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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義―②   平成26年10月19日 作成 五月女 菊夫


三田村武夫著 自由社
 前回までの内容
 
まえがき
 
序説  コミュニストの立場から
  1. コミンテルンの立場から
  2. 日本の革命をいかにして実践するか
 第1章 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
  1. 裏返した軍閥戦争
  2. コミンテルンの究極目的と敗戦革命
  3. 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想 ――尾崎秀実の手記より――

第2章 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
1.3.15事件から満州事変へ
●左翼旋風時代の出現
 3.15の戦慄
  いま40歳以下の人々には3.15事件と言ってもピンとこないであろうが、筆者は日本の現代史を回顧するとき、いつでも
 まずこの3.15事件を思い起こす。

  政治を動かすものは、その時代の社会の底に流れている思想であり、その思想が社会的な力に結集されたものであるとする
 ならば、この3.15事件こそ日本の政治に、したがって日本の歴史に大きな転機を作ったものと言えるであろう。

  昭和2(1927)年以来、ものすごい勢いで世界を襲った経済恐慌の嵐は、たちまちにして日本にも押し寄せ、経済界は
 深刻な不景気に見舞われた。農村は不況のどん底に喘ぎ、「子供を売って食う悲惨な農家が続出し、都市の中小商工業者には
 倒産者相次ぎ、失業者は街頭に溢れ出した。資本家階級は危機突破の非常手段として労働者の首切り、工場閉鎖を強行した。」
 したがってこれに対抗する労働者階級の組織的反抗闘争もまた必然に急速に起こってきた。マルクスの言葉を借りて言えば、資本
 主義制度の必然的な、末期的症状が現れてきたのである。かかる社会的な客観情勢が、階級的社会主義運動に大きな拍車を加えた
 ことは当然である。

  日本のいわゆる社会主義運動は、この頃まで、社会的に、政治的に、ほとんど影響力を持っていなかった。労働者階級の組合
 運動は、第1次大戦後のデモクラシー思想に刺激され、すでにかなりの域にまで発達していたが、しかしその運動形態はほとんど
 合法的な経済闘争に限られていたし、思想的な面から見た社会主義運動も、明治の中ごろからあるにはあったが、一部の限られた
 人々の書斎的な文化運動の域を出ていなかった。またロシア革命(1917年―大正6年)に刺激された共産主義運動も、大正10
 (1921)年の共産党、同12年の第1次日本共産党組織などあったけれども、社会的には大した指導力も影響力も持っていな
 かった。

  ところが大正15(1926)年6月徳田球一がモスクワから持ち帰った指令に基づき12月に結成された日本共産党は、
 かかる客観情勢を巧みに捉えて猛烈な非合法革命闘争を展開し始めた。当時勤労階級の政党として一番左にあった「労働農民党」、
 および最左翼の全国的労働組合組織として注目されていた「日本労働組合評議会」、ならびに青年層の戦闘的左翼団体として
 結成された「全日本無産青年同盟」の3団体は、ほとんど日本共産党の指導下に置かれ、経済闘争の面においても破壊的な戦術を
 用いた組織的ストライキの激発となり、政治的な面においては非合法的な暴力革命へと、その闘争形態が急速に起こってきた。

  日本共産党のこの闘争方針は、結党直後の昭和2年初め、党代表として密かにモスクワに渡った渡辺政之輔、徳田球一、福本和夫
 、佐野文夫、河合悦二、中尾勝男などがコミンテルンの批判を受けて同年11月に持ち帰った、いわゆる27(昭和2)年テーゼに
 よったもので、いきなりブルジョア政府を顚覆してプロレタリア独裁政権(共産党独裁)を樹立せよという労農革命戦術を採用した
 ものであった。すなわち国際資本主義の現段階を、マルクスの言う資本主義最後の段階たる金融独占支配の崩壊過程にあるものと
 規定し、日本資本主義の分析についても、「資本主義制度崩壊の前夜」と認識判断し、この崩壊の前夜にある日本資本主義の最後の
 支柱たる天皇制打倒を中心スローガンとした、プロレタリア革命突入への闘争を一挙に戦い取れと言うにあった。

  この情勢を密かに偵察していた内務省は、昭和3年3月15日未明を期して一斉に共産党関係の大検挙を敢行したのである。
 これが世に言う3.15事件であるが、この一斉検挙によって起訴収容されたもの530名(治安維持法違反―共産党加入者)に
 上り、取り調べを受けたもの5千数百名におよびその中には東京、京都の帝大を初め大学、高専の学生2千数百名があった。
 この事件は同年4月10日内務省、司法省両当局より発表され、同時に「労働農民党」「日本労働組合評議会」「全日本無産青年
 同盟」の3団体は、内務大臣より結社禁止処分を受けた。

  この事件の発表は、新聞に大々的に報ぜられ、街には号外が飛び、社会に一大衝撃を与えた。政治家は狼狽し、資本家は戦慄し、
 思想界にも大きな波紋を投じた。「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる。いや天子様をじかに拝むと目がつぶれる」と思っていた
 素朴な一般国民は、この天皇を倒して共産党の天下にしようという企てを持った者が、日本に何百人も何千人もいたことを知って
 目を回すほど驚いたのである。この事件は、長い封建の伝統に閉ざされてきた社会に、無警告で投下された原子爆弾であったとも
 言えるであろう。別な角度から見れば、確かに「新しい目」を開かれたのであったが、しかしこの3.15事件に始まった思想旋風
 こそ、日本の運命を決した軍閥政治へのスタートとなったことを見落としてはならない。

 一世を風靡したマルクス主義
  筆者は、この3.15事件の直後すなわち昭和3年6月内務省警保局の役人となり、ちょうど1年間図書課にいて左翼出版物の
 検閲をやり、それから保安課に移って約3年間特高警察の総元締のような仕事に携わってきたが、この時代はまさにマルキシズムの
 全盛期で、今もなお数々の思い出を残している。出版検閲の1年間毎日、合法、非合法の左翼出版物を机の上に山と積み、夜遅く
 まで頭の芯が痛くなるほど読み耽ったものだ。

  この頃の出版界は左翼物の洪水で、共産党の合法性が認められた今日の比ではなかった。どこの書店に行ってもマルクスの資本論
 全巻、マルクス・エンゲルス全集、レーニン選集、スターリン、ブハーリン全集の2組や3組ないところはなく、マルクス主義研究
 の全盛期であった。検閲方針も、戦時中のような無茶なことはやらず、天皇制否定と暴力革命の支持煽動を禁止標準にしていたの
 だから、天皇制の問題はともかくとして、暴力革命の支持煽動になるか否かの判定は相当困難な問題で、検閲事務も決して楽な仕事
 ではなかった。おかげで非常に勉強になったことを覚えている。

  しかしこの頃どうにも手を焼いたのは、共産党関係の非合法出版物であった。この非合法出版物には専門の書店があり、いくら
 禁止しても暴力革命を煽動する書物を無届けで次から次に出してくる。調べてみると、この種の非合法出版物は、特別の読者網が
 できており、発行と同時に5000部くらいたちまちにして売れてしまうから、残本の少々くらい押収され罰金を出してもまだ
 儲かるというのだから、手がつけられない。それほどマルキシズムが一世を風靡したのだ。この出版検閲時代に深い思い出話が
 1つある。昭和3年の夏、京都で天皇即位の大典が行われた頃のことであるが、ある日東京帝大RS(読書会―今日で言えば共産
 青年同盟の学内細胞のごときもの)発行のニュースを読んでいると、「ブルジョア支配階級の御用機関が、御大典記念映画と
 銘打ってつくった『維新の京洛』という活動写真がある。ためになる映画だからぜひ見てこい。ただしプロレタリア意識で観る
 ことだ!」という一節があった。そこで筆者は、役所の帰りにわざわざこの映画を観に入った。観ていると、新選組の隊長近藤勇が
 、深夜加茂川のほとりで維新の志士を斬る場面が出てくる。斬った近藤が愛刀虎徹を月明かりにかざし刃先をじっと見入っている
 ところへ、副長の土方が出てきて、「隊長、隊長の虎徹はよく斬れますなアー」と言う。すると近藤は、「うん、虎徹はよく斬れる
 、だが土方、わしは近頃、斬っても斬っても斬り尽くせない大きな時代の流れをしみじみと感ずる。徳川の世も、もう永くは
 あるまい!」と天を仰いで長嘆息する場面がある。この場面に来たとたんに、観衆の中から、「そうだ、ブルジョアの世ももう
 永くはない。プロレタリア解放の叫びは斬っても斬っても斬り尽せない大きな時代の流れだ!」と叫んだ者があり、この叫びに
 和して拍手と歓声がどっと捲き起こった。この時の印象は今もはっきり残っている。筆者も実はその頃毎日同じようなことを感じて
 いたのだ。いくら禁止しても、毎日毎日次々と机上に積み上げられる「革命へ――」の非合法出版物を見て、大きな時代の流れに
 圧倒されていく自分の姿を淋しく反省していたのである。

  3.15の大弾圧で一応壊滅したかに見えた日本共産党は、たちまち再建闘争を開始し、1年を出でずして全国的な組織を
 盛り返してきた。そこで内務省は翌昭和4年4月16日、再び全国一斉に共産党関係者の大検挙をやった。これがいわゆる
 4.16事件である。この検挙でも290何名かの起訴者を出したが、党再建闘争は執拗に続けられ、翌昭和5年にも2月以来
 約半年にわたって第3次大検挙が行われ4百数十名が逮捕された。

  そしてさらにこの再建闘争は、弾圧に抗して倦むことなく続けられていった。しかしその性格と方向は大衆化していく一面、
 拳銃、短刀を所持して官憲に対し、積極的攻勢に出る武装蜂起戦術さえ用いられ始めた。この傾向は当時社会を戦慄せしめた
 赤色テロから銀行ギャング事件にまで進んでいった。

