろうか、この事件の内容(スパイ事件の分)は終戦後すでにしばしば新聞に雑誌にあるいは著書に
 取り扱われているから省略するが、彼は決して単純なスパイではない。彼の表面の経歴は、岐阜県加茂郡白川村に生まれ、幼時から
 台湾の台北で育ち、台北一中卒業、大正11年第1高等学校卒業と同時に東京帝大法学部入学、同14年3月卒業、なお1年間大学
 院在学、同15年5月東京朝日新聞社入社、社会部、学芸部の記者を経て昭和2年11月大阪朝日新聞社に転じ支那部勤務、同3年
 11月上海支局詰めとなり、特派記者として3年間余上海に在勤、同7年2月大阪本社に戻り外報部勤務、9年10月再び東京朝日
 に転じ東亜問題調査会勤務、13年7月同社を辞職して近衛内閣の嘱託となり、14年1月同内閣総辞職までその地位にあった。そ
 の後同年6月1日付で満鉄嘱託となり、東京支社勤務として16年10月15日の検挙のときに及んだということになっている。

  しかして彼はこの間に、昭和12年4月から昭和研究会に参加し、支那問題研究部会、東亜政治部会、民族部会の責任者、外交部
 会委員として15年9月同会解散の日までこの会の重要な指導的地位にあった。 また第1次近衛内閣成立の直後、近衛の最高政治ブ
 レーンとして設けられた「朝飯会」の中心メンバーとなり、近衛政治に重要な発言権を持ってきたが、この政治幕僚会議は、第1次
 近衛内閣から継続して第2次、第3次近衛内閣に及び、首相官邸で10数回、秘書官邸で数回、西園寺邸で数十回、万平ホテルで2
 ,3回開き、検挙の1ヶ月半前まで続けてきたと言っている。この尾崎が「私はこの第2次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義
 革命が完全に成就しないまでも、決定的な段階に達することを確信するものであります」と断言する真実の共産主義者であったこと
 を、彼の周囲の何人も知らなかったのだ。彼こそ偉大なるコミュニストである。


  イ.大正14年から共産主義者
  尾崎秀実が真実の共産主義者であったことを、今もって世人はよく知っていないが、彼はその思想経歴につき自らペンを執って書
 いた手記の中で、 「私は中学を卒業するまでの幼少時代を台湾で送りましたが、その関係で征服者たる内地人と被征服者たる台湾本
 島人との間に、きわめて惨めな差別の存在することに少なからず人道主義的な懸念を抱き、弱小民族たる本島人に対し同情感を抱く
 とともに、デモクラシーの風潮の強いときであり、私も雑誌「改造」「解放」などに掲載された吉野作造氏の論文やその他の人々の
 華やかな議論を読み、少なからず心を惹かれ興味を覚えたものでした」しかしこの頃は「思想的には人道主義的自由主義的傾向を持
 っていたのであります」が、大学に進んでから「大正12年夏の第1次共産党検挙事件」、関東大震災の直後自分の住んでいた下宿
 の隣家でおこなわれた 「農民運動者の検挙事件」、「大杉栄とその妻子の殺害事件」などからも強い刺激を受け、「私の社会問題へ
 の関心を強める原因となりました」と言い、また、その頃の東大新人会の方向転換その他の影響を受けて、「新しい思想を開拓する
 ことに英雄主義的な興奮を感じました」と言い、「このような心境になりつつあったので、大学卒業当時1、2就職口もありました
 が、就職する気にもならずそのまま大学院に居残って、社会科学の研究をしようと決心しました。大学院の1年間に経済学部助教授
 大森義太郎を指導者とする学内の『唯物論研究会』に参加し、また自ら種々の左翼文献を読み共産主義の研究に没頭しました」とそ
 の思想推移過程を語り、「このような経過を辿って私の思想は人道主義的なものから共産主義的なものに転じ、大正14年頃には共
 産主義を信奉するに至ったのであります」と述べている。


