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 大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義―③   平成26年11月16日 作成 五月女 菊夫


三田村武夫著 自由社

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義―③

前回までの内容

まえがき

序説  コミュニストの立場から

1.   コミンテルンの立場から

2.   日本の革命をいかにして実践するか

第1章  第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて

1.   裏返した軍閥戦争

2.   コミンテルンの究極目的と敗戦革命

3.   第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想 ――尾崎秀実の手記より――

第2章 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について

 1.3.15事件から満州事変へ

2.満州事変から日華事変へ

 

第3章 日華事変を太平洋戦争に追い込み、日本を敗戦自滅に導いた

共産主義者の秘密謀略活動について

1.敗戦革命への謀略配置                  

 ●コミンテルンに直結した秘密指導部

27年テーゼから尾崎機関へ

   さて日華事変をいかにして長期戦に追い込み、そして太平洋戦争に発展せしめ、敗戦自滅へのコースを進めてきたかを具体的に立証する前に、もう一度思想戦謀略の面からこれまでの歴史的歩みを分析してみる必要がある。

   前章で明らかにしたごとく、日本の変革史は昭和2年すなわち1927年にスタートしているが、この変革へのスタートは、ファシズム革命への道とボルシェビキ革命への道と、左右2つの道が同時に発足しているところに極めて興味深いものがある。しかしてこの2つは、2つながらいずれも全体主義的性格を持ち、左右絡み合って戦争への道を驀進し、敗戦自滅への道を歩み来ったのである。ファシズム革命への道は、前章で述べた如く、昭和2年の東方会議に始まり、翌3年の張作霖爆死事件で実行の第1歩を踏み出し、4年、5年は表面一応雌伏時代かに見えたが、仙台教導学校の「兵火」に見るごとく、裏面では着々準備されていたのである。それが6年に入り3月事件となり、9.18満州事変となり、10月事件のクーデター計画となり、国家の権力的支柱でありまた国民の下層階級を組織的基礎となし規律と訓練の上に行動する軍隊を中核として、政治の表面に現れてきた。すなわち、この青年将校を中心としたファシズム革命運動に組織的機動性が持たれ、国家と一体となった形で政治の表面に現れたのである。

ここで筆者は前章の途中で筆を止めた左翼の革命コースがいかなる形で進められてきたかを明らかにしなければならない。

   昭和2年のいわゆる27年テーゼでスタートした日本共産党の革命闘争は、4、5、6年と満州事変勃発直前まで、猛烈な非合法闘争を展開してきたが、満州事変を契機として、合法、非合法いずれの面からもその尖鋭なる闘争形態を一応解体したかのごとき戦術をとるに至った。これには弾圧によって指導者がほとんど全部逮捕、投獄されてしまったことのほかに、もう1つ裏面に重要なる理由がある。すなわち昭和3(1928)年のコミンテルン第6回大会において採択された「帝国主義戦争を敗戦革命へ」の決議は、戦略的にも戦術的にも、真実の優れた共産主義者に深く味わうべきものを与えたとみる必要がある。

   筆者はここで尾崎秀実の存在を想起する。彼はすでに明らかにしたごとく、大正14年より共産主義を信奉しており、政治感覚の最も鋭いコミュニストであった。その尾崎が上海に渡ったのは昭和3年11月である。当時コミンテルンの重要な指令は、上海のコミンテルン極東ビューローを通じて日本に来ておったが、上海に渡った尾崎がまもなく、中共の上部組織とも連絡をもち、コミンテルン本部とも組織的な繋がりをもって何を考えたかは想像するに難くない。第1章であきらかにした、第2次世界戦争より世界共産主義革命への彼の構想は、おそらくこの上海時代にすでに描かれていた戦略コースであったに違いない。

   歴史は偶然とは言い難い興味ある符節を示すものである。北一輝が青年将校のバイブルと言われた「日本改造法案大綱」を書き上げたのも上海であった。北は中国第1国民革命の嵐と興奮の中に、ファシズム革命綱領の源流を描き、尾崎秀実は同じ上海で、蒋介石の北伐に始まった第2国民革命の血の興奮の中で、コミンテルンの綱領を政治的に吸収咀嚼したアジア共産主義革命の構想を描き出したのである。しかして、このコミンテルンの第2次大戦に対する態度と方針は、やがて日本共産党に対しても指令してきた。すなわち満州事変の勃発により戦争への道を踏み出した日本に対し、共産主義革命への政治綱領として与えられたものが、昭和7年のいわゆる32年テーゼである。この32年テーゼにおいては、27年テーゼの「単一労農革命戦術」を改め、「2段革命戦術」を採った。すなわち満州事変によって帝国主義戦争への第1歩を踏み出した日本資本主義の現段階を、ブルジョア民主主義革命の段階にありと規定し、この戦争を通じて内乱敗戦に導き、この戦争の過程においてブルジョア民主主義革命を完成し、そのブルジョア民主主義革命の進行過程において、プロレタリア共産革命への客観的、主体的諸条件を獲得し、その条件成熟と同時に一挙にプロレタリア共産革命に移行する戦術をとったのである。それは第1次大戦の際行われたロシア革命のケレンスキー3月革命とボルシェビキ10月革命の方式を採用したものである。この新しい綱領を理解した日本の共産主義者は、戦争反対闘争から戦争を敗戦革命への方向に戦術転換したことは言うまでもない。

   しかしてこのコミンテルンの戦略指導は、やがて昭和10(1935)年の第7回大会における「人民戦線戦術」となり、合法場面の広範なる活用と、来るべき革命への政治的、思想的、組織的配置を進めていった。これはやがて企画院事件、昭和研究会の理論的指導となって現れてくるが、さらに重要な点は、昭和9年春、尾崎、ゾルゲの握手によって開始された秘密謀略活動である。尾崎は、昭和7年2月上海を引き上げ、朝日新聞大阪本社の外報部にいたが、9年春、コミンテルン本部から直接派遣されたゾルゲとの連絡を回復し、さらにアメリカ共産党員でコミンテルンの指令によって日本に派遣された宮城興徳と協力し、ここに最も巧妙にして大胆なる秘密謀略活動が開始されたのである。

   尾崎は同年10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務していたが、ちょうどこのころは軍部の政治攻勢がいよいよ積極化してきた時代であり、敗戦革命への構想を胸中深く秘めた尾崎と、陸軍の政治幕僚との連携握手ができあがったものとみられる。かくて尾崎の中央における、大胆にして精緻なる政治謀略活動が開始されたのだ。

 

革命家としての尾崎秀実

   共産主義者でしかも新しい政治感覚を持ち、客観情勢を歴史的に分析して、何をなすべきかを正確に判断し大胆に精密に革命への戦略戦術を推し進めていった尾崎秀美の知能とその才腕は、別の意味から言えば、レーニン以上の革命家であったかもしれない。この尾崎の革命家としての存在を再び彼自身の言葉を借りて説明してみよう。