 学内に喰い込んだマルクス主義
  東京、京都両帝大を初め、主として官立大学を中心とした学内のマルクス主義研究は、日本の共産主義運動に先駆的役割を果たし
 、その大衆化、普遍化のために、重要な指導的役割を演じたことを注意する必要がある。マルクス主義も共産主義も、周知のごとく
 精緻にして高度なる理論体系と科学性を持つものなるが故に、プロレタリア階級――労働者、農民の解放闘争の武器たらしめるため
 には、どうしても理論の把握が必要となってくる。そこに、この運動の初期におけるインテリ、マルクス主義者の歴史的な役割が
 あったのだ。これはいずれの国の共産主義運動にも見られる例であるが、日本においては、この学内のマルクス主義研究が極めて
 大きな役割を果たしていることを見逃してはならない。

  日本の学内社会主義運動は、大正7(1918)年東京帝大の新人会組織を先駆として急激に進展し、逐次全国の官私立大学、
 高等専門学校内に社会科学研究会が組織され、大正13(1924)年9月には全国的指導機関として「学生社会科学連合会」が
 結成された。この「学連」は、大正15(1926)年1月いわゆる「京大事件」または「学連事件」として最初の治安維持法
 違反者37名を出して、社会に大きな衝撃を与えた。筆者は、さきに述べたごとく昭和4年6月から7年1月まで内務省保安課に
 在職中、主としてこの学生社会主義運動の調査を担当しあらゆる方面から研究してみたが、その頃の学生社会主義運動の特色は
 マルクス・レーニン主義の理論と実践の合一を目標としたものであって、共産主義運動の有力な一翼として認識され、他のいわゆる
 無産階級運動に見らるるごとき右翼、中間、ないし左翼社会民主主義に属する警告のものが全く存在しないことであった。今手許に
 ある資料を一見してみると、昭和3年3月15日の3.15大検挙以来、日本共産党関係者として起訴された者が、同4年11月
 現在の統計で836名となっており、その中で学生関係者241名の多きを数えている。別な資料によると、昭和5年12月及び
 同6年1月の2ヶ月間に警視庁で検挙した共産党関係者172名、同6年5月及び6月の2ヶ月間に同様警視庁で検挙した286名
 のほとんど大部分が、18,9歳から24、5歳までの学生である。

  この学生の大量赤化に対して当時の学校当局は果たしてどんな態度をとっていたであろうか。たしか昭和5年の新学期開始直後の
 ことと記憶しているが、文部省で開催された全国大学、専門学校長会議に保安課長と2人で出席したことがあった。そのとき保安
 課長から学生運動取締りに関する内務省の方針について説明したところ、某大学総長から、「いま内務省の説明を聞いていると、
 どうもその方針が生ぬるいような気がする。色のついた学生は学校当局でも始末に困る。赤も桃色も灰色も区別する必要はない。
 全部警察に渡すから厳重に取り締まってほしい!」という意見が出て、筆者はその不見識と無責任に驚いたことがある。地方から
 集まってくる「特高情報」を見ていると、「捕えられて初めて警察の門を潜ったときは純真な1学徒であったが、3ヶ月、5ヶ月
 留置場で鍛えられ警察の門を出るときには、燃えるがごとき革命の闘士になっていた!」というような告白の文字をしばしば見る。
 学校当局は色のついた学生は全部警察に渡すから厳重に取り締まれという。警察署に留置して無慈悲な教育をやれば、燃えるがごと
 き革命の闘士となる。これが当時の偽りのない実情だった。

  京都帝大に在学中「学連事件」で検挙起訴された男爵石田英一郎は、治安維持法違反のほかに不敬罪という罪名がついていた。
 この不敬罪に問われたのは石田1人であった。彼の義兄は当時内務省の某高官、しかも本人は当時皇室の藩屏として特別の待遇を
 受けていた華族の当主である。親戚一同心痛して本人に改悔転向を懇請したが彼は頑として聴かなかった。 「僕はちょうど関東
 大震災の年、学習院にいた。毎日自動車で送り迎えされ学校に通っていたが、あの夏の暑い炎天で、泥まみれになり、裸で汗を流し
 て道路復興工事をやっている労働者を自動車の中から毎日見て通っているうちに、汗だくで働いている労働者に自動車のほこりを
 ぶっかけて通る自分にふと懐疑の念を抱き始めた。この大きな人間的な差別がどこから生まれたかに悩んだ。そしてその悩みの結果
 発見したのがマルクス主義だ。だからこの自分の信念は他人の入知恵や道楽からではない。誰が何と言っても曲げられぬ」と言って
 いた。こんな話はほかにもまだたくさんあったが当時どこへも誰にも発表されていない。したがって世間一般の者はもちろん知らな
 いし、政治家も政府の大官も知らない。赤い学生なんか警察にでも放り込んで打ったたけば性根が直るくらいにしか考えていなかっ
 たのだ。思想には思想を以て対抗することを知らず、政治は常に改めることを怠り、官僚は一切を秘密の中に閉じ込めてきたことが
 、日本の悲劇を生み出した1つの大きな原因となったと言えるであろう。

  当時の思想傾向についてもう1つ重要な問題がある。大正12~3(1923~1924)年頃から昭和4~5(1929~19
 30)年頃までの学生なかんずく官立大学学生の思想傾向ないし社会観を分析してみると、大体3つの型があった。

  その1つは、情熱を傾けて真理探究に没入する連中で、この部類に属する学生は概ね頭の良いひたむきな傾向を持っており、全学
 生の約3分の1を占めるが、マルクス主義に共鳴し実践運動にまで突入していく学生は大体この部類に属していた。

  第2は、いわゆる秀才型で頭もいいが、しかし冷静で利口で立身出世を人生の目標にしている連中だ。官立大学の学生は3分の1
 以上この部類に属する。その大部分が役人になることまたは大会社の社員になることを目的として大学に入ったのだから自分の出世
 の妨げになるようなことはしない。マルクス主義が思想界を風靡した時代であったから、その書物も読み一応の理論的把握もやるが
 、情熱を傾けて実践運動に飛び込むようなことはしない。しかし理論的には一応の理解を持っているから、思想的な立場においては
 同伴者的態度をとる連中である。

  第3は、別にはっきりした社会観も人生観も持たず、ただ学校を卒業するために学生となっている連中で、この部類に属する者が
 やはり大体3分の1であった。

  この3つの部類の内、第1の部類に属するもので共産主義に共鳴する者は、直ちに実践運動に飛び込んでいくからはっきりしてい
 るが、問題は第2の部類に属する連中である。この連中は頭もよく利口で打算的で処世術も心得ているから、学校を出て実社会で
 活躍するようになり役人にでもなっていると、時の流れに順応して共産主義の同伴者ともなり得るのである。この点に関しては
 第3章で詳しく触れるが非常に重要な問題である。

  以上述べてきたごとく、3.15事件をスタートとして共産主義運動にも弾圧政策を取り、大量の学生、青年および無産階級の
 指導者をいわゆる「鉄格子の中」で鍛えてきたのだ。いま正確な数字は手許にないが、昭和10年頃現在で転向者6万と称していた
 から共産党関係の疑いで警察の門を潜っただけの者も加えるならば、おそらく10万にも達しているであろう。しかしてここに問題
 となるのは、これらのいわゆる思想前歴者に対して歴史的考察を加えねばならないことだ。すなわち大正12,3年頃から昭和4,
 5年頃までに10歳から24,5歳くらいの年齢で、マルクス主義の洗礼を受け実社会に出たインテリ・マルクス主義者が、昭和
 12,3年すなわち日華事変勃発の前後から34,5歳ないし40歳前後の年齢に達し、政府官庁の中堅層を占め、民間諸機関の
 第1線に活躍していたとしたならば、後に述べるごとく、現状打破、革新、資本主義打倒、進歩的政策などのスローガンに呼応して
 大きな流れをなし、左翼革命謀略の同伴者的役割を果たすことも当然だったのである。

●動き出した右翼愛国運動
 発火点ロンドン条約問題
  昭和2年の経済恐慌は、マルクスの経済学説を借りるまでもなく資本主義の欠陥と弱点を暴露したものであることは間違いない。
 しかもこれは世界資本主義共通の性格である。そこでこの場合、資本主義反対の立場すなわち社会主義陣営の立場からすれば、前節
 で述べたごとく、資本主義制度打倒の革命闘争を強力に前進せしめることは当然であるが、資本主義擁護の立場からも何らかの打開
 策を講じなければならない。しかしてこの資本主義擁護の立場からする危機打開策には、従来からおよそ2つの方法があるとされる
 。その1つは財政の緊縮、消費の節約を徹底して、経済財政の基礎を健全化するいわゆる緊縮政策であり、ほかの1つは経済的破綻
 の打開策を外に求める方策、すなわち国外に植民地または市場を求めて進出するいわゆる帝国主義政策である。

  昭和2年の恐慌爆発当時、政局を担当していたのは若槻民政党内閣であった。この若槻内閣は民政党伝統の健全財政政策の立場か
 ら、恐慌対策についても消極的緊縮方策をとり、何ら実効の見るべきものがなかった。たまたま3月14日衆議院予算委員会におけ
 る片岡蔵相の失言問題に端を発し、市中銀行の取り付け騒ぎが起こり、この金融恐慌は一部の一流銀行を除いた全国ほとんど全部の
 銀行に波及し、若槻内閣はこの金融恐慌対策で枢密院と衝突し、ついに総辞職のやむなきに至った。

  若槻内閣に代わって4月7日成立した田中政友会内閣は、緊急勅令による支払い延期令、すなわちいわゆるモラトリアムの断行に
 よってこの金融恐慌を一応切り抜けはしたが、このモラトリアム政策は、預金者の損失によるものであり、その救済資金は国民の負
 担となり、農村その他中小商工業者に対する影響はますます深刻となっていった。

  この田中内閣は政友会伝統の積極政策を勇敢に押し出して、不景気打開の方策とし、組閣直後の昭和2年5月いわゆる東方会議
 なるものを開き、満蒙積極政策の断行を内閣の一枚看板とした。この田中内閣が東方会議の決議によってとりあげた満蒙積極政策
 こそ、軍閥政治のスタートであったことを忘れてはならない。田中内閣はこの満蒙積極政策を鳴りもの入りで宣伝し、国民の目を
 大陸に向け、国内資本主義の行き詰まりを一挙に打開せんとしたが、翌3年6月発生した張作霖爆死事件によって一頓挫をきたした
 のみならず、この張作霖爆死事件は翌4年1月再開の衆議院予算総会において、中野正剛の暴露戦術により徹底的に弾劾せられ、
 6月ついに内閣自体が崩壊してしまった。