 ウ.共産主義の実践行動へ
  かくて彼は、東京朝日新聞へ入社後間もなく、社内の同志とともにグループを作り「レーニン主義の諸問題」をテキストとした研
 究会を行い、あるいは草野源吾の変名で日本労働組合評議会(最左翼)関東出版労働組合に参加したこと、大阪朝日に転じた後も同
 志のグループに参加していたことを語り、上海に渡ってからの行動については、
 「上海は当時いわゆる支那国民革命の直後であり、南京には国民政府が樹立されておりましたが、上海はこの革命の余波が高く、共
 産主義的潮流が横溢しており、私はこのような雰囲気の裡にあって支那問題を中心に各種の左翼文献を読み、ますます共産主義に対
 する信念を強めるとともに、支那をめぐる列強の帝国主義侵略の現実をまざまざと見せつけられ、遂に上海における「創造社」のグ
 ループに関係したのをはじめとして、東亜同文書院の左翼学生グループと関係を持ち、またその関係から中国共産党の下部組織との
 連絡、さらにその上部組織とも関係を持つようになり、次いでアグネス・スメドレーと相知るに及んで国際的な線とも関係を生じ、
 爾来コミンテルンのための諜報活動に従事し、今回の検挙に及んだ次第であります」と述べ、さらにコミンテルン本部との身分関係
 について、「私も本部の特殊部門の正式メンバーとして登録されているに違いないと信じております」と述べている。「大正14年
 頃には共産主義を信奉するに至った」と言い、昭和3年上海に渡ってからは共産主義運動の国際的活動に参加し、「コミンテルン本
 部の正式メンバーに登録されているに違いないと信じていた」と自ら告白する「最も忠実にして実践的な共産主義者」(彼自身の言
 葉)尾崎秀実の正体を、昭和16年検挙の日に至るまで、10数年の久しきにわたり、彼の日常接触してきた何人も知らなかったの
 だ。そして、「日華事変から太平洋戦争へ」の日本の運命を決した最も重大なる時期に、戦時政局の最上層部に参画せしめてきたの
 である。「私が忠実なる共産主義者として行動する限り、日本の現在の国体と矛盾することは当然の結果であります」「実践的な共
 産主義者としての私の行動自体が、国家体制といかに矛盾したかということに真実の意味があると思われます」と言い、「激しい人
 類史の転換期に生まれ、過剰なる情熱を背負わされた人間としてマルクス主義を学び、支那革命の現実の舞台に触れてより今日に到
 るまで、私はほとんどかえり見もせず、驀地に一筋の道を駈けてきたようなものでありました」と言っている尾崎は、果たして何を
 考え、なしたのであろうか。


 エ.彼は何を考えていたか
  「元来、私にとっては思想なり主義主張なりは、文字通り命がけのものであったことは申すまでもありません」と言う「最も忠実
  にして実践的な共産主義者」尾崎秀実が、命をかけて貫かんとしたその思想目標は何であったか、詳細は手記に記されているが、
  その内容を目的と段階に分けて要約してみると、
  (1) コミンテルンの支持およびソ連邦の防衛
  (2) 日本帝国主義およびアジアの革命―すなわち東亜における英、米、仏、日帝国主義支配体制の打倒と東亜社会主義体制の確
     立
  (3) 第2次世界大戦を通じての全世界共産主義革命の完成
   の3つの目標に分類することができる。以下その要点を摘記してみよう。

(1)コミンテルンの支持およびソ連邦の防衛
  尾崎秀実は、彼の所属したゾルゲ機関の目的任務につき「我々の諜謀活動はゾルゲを中心とした一段の活動でありますが、私の上
 海以来の経験判断からすれば、この一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの、日本における組織であること
 は明瞭でありました」「コミンテルンは現在の力関係から言えば、ほとんどソ連共産党の指導下に立ち、しかもソ連政府の中核をな
 しているのはソ連共産党であり、結局3者は一体をなしている関係に立つものと理解しておりますので、我々の活動はコミンテルン
 、ソ連共産党およびソ連政府の3者にそれぞれ役立てられるものと考えておりました。」「我々グループの目的任務は、コミンテル
 ンの目指す世界共産主義革命遂行のため、日本における革命情勢の進展とこれに対する反革命の勢力関係の現実を、正確に把握し得
 る種類の情報並びにこれに関する正確なる意見を、モスクワに諜報することにあり、狭義には、世界共産主義革命遂行上最も重要に
 してその支柱たるソ連を、日本帝国主義より防衛するため、日本の国内情勢ことに政治、経済、外交、軍事などの諸情勢を、正確に
 かつ迅速に報道しかつ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのであります」と言い、そしてそのコミンテルンの目的
 任務については「コミンテルンは世界革命を遂行して、世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際組織であり」「世界
 各国の無産階級の指導部、参謀本部として革命的手段により資本主義社会機構を打倒し、世界各国にプロレタリアートの独裁政権を
 樹立し、全世界のプロレタリア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し、以て共産主義社会の第1段階である社会主義社会を
 実現せんことを目的とした、国際的結社であります」「またコミンテルンとソ連政府との関係は密接不可分であり、コミンテルンの
 組織はソ連政府の存在を離れては存在し得ない」「したがってコミンテルンの政策は、ソ連政府の国際政策に強く支配せられている
 ばかりでなく、自主的にもその世界革命完成の目的のために、その中心をなす唯一の現有勢力たるソ連国家を守り、その存在を維持
 するための政策を採らざるを得ないのであります」と言っている。