「私は第2次世界戦争は、必ずや世界共産主義革命の変革に到達するものと信ずるものであります」

「この第2次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しないまでも、決定的な段階に達することを確信するものであります」

「私が忠実な共産主義者として行動する限りにおいて、日本の現在の国家と矛盾することは当然の結果であります。」

「私は常に露見逮捕と言うがごとき場合を、自分一個の死と結びつけて考えておりました。要するに『死ねばいいだろう』という点に一つの覚悟の基礎をおいたわけであります」

「職業的革命家はやはり家庭を持つべきではないと考えます」

「烈しい人類史の転換期に生まれ、過剰なる情熱を負わされた人間としてマルクス主義を学び、支那革命の現実の舞台に触れて今日に到るまで、私はほとんど顧みもせず驀地に一筋の道を駈けてきたようなものでありました」

「元来私にとっては思想なり、主義、趣向なりは、文字通り命がけのものであったことは申すまでもありません。それはいわば女の貞操にも等しいものです。したがってそれを根本的に考え直すことは、一度死んで生きかえるにも等しいことだったのです」

「英子と一緒になることを決めた頃、私の述べた誓いの言葉を覚えていますか。あれは単にいかなる苦難でも一緒に耐えていこうという意味ばかりでなく、当時私がひたむきに目を向け始めた、新しい人生の方向を密かに感じて、自分の一生が甚だしく困難なものであり、何も知らぬ英子をもまたその道連れにするという意味が含まれていたのです」

「どうせ一切を挙げて自分は猛火の中に投ずるのだという意識が、自分のことのみならず、家庭のことをも顧みさせなかったのです。英子はあまりにも家庭を顧みることの少ない私をしばしば恨んだようでした。無理もありません。が、しかし、私の意識では、ひとり自分の運命をそのように感じたのみならず、やがて来るべき時代の性質をも一切の小さな用意など不要なものとするごとく感ぜしめたのでした」

「最後の瞬間まで少しも平常と異なることなき態度と心とで生き続けたいと考えております。それがどうやらできそうな気が今はしておりますが、お迎えが来たとき、読みかけた本をぱたりと閉じて『どうもご苦労様でした』と立ち上がれるようでありたいと思います」

「今は大きな時代であり、人間が高い段階に飛躍向上するための意義ある時代を経過しつつあることは確かであります。私などはこうした形で死ぬことすら十分意義のあり、生甲斐あることだと考えております」

「家内は私の行動があまりに突飛であり、自分のことを思わないばかりでなく、妻子の幸福を全然念頭におかない冷酷な行動であったと恨んでいることが手紙の中などからよく窺われます。だが、私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、いかにしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕がなかったのです。というよりも、そんなことを考えても無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに、自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのであります」

と言っている。すなわち彼は真実のコミュニストであり、共産主義革命への道を追求し、この思想のために全生命を捧げてきたことが明らかであり、しかもその妻に与えた書簡で明らかなごとく、彼はすでに昭和2年結婚した頃より、ひたむきに共産主義者としての行動に情熱を傾けてきたことを告白している。

   筆者はコミュニストとしての尾崎秀実、革命家としての尾崎秀美の信念とその高き政治感覚には最高の敬意を表するものであるが、しかし、問題は、1人の思想家の独断で8000万の同胞が8年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失うことが許されるか否かの点にある。同じ優れた革命家であってもレーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して戦っている。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものを持っていたとしても、10幾年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を駆り立て、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進してきたのだ。正義と人道の名において許しがたき憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。

 

素晴らしい戦略配置

 陸軍政治幕僚との握手

  しからばこの革命家尾崎秀実が、その企画する敗戦革命のためにいかなる戦略配置をなしたであろうか。まず戦争の推進力たる軍部なかんずく陸軍との関係であるが、すでに述べた如く、満州事変以来陸軍の指導権を握ってきたいわゆる政治幕僚と尾崎秀美との連携握手が、いつ頃からできていたかは正確な資料を持たないから断言し得ないが、第1次近衛内閣成立直後、すなわち日華事変発生の前後から、軍務局の中心部と直接の関係を持っていたことは確かである。それは後で述べるごとく、第1次近衛内閣成立にあたり、風見章を書記官長に推したのは、当時の次官梅津の意を呈した柴山軍務課長であり、その風見と尾崎とは、昭和研究会設立当時より親しい間柄であり、また軍部と特別な関係を持っていた犬養健、さらに犬養と影佐禎昭の関係、またその後の尾崎、影佐、武藤章の関係に徴しても明らかである。

 

政府最上層部へ

   日華事変より太平洋戦争への最高政治指導部を構成してきた近衛内閣は、その成立と同時に彼のブレーントラスト(=頭脳集団)によって、政治幕僚会議とも称すべき「朝飯会」をつくり、この会で政治情勢の分析判断、政策の討議などをやってきたが、この幕僚会議のメンバーは、蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡辺佐平、西園寺公一、尾崎秀実であり、後に松本重治、犬養健を加えて構成されていた。しかしてこの顔触れは、尾崎が牛場、岸両秘書官と協議して選定したものだと尾崎自身が言っており、その思想的なヘゲモニー(=支配)は尾崎の手に握られていたものとみられる。上の他に第2次近衛内閣になってから富田書記官長を中心とし、尾崎秀実、帆足計、和田耕作、犬養健、笠信太郎、松本重治などにより別の「朝飯会」を持ち、この2つの会合は並行して太平洋戦争開始直前まで続けられている。

 

官庁フラクション(=分派)

官庁フラクションとして最も注目すべきものは企画院グループであるが、この企画院グループは昭和10年5月、内閣調査局時代から始まっており、そのメンバーは和田博雄、奥山貞二郎、正木千冬、八木沢善次、勝間田清一、井口東輔、さらに12年5月から和田耕作、稲葉秀三、佐多忠隆、小沢正元、柴寛、大原豊、沢井武保、玉城肇、岡倉古志郎、直井武夫などであり、ほとんど共産党関係事件の思想前歴者で、尾崎と密接な関係を持っていたとみられる。和田耕作、小沢正元は尾崎の推薦によって採用された者であり、このグループメンバーが尾崎を招聘してその講演を聞くなど、一連の関係を持っていたことは事実である。

 

昭和研究会

   この昭和研究会には、蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、風見章とともに、創立直後から関係しており、その主要メンバーは上の4名の他、尾崎秀実、和田博雄、大西斉、堀江邑一、橘樸、大山岩雄、溝口岩夫、増田豊彦、牛場友彦などのほか別に、企画院グループから勝間田清一、正木千冬、稲葉秀三、奥山貞二郎、佐多忠隆、和田耕作、小沢正元などが参加していた。

 