  次の浜口民政党内閣は昭和4年7月2日成立、徹底した緊縮政策をとり、不景気内閣として有名であったが、その財政政策の本質
 はいわゆる金融資本擁護以外の何物でもなかった。ここで注意したいことは、この世界的な経済恐慌をめぐって国際政治の方向にも
 2つの流れがあったことである。それは田中政友会内閣、浜口民主党内閣の2つにおいて代表せられた性格と同様なもので、一方に
 は国内資本主義行き詰まりの打開策として、外に植民地、半植民地を求めて進出せんとするいわゆる帝国主義政策と、同じ資本主義
 の基盤の上に立っても緊縮政策によってまず金融資本の再建強化を図り、これにおいて資本主義経済組織の再出発を図る行き方と
 2つあったことである。この2つの面が絡み合い、一方では帝国主義政策の裏づけとして軍備拡張競争があり、一方ではまた金融
 資本の擁護の立場からする軍備縮小問題が、国際政治の大きな課題となったのである。

  この国際情勢のもとに、昭和5年ロンドンで開催されたのが海軍軍縮会議であった。この会議に日本側から出席したのは首席全権
 若槻禮次郎、海軍側全権財部海軍大臣であった。しかしてこのロンドン条約問題は俄然政界軍部の論議の焦点となり、時の海軍軍令
 部長加藤寛治、次長末次信正を中心とする艦隊派は、国防を危うくするものと猛烈に反対し、全国民に呼びかけるなど問題は重大な
 る政治問題化してきた。浜口内閣はこの反対論を押し切って7月22日条約に調印したが、ここで俄然問題化したのはいわゆる統帥
 権問題である。すなわち、軍部側は憲法11条の統帥大権とともに同12条の編成大権もまた統帥事項なりと主張し、浜口内閣が
 軍部の反対を押し切ってこの条約に調印したのは統帥権の干犯だといきまいたのである。これに対し浜口内閣は、憲法12条の編成
 大権すなわち兵力量の決定その他軍備に関する編成大権は国政の範囲に属するもので、その輔弼の責任は政府にあると主張したので
 ある。このとき政府の立場を擁護して立ったのが、憲法学一方の権威として知られていた美濃部達吉博士である。この美濃部博士の
 憲法論が後に国体明徴運動の導火線となったことは周知のとおりである。

  前にも述べたごとく筆者は、この頃内務省警保局におり、治安関係の事務を担当していた関係から当時の雰囲気をよく承知してい
 るが、若槻、財部両全権帰朝の際は、その身辺すこぶる危険で厳重な警戒を加えたものである。5月19日財部全権が東京駅に着い
 たときなど「売国奴全権財部を弔迎す」「国賊財部を抹殺す」などのビラがまかれ、浜口内閣もまた一部のいわゆる愛国主義陣営か
 らは売国内閣なるがごとく見られていた。

  このような雰囲気であったために内務省、警視庁でも浜口首相初め若槻、財部両全権の身辺は常に厳重な警戒を怠らなかったが、
 11月14日午前8時50分、旅行のため東京駅に現れた浜口首相は佐郷屋留雄の狙撃を受けついに倒れた。この佐郷屋は岩田愛之
 助の主催する愛国社に身をよせて、浜口内閣打倒の運動に加わっていた青年であったが、この愛国社の綱領は、大陸積極政策推進と
 、共産主義排撃を掲げ、社会不安の原因を浜口内閣の緊縮政策にありとして、倒閣運動に奔走していたものである。しかしてこの
 浜口首相の暗殺は、前年3月5日神田の龍名館に止宿中の労農党代議士山本宣治暗殺事件とともに昭和の政治的テロ事件の先駆とな
 り、また美濃部機関説問題から発展した国体明徴運動と絡み合って、軍部ファッショへの道へ一脈通じて行くのである。

 志士「青年将校」の出現
  深刻な経済恐慌の中に芽生えたものが、資本主義の悪に対する認識であったことは否定し難い事実である。浜口内閣の緊縮政策は
 、金融資本擁護のためにする特権政治だという非難と、一般国民の経済的現実を無視した財閥擁護だという攻撃が、地方農村に急速
 に高まってきた。事実浜口内閣による金輸出解禁を中心とした緊縮政策は、農産物価格の急激な値下がりとなり、農村の不況はます
 ます甚だしく、殊に東北地方の農村は目も当てられぬ惨状を呈すに至った。

  ここで注意したいことは日本軍隊なかんずく陸軍の構成である。日本の陸軍は貧農小市民の子弟によって構成され、農村は兵営に
 直結していた。将校もまた中産階級以下の出身者が多く、不況と窮乏に喘ぐ農村の子弟と起居をともにし、集団生活をする若き青年
 将校に、この深刻陰惨なる社会現象が直接反映してきたのもまた当然である。ここからいわゆる志士「青年将校」の出現となり、
 この青年将校を中心とした国家改造運動が、日本の軍部をファッショ独裁政治へと押し流していく力の源泉となったのであるが、
 この青年将校の思想内容には2つの面があることを注意する必要がある。その1つは建軍の本義と称せられる天皇の軍隊たる立場で
 、国体への全面的信仰から発生する共産主義への反抗であり、今1つは小市民層及び貧農の生活を護る立場から出発した反資本主義
 的立場である。従って青年将校を中心とした一団のファッショ的勢力が共産主義に対抗して立ったのは、共産主義の反国体的性格に
 反対したものであって、共産主義が資本主義打倒を目的とするからけしからぬというのではない。すなわち、日本軍部ファッショの
 持つ特殊の立場は、資本主義擁護の立場にあるのではなく、資本主義、共産主義両面の排撃をその思想内容としていたところにある
 。この思想傾向は後に述べるごとく、最後まで共産主義陣営から利用される重要な要素となったことを見逃してはならない。

  しかして、このいわゆる青年将校の反共産主義、反資本主義の思想的背景は、北一輝、大川周明の国家改造、維新革命論に刺激さ
 れたものであることは周知のとおりであるが、この北、大川を中心とする青年将校との結合はやがて井上日昭、橘幸三郎のテロリズ
 ム、農本主義とも結び、少壮軍人の国家革新運動に強烈な拍車を加えたのである。その頃の青年将校がいかなる思想を持っていたか
 を、昭和5年4月、仙台教導学校の大岸大尉などによって秘密に発行された「兵火」第2号について見てみよう。

 行動綱領
  1.東京を鎮圧し、宮城を守護し、天皇を奉戴することを以て根本方針とす。このゆえに陸、海、国民軍の三位一体的武力を
   必要とす。
  2.現在跳梁跋扈せる不正罪悪――宮内省、華族、政党、財閥、赤族などなど――を明らかに摘出して国民の義憤心を興起
   せしめ、正義戦闘を開始せよ。
  3.敵と味方とを明らかに区別し、敵陣営の分裂紛糾を起こさすべし。躍進的革新を信ぜざる者のごときはすべてこれを排す。
  4.陸、海軍を覚醒せしめるとともに軍部以外に戦闘的団体を組織し、この3軍は鉄のごとき団結をすべし。
  これ結局はクーデターにあるがゆえなり、最初の点火は民間団体にして、最後の鎮圧は軍隊なるを知るべし。
 と言っている。この一団は憲兵隊によって弾圧されたが、この思想は5.15、神兵隊、血盟団、2.26事件へと行動化されてい
 くのである。

 バイブル「日本改造法案大綱」
  北一輝が日本革命史の中に果たした思想的役割は大きい。彼の思想は日本軍部の国家改造運動の源流となり、同時に後に至っては
 左翼革命の思想的同伴者ともなった。彼は早大聴講生のとき、歳未だ20歳にして「日本国体論」を書いた天才的人物で、次いで
 23歳のとき書き上げた「国体論および純正社会主義」の中に、既に彼の革命的思想体系が芽生えている。この著書は発禁処分と
 なったが、彼は29歳にして単身中国にわたり、第1革命に投じた。その経験から書き上げた「支那革命外史」は青年将校の間で
 熟読されたものである。彼は日本領事館により3年間在留禁止処分を受け、内地に帰っていたが、大正5年再び上海に渡り、そこで
 書き上げたものが「日本改造法案大綱」である。

  北一輝の「支那革命外史」を読んだ大川周明は、彼の思想に大いに共鳴し、大正8年わざわざ上海に出かけて北を向かえ、日本に
 持ち帰ったものが「日本改造法案大綱」である。ここで北、大川の握手となり、大正9年両者によって猶存社が結成され、機関誌
 「雄叫び」を発行して、実際運動に入った。この「雄叫び」によって宣言された思想の一端を窺ってみよう。

  「我々日本民族は、人類解放戦の旋風的渦心でなければならぬ。よって日本国家は、我々の世界革命思想を成立せしめる絶対者で
 ある。日本国家の思想的充実と戦闘的組織とは、この絶対目的のための神そのものの事業である。家は倫理的制度なりと言いしマル
 チン、ルーテルの理想は、今や日本民族の国家において実現されんとする。眼前に迫れる内外の険難危急は、国家組織の根本的改造
 と国民精神の創造的革命を避けることを許さぬ。我々は日本そのもののための改造または革命を以て足れりとするものではない。吾
 人は実に人類解放戦の大使徒としての日本民族の運命を信ずるが故に、まず日本自らの解放に着手せんと欲する」と言っている。

  また「日本改造法案大綱」では、
   1.天皇を奉じて速やかに国家改造の根基を全うするために、3年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く、
    そのためにはクーデターを断行する。
   2.戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、この国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を
    討議することを得ず。
   3.国民一般の所有すべき私有財産は100万円を越えることを得ず。
   4.私有財産限度の超過額は無償を以て国家に納付せしむ。
   5.資本家の財産徴収に当たっては2,30人の死刑を見れば天下ことごとく服せん。
   6.上の実践管理は在郷軍人団を以て行なわしめる。
   7.日本国民一家の所有し得べき私有土地限度は時価10万円とす。
   8.上を超過した土地の徴収機関は在郷軍人団を以て当たる。
   9.私人生涯制度の限度を資本1000万円とす。
  10.労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は8時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは
    別に法律に定めるところにより労働省これを裁決す。
  11.婦人の労働は男子とともに自由にして平等なり。
  12.国民教育の期間を満6歳より満16歳までの10ヵ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し、第2国語とす。  
  13.帝国主義戦争を肯定する理論の展開。
  14.上の法案は日本民族の社会革命論と自負す。
  この「日本改造法案大綱」は青年将校のバイブルとなり、次に述べる3月事件、10月事件の思想的理論的根拠となり、いわゆる
 錦旗革命論の裏づけとなっている。