(2)日本およびアジアの共産主義革命
  「最も進歩的な政治評論家」「近代支那研究の権威者」の名声の下に、尾崎が命がけで推し進めてきた「内在的思想目的」の第1段
 階的主目標は、おそらくこの東亜における英、米、仏、日の帝国主義支配体制の打倒とこれに代わるべき社会主義体制の確立にあっ
 たであろう。尾崎のこの構想を要約すると、まず日本帝国主義と蒋介石軍閥政権を噛み合わせて両者共倒れに終わらしめることすな
 わち日本と中国の共産主義革命の完成、ついでこの日華事変を東亜諸民族の民族自決戦に発展せしめ、米、英、仏、蘭帝国主義打倒
 の植民地解放戦争に誘導して、いわゆる東亜解放の聖戦たらしめること、しかしてこの植民地解放戦争を通じて、東亜諸地域の社会
 主義体制を確立することにあった。彼はこの「内在的思想目的」を手記の中で次のごとく述べている。「帝国主義政策の限りなき悪
 循環、すなわち戦争から世界の分割、さらに新たなる戦争から資源領土の再分割という悪循環を断ち切る道は、国内における搾取被
 搾取の関係、国外においても同様の関係を清算した新たなる世界的な体制を確立すること以外にありません。すなわち世界資本主義
 に代わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められるのであります。しかもこれは必ず実現し来るものと確信したのであり
 ます。帝国主義諸国家の自己否定に終わるごとき極度の消耗戦、国内新興階級の抗戦を通じての勢力増大、被圧迫民族国家群の解放
 、ソ連の地位の増大などはまさにその要因であります。
  以上の如き予想に基づいて、現実の形態とさらにこれに対処する方式として私がしきりに心に描いたところは、次の如きものであ
 りました。

 1.日本は独・伊と提携するであろうこと
 2.日本は結局英米と相戦うに至るであろうこと
 3.最後に我々はソ連の力を頼り、まず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連において日本自体の社会主義国家への転
   換を図ること でありました」
  「私が密かに予想したところでは、第2次世界戦争はその過程の裡において、社会経済的に脆弱なる国家ほど最も早く社会的変革
 に遭遇すべきものであるから、日本もまた比較的速やかにかかる経過をとるであろうと考えたのであります。これを最近の段階の現
 実に照応せしめて説くならば、日本は結局において英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを、つとに予想し得た
 のであります。もちろん日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。この場合日本の勝敗は日本対英米の
 勝敗によって決するのではなく、枢軸全体として決せられることとなるであろうと思います。日本は南方への進撃においては必ず英
 米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが、それ以後の持久戦により、消耗が応えて致命的なものとなって現れてくるであろ
 うと想像したのであります。しかもかかる場合において、日本社会を破局から救って方向転換ないし原体制的再建を行う力は、日本
 の支配階級には残されていないと確信しているのであります。結局において身を以て苦難に当たった大衆自体が、自らの手によって
 民族国家の再建を企画しなければならないであろうと思います。

  ここにおいて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るために
 も、また英米から一時的に圧倒せられないためにも、行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これの援助を受けて日本社会経済の根本
 的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確固として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタ
 リアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、しかも十分な自らの党的組織(=日本共産党)を持たないことのためにも、ソ連の
 力に待つ点はきわめて多いと考えられるのであります。

  英米帝国主義との敵対関係の中で、日本がかかる転換を遂げるためには、特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、さらに
 中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本と、ソ連の3者が緊密な提携を遂げることが理
 想的な形と思われます。以上の3民族の緊密な結合を中核として、まず東亜諸民族の民族共同体の確立を目指すのであります。東亜
 には現在多くの植民地、半植民地を包括しているので、この立ち遅れた諸国を直ちに社会主義国家として結合することを考えるのは
 実際的ではありません。