言論界

   別に述べるごとく、日華事変より太平洋戦争への理論的指導をなしてきた言論陣営の力は頗る注目すべきものがあるが、その中心メンバーは、尾崎秀実、細川嘉六、蠟山政道、堀江邑一、平貞蔵、三木清、中西功、堀真琴、八木沢善次、西園寺公一など尾崎を中心としたメンバーである。これらの人々が日華事変以来「中央公論」「改造」など言論機関の権威を中心としてほとんど毎号執筆し、同一方向に同一傾向の思想と理論を展開してきた影響力は、日本のジャーナリズムの方向を決定したものと断じても過言ではない。

 

協力者、同伴者、ロボット

   ここで筆者は、以上のごときメンバーが、尾崎の意図する敗戦謀略活動にいかなる役割を演じたかにつき一言しなければならない。尾崎が真実のコミュニストであり、彼の意図する敗戦革命への謀略活動を知っていた者はいわゆる同志であり協力者であるが、ただ彼の優れた政治見識とその進歩的理論に共鳴し、彼の真実の正体を知らずして同調したいわゆる同伴者的存在も多数あったであろう。さらにまた、まったくのロボットとして利用された者もあったであろう。

 

いわゆる転向者の役割

   ここでもう一つ問題とすべきものに転向者の果たした役割がある。昭和6年頃から一度検挙された共産党関係者で、いわゆるその思想の転向者とみられる人物については、司法省においても、あるいは警視庁の特高部においても、熱心に就職の斡旋をしたものである。そしてそれらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していたはずである。さらにまた軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入っていた。そこで問題となるのはこの転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者として扱ったそのいわゆる「転向」の判定は天皇制の問題に重点が置かれており、天皇制否定の主張を訂正したものは転向者とみたのである。したがって転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、また彼らはいわゆる秀才型が多く、進歩的分子をもって自認し、これらの人々が戦時国策の名においてなした役割は軽視すべからざるものがある。

 

なぜ成功したか

   謀略配置の問題に関連して、かくのごとき謀略がなぜ成功したかにつき一言しなければならない。その第1は、思想犯事件の内容をすべて秘密にしてきたことである。前章で述べた昭和6年の3月事件、10月事件をはじめ、共産党関係の事件にしても政府、軍部または官憲の立場から発表することを好まない事件内容は、一切これを極秘扱いとしてきたのである。そこに認識に対する無智と空白があり、意識せずして謀略に乗ぜられた条件があった。第2は、政治家の無智であり、事件内容を秘密にしてきたことと関連して、政治家はほとんど思想事件に無智であった。というよりもむしろ無関心であった。したがって自分の身辺間近で、あるいは自分の腹中にその謀略の手が伸びてきても気づかなかったのである。第3は役人の政治認識欠如であり、長い特高警察の経験を持った者でも、政治経験を持たないがゆえに、取締りの立場からのみ見て、政治的な角度から指向される謀略活動に気がつかなかった。また事件として検挙された場合でも、その事件が共産党関係の者ならば治安維持法のケースに当てはめ、罪になるかならぬかにのみ捜査の重点を置き、また尾崎・ゾルゲ事件のごとくスパイ関係の事犯に対しては、国防保安法という法律の適用面からのみ、これを見る習慣があったのである。なお尾崎事件の場合は、東條と近衛との特殊関係から、司法部の検察活動にも特別の考慮が払われたことを一言しておく必要がある。別に添付した資料についてみても、その謀略活動は極めてわずかしか出てこないが、これには特別な事情がある。すなわち尾崎が検挙されたのは、第3次近衛内閣末期の昭和16年10月15日であったが、尾崎と特別の関係にあった陸軍軍務局関係は尾崎のこの事件の検挙に反対であり、特にドイツ大使館員であったゾルゲとの関係において、尾崎の取り調べによって近衛との密接なる関係が捜査線上に浮かび出てきたことを知った東條は、この事件によって一挙に近衛を抹殺することを考え、逆に徹底的な捜査を命じたのである。しかしながら時は太平洋戦争開始直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛およびその周辺の人物を、この事件によって葬り去ることのいかに影響の大なるかを考えた検察当局は、その捜査の限界を、国防保安法の線のみに限定し、その謀略活動の面はでき得る限り避けるべく苦心した事実を筆者は承知している。

 

2.日華事変より太平洋戦争へ

日華事変に対する基本認識

日華事変に対する認識

   日華事変勃発当時、近衛内閣が不拡大、局地解決を宣言しながら、遂に全面的拡大へと推移した経緯については、第1章の冒頭に述べたが、ここでまず共産主義者及びその同伴者的ないわゆる進歩的分子が、この日華事変勃発をいかなる角度から認識したかを明らかにする必要がある。

   かつて共産党事件に関連して教壇を追われた堀江邑一は、まず北支事変勃発の直後、昭和12年「中央公論」9月号の「北支事変の経済的背景」と題した論文で、「最近2,3年来の国際情勢および支那並びに日本の国際情勢の激変は、再び我が国をしてかくのごとき消極的現状維持的政策に晏如(アンジョ)たるを許さないようになった」

「北支事変は支那側にとって多年の要望たる統一完成のための最後の闘争であるのみならず、南京政府にとってはその存亡を賭した事業として、『最後犠牲の覚悟』を以てせねばならぬのである。これに対し日本にとっては、満州事変以後達成せられたと考えられた経済的、国防的安全感が、その後の国際的、国内的情勢の変化によって覆されんとし、いよいよ第2次世界大戦の危機の切迫した新情勢のもとに、あたかも満州事変前における満州のごとく、日本にとって積極、消極両面から、その生命線として考えられ、これを確保し得ると否とは、新しき戦争危機を克服し得るか否かの分かれ目にあるのみか、多年国力を賭し、資力を傾けて経営し来った満州建設の努力が、一朝にして水泡に帰せんやも図られざる危険ありと考えられるに至った」

と言い、また細川嘉六は同12年10月号「中央公論」の巻頭論文「日支事変と欧米列強の動向」の中で、

  「仮に支那自体が戦争に弱いとしても、この事変は単に支那一国相手の戦争ではなく、支那に致命的に重大な利害関係を持つ列強の動向が、重大なる関係を持つところのものである」

「現在の日支事変は、単に日支両国の対立抗争ではなく、同時に欧米列強と日本との対立抗争である。後者の対立抗争は単に、消極的に、列強の支那における各自の権益が、日本の大陸政策によって脅かされる危険に基づくばかりでなく、積極的に欧米における列強間の矛盾を一時にもせよ支那において解消し、これら列強間の勢力均衡の実現をここに求めざるを得ない焦眉の必要に基づく。世界帝国主義の矛盾の発展は、列強間の世界戦争によって、武力的に解決されるか、しからざれば、資本主義的後進国――今日では世界における唯一の広大にして比類なき人口及び資源に富む支那――において経済手段によって解決されるか、いずれか1つの方向の選択を列強に強要している」

「全日本国民は、今やこの重大なる時局を冷静に大観凝視して政治的自覚を一層高めかつ深め、そしてこれを政治の現実政策の上に反映すべき重大時期に立つことを忘れることはできない。」