●満州事変へ
 軍閥政治へのスタート、満蒙積極政策
  満州事変への歴史的背景は、先にも一言した昭和2年の東方会議に遡らなければならない。この東方会議によって決定された
 いわゆる満蒙積極政策は、経済危機打開のための方策としてとられたものであることは前にも述べたが、この田中内閣の方針は
 当時の満州の主権者張作霖に対し、時の奉天総領事吉田茂から武力的決意を裏づけとして通告されたものである。他国の領土内に
 権益を求め、武力を背景としてその進出を計画し、これを強行することは正に典型的な帝国主義である。張作霖はかつては日本
 軍部庇護のもとに満州の実権を握った風雲児であるが、その頃彼は英米依存に乗り換えんとする傾向を見せていた。したがって
 彼は、この田中内閣の満蒙に対する野心をなすままに受け入れるはずがない。田中内閣はしばしば恫喝を試みたが事態は何らの
 進展を示さず、よく昭和3年6月4日突如張作霖の爆死事件となった。ところがこの張作霖爆死事件は日本陸軍の計画的犯行なりと
 世界は見たのである。当時田中内閣はその冤罪であることを弁明これつとめたが、後にいたってこの事件の計画者、関東軍高級参謀
 河本大佐は「あのとき自分が計画した緊急招集ができておったならば、満州事変はあのとき起こり、満州国もまたあのときできて
 いたであろう」と語っている。すなわちこの張を倒せば満蒙積極政策は思うままになるという計画だったのである。

  ここで筆者は本編の冒頭に戻り、この昭和2,3年を左右両面からその歴史的意義を回顧してみたい。すなわち左の面から見た
 とき、日本資本主義の最後的崩壊過程と見たコミンテルンが、日本共産党に対して労農革命の大衆闘争を指令した27年テーゼが
 昭和2年であり、この27年テーゼによる日本共産党の革命闘争に対し、弾圧の火蓋を切ったのが翌年の3.15事件である。この
 歴史的な符節は決して単なる偶然ではなかったことを我々は後において知るのである。

  この東方会議によってスタートした満蒙積極政策、張作霖爆死事件によって行動に移された大陸積極政策に対して、真正面から
 反撃して立った当時の野党民政党の闘将中野正剛は、その著「田中外交の惨敗」(昭和3年12月17日発行)の中で次のごとく
 述べている。

  「今や日支両国の関係は相互の国民的憎悪にまで深入りしている。これは独り帝国の不祥たるのみならず、新国家創生期にある
 隣邦の不幸であり、同時に東洋全体の不幸である。しかしてかくのごとき悲しむべき事態を招来したのは単に局部的特殊問題による
 のではなく、そもそも田中内閣の現代史に関する認識不足と政治道徳観念の欠乏とに職由する」

  「何を以てこのように言うのであるか、曰く、田中外交なるものの本質が、今日の発展過程における支那の軌道に逆行する露骨な
  る反動思想に出発しているからである」

  「現内閣は組閣当初、満蒙に対する積極的進出を高唱力説した。国民は田中内閣があたかも乾坤一擲の決心によりて、満蒙問題の
  徹底的解決を断行するものなるかに教えられた。支那はまた田中内閣の慌しき積極強硬政策の宣伝に驚き、満蒙に対する日本の進
  出が経済的性質以上の何物かを有するものなりと危惧するに至った」

  「この排日熱を呼び起こしたるものは、東方会議以来現内閣が連発したる大言壮語である。畢竟現内閣は早急なる満蒙積極政策の
  宣伝によりて国際的警戒網を張り、自らその網にかかって順当なる対支発展の翼まで打ち落とされたのである」

  「吾人は最初から山東第2次出兵が支那の国民思潮の動きと相反発することを認識した。ゆえにその収拾いかんにおいては、それ
  が重大なる排日運動として展開すべき危険性あることを力説した。しかるに不幸にして眼前の事実は、吾人の予測の誤りなきを立
  証している。現内閣はあらゆる機会において、排日恐るるに足らずと力説した。実に今回見るところの日支関係の全体的背離の大
  半的原因は、現内閣の自称強硬政策に存在する。しかしていわゆる強硬政策出立の根拠は、一半は支那国民運動の本質に対する無
  理解に存し、一半は排日の影響に対する重大なる誤算にある」

  「支那の現代精神は国民党を通じての国民主義完成運動を中心として、全支那に躍動しつつある。国民党の革命運動は今日忽然と
  して始まったのではなく、実に日清戦争後35年間の歳月の間に、漸次浸潤して今日に至ったものである。否80年前の阿片戦争
  以来、列国の刺激に促されて漸次に馴致せられた産物である。」

  「吾人の見るところによれば、国民党の運動は、支那の近世的環境が生んだ当然の歴史的発展である。国民運動の風潮は国民政府
  内部の動揺いかんにかかわらず、決してその進行を止めぬであろう。国民政府の下に支那の統一が成立する日は予期し難いにせよ
  、畢竟かくなることが実際の傾向である。しかしてかくのごときは独り日本帝国の利益の擁護と衝突せざるばかりでなく、反対に
  支那が統一される日こそ日本と支那との全国民的握手によって、相共に世界的文化の発展に寄与すべきときである。日本の利益が
  支那の統一と矛盾すると解するがごときは、自信の欠乏から生ずる幻影である。吾人は満州における日本の特殊の権益を不自然に
  破壊せんとするものは、その支那自身たると第3国たるとを問わず必ず失敗することを疑わない。支那の統一と文化とは満州に
  おける諸種の懸案の解決には必要の条件である。何となれば日支交渉は支那の主権と日本の主権との間にフェア・プレーとして
  行なわねばならぬからである。現内閣の対支政策は、結果から見れば日支両立し難しとの偏見に出立しているかに見受けられる。
  しかしながらこれこそ誤謬中の最大なるものである。概して言えば支那は農業国である。支那の統一が迅速であればあるほど日本
  の商品はその販路を拡大し得るのである。しかして支那が粗工業国となるとき、日本は精工業国となるべきである。実に支那を
  始めとして、アジア諸国の政治的解放は、日本の不景気問題解決の重要なる鍵である。かかる意味において吾人は支那の排日運動
  には自らある限度あるべしと信じている。現内閣は排日恐るるに足らずと称して、遂にその馬脚を現した。吾人は率直に支那の
  排日は日本の名誉と実益とを害するのみならず、東亜全局の疲弊を誘致するものなるがゆえに、かくのごとき陰鬱なる運動はある
  場合両国の国民的闘争の端緒たり得ることを告げて、支那の節制を望まざるを得ない。陰謀的手段はいずれにせよ今日の日支関係
  整理のために最も迂遠なる劣策である。全国民的握手かしからずんば全国民的闘争の二途あるのみである。しかるがためには、
  両国の為政者にはあくまで公明なる態度と友誼とを必要とする。誠意なき現内閣の下において、対支外交の収拾を図ることは、
  今や全く絶望である。」

   中野正剛の予言は不幸にも的中した。日本は東亜全民衆のために選ぶべき日華全国民的握手の道をたどらず、逆に全国民的闘争
  の道へと突入し全東亜史上に未曾有の悲劇を生み出したのである。

 皇軍自滅へのスタート、3月事件
  田中内閣によって踏み出された大陸進出計画は、張作霖爆死事件によって頓挫を来たし、同内閣の後退と共に一応停滞の形におか
 れていたが、陸軍を中心とした大陸への野望は決して捨てられたわけではなかった。すなわち先に一言した、ロンドン条約問題を
 発火点とする統帥権干犯問題と兵力量不足の叫びは、少壮軍人を刺激し、政界にも大きな波乱を呼び起こした。その動力となったの
 は政友会の幹事長森格であり、これに拍車をかけたのは枢密院の平沼騏一郎であった。このことがやがて陸軍の少壮将校の間に、
 満蒙問題の解決と国内改造すなわち国家革新を不可分の問題として取り上げしむる政治的統合線となり、一部少壮将校の間に同志的
 結合を生み出すにいたった。この少壮将校の同志的結合として最も中心的な存在をなしたものが当時参謀本部のロシア班長橋本欣五
 郎(中佐)と、中国班長根本博(少佐)を中心に組織された桜会である。

  この桜会は発足当時加盟者20名と称されていたが、昭和6年5月頃には会員約150名と言われていた。

  会は綱領として「本会は国家改造を以て終局の目的とし、これがため、要すれば武力を行使するも辞せず」と言い、また会員の
 資格として「現役陸軍将校中、中佐以下の者にして国家改造に関心を有し、私心なきものに限る」と想定し、目的達成の準備行動と
 して「一切の手段をつくし、国軍将校に国家改造の必要なる意識を注入し、また国家改造のための具体案を作成する」ことが目的だ
 と言っている。