  日ソ支3民族国家の緊密友好なる提携を中核としてさらに、英、米、仏、蘭などから解放されたインド、ビルマ、タイ、蘭印、仏
 印、フィリッピンなどの諸民族を、それぞれ一個の民族共同体として前述の3中核体と政治的、経済的、文化的に密接なる提携に入
 るのであります。この場合、それぞれの民族共同体が最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件ではなく、過渡的にはそ
 の民族の独立と東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を、一応自ら選び得るのであります。なおこの東亜新秩序社会においては、
 前期の東亜諸民族のほかに、蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満州民族共同体などが参加することが考えられる
 のであります。

  申すまでもなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすべきものでありますから、世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の
 形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります。

  なお日本における社会体制の転換に際して取るべき手段の予想は、日本社会の旧支配体制の急激な崩壊に際して、急速にプロレタ
 リアートを基礎とした党を整備強化し、単独にまたは他に連係し得る党派との連合の下に、プロレタリアートの独裁を目指して闘争
 を展開していくべきものと考えます。現在日本のプロレタリアートの拠るべき日本共産党は、ほとんど壊滅の状態にあるのに鑑み、
 この予想には相当の困難を伴うのでありますが、これには国内の他の友党との共同戦線の構築と、国際的友好勢力特にソ連邦の党の
 援助によって、その際急速に党の拡大強化を計る可能性が考えられるので、この党を中核として社会変革を遂行し得ると考えられる
 のであります」と言っている。


(3)第2次世界大戦より世界共産主義革命へ
  真実のコミュニスト尾崎秀実がその全生命と情熱を傾けて、まっしぐらに追及してきたものは、マルクスの教義たる全世界の共産
 主義社会実現にあったことは当然である。彼はこの自分の思想的立場を、手記「第2次世界戦争から世界共産主義革命への見通しに
 ついて」同「現下の世界情勢に対する見解について」で詳しく述べているが、その要点を摘記してみるならば、まず冒頭に、「社会
 発展の必然的な過程は、我々マルキシストに今や世界資本主義の崩壊と次の社会的段階への移行を、ますます確信せしめるに至って
 おります。少なくとも私は、史的唯物論の上に私の世界観を打ち立てて以来、世界史の現実は刻々に以上の見解の正しさを実証した
 ものと確信しているのであります」と述べ、資本主義社会制度の内部的矛盾による、第1次世界大戦から第2次世界大戦への必然性
 を説き、「私は第2次世界戦争は必ずや世界変革に到達するものと信ずるのでありますが、第2次世界戦争がなぜに再び帝国主義諸
 国間の世界再分割に終わることなくして、世界変革に到るであろうとの見通しについては、一応問題とするに足るであろうと思いま
 す。私はこの第2次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しないまでも決定的な段階に達することを確信するも
 のであります。その理由は、第1に世界帝国主義国相互間の闘争は、結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼ら自体の現有社会経済体
 制を崩壊せしめるに至るであろうということであります。帝国主義陣営は型通り、正統派帝国主義国家群とファッショ派帝国主義国
 家群とに分裂しているのでありますが、この場合戦争の結果は、両方共倒れとなるか、または一方が他方を制圧するかであり、敗戦
 国家においては第1次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、またたとえ一方が勝ち残った場合でも
 戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とによって、社会革命勃発の可能性なしとしないのであります。

  第2には、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在している事実であります。私はソ連邦は飽くまで帝国主義諸国家間の混戦に超然
 たるべきものであると考え、その意味においてソ連邦の平和政策は成功であると考えていたのであります。対ソ連攻撃の危険性の最
 も多い日本およびドイツが、前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失ったとみられたとき、私は以上
 の見通しがますます確実になったことを感じたのであります。独ソ戦の勃発は、我々の立場からはきわめて遺憾なことでありますが
 、我々はソ連がドイツに対して結局の勝利を得るであろうことを依然確信しており、その結果ドイツが最も速やかに内部変革の影響
 を蒙るべきことを、密かに予想していたのであります。第3には、植民地、反植民地がこの戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、そ
 の間に、ある民族においては共産主義的方向に進むであろうということであります。少なくとも支那に対してはかかる現実の期待が
 かけられると思われます。