と言っている。またいわゆる企画院事件の主要メンバーであり、治安維持法違反の前歴を持っている正木千冬は、

「満州事変は、将来必然的に直面せざるを得ない対英米的世界秩序に対する、日本の反撃の序曲であったのでありまして、単純な日本と支那との満州における衝突ではなかったのであります。かように日本帝国主義は、英米的世界秩序に反抗して満州事変を遂行するためには、国際連盟よりの脱退が必要であり、ワシントン条約の破棄が必要でありました。それがまた、国際政局の発展に決定的方向を与えたことは否定できぬことであります」

「昭和12年夏に勃発した日支事変は、本質的には満州事変の継続でありますが、国際政局の崩壊的傾向は、満州事変後発生した欧州、アフリカの諸事件によっていっそう険悪となり、これがため英米の支那援助政策は一段と露骨なものとなりました。かような情勢の中で発生した日支事変は、本質的には世界戦争であり、相当長期にわたることを覚悟せねばならず、また戦争の規模も満州事変とは比較にならぬ本格的戦争であるのであります」

「この満州事変に続く日支事変による大陸への一層の進展は、現に東亜共栄圏、東亜経済ブロック確立など広域経済体制の要望となって現れつつあるのであります。日本を中枢とした東亜広域経済ブロックが、現在東亜に散在するほとんど窒息状態ともいうべき、帝国主義列強の植民地の状態を解放せしめて、高度の発展の可能性を持ちきたし得ることはいうまでもありません」

また同様企画院グループの一員勝間田清一は、

「内閣調査局、企画庁、企画院に在職中、我が国準戦時体制から戦時体制確立に至る間、これらの事務に従事してきましたが、当時の国の内外情勢からみて、戦時体制が当然確立されねばならぬと考え、これに共鳴して従事したのであります。特に当時の私の思想の中で、これらの戦時体制について、

1.日支事変が東亜民族をして英、米、仏などの民族的搾取から解放せんことを重要目的としていた戦争に進歩的意義を発見し、

2.また前述のごとき高度の体制をとることは、同時に次期の共産主義社会機構の基礎的体制を整備するものであって、社会発展の歴史的方向に進んでいることなど、進歩的性格に魅力を持って居りました」

と言っている。しかしてこの頃尾崎秀実は、昭和研究会の東亜政治部会の責任者および近衛の朝飯会の中心メンバーとして最も精力的に活躍していたが、彼はその手記の中で、近衛に進言した重要事項の一つとして「支那事変処理に関する意見」なるものを挙げている。彼がいかなる意見を具申したかは、その後の彼の活躍によって実証されている。ここでこの戦争に対する共産主義者の態度を再確認するために、コミンテルン第6回大会の決議を引用してみよう。

「世界革命闘争を任務とするプロレタリアートは、すべての戦争に無差別に反対すべきではない。すなわちそれぞれの戦争の歴史的、政治的ないし社会的意義を解剖し、特に各参戦国支配階級の性格を、世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならぬ」

「帝国主義国家相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦たらしめることを活動の主要目的としなければならない」

「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、

1.    自国政府の敗北を助成すること

2.    帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

3.    戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行すること

である。帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止するいわゆる戦争防止運動は、拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なくまたはその発展を妨害するような個人的行動またはプチ・ブルの提唱する戦争防止の運動は、拒否しなければならぬ」

と言い、またレーニンはいいかげんで戦争を終わらせ、革命の有望な前途をぶちこわす平和主義者と良心的な反戦主義者を最も軽蔑し、

「戦争は資本主義のもとでも廃止することができるという僧侶的な小ブルジョア的な平和主義論ほど有害なものはない。資本主義のもとでは戦争は不可避である。資本主義が顚覆され、社会主義が全世界で勝利を得たときにのみ戦争の廃止が可能となる」と言っている。

 

軍隊に対する認識

   次に共産主義者が、その共産主義革命の戦略的見地から、日本の軍隊をいかに見たかを検討することは重要である。この問題に関しては、前掲コミンテルン第6回大会の決議ですでに一言しておいたが、さらにこれを具体的に明らかにしてみるならば、

「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争において決定的な意義を有する軍隊に、十分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊がいかなる階級または政策の武器であるかを十分に検討してその態度を決めなければならないが、その場合、決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるかまたはプロレタリア的であるかにある」

「現在の帝国主義国家の軍隊は、ブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第2次大戦の危機を前にして各国ともに人民の全部を軍隊化する傾向が増大している。この現象は、搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生させるものであって、大衆の軍隊化は、エンゲルスに従えば、ブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである」

「労働者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際し、プロレタリアの勝利をもたらす素地を作るものなるがゆえに、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とは、その立場を異にする。我々の立場は労働者が武器をとることに反対せず、ブルジョアのためにする帝国主義的軍国化を、プロレタリアートの武装におきかえるのである」

と言っているが、この基本的立場に従って第2章で明らかにしてきた3月事件、10月事件、5.15事件によって表現された、いわゆる青年将校の思想的傾向を見るならば、そこに極めて重要なる思想的つながりを発見し得るのである。すなわち先に引用した「雄叫び」の思想、さらに2.26事件の被告の獄中手記に、

「大多数を占める窮乏国民の絶望的必死の怒号叫喚と、これに方向を与える新生の覚醒と、何ものをも恐れざる気概と犠牲心とを打って一丸とせる一大国民運動――合法、非合法をはるかに超越せる――によってのみ、改造は断行せられ、退廃衰亡の局所より生新なる大活力を具有する理想国家を生みだし得べし」と言い、

「従来一部有志の運動より、全国民的運動に転身せざるべからず。従来の口舌的運動より転じて、鉄火を呼び、碧血を迸出(ヘイシュツ)せしむる、真摯激烈の運動を展開せしめざるべからず」

と言い、また同じ2.26事件被告の一人新井元陸軍中尉は、

「政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまるはずがなかった。昭和3年来全国を襲った深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じ取ったのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、彼らを貫く思想であった。陛下の赤子と言われるのに、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど働けどその日の生活に喘ぐものがあった。中でも東北地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった」

と言っている。

   日本陸軍のこの性格は、コミンテルンの決議で、その国の軍隊がいかなる階級または政策の武器であるかを十分検討し、軍事組織そのものよりもその軍隊の性格がブルジョア的であるかまたはプロレタリア的であるかを検討して、その軍隊に対する態度を決定せよと言い、大衆の軍隊化は搾取者と被搾取者の関係を軍隊の内部に発生せしめるものであって、この軍隊に対する態度は、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とはその立場を異にすると言っている主張と対照して、極めて重要な意義がある。しばしば述べたごとく、昭和3年以来アジア共産主義革命への方向を驀地に追求してきた尾崎秀実およびその一連の共産主義者が、この日本帝国主義陸軍の反ブルジョア的なすなわちプロレタリア的な、しかして革命的な性格を持つにいたった傾向を見逃すはずはなかった。ここに政治的角度に立脚した素晴らしい謀略の手が差し伸べられたのである。