  この陸軍内少壮将校の国家改造への行動的計画を、軍首脳部が政治的野心のために利用し、青年将校はまたこの軍首脳部を利用し
 、国家改造計画を実現せんと計画したものがいわゆる3月事件である。この3月事件の内容につき、2.26事件(昭和11年)の
 被告村中孝次が宇田川刑務所内から検事総長宛提出した告発状には、次のごとく書かれている。
  「陸軍大将 宇垣一成(当時陸軍大臣)
   陸軍中将 二宮治重(当時参謀次長)
   陸軍中将 小磯国昭(当時参謀本部部長)
   陸軍中将 建川美次(同)
   陸軍少将 重藤千秋(参謀本部課長)
   陸軍砲兵大佐 橋本欣五郎(同)
   陸軍歩兵少佐 田中清(陸軍省課員)
   法学博士 大川周明 清水行之助
 などは宇垣一成を首班とする軍政府を樹立し、戒厳令下に軍中央部の抱懐する国策を遂行せんと欲し、昭和6年2,3月頃相結んで
 陰謀画策し、着々その準備を進め3月某日、当時開会中の議会における重要法案上程の日を期して、大川周明の主催を以て国民大会
 を開催し、これに集会せる民衆を煽動して議会に殺到せしめ、一方帝都衛戍部隊の一部に命じて「行軍中の休憩」と詐称してあらか
 じめ議会付近に招致しておき、上記の民衆殺到するやこれに対し議会を擁護すべき任務を与えて議会を包囲せしめ、武力を持って
 議員を強要し、総辞表を捧呈せしめ、政変を誘致しかつ宮中工作の強行によりて次期総理の大命を時の宇垣一成に降下せしめんと
 せり。

  しかして戒厳令下にその政策を強行せんがため、清水行之助など民間人浪人に爆薬300個を与え、帝都各所においてこれを
 爆発し、騒擾を惹起せしめ、以て戒厳令宣布の事態を誘致せんとせり。

  本事件は国民大会に予期の成果に挙げ得ざりしなど、実行上に齟齬蹉跌のため未然に終了せるものなり。」

  またこの事件の内容につき、事件関係者の1人田中清少佐はその手記の中で次のごとく述べている。
  「2月7日午後3時過ぎ、品川にある重藤大佐宅に集合す、重藤大佐以下協議の結果破壊計画を策定す。その大要以下のごとし、
   1.近く大規模に無産三派連合の内閣糾弾大演説を日比谷において開催し、倒閣の気勢を高揚す。かつ議会に向かいデモン
    ストレーションを行ない本格的決行の場合の偵察的準備を行なう。
   2.労働法案上程の日、破壊政権奪取を決行す。この日政友、民政両党の本部、首相官邸を爆発す。ただし爆弾は爆声の
    大なるも、殺傷効力なきものを使用す。投弾者は大川博士の腹心の子分。
   3.大川博士の計画による1万人動員を行ない、八方より議会に向かいデモを行なう。各縦隊の先頭には了解ある幹部を
    配置し、統制をとる。また各縦隊には、抜刀隊を置き、必然的に予期せられる警官隊の阻止を排除す。
   4.軍隊は非常招集を行ない、議会を保護するとしてこれを包囲し、内外一切の交通を遮断す。
   5.この情勢において某中将は小磯、建川少将のいずれかの1名以下数名の将校を率い、議場に入り各大臣に対して「国民は
    今や現内閣を信任せず、宇垣大将を首相とする内閣のみ信頼す。今や国家は重大の時期に会す。宜しく善処せらるべし」と
    宣言し、総辞職を決行せしむ。
   6.幣原首相代理以下辞表を提出せしむ。
   7.大命は宇垣大将に降下するごとく、あらかじめ準備せるところに従い策動す。」
 
  また大川周明は5.15事件(昭和7年)の裁判法廷でこの3月事件につき
   「国民は政党政治に対し明らかに愛想尽かしているから国民的デモをやり、後の始末は軍隊でしようとする計画であった。
   この話は2月下旬のことであるが、決行は3月20日を期してやることにした。当時部内でもいろいろ話があったが部下には
   計画はやめたと言いふらし、私と小磯の2人で一切の準備を進めた」と述べている。この計画は徳川義親の知るところとなり、
   徳川と大川の了解によって実行に移されず終わったと伝えられている。

   当時内務省の警保局にいた筆者は、特高の秘密情報網から、陸軍内部の「桜会」を中心とした不穏計画を警保局首脳部も知って
   いたことを承知していたが、こと軍部に関する事件であったのと、事件の中にどこからか宮様の名が出てきたりして警察では
   どうにもならず、安達内務大臣始め首脳部はずいぶん苦労したらしいことを記憶している。未遂に終わった裏面には徳川義親の
   奔走だけでなく、安達内相あたり何らかの手を打ったのではないかと筆者は想像している。

 満州事変へ
  3月事件は失敗したが、動き出した軍部および政治軍人の国家改造計画はこの失敗によって挫折したのではない。のみならず、
 この陸軍少壮将校を中心とした国家改造への動きはこの3月事件を契機として、政治的野望へと発展していった。すなわちこの
 軍部内の動きに着目したのが時の政友会幹事長森格である。そして森格を中心として軍部内政治軍人と、民間右翼の総帥大川、井上
 などの連繋がなり、満州事変へと急速に行動化されていった。大川はこの3月事件を回顧して、この事件の中から3つのことを学び
 得たと言っている。すなわち軍の首脳部も政党政治に飽き足らず国家改造の意思あることを知り得たこと、但し年寄りには勇気と
 決断がなく、結局下から引っ張っていかなければ事は成就しないということを学んだというのである。ここからいわゆる軍の下剋上
 が始まるのだ。3月事件から満州事変への経緯を田中少佐はその手記の中で、次のごとく言っている。

  「8月4日橋本中佐に会ったとき、同中佐は吾に言う『本年9月中旬、関東軍において1つの陰謀を行ない、満蒙問題解決の機会
 を作るべく、国内はこれを契機として根本的改変を敢行せらるべきなり』云々と、しかも国内改造問題は参謀本部首脳部に十分了解
 ありと。さらに同中佐は言う。『かくのごときを以て軍部に政権の来るべき、更に言えば軍部が中心となり政権奪取のための計画案
 を9月初旬までに構成せられたし、政綱、政策は政権奪取後において攻研立案する』云々と」

  また大川周明は
   「36年に備えるために満州を取り入れて、長期戦に堪えねばならぬという主張のもとに、まず満州問題を解決せねばならぬ
   との空気が漂っているが、これがため軍の中央においては重藤、橋本、関東軍においては板垣、花谷、土肥原、民間の丸腰では
   私と河本が計画を参画した。かくて9月18日事変となり、中国側が自ら求めてあの結果を招いたことになった次第であるが、
   本庄司令官は9月18日事変がまことに臨機応変手際よくやったと喜んだが、何ぞ知らん、ここまでに至るには周到なる準備、
   計画、連絡が巡らされていたのである。

   次に、事変に処すべき第2段の方針につき考えたのであるが、この方針については、6部だけ刷って各自が持つこととなった。
   一体日本の国政がこの体たらくで自分の政治を消化しきれぬ胃袋の持ち主であってみれば、その後満州をいかにするかに思い
   至るとき必然的に国内改造断行の気運が認められる。3月事件があの結果になったので今度は上官に知らせずにやろうという
   ことであった。よって中佐を中心とした5人が一切の計画を立てた。攻撃目標と担当者も決めた」
   (5.15事件公判廷における陳述)

  かくして3月事件から満州事変へ、満州事変からいわゆる錦旗革命事件すなわち10月事件へと発展し、軍部独裁政治への
 強固なる基礎を築き上げていった。

2.満州事変から日華事変へ
●軍閥独裁への動力
 政治軍人の革命思想
  兵営に直結した貧農小市民の惨状をそのままくみあげて起こった純真な若き青年将校と、その青年将校の組織的行動の上に乗って
 政治革命を計画する少壮中堅将校と、その少壮青年将校の圧力を利用して自己の政治的欲望を達成せんとする野心的軍首脳部と、
 さらにこの軍首脳部の新しい動きと結んで中央政治の実権を握らんとする野心的政治家と、この軍部および政治家を動かして自己の
 抱懐する思想を実現せんとする民間右翼思想家が、それぞれ異なった内在的意図を「愛国」「革新」「国策遂行」の名によって結び
 、遂に満州事変という「国家と不可分」の事態にまで押し進めていった。
  この新しい動きの思想内容と政治目的についてはすでにしばしば触れてきたが、ここにそれを要約分類してみるならば、
   1.政党、財閥、資本家、特権階級を打倒し、天皇を中心とした一種の社会革命を断行する。
   2.政治の指導権を軍部組織の上に置く。
   3.満蒙積極政策を中心とした大陸進出計画を強力に実行する。
   4.思想的には共産主義を排撃すると共に、資本主義にも反対する。
   5.行動的には軍部の実力を背景としたクーデターすなわち暴力革命の手段 をも辞さない。
 ということになる。この陸軍少壮軍人を中心とした革命思想がいかなるものであったかを、前の3月事件に続いて計画されたいわゆ
 る10月事件(錦旗革命事件)につき一瞥してみよう。

  先に引用した田中少佐の手記は10月4日夜、この事件の中心人物長少佐、参謀本部の田中大尉、小原大尉と会見した際の模様を
 次のごとく述べている。

   「彼らは言う。今や国内変革決行せらる。陸軍省、参謀本部を始め、近衛第1師団などすべて国内変革に向かって準備中、海軍
   またしかり、まずクーデターにより、政権を軍部に奪取して独裁制を敷き、まず政治変革を行なう。桜会は中心となりて活動中
   」などの件を以て我に参加を要求せり、なお彼らは加えて言う。