  以上のごとき諸条件は、世界がこの戦争の過程とその結果において、帝国主義国家による世界分割に終わることなく、世界革命に
 到るべしとの予想の主たる原因であるのであります」と言い、また、「巨大なる財貨の破壊と、貴重なる人命の犠牲の後に来るべき
 ものが、再び新たなる一団の国々の戦利品に終わり、他の一団の敗北喪失の国々との対立を新たに惹起するというこの大戦争の結果
 が、いかに愚劣極まるものであるかについて、人類といえどももういい加減反省してよい頃ではないかと思われます。しかしながら
 帝国主義諸国家の意図するところはまさに以上の如きものであり、世界再分割こそ一切の目的であったとしても、この第2次世界大
 戦がそれらの主観的意図とは全く別個の客観的な経過と結果を示すであろうことは、私たちの密かに確信したところでありました」
 「要するに世界資本主義が完全に行き詰っており、その行き詰まりを打開せんとする道が、結局自身の体制を根本的に破壊しかつ否
 定せざるを得ないような方向以外に存在しないという大きな矛盾が、このことを雄弁に物語っていると考えるのです。」

  「私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが、簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのは、甚だ好ましくないのであります。
 (大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になったときに英米の全勝に終らしめないために
 も、日本は社会的体制の転換を以て、ソ連、支那と結び別な角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。この意味
 において、日本は戦争の初めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは、大いに意味がある
 と考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を、『東亜新秩序』創設の絶対要点であるということをしきりに主張
 しておりましたのは、かかる含みをこめてのことであります」 「自分の根本的見解に立ち戻って省察を加えてみますとき、種々の反
 省と自己の簡単な見通しについての誤りに気づく点も多々あります。しかしながら根本的な歴史法則に対する信念は何も変わらない
 ということができるのであります。あくまで今次の世界戦は資本主義社会の総決算たるべき運命を背負ったものであろうと確信して
 おるのであります」と述べ、彼がかつて何人にも語らず、胸中ひそかに描いて推し進めてきた第2次世界戦争から世界共産主義革命
 への構想を明らかにしている。(この手記は太平洋戦争開始直後の17年2,3月頃書かれたものであることを特に注意する必要が
 ある)

  オ.思想と目的を秘めた謀略活動
  個人の抱懐する内在的意思すなわちその人が胸中密かに考えている思想内容がいかなるものであっても、それが行動となって表れ
 ない場合、言い換えればその思想目的が実践化されない場合は、社会関係において何らの意義を持たないし、また問題とするに足り
 ない。問題とされるのは、その思想内容がいかに行動化され実践化されたかまたは行動に移されたかにある。
  しかして、この思想目的を実践化する方法に2つの場合がある。その1つは自己の信ずる思想目的を公然と社会に発表して堂々と
 行動する場合であり、その2は自己の信奉する思想目的を胸中深く秘めて全然社会に発表せず、全く異なったほかの思想的表現で表
 面を偽装し、その胸中深く秘めた思想目的達成のために必要な社会関係を巧みに利用していく場合である。前者は公正な大衆の批判
 に訴えていく民主的な方法であるが、後者は一般大衆にも自己周辺の人々にも「知られて都合の悪い特別な思想目的」達成のために
 行われる、最も非民主的にして悪魔的な謀略活動である。
  尾崎秀実がすでに10数年前より共産主義を信奉し、第2次世界大戦から世界共産主義革命実現への構想を持っているとしても、
 彼がこの思想目的を行動化せず、または行動に移す場合にその思想内容を公然社会に発表して実践活動を行ったとするならば、その
 ときの客観的批判と法律関係を別にして、政治的に何ら問題とする必要はない。問題は、彼がその思想内容を胸中深く秘めて一部少
 数の同志のほかは妻にすらこれを語らず、進歩的な愛国主義者、支那問題の権威者の名を持って表面を偽装し、政治上層の要人なら
 びに軍部、政界、言論界を対象として、世界共産主義革命実現への構想を、驚くべき大胆さと普通人の到底想像も及ばない思想的信
 念を以て強力に推し進めていった、その最も非民主的にして悪魔的な謀略活動にある。