 

長期全面戦争へ

  秘密の長期戦計画

   ここでどうしても触れておかねばならない重要なことがある。それは陸軍のいわゆる統制派(ファッショ派)政治幕僚と民間左翼理論家の手によって、極秘のうちに作成されたものと称される「長期戦争計画要綱」である。

   これは第2章で述べた10月事件の計画内容の中で、大川周明が、

 「次に事変に処すべき第2段の方法につき考えたのであるが、この方針については6部だけ刷って各自が持つことになった。一体日本の内政がこの体たらくで、自分で政治を消化しきれぬ胃袋の持ち主であってみれば、そのあと満州を如何にするかに思い至るとき、必然的に国内改造断行の急務が認められる」

と言っているものが「タネ本」になったものと推測されるが、当時しきりに喧伝されていたいわゆる35,6年の危機、すなわち、来るべき第2次世界戦争に備うるための長期戦争計画と、この長期戦に備えるための国内政治経済改革案から発展してきたもので、昭和10年の暮れ頃、「日満税制経済研究会」という秘密機関で作成された「戦争50年計画要綱」と呼ばれるものである。

   大川周明の言っている10月クーデター計画の後に作成されたものは、ナチドイツの国家総動員計画と国防国家建設の思想に学んだもので、陸軍におけるこの計画の中心人物は、永田鉄山を中心とした東條英機、鈴木貞一、そして永田幕下の逸材といわれた武藤章、池田純久、秋永月三などで、民間では大川の一派であったらしく、この計画は「日本国家改造要綱」と呼ばれていた。

   著名な政治評論家で、戦時中の軍部事情にも政治上層部の事情にも詳しい岩淵辰雄は、その著「軍閥の系譜」の中で、

 「第2段の方針なるものを6部刷ったと大川が述べているが、後年それが、林銑十郎の手から出たのではないかと想像されたのであるが、誰かが持っているのを、筆者も覗き見を許されたことがある。もっともそれが果たして大川の言う6部のうちの1つであるか否かは不明だが、その扉の表には『日本国家改造要綱』と題してあり、扉の裏には、6部だけ刷って、それぞれの責任者が番号順に従って所持していること、みだりに他見が許されないこと、万一見たものがあったらそれはどうとか処分されるということが書いてあったように覚えている。それを筆者に示した人が説明して、『これは永田の下で、実際には池田純久が執筆したものらしい…』と言っていたが、行政機構の改革から、政治、経済政策にわたって、労働組合に対する規則まで規定してあった。

もっとも本当の瞥見であったから、内容までの記憶は残っていないが、大体どんな人々が民間でこの立案に参画したかということが推測されるような性質のものであった。想像するに、これが後に国家総動員法と広範な統制政策に発展し、満州事変から日華事変、日米戦争と拡大していったところの『戦争指導計画』の基礎、出発点をなした初歩の綱領ではなかったかと思う」

と言っているが、この問題は、筆者にも思い当たる節がある。というのは、先に述べたごとく、筆者は昭和9年、拓務省在職中、陸軍の計画した対満政治機構改革問題で、陸軍と徹底的に抗争し、現地満州にも出かけていって、関東軍司令部に乗り込み(このとき、関東庁警察官5000人が、断じて関東軍の暴挙と戦う、関東軍と敢て一戦辞せずと悲壮な決心をなし、武装対陣していた際で全く両者の連絡が絶たれていた)、当時の西尾参謀副長、塚田第1課長(後の中将)と談判したことがあり、また上京の際、関東庁警察官代表15名を同道し、林陸相にも直接抗議したことがあったが、陸軍は断固として譲らず、何事かすでに一定の計画の下に進められていることが明らかに看取された。その頃、筆者がこの問題の真相を探るために特別情報の線から入手していた資料によると、陸軍の中心部と関東軍幕僚の一部に、軍部独裁政治実現の詳細な秘密計画のあることが推測されたのである。

 次いでこの「日本国家改造要綱」は、岩淵氏の言うごとく、日華事変から太平洋戦争への戦争指導計画に発展していくのであるが、この日華事変から太平洋戦争への戦争指導計画は、前に述べたごとく、昭和10年の末頃、「日満財政経済研究会」で作成されたものと言われる「戦争50年計画」となり、その政治経済の面を担当したものが「政治経済機構改革案」であり、この2つの案は、やがてA・B・C・D作戦計画となり、一部が企画院に移されて、その後の生産拡充5ヵ年計画となり、また、政治経済機構再編成となって現れたものが、近衛新体制すなわち大政翼賛会の結成と「経済新体制要綱」となってくるのである。

   この計画書の作成者が誰であったかは明確にされていないが、軍部では武藤章、池田純久、片倉忠、秋永月三などが関係し、民間では満鉄調査部に食い込んでいた転向、非転向の共産主義者が参画調整されたものであることは大体において間違いないと言われている。

   筆者も昭和18年春、東條内閣打倒運動に奔走していた際、中野正剛の宅で、その一部の写しというものを見たことがあるが、年度割にして、2.26事件から近衛内閣の出現、北支事変、国家総動員法、電力国家管理法案、3国同盟、政治新体制確立など長期の計画が、過去歩み来たった事実と符節を合わせるがごとく記されていたことを記憶している。

   既にかくのごとく、軍部の中心部深く、左翼の政治謀略は食い込んでいたものと見ることが可能であり、したがって表面の政治的処理如何にかかわらず、軍部政治幕僚につぎ込まれた侵略戦争の理念的裏づけは、外部における世論指導と呼応して東亜新秩序の建設、大東亜共栄圏確立へと発展していったのだ。

 

蒋政権の否認と長期戦への突入

   かかる計画のもとに起された日華事変なるがゆえに、近衛内閣の不拡大、局地解決方針もついに、一片の声明として終わり、翌13年1月16日、帝国政府の国民政府否認声明となり、かの有名な蒋介石政府相手とせずの方針となったのである。この政府の方針は、日本歴史の上に極めて重要な意義を持つものであることは言うまでもないが、この政府声明に呼応し、同月19日付け読売新聞夕刊1日1題欄に「長期戦の覚悟」と題する三木清の論文が現れたことは注目に値する。彼はその中で、

「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それはもちろん、新しいことではなく、事変の当初から既に予想されていたことである。今更改めて悲壮な気持ちになることはない」

「長期戦の覚悟として必要なのは強靭性である。長期戦となれば、いきおい局面は複雑化し、思いがけないことの起こってくる可能性も増えるわけであるが、これに処していくには強靭な精神が必要である」