   「満蒙事件勃発以来、連日連夜努力し、帰宅せることわずかに2,3回のみ、参加して計画に助力せられたし」と。

   我は事の意外に驚けり、以下我と彼との談論の一部を掲ぐ。

  問 国内変革に軍部の中枢が参加するとせば、おそらくその企図する未来社会建設のための主義、綱領、政策は存在せん、いかなる内容のものなるや。
  答 秘密にして示し得ず。我らもまた詳しくは知らず。
  問 君ら事件発生以来、日夜画策するところのものは何の計画なりや。
  答 破壊計画なり。
  問 破壊計画は、建設計画出来上がり、その範囲において作るべきもの、すなわち両者は一貫せる思想に従うべきものに非ずや。
    建設計画を明らかにせずして破壊計画は不合理ならずや。
  答 建設計画はほかにおいて立案中。
  問 他とは。
  答 大川周明博士を主体とせるところの一派。
  問 大体においていかなる破壊を行うや。
  答 海軍爆撃機による威嚇、首相官邸における閣議の席上において、大臣全部の斬殺、警視庁の急襲奪取。
  問 何のためにこれらの破壊を必要とするや。
  答 元凶の一層のために必要なり。
  問 かくのごとき破壊により、国内改造は可能なりや。
  答 政治の中枢を破壊することにより、変革はでき得る。
   次いで田中少佐の手記は、計画の全貌を次のごとく述べている。
    1.決行の時期は10月21日、ただし日中に決行するや、払暁とするやは一に情況による。
    2.参加将校――加盟将校、在京者のみにて約120名
    3.参加兵力――近衛歩兵連隊より、歩兵10中隊、MG1中隊、歩一、歩三より約1中隊、ただし夜間決行の場合は3GI
     はほとんど全員、参加兵力、大川に私淑せる中隊長は1中隊全部をもって、また西田税に血盟せる将校はほとんど所属中隊
     全員を以てす。
    4.外部寄りの参加者――大川周明博士およびその門下、西田税、北一輝の一派、海軍将校の抜刀隊(横須賀より)約10名
     、霞ケ浦の海軍爆撃機13機、下志津より飛行機3,4機
    5.実施
     ア.首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下の斬殺、長少佐を指揮官とす。
     イ.警視庁の急襲占領、小原大尉を指揮官とす。
     ウ.陸軍省、参謀本部の包囲、一切外部との連絡を遮断、ならびに上司に強要して同意せしめ、肯ぜざるものは捕縛す。
      軍行動に対する命令を下す。
     エ.同時に宮中には東郷元帥参内、閑院宮殿下、西園寺公には急使を派す。
     オ.新内閣の氏名
      首相兼陸相  荒木中将(荒木中将には無断)
      内務大臣   橋本欣五郎中佐
      外務大臣   建川美次中将
      大蔵大臣   大川周明博士
      警視総監   長勇少佐
      海軍大臣   小林少将(霞ヶ浦航空隊司令)
     カ.その他我らの見て不良将校、不良人物に対する制裁
     キ.資金――金20万円は随時使用し得るごとく準備しあり。
   と述べているが、大川周明博士は、
    「計画は一挙にして現政府を覆すことにあった。時期は、10月22日か3日にやることになっていた。16日ばれたことは
    事実だが、延々になったのは砲工学校の生徒が、演習に行き留守であったりしたためであった。私の任務は新聞社に赴き、
    この事件につき不利な記事を書かぬようにすること、本部に出すべき一間四方もある旗に『錦旗革命本部』と大書すること
    くらいであった。80人の兵が私に分配されることになっていた。」
    裁判長「ばれた原因につき述べよ」
    「――あとから聞いたのであるが、同志の一人で、しかも重大な役割を務めた人が、計画不利を悟って自分の上官に内容を
    打ち明けたことにあろうと思う。かれはしゃあしゃあとして憲兵隊に行ったが、事件の始末などまことに手際よくやったので
    、これを知ることができる。なおこの人は軍人の面目にかかる一身上の事件のあったとき上官から特別な恩寵も与えられてい
    た。」
   と言っている。

   以上でこの10月事件の計画内容と思想傾向が明らかにされたが、この事件が未遂に終わったことも、大川周明の言うごとく、
  内部からの裏切り、密告だけではなかったであろうことを筆者は承知している。

   先に述べた3月事件から、満州事変への行動に関し、内務省および警視庁は、警察情報の線から相当詳しい事実を知っていた。
  この問題について最も悩んだのは、当時の内務大臣安達謙蔵で、事は現役軍人であるだけに、直接手を下すこともできず、何らか
  の政治工作をやったであろうことは窺うにたる情勢にあった。このことは当時270名の絶対多数を擁して政権を握っていた民政
  党から、安達謙蔵およびその一派とみられていた中野正剛が脱退し、政友会の久原房之助などと連携して強力内閣論を唱え、政党
  の政治力を強化して、軍部の政治攻勢に対抗せんとしたその行動にも表れている。なおこの10月事件に関する情報を筆者も当時
  警保局において見たことがあるが、前の3月事件と同様に、どこから出たものか計画の中に宮様の名前なども持ち出され、全く処
  置に窮したことを記憶している。

  日華事変への足どり
   以上述べてきたところで軍部、特に陸軍の政治軍人を中心とした日本の政治動向が、満州事変を行動の出発点として、ほとんど
  決定的な方向に進んできたことがほぼ明らかとなった。以下日華事変への足どりを簡潔にひろってみよう。
   1.血盟団事件
     若槻民政党内閣は、昭和6年12月総辞職し、犬養政友会内閣となり、金輸出再禁止など積極的な手を打って政界の雰囲気
    を一新し、満州事変の解決に積極的に乗り出したが、翌7年2月9日午後8時頃、前蔵相井上準之助が本郷駒込小学校におけ
    る駒井重次の応援演説に赴き、1青年小沼正に暗殺された事件が持ち上がった。小沼は「国賊」と叫んでピストルで射殺した
    のである。続いて3月5日午前11時少し過ぎ、三井合名の理事長、男爵団琢磨が三井銀行の玄関で射殺された。この2つの
    暗殺事件は、井上日照を盟主とし、東京帝大学生4名、京都帝大学生3名を含む14名からなるいわゆる血盟団が、1人1殺
    主義により、元老西園寺公望を始め、重臣、政党の領袖、財閥の代表者などおよそ20名を暗殺し、社会変革の導火線たらし
    めようとしたもので、同年3月28日ついに関係者全部逮捕または自首し、爾後の犠牲者は防止し得たが、この事件の公判に
    当たって全国から30余万通の減刑嘆願書が寄せられたことを見ても、当時の社会情勢を窺うことができる。
   2.満州建国宣言
     満州事変を中心とする大陸進出計画は、米英列国を始め、世界の世論をしりめに着々進められ、3月1日満州国は独立を
    宣言した。
   3.5.15事件
     犬養政友会内閣は、2月選挙で303名の絶対多数を獲得し、政党政治が再び強力に復活したかに見えたが、5月15日
    午後5時27分頃、4名の海軍士官と5名の陸軍士官候補生は、突如首相官邸を襲い、ピストルを持って犬養首相を殺害し、
    同時に牧野内府邸、警視庁、政友会本部、日本銀行本店、三菱銀行本店、変電所などを襲撃し、帝都を異常な緊張にたたきこ
    んだ。この事件の動機と目的は、政党、財閥及び特権階級は互いに結託し私利私欲に没頭して国利民福を思わず、この腐敗、
    堕落した政治に憤激し、国家の革新をとげ、真の日本を建設するためにありと主張しているが、この5.15事件により遂に
    政党政治に終止符を打つこととなった。
   4.日満議定書調印
     昭和7年9月15日、日本政府は、満州国の独立を承認し、日満議定書に調印した。
   5.国際連盟脱退
     首席全権としてジュネーブの国際連盟に臨んだ松岡洋右は、43対1の光栄ある決議(当時の軍部およびジャーナリズムの
    宣伝)によって、連盟総会から退席し、日本政府は昭和8年1月27日国際連盟を脱退した。
   6.神兵隊事件
     昭和8年7月10日、重大なる情報に接した警視庁特高部は、おりから国難打開祈願と称して、明治神宮外苑の神宮講学館
    に集合中の右翼団体代表49名を一斉に検挙した。この事件は愛国勤労党党首天野辰夫、日本生産党青年部長鈴木善一などを
    中心とした、「昭和維新革命」計画で、いわゆる神兵隊事件である。その行動目的は、齋藤内閣を倒し、国家統治に関する
    諸般の法律制度組織を根本的に改廃し、神武肇国の王政を復古し、昭和皇道維新を断行しようとしたもので、その行動隊を
    神兵隊と呼んだのである。
   7.満州国帝政実施
     昭和9年3月1日満州国は帝政実施を宣言、日満一体の関係をいよいよ明瞭にした。
   8.埼玉挺身隊事件
     同年11月14日、埼玉県川越市において開催された政友会関東大会に出席中の鈴木総裁以下幹部を暗殺しようとした計画
    が、未然に発覚、検挙された。この事件は血盟団事件、5.15事件の系統に属する一派の計画で、この種テロ計画は容易に
    後を絶たず、政党政治家をしていよいよ萎縮せしめるに至った。
   9.齋藤内閣総辞職
     昭和9年6月3日、齋藤内閣はいわゆる帝人事件の責を追い総辞職した。政界はますます陰惨となる。
  10.対満政治機構改革問題
     斉藤内閣についで成立した岡田(啓介大将)内閣は成立後、かねて陸軍の提案していた対満政治機構改革問題なるものを
    取り上げた。この問題は、軍閥政治の制度的基礎を作ったもので、その意義極めて重要であるから別項で述べる。
  11.陸軍国防パンフレット発行(通称「陸パン」)
     上述した対満政治機構改革問題で、軍部の政治的進出が著しく積極化し政界の最重要問題となってきたとき、陸軍省新聞班
    の名において、突如頒布された「国防の本義とその強化の提唱」なるパンフレットは、軍部が積極的に政治経済政策に発言し
    たものとして政界及び言論界に大きな衝撃を与えた。
  12.士官学校事件
     昭和9年11月、士官学校を中心としたクーデター計画なるものが未然に発覚したが、この事件も3月事件、10月事件と
    同様な性格を持つものとして注目される。事件内容は闇から闇に葬られたこと、前の場合と同様である。
  13.美濃部機関説問題
     昭和10年1月22日貴族院で美濃部機関説問題をとりあげ、遂にこの問題は政治問題化してきた。そしてこの問題は、
    国体明徴運動へと発展し、同年4月6日まず、陸軍省は眞崎教育総監の名において国体明徴の訓示をなし、ついで4月10日
    文部省また全国の学校に国体明徴に関する通牒を発し、岡田内閣は8月3日同様、国体明徴に関する声明を発表した。この頃
    から民間右翼団体によって国体擁護連合会なるものが結成され、軍部と呼応して、機関説撲滅運動なるものが始まった。
  14.永田鉄山事件
     軍部の政治的進出に伴い、陸軍部内の派閥抗争もようやく激しくなってきた。統制派の頭目として強大な政治力を持って
    いた永田鉄山軍務局長は、10年8月12日、軍務局長室において、相澤中佐のため斬殺される事件が持ち上がり、一層不気
    味な雰囲気をつくっていった。
  15.ロンドン軍縮会議脱退
     翌11年1月15日ついにロンドンの軍縮会議を脱退し、無条約時代となった。
  16.2.26事件
     この事件はあまりにも有名で全国民の記憶にまだ新たであり、説明の要もあるまい。
  17.広田内閣成立
     2.26事件によって岡田内閣は崩壊し、次いで3月9日広田内閣が成立したが、この内閣は全く無力で軍部の思うままに
    操られた感がある。
  18.陸、海軍大臣現役制復活
     広田内閣は成立後まもなく軍部の要求に屈して、陸、海軍大臣現役制復活の官制改正を行った。この軍部大臣現役制確立は
    、内閣の生殺与奪の実権を軍部に与えたものとして極めて重要である。その官制改正が軍閥独裁の出現にいかなる役割を果た
    したか後で述べる。
  19.陸、海軍庶政一新の提案
     事態がここまでくると、少壮政治将校の行動は、単に軍内部の行動として止まらず、その首脳部をも動かしていわゆる軍の
    総意として行動に移されてきた。すなわち同年8月頃になると、時の寺内陸相、永野海相は共同して、広田首相に庶政一新な
    るものの提案を行っている。試みに当時の新聞を開いてみると、両大臣が軍服姿も厳しく、その庶政一新の提案を携え総理官
    邸に乗り込んで行く姿が写真入りで、でかでかと書かれている。改革案の内容として新聞が伝えたものは、行政改革、議会制
    度改革を骨子としたもので、
     ア.議会は天皇翼賛の立法機関としてのみ存在し、議員は原則として行政府に立つことあたわず、官吏または国務大臣
      たることを得ない。
     イ.従来憲政常道として唱えられてきた2大政党対立の形態を廃し、立法府にある政党は行政府に参画しないこと。
     ウ.現下の国際情勢から見て政府、議会、国民の3者1体となり、文字通り強力な挙国一致の実現により国策の遂行を期し
      、多数による政党政治の排撃から1国1党的形態をとる
    などであった。
  20.軍部、政党の正面衝突
     ここまで追い詰められてきた政党は、残された最後の一線を守るか捨てるかの関頭に立った。そして遂に爆発的反撃に出た
    のは、12年1月21日、衆議院再開劈頭行なわれた政友会代表浜田国松の陸軍爆撃演説である。この浜田演説は陸相寺内寿
    一との間に行なわれた腹切り問答として有名であるが、陸軍はこの浜田演説を捉えて、俄然猛烈な反撃に出で、広田内閣は
    遂に同月24日総辞職のやむなきに至った。
  21.宇垣内閣流産
     広田内閣崩壊の後を受けて登場したのは宇垣一成であった。宮中、重臣方面においてもこの軍部攻勢の前に宇垣を立てる
    ことが、おそらく最後の切り札であったであろう。ところが宇垣は軍部大臣現役制と陸軍部内の反宇垣勢力に阻まれ、5日間
    頑張ったが遂に流産してしまった。かくてもはや何人も陸軍の前に立ちふさがるものがいなくなってしまった。
  22.日華事変へ
     宇垣流産の後をうけて成立した林内閣はほとんど陸軍の意のままに動き、わずか5ヶ月にして倒れ、12年6月軍部および
    革新陣営のホープとして青年貴族近衛文麿が登場し、7月7日北支事変へと発展していった。