  この点は極めて重要であるから、すでに述べたところと多少の重複はあっても、以下彼自身の言葉を引用して彼の行動の恐るべき
 謀略性を明らかにしておきたい。
  「私が忠実なる共産主義者として行動する限り、日本の現在の国体と矛盾することは当然の結果であります。そういう意味から言
 えば国体をどう考えるかということが問題なのではなくして、実践的な共産主義者としての私の行動自体が、国家体制といかに矛盾
 したかということに、真実の意味があると思われます。国家の秘密を探ることを主たる活動とした行動自体が問題なく国家体制の否
 定であることは申すまでもありません」
  「国家としての日本およびソ連とを比べた場合の私のこれに対する考え方であります。私たちは世界大同を目指すものでありまし
 て、国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現を目ざしているのであります。したがって我々がソ連を尊重するのは以上のご
 とき世界革命実現の現実過程において、ソ連の占めている地位を意義あるものとして、前進の一里塚として少なくともこの陣地を死
 守しようと考えているに過ぎないのであります」「世界的共産主義大同社会ができたときにおいては、国家および民族は1つの地域
 的あるいは政治的結合の1単位として持続することとなるのでありましょう。かくのごとく私は将来の国家を考えているのでありま
 す。この場合いわゆる天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります」
  「私の行っているごときことが猛烈な反国家的な犯罪であることは言うまでもありません、したがって理論的にはその行動を是認
 しつつも、ときに具体的行動のうしろめたさを感じたことも否定できません。私は常に露見、逮捕というごとき場合の結果を自分1
 個の死と結びつけて考えておりました。『要するに死ねばいいのだろう』という点に1つの覚悟の基礎を置いていたわけであります
 」「私は顧みて本当の意味での同志たるゾルゲ、宮城などに対しては常に友愛と誠実とを以て付き合ってきましたため、事件が発覚
 した以後においてもいささかもこの同志愛を減じておらず、かえって一層この不運なる結果を同情し、またこの人々を懐かしむ念を
 増してさえいるのであります。しかし私を最も苦しめたことの一つは、私はこれまで普通の社会人として接してきた仲間の人々に対
 し、その完全な好意と善意を裏切らねばならぬ立場に始めから立っていたことであります」「もちろんこれも理屈としてはいわば社
 会的には別個の陣営にある人々ではないか、それらを利用し、それなどから諜報の材料を得ることは、コミュニストとしての活動に
 当然内在するはずではないかとも言い得るところでありましょう。」
  「私には到底妻子の行く末まで気を配る経済的な余裕も、また気持ちの余裕もありませんでした。不幸な結果が到来したとき、そ
 のときこそは妻子とは永久に別れるときだと考えておりました」「職業的革命家はやはり家庭を持つべきではないと考えます」「激
 しい人類史の転換期に生まれ、過剰なる情熱を背負わされた人間としてマルクス主義を学び、支那革命の現実の舞台に触れてより今
 日に到るまで、私はほとんど顧みもせず、驀地に一筋の道を駈けてきたようなものでありました」 と言っており、また獄中から妻に
 与えた書簡の中で、「元来、私にとっては思想なり、主義主張なりは文字通り命がけのものであったことは申すまでもありません。
 それはいわば女の貞操にも等しいものなのです。したがってそれを根本的に考え直すということは、一度死んで生きかえるにも等し
 い困難なことだったのです」「この点は命がけで思想し行動したものだけが知るところで、失礼な言い分ですが駆け出しのマルクス
 ・ボーイのいわゆる転向者などの到底理解し能うるところではありません。」
   以上摘記した言葉で明らかなごとく、彼は最初から自分の行動が猛烈な反国家的行動であることを承知していたのである。否すで
 に10数年前より真実の共産主義者、実践的な共産主義者としての信念と確信を持ち、胸中深く「世界共産主義社会の実現を目指し
 て」行動し、その前進の一里塚としてのソ連を死守し、日華事変も太平洋戦争も当然に日本が敗北に終わり、日本帝国主義の自滅と
 ともに日本の国家体制も天皇制も解体されることを密かに心に描きつつ、しかも対社会的には、進歩的な愛国者、支那問題の権威者
 、優れた政治評論家の名を以て自己の立場を偽装し、近衛公以下の政治上層部並びに軍部、政界、言論界を縦横に手玉に取ってきた
 のである。

 重ねて彼の言葉を借りるならば、「本当の意味の同志たるゾルゲ、宮城に対しては、常に友愛と誠実を以て付き合ってきたが、自分を最も苦しめたことの1つは普通の社会人として接してきた仲間の人々に対し、その好意と善意を裏切らねばならぬ立場に始めから立っていたことである。しかしこれらの人々は社会的には別個に陣営にある人々だから、それらを利用することはコミュニストとしての活動に当然内存するはずだ」と言い、共産主義革命実現のために、ブルジョア支配階級の陣営に属する人々をだますこと、利用すること、裏切ることはコミュニストとして当然の任務だというのである。さてこの尾崎は、この思想とこの信念を以てどんな活動をしたのであろうか。