と言っている。三木清が共産主義思想の把持者で、そのために彼は昭和17年治安維持法違反として検挙され、獄中で悲惨な死を遂げたことは周知のとおりである。終戦後彼は戦争に反対したがゆえに軍閥政治の犠牲となって獄死したかのごとく伝えられたが、この読売紙上の一論文でも明らかなごとく、真っ先に長期戦を支持したのは彼ら一連の共産主義者のグループであった。

 

日華全面和平工作を打ち壊した者

   終戦後、新聞紙上にも報道されたが、ここで昭和13年春、すなわち蒋介石政権相手にせずの政府声明直後に試みられた日華全面和平工作と、これを失敗に導いた裏面の事情を明らかにしておこう。

   犬養毅、頭山満、宮崎滔天とともに孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄にあった茅野長知氏は、日華事変勃発後まもなく、昭和12年10月、当時の支那派遣軍司令官松井石根大将の依嘱により、上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて、独自の立場から、事変処理の裏面工作に奔走し始めた。このとき茅野老の秘書兼協力者として終始行動をともにしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に投じ、後、宮崎とう天の一門に参加し、ほとんどその半生を支那問題に捧げてきた松本蔵次氏であった。茅野老は終戦後すでに故人となったが、以下は筆者が松本蔵次氏を尋ね、直接聞いた和平工作の経過と、この和平工作を誰がいかにして打ちこわしたかの真相である。

   昭和13年3月の末、中国側の要人買存得(ペンネーム、国民政府行政院長兼財政部長孔祥煕の恩人の息子で、同院長の意を体し、日華和平工作に奔走していた人物)という人物が松本蔵次氏に連絡を取ってきた。そこで松本氏が上海のカセイホテルで会ってみると、買存得は率直に、

  「このままで行けば日支共倒れとなり、アジア全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」

と言った。松本氏はこの買存得の意見を茅野老に伝え、協議した上で4月20日頃、前と同じようにカセイホテルで第2回の会見を行った。このとき茅野老の出した和平条件は、満蒙問題の承認(満州国の独立承認と、内蒙における日本の立場の承認)であり、中国側の条件は、日本軍の全面的撤兵であったが、この日本軍の撤兵については、日本側が原則的に承認すれば、実際問題としての時期、方法などの具体的処置については、日本側の希望も入れて協議する用意があるという意見であった。そこで現地軍の意向を一応確かめておくこととなり、松本氏は買存得と同行して、特務機関の臼田大佐と会った。臼田大佐も、漢口政府が真剣に全面和平を考えるならよかろうということになったが、さて具体的にこの工作をいかにして進めるかという問題になると、買存得は、

  「日本側の言うことは、いつでも信用ができないから、責任ある者の書面をくれ」

と言い出した。そこで臼田大佐は「それでは僕が書こう」と言うと、買は、「臼田大佐の名前は漢口政府で誰も知らない。誰も知らぬ人の書面など信用しない」と言う。「それなら特務機関長原田少将の書面にしよう」と臼田大佐が言うと、買はまた、「原田少将の名も知らない。信用しない」と言う。そこで松本氏が「茅野長知の書面でどうか」と言ったところ、買は非常に喜んで「茅野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で、茅野先生を知らぬものは一人もありません」と言った。このとき臼田大佐は、「あっけにとられたような顔をしていた」と松本氏は言っているが、この買存得の言葉には深く味わうべきものがある。臼田大佐の名も原田少将の名も知らないと言ったのは、名前を知らないということよりも、軍部の者の言うことは信用できないという意味で、茅野先生なら名刺でもよいと言ったのは、信用のできる人物と話したいという意味だ。

   そこでそれなら茅野先生に直接会おうということになり、4月21日か2日、買存得と茅野老の会見となった。この会見で茅野老は、孔祥煕宛てに日華全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて買存得に渡した。茅野先生なら名刺でも結構ですと言っていた買存得は躍り上がって喜び、この手紙を持ってすぐ香港に行き、当時香港にいた孔祥煕夫人と同道、夫人の自家用飛行機で漢口に飛び、5月始め孔祥煕行政院長の長文の返書を持って上海に帰って来た。この孔祥煕の手紙は、茅野老宛てのものであったが、内容は日華和平の条件、その他今後の日華問題処理に関する詳しい意見を孔院長自身の筆で書いたものであったが、内容はもちろん蒋介石とも協議したもので、

 1.日華双方とも即時停戦すること

 2.日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること

 3.日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的にはこれを承認するが、具体的には日華両国で協議すること

などであった。そこで茅野老は、この孔祥煕の書面を携え、日本政府及び軍部と協議するため、5月6日上海を出発し、9日東京に着いた。東京に着くと軍部では、現地軍からの連絡で茅野老が軍の非行でも暴くために帰ったものと誤解したらしく、茅野老の行動を警戒し始め、まず影佐大佐が老を呼び出して怒鳴りつけ、また憲兵隊に呼び出して調べたりしたが、そんなことを気にするような老ではなく、茅野老は小川平吉氏とも協議した上で、板垣陸軍大臣、近衛首相と談判し、全面和平の実現に努力したのである。その結果板垣も近衛もこの茅野老の交渉と孔祥煕の提案を承認し、この線で日華双方とも、和平実現に努力することとなった。そこで茅野老は、5月17日か8日頃東京を出発、上海に行き、上海に到着と同時に買存得に連絡したところ、ちょうどその頃親日派要人の暗殺事件などあって、買存得との会見に警戒を要したため、2,3日空費したのである。

   その頃、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治氏が、ちょうど上海にいた。松本重治氏は前から近衛とも親交があり、当時日華和平交渉はいくつかの線で試みられており、松本重治氏もその一人であることをかねて聞いていた茅野老は、買存得との会見を待っている間に、松本重治氏と会って、香港方面の事情を聞き、また茅野老からは、買存得との交渉経過をありのままに松本重治氏に話した。あとで茅野老は、この松本重治氏との会見を、「運命の日だった」と述懐していたそうであるが、歴史の方向はわずかなところで全く思いもよらぬ方向に切り替えられるものである。松本重治氏の真意がどこにあったかは別として、この松本氏に茅野老が孔祥煕との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与えたことは事実のようである。この点については後で一言する。

   かくて買存得と会ったのが23,4日頃、話はすぐ行動に移され、茅野老、松本蔵次氏、買存得、それに和知大佐を加えた一行4人は、5月26日船で上海を発ち、香港に向かった。29日香港着、中村総領事の出迎えを受け東京ホテルに入り、早速漢口政府との交渉に入った。これは後でわかったことであるが、この頃松本重治氏は東京に帰っておった。

   6月12,3日頃、居正(国民政府考試院長)夫人が、香港の宿舎に茅野老を訪ねてきた。茅野老はこの居正の娘を養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本も中国も区別はなかった。この居正夫人は孔祥煕行政院長の代理としてきたのである。1人は生みの親、1人は育ての親、この2人が1人は日本を代表し、1人は中国を代表して、両国の運命を決する重大問題を談じたのである。両者の間に話はすぐまとまった。その要領は、