●軍閥政治への制度的基礎
 対満政治機構改革問題
  先にも一言したが、陸軍に政治の実権を掌握せしめるに至った制度的(官制)根拠に2つある。1つは昭和9年に行なわれた対満
 政治機構の改革により、陸軍大臣を対満事務局の総裁となし、その下に現役の軍人を配置し、関東軍司令官をして満州における軍事
 、外交、行政の一切を掌握せしめたことであり、その2は、陸、海軍大臣の現役制確立に関する官制の改正である。
  「満州を革新政治の試験台とし、これを日本の内地に移す」とは、陸軍省と関東軍の中枢を握った政治軍人の放言であったが、
 その意図するものは、軍部独裁政治確立の野望にあったことは言うまでもない。
  この陸軍省および関東軍の要請による対満政治機構改革問題は、岡田内閣成立以来の懸案であった。同内閣は8月早々この問題を
 取り上げたが、陸軍省案に対し、拓務省が猛烈に反対して内閣の重大な政治問題化した。
  すなわち陸軍省案の骨子は、
   1.中央に対満事務局を設け、その総裁は陸軍大臣兼摂とする。
   2.対満政策に関する一切の事務はすべて内閣総理大臣の直裁事項となし、この対満事務局において統轄処理する。
   3.対満事務局を構成する部、課には現役の大、中、少佐および大尉級の武官を配置しその事務を統轄せしむ。
   4.駐満全権大使(関東軍司令官兼任)の官制を改正し、外務大臣の外交指揮権を直接総理大臣の管轄に移すと共に、関東軍
    司令官をして軍事、外交、行政、一切の現地政策を統一実施せしめる。
   5.駐満全権大使の下に、在満行政事務局を置き、事務局総長は関東軍参謀長の兼任、警務部長は関東軍憲兵司令官、監理
    部長は関東軍交通監理部長の兼任とする。
  というのであって、要するに、対満政策に関する軍事、外交、行政および産業経済一切の指導権を陸軍省および関東軍の手に掌握
  するための改革案であった。これに対し拓務省反対理由の骨子は、
   1.満州国の独立権はあくまで尊重しなければならない。
   2.軍事、外交、行政の3件を明確にし、それぞれその分を守り、ほかの権限を侵さざること。
   3.陸軍が軍令事項以外に、対満政策に関し過分な発言権を持つことは絶対に反対である。
   4.駐満全権大使を内閣総理大臣に直結せしめる陸軍省案にも反対である。
   5.内閣に対満事務局を設けることは屋上屋を架することで不要である。
  というにあった。陸軍はさらにこの改革案の指導精神として、
   1.日満特殊関係の具現化、すなわち日満議定書による日満不可分関係を機構制度の上に具現せしめること。
   2.日満共同防衛の確立、すなわち関東軍司令官をして、軍事、外交、行政および産業経済政策を一元的に統括せしめること。
   3.対満政策に関する1省1局または各省部局の干与を排撃し、中央、現地ともにあくまでも国策的に一元的に決行する。
  と主張し、これに対し拓務省側は、
   1.機構の改革は、日満両国の特殊性を考慮し、かつ現地の客観状勢(治安の回復)に鑑み、在満政治機構はむしろこの機会に
     、その常道化、平常化を図るべし。
   2.立憲政治の原則、すなわち3権分立の精神はあくまでも尊重する。
   3.陸軍が満州の治安平常化を云々しながら、産業、経済、行政、警察の全般にわたり指導権を掌握せんとすることは、立憲
     政治の常道破棄であり、また理論的にも大いなる自己矛盾である。
  と主張して絶対に譲らなかった。そのために8月28日、陸、外、拓3省の事務的折衝遂にならず、ひとまず中止となり、3省の
  意見を参考として法制局に立案せしめ、岡田首相の政治的裁定に待つこととなった。
   筆者は当時、拓務省監理局の一官吏として、満州の治安問題及び思想問題の事務を担当していた関係から、満州の現状すなわち
  関東軍の専横、関東軍憲兵の非行暴状など詳しく承知していたし、またこの改革案で関東軍および陸軍省が何を企図しているかの
  政治的意図も詳細に知っていた。そこで筆者は、この反対運動のためには一身を賭する決心で上司にも強行進言をなし、本省およ
  び現地の全職員にも呼びかけて、職員大会を開くなど、陸軍省案爆撃の急先鋒に立ったのである。この当時の事情は当時拓務省記
  者倶楽部詰めの新聞記者諸君も詳しく承知している。
   昭和8,9年頃の日本政治と言えば、そのほとんど全部が満州問題であった。外交も経済も国内の政治的諸問題も、そのこと
  ごとくが満州問題を中心としていた。その満州に関する政治、外交、経済、一切の指導監理を、陸軍大臣を総裁とする対満事務局
  に統轄し、現地においては関東軍司令官に一元化することは日本政府の実権を陸軍に渡すと同様の結果を招来する。この見地から
  我々は「憲法を護れ」と叫び、「拓務省を潰しても陸軍と一戦あえて辞せず」の強硬態度をとったのである。
   しかるに10月7日、突如新聞紙上に対満政治機構改革に対する政府案なるものが発表された。この案は、当時の法制局長官
  金森徳次郎と第2部長桶貝栓三が陸軍省軍務局長永田鉄山中将と協議して作ったものであり、その内容は陸軍案ほとんどそのまま
  であった。ただ中央の対満事務局に文官の次長を置くこと、現地の事務局総長に初代は文官を持って当てることくらいが妥協点で
  、陸軍に一切の指導権を渡す点についてはいささかの変更も加えられていない。この金森法制局長官と永田軍務局長の合作になる
  改革案を見た拓務省は、全職員文字通り悲壮な決心で反対闘争を行なったが、岡田内閣は遂に陸軍の圧力に屈伏し、10月16日
  臨時閣議で原案通り決定してしまった。
   筆者は、この事件の事務的な後始末を終え、役人を辞め、政治を志して衆議院に出たのであるが、この対満政治機構改革に
  関する諸官制の制定こそ、陸軍に制度上、官制上、政治の実権を与えたことになり、軍閥独裁政治への強固なる基礎をなしたもの
  であることを断言する。

 陸・海軍大臣現役制確立
  この陸海軍大臣現役制確立は先に述べたごとく、宇垣内閣を流産せしめた主要原因となったが、昭和18年の春、東條内閣を
 何とかして潰す計画を進め、筆者がしばしば近衛公に会っていた頃、近衛は東條に政権を奪取された経緯を語り、
  「組閣の大命は総理に下るのだが、実際に組閣の実権を握っているのは、総理でなくて陸軍大臣だ。まず大命を拝した総理は
 一応現在の陸相に留任を求める。辞退した場合は後任の陸相の推薦を求めるのであるが、この後任陸相の決定は、陸軍3長官会議
 で定めることとなっている。そこで陸軍がこの後任陸相を出さなければ内閣はできない。またその陸相候補は、他の閣僚に注文を
 つける。さらに新しい内閣の政策に注文をつける。この陸軍の要求を入れなければ陸相は就任を拒絶する。そこでまた内閣は不成
 立となる。内閣が出来上がってからも陸軍大臣は、軍の総意なるものを政府に持ち込んでくる。これを容れなければ陸相は辞める
 と言う。そして辞めれば後を出さない。これが陸軍の常套手段で、しかもこの陸軍の総意なるものは、実際には軍務局長以下の
 佐官クラス政治軍人の意見で動かされる。ゆえに、堂々たる閣僚が軍務局の一課員、中佐くらいの鼻息を窺うことになり、陸軍は
 事実上政府の生殺与奪の実権を握っている。陸軍がかかる横暴な態度に出てはばからないのは、軍部大臣現役制の官制に縛られて
 内閣の方では何とも打つ手がないからだ。陛下にお願いして勅命でやれば、あらかじめ後備軍人から大臣をとれないこともないが、
 そんなことをすれば、陸軍は必ず青年将校という奴を差し向け『軍の決意』なるものをもって脅す。この軍の決意には、木戸を始め
 、宮中、重臣方面いずれも3月事件、10月事件、5.15事件、神兵隊事件、2.26事件と実物教育で脅かされているから恐れを
 なし、(勅命には)容易に賛成しない。中には『いっそ一度陸軍にやらせてみたらどうだ』などという意見まであり、この陸軍の
 前には何とも手が出せないのだ」 と述懐したことがある。正にこの近衛の述懐のとおり、先に述べた対満政治機構改革と、陸・海軍
 大臣現役制確立の官制改正こそ、軍部独裁政治への強固なる制度的基礎をなしたものである。

●軍閥政治の思想系列
 ナチズムとスターリニズム
  軍閥政治の思想系列を軍事的立場から分析するならば、正にそれは国防国家論である。しかしてこの国防国家論の先駆的構想を
 なしたものはすでにしばしば触れてきた東方会議である。日本は当時資源が貧弱で、領土が狭く、しかも人口は多い。すなわち資源
 、領土、人口、食料問題を中心として、国防上の欠陥が論議され、この問題解決への道として、大陸政策なるものが論議の焦点と
 なっていた。日清、日露、第1次世界大戦を経て、日本は世界5大強国の1つと言われていたが、その国力の中心をなすものは軍部
 特に陸軍であるがごとき認識を持っていた。そこで軍部は陸軍を中心として満州と北支を押さえ、国防の基礎を強固にする方向に
 動き始めた。ここに目をつけたのが、政友会幹事長の森格である。彼は東方会議、張作霖爆死事件当時、軍部少壮軍人の黒幕として
 怪物視され、田中首相も犬養総理も彼のロボットとして操られた形跡すらある。田中内閣当時は外務政務次官であったが、彼は田中
 総理をして外務大臣を兼摂せしめ、軍務次官に吉田茂をおいて、外務省の実権を握った。犬養内閣当時は、内閣書記官長として名実
 共に政府の実権を握り、犬養が茅野長知に意を含めて、秘かに計画した満州事変解決策なども、陸軍と通牒せる森格の手によって
 ことごとく蹂躙されてしまった。この森が参謀本部中堅少壮軍人と結んで企てたのが、一連の満蒙積極政策であるが、満州事変当時
 、「満州にプロレタリアの天国を作る」と言い、「王道楽土」を建設すると言い、その政治組織として採用された協和会システムに
 ついてみても、それはロシア革命の成功に学んだところが多分にあり、また軍部を中心とした日本国体の特殊性から、民族主義、
 精神主義を強く押し出したところはむしろ、ナチズムに先行したものと言えるであろう。
  当時この中心にいた人物は、主観的には真剣であり良心的であったかもしれない。しかし日本の辿ってきた運命を歴史的に回顧し
 たとき、悲劇の最大原因は東方会議から張作霖爆死事件、しかして満州事変へと押し進められてきた大陸進出計画にあり、この計画
 に参加し、同調した外務省首脳部および一連の政治家の責任は軽からざるものがある。

 現状打破、反資本主義革命
  先にも述べたごとく軍部革命思想の指導的理論を提供したものは、北一輝と大川周明であった。北は中国第1革命の嵐の中に立ち
 、アジア革命の構想を練ったが、彼が培ったその思想内容には、レーニンのロシア革命に学んだところすこぶる多いことを注意する
 必要がある。彼はその著「日本改造法案大綱」の中にも、レーニンの革命を引用して、クーデターを肯定しており、その思想は明ら
 かに国際的現状支配勢力の打倒、反資本主義革命の内容を持ったものである。大川はまた日本主義の立場から八紘一宇、万民平等の
 精神革命を説き、世界の現存秩序に対立し、資本主義的経済文化に反抗したのである。この両者の結合によって、少壮青年将校の
 錦旗革命論が思想的に信念づけられた。さきに掲げた「雄叫び」の宣言の中に、
  「我々日本民族は人類解放戦の旋風的渦心でなければならぬ。日本国家は我々の世界革命思想を成立せしめる絶対者である。日本
 国家の思想的充実と、戦闘的組織とは、この絶対目的のための神そのものの事業である。現前に迫れる内外の険難危急は、国家思想
 の根本的改造と、国民精神の創造的革命を避けることを許さぬ。我々は日本そのもののための改造または革命を以て足れりとする
 ものではない。吾人は実に人類解放戦の大使徒としての日本民族の運命を信ずるがゆえに、まず日本自ら解放に着手せんと欲す」
 と言っているが、この思想はその後の軍部革新論に一貫して流れている。

  この思想が2.26事件の指導者、すなわち反乱将校のイデオロギーにいかに現れているか。首謀者の一人栗原中尉が、宇田川
  刑務所内で認めた獄中日記「無名録」の中には、
   「1.徹底改造の道は、世界一般に信じられあるがごとき、強力内閣出現による庶政一新という金切り声の空宣伝にあらず、
   必ずや国民全部の、特に国民下層より発揮する神的覚醒、精神的革命に基礎を置かざるべからず。大多数を占むる窮乏国民の
   絶望必死の怒号、叫喚と、これに方向を与うる新生の覚醒と、何物をも恐れざる気概と犠牲心とを打って一丸とせる一大国民
   運動――合法、非合法をはるかに超越せる――によってのみ、改造は断行せられ、退廃衰亡の極所より生新なる大活力を具備
   する理想国家を打ち出し得べしと信ず。
    2.多くの同志にとり極めて不幸なりし2.26事件は、実に上述のごとき大国民運動の前衛戦となりしことを自負し、もって
   自ら慰むるものなり。多数の犠牲を出せるは怨恨禁ずる能わずといえども、これ国家中興の大偉業のため避くべからざる祭壇の
   犠牲なりしなり。事件以後は、青年将校の運動より、下士官、兵を一丸とせる大運動へ発展せざるべからず。従来一部有志者の
   運動より、全国民的運動に転進せざるべからず。従来の口舌的運動より転じて、鉄火を呼び、碧血を放出せしむる真摯激烈の
   運動を展開せしめざるべからず。2.26事件において同志将校が、下士官、兵を挙げて起ちし真意義は、かくのごとき国民運動
   の展開を期したるによる。
    今日本を誤りつつあるは、軍閥と官僚だ。その2者を殲滅せば、依拠を失える財閥は自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の
   背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力をもって、軍閥、官僚、政党を粉砕せざる
   間は、招来し得ざるものと覚悟せざるべからず」と述べている。また同じ2.26事件の被告元陸軍中尉新井勲は、
   「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚との間には、10月事件以来溝ができた。続いて起こった血盟団事件や5.15
   事件は、いずれも青年将校の流れをくむものであったが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に
   終止符を打った。政権把握の軍の野望達成には、もはや国内テロの必要はなくなった。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力
   は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と併行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが
   永田鉄山を首領とする統制派幕僚の政策であった。
    政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまるはずがなかった。昭和3年来全国を襲った
   深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じ取ったのは、兵と直接接触する青年将校である。
   腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、彼らを貫く思想であった。陛下の赤子と言われるのに
   、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど働けど、その日の生活に喘ぐものがあった。中でも東北
   地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では、姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年
   将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった。彼らの求めるのは権力の把握ではなく、具体的政策の実行で
   あった」と言い、また2月28日朝、決起部隊将校の集合していた赤坂の幸楽に、奉勅命令の下ったことを告げ、説得に行っ
   たときの模様につき、「怒号の嵐に包まれた中を、野中が帰ってきた。彼は決起将校の一番先輩で、一同を代表して首脳部と
   会見してきたのである。
   『野中さん、どうでした?』誰かが駆け寄った。それは緊張の一瞬だった。
   『まかせて帰ることにした。』と野中は落ち着いて言った。
   『どうしてです?』渋川が鋭く質問した。
   『兵隊がかわいそうだから…』野中の声は低かった。
   『兵隊がかわいそうですって?全国の農民がかわいそうではないんですか?』渋川の声は噛みつくようであった。
   『そうか。おれが悪かった…』野中は沈痛な顔をしてつぶやくように言った。私も禁錮6年の刑を受け長らく獄中に呻吟したが、
   沈黙の中に死んでいった若き人々、特に安藤の胸中を思うと、今なおひとすくいの涙を禁じ得ないものがある」 と言っている。

  筆者は以上、必要以上に軍閥政治への道を長々と回顧してきた。その意図するものは、軍閥政治への思想的、行動的基盤をなした
 ものが青年将校であり、その青年将校の上に立ちて政治的野望を遂げんとしたものが軍閥政治軍人であり、しかしてこの青年将校の
 現状打破、革新への思想行動を巧みに利用して、敗戦革命への方向に切り替えたものがコミンテルンの戦略論によるコミュニストの
 謀略であったことを、実証せんがためである。

 日本のヒットラーとレーニン、スターリン
  以上によって明らかにされたごとく、陸軍は遂に強力な政党と化してしまった。農民と小市民の家庭につながる数百万の軍人を
 強固な組織体とした、一国一党的な政党的存在足り得る基礎的条件をことごとく備えたこの軍部を駆使して、日本の政治権力を握り
 、政治革命の野望を達成せんと夢見た和製ヒットラー、レーニン、スターリンは果たして誰であったか。