 1.日華双方から正式に代表を出して、即時全面和平の取り決めを行うこと。

 2.中国側の代表は、首席孔祥煕行政院長、副首席居正、何応欽、ほかに戴天仇または張群の5名とする

 3.日本側は近衛首相または宇垣外相を首席とし、陸、海軍の代表を加えて構成する。

 4.場所は、香港港外、日本側軍艦を用いて洋上会見とする。

 5.日華両国代表によって行なう取り決め内容は、日華双方とも、即時停戦命令を発することに署名すること

 6.停戦後の条件は、両国の間で具体的に協議すること

などであった。このとき居正夫人は茅野老に対して、

「茅野さん、これでいいでしょう。戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側から言えば、中国政府の代表としてこの5人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか。捕虜にしたのも同然でしょう。これで日本側の面目が立つでしょうし、中国側もこれだけの政府首脳部5人が頭をそろえて日本側の軍艦に乗り込み、日本に停戦を承認させたということだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります。」

と言っている。実に堂々たる政治交渉である。

   これで話は決まった。そこで6月21日、茅野、松本蔵次、中村総領事の3人はエンプレス・ジャパン号で香港を発ち、上海に帰ってきた。その頃上海には松本重治氏が東京から帰ってきており、国民政府外交部亜州司長をしていた高宗武も来ておった。この両人が何をしていたかは後の話になる。

   茅野老と松本蔵次氏は、すぐ船の手配をして6月28日東京に着いた。着京と同時に茅野老はまず板垣陸相に会って、上述した居正夫人との交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。ところが板垣陸相の態度は前と全然変わっており、板垣は「中国側に全然戦意なし、このままで押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」と言う。そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には7段構えの長期抗戦の用意ができている。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおったところ、板垣は、

「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武を連れてきた。これは高宗武から聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなった。無条件和平論が高まっており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だという話をしていった。軍の幕僚連もこの情報を信じているから、君の取り決めた話は、折角だが、取り上げることはできない」

と言うのだ。この板垣の意見に憤慨し、ただ失望した茅野老は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、また軍の態度がそうなった以上仕方がないと言い出した。

   ちょうどその頃、松本蔵次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及び陸軍と連絡ある連中に会って話してみたが、いずれも板垣、近衛と同様の意見で固まっており、日本の政府及び陸軍の、この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまったことがわかった。そこで松本蔵次氏は茅野老を東京に残したまま先発し、7月始め長崎から上海に船で行き、10日か11日の夜、買存得に会って板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝えた。すると買存得は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行6階に設けられていた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。すると漢口政府からすぐ返電してきたが、それによると、高宗武が東京から漢口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵するという秘密電報が入っていることがわかった。つまり高宗武は日華双方にまったく正反対の情報を送って、せっかくここまで進んできた和平交渉を打ち壊してしまったのである。高宗武がなぜこんなことをやったのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会わしていること、またこの松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であったこと、さらに同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健および汪兆銘新政府の立役者として登場する統制派幕僚の1人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、この高宗武の背後に容易ならぬ深謀遠慮が潜んでいたことを窺い知ることができる。

   高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引き出し工作に転じていくのである。

   しかし、なお全面和平の希望を捨てず、東京に残って政府、軍部と折衝を進めていた茅野老は、7月29日付けで先発した上海の松本蔵次氏宛に出した手紙の中で「天運いまだ来たらず、近衛、宇垣両相の決断できず遂に今日に及び申し候。その理由、漢口政府外交部司長の職にありたる高宗武という者、軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、汪兆銘、張群その他2,30名の協力一致をもって余儀なくせしめる方法ありと申し入れたるをもって、小生などの提案より至便なるゆえこの方法に賛成して、我らの提案を後回しにしたもののごとし」と言っている。

   かくてせっかくの日華和平交渉も実現の1歩手前で打ち壊されてしまった。漢口は陥落し、国民政府は重慶に移ったが、高宗武の言うごとく、蒋介石政権は手を挙げず、茅野老の言うごとく、7段構えの長期戦体制に入った。しかし茅野老はあくまでも重慶政府との和平交渉に望みを捨てず、8月始めに上海を発ち、買存得とともに再び香港に渡り、重慶工作に専念した。松本蔵次氏は上海の茅野公館を足場とし、香港、上海間の連絡に当たっていた。バイアス湾上陸の行なわれた頃、松本蔵次氏は茅野老との連絡のため、上海より船で香港に行った。この船はドイツから受け取った何とかいう船だったと松本蔵次氏は言っているが、この船に偶然乗り合わせたのが尾崎秀実と西園寺公一だった。松本蔵次氏は尾崎とも面識があり、尾崎が船中で西園寺相手に西さん、西さんと何事かしきりに話し合っていたと言っている。この頃松本重治氏も香港に行っており、ハノイに飛んで行った高宗武との連絡に当たっていた。

   松本蔵次氏は、香港滞在1週間くらいで上海に引き返してきたが、帰りの船中でも尾崎、西園寺と一緒であったと言っている。しばらくして汪兆銘が重慶を脱出し、ハノイに来たことが報ぜられた。そして東京の近衛との間に連絡がつけられ、12月22日、後で述べる、かのいわゆる近衛声明となったのである。

 

長期全面戦争への政治攻勢

   ここで一度政界に目を転じ、軍部の全面的長期戦体制が、政治の面にいかに現れてきたかを眺めてみよう。

 第1に、最も重要な意義を持つものは、昭和13年春の議会に提案された国家総動員法と電力国家管理法である。当時政界では日華事変の勃発を中心にして、大体2つの潮流があった。1つは、自由主義的な立場から、感情的に軍の政治干渉に反対する一派と、1つは、この事変によってかもし出された革新への動向に同調する一派とである。国家総動員法は戦争目的のために、国家の総力を動員するための体系的組織法であって、それは長期全面戦争への準備体制であることは言うまでもない。電力国家管理法もその部分の1つをなすもので、重要産業の基幹でありかつ戦時施設と密接な関係を持つ電力事業を、まず軍部官僚の管理下に置かんとしたものであるが、この2法案は軍部の政治力を背景とし、いわゆる革新国策と銘打って押し出されたところに、筆者の言う論理の魔術性が含まれていたのである。この頃から企画院を中心とした商工、大蔵、農林、鉄道などのいわゆる革新官僚が幅を利かせ、資本と経営の分離などの理論がしきりに展開され出した。いわゆる民有国営論である。

   筆者は、国家総動員法の特別委員として、直接その審議に参画した一員であるが、後の軍務局長佐藤賢了の「黙れ」問題がおきたのはこの委員会であった。佐藤賢了は当時、軍務課の1中佐で、もちろん政府委員ではなかったが、この国家総動員法は、電力国家管理法とともに、国防上絶対必要なりと主張する軍部の立場から発言を求め、国防国家論を持ち出して長時間におよぶ演説を始め、この法案に反対する者に非国民、国賊であると言わんばかりの論旨を進めていった。そのときちょうど佐藤中佐の正面にいた宮脇長吉委員がたまりかねた態度で、佐藤中佐の説明に野次を入れたとたん、彼は大声を発して「黙れ」と怒鳴ったのである。この佐藤の一喝が問題となり、あのカーキ色の暴漢をつまみ出せと怒号する者が出るなど大騒ぎとなったが、結局杉山陸相の釈明で落着した。筆者はここで、自分の政治的見識の欠如と不明を詫びなければならないが、筆者もこの総動員法に賛成した1人である。当時、陸軍の推進力によって強引に押し切られたこの総動員体制に反対したのはわずか、政友会の一部いわゆる自由主義者のグループと称された鳩山系の一派その他極めて少数のものであったことを記憶している。この法案が委員会で可決され、本会議に上程されたとき、討論に立った牧野良三君は、本法は全権委任法であり、憲法の精神に反し、大権の干犯だと談じたが、このときから鳩山一郎の一派は自由主義者として軍部から睨まれるようになったのだ。

   この本会議席上、もう1つ極めて重要な問題は、西尾末広君の除名である。西尾君は総動員法の賛成討論をやったのであるが、演説の中で、近衛首相を激励する意味から、スターリンのごとく、ヒットラーのごとくしっかりやりなさいと言った。ところが陸軍は、スターリンのごとくと言ったのはけしからんと抗議し、ついに強引に西尾君の除名を要求したのである。この西尾除名に対する陸軍の腹は、スターリンを礼賛したのが不穏当だというのではなく、むしろそれを口実に軍の威力を示すことが目的であった。我々はこのとき、総動員法には賛成したが議会の独立と権威を守るために西尾除名を要求する軍の暴挙とこれに屈伏した大政党の態度に憤慨して、猛烈に除名反対闘争をやり、筆者は守衛と取組み合いを演じて頭にコブを作ったことを覚えている。このとき長老、尾崎行雄氏は老躯を押して登院し、僕が西尾君と一言一句違わない演説をするから、僕も一緒に除名せよと主張してきかなかった。だが軍部に屈伏した大政党の幹部はこの先輩尾崎氏の演説を阻止して軍部の意を迎えたのである。ここで筆者はもうひとつ懺悔話をつけ加えるが、その前年すなわち昭和12年10月、ヨーロッパ視察の旅に出かけていった中野正剛は、出発に先立ちて、当時、東方会の幹事長をしていた杉浦武雄氏と筆者に対し、「今度の議会に総動員法と電力国家管理法案が提出されるはずだが絶対に反対せよ、特に電力国家管理法案に対してはどんなことがあっても賛成するな。東方会が電力国家管理法案に反対すると、軍部の奴らは中野は電力資本家の代弁者だ、池尾芳蔵に買収されて反対したと言うに違いないが、何と言われてもかまわんから反対せよ、この電力国家管理法案を出発点として、日本の政治も経済も軍と官僚の手に握られ、日本は大変なことになってしまう。絶対に反対せよ」と言いおいていった。ところが議会に臨んでみると、革新国策と銘打たれ、当時のジャーナリズムもこれを進歩的国策の最初の試みとして支持しており、社会大衆党を始めとするいわゆる革新陣営は全部賛成の立場をとっており、この法案に反対することがあたかも反動的な立場にあるがごとき雰囲気であったため、杉浦氏も「中野さんはああ言ったけれども、ここまでくれば反対できんではないか。帰ってきて怒るかも知れないが賛成することにしよう」ということになり、我々もこの両法案に賛成したのである。今にして思えばまことに不見識な話で懺愧に堪えない次第である。

   かくして、国家総動員法と電力国家管理法は成立し、政治の実権を軍部と官僚の手に握られてしまった。政治家は西尾除名の実物教育の前に怖気立ち、議会と政党の権威は急速度に失われていった。

 

新政権工作の謀略的意義

謀略政権の足跡

   漢口政府すなわち蒋介石政権との全面和平工作は遂に失敗した。そして汪兆銘を中心とする新政権工作が始まったのであるが、この問題は昭和13年1月16日声明に遡って考察する必要がある。

  1月16日の蒋介石相手にせずの政府声明は、その後段にすでに新政権への含みがあったことを注意する必要がある。すなわち声明は「帝国政府は、爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して、新生支那の建設に協力せんとす」とあり、この新政権への含みは、同年11月3日の東亜新秩序宣言となり「帝国の中国に求むるところは、この東亜新秩序の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民がよく我が真意を理解し、もって指導政策を一擲し、その人的構成を解体して、更生の実を上げ、新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものにあらず」となり、新政権工作の具体化をほのめかしている。この頃既に先に述べた高宗武の入京によって秘かに進められていた汪兆銘を中心とする新政権工作が、極秘のうちに具体化しており、上海を中心として、軍側からは参謀本部今井大佐、軍務課長影佐大佐、民間では犬養健、中国側では高宗武、梅思平らが中心となり、日華国交調整の基礎条件を協議していた。そしてこの上海を中心とした新政権工作は、高宗武、梅思平によって汪兆銘に連絡し、影佐、犬養の線は近衛に結ばれていた。この裏面工作が、近衛内閣の方針として表面化したものが、かの12月22日の近衛3原則声明である。この声明は言う。

「政府は本年度の声明において明らかにしたるごとく、終始一貫、国民政府の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携えて、東亜新秩序の建設に向かって邁進せんとするものである」

「日満支3国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである」

「日本が敢て大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、また戦費の賠償にあらざることは明らかである。日本は実に、支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである」

   この同じ日、汪兆銘は重慶を脱出してハノイに到着し、同時に近衛に呼応して声明を発することになっていたが、汪兆銘の声明は連絡の手違いで29日の「反共、和平」の通電となった。この汪兆銘の行動に対し、重慶国民政府は、翌14年1月1日、敵国に通謀した反逆者として逮捕命令を発している。ここでもし近衛声明の言葉を逆にして、日本の軍及び政府首脳部に真の具眼の士がいたならば、中国から反逆者として逮捕命令を発せられた汪兆銘を、おそらくは相手としなかったであろう。

   しかるに、この新政権工作を画策せる一派の者は、あくまでも強引にこれを推進し、14年5月にはハノイから上海に汪兆銘を迎え、着々新政権樹立の準備を進め、15年3月31日国民党改組還都の形式で汪兆銘を首席とせる南京新政権の樹立となったのである。

 

汪政権の正体

   ここで筆者は、この南京新政権が何を意味したかの謀略的意義につき一言しなければならない。この22日の近衛声明は一体何人の筆になったものか、当時の書記官長風見章氏は、その内容も文章も近衛が独自で決めて出したものであり、最初の文案は中山優氏の執筆であったと記憶すると言っているが、実際はその構想も文案も尾崎秀美の筆になったものである。この問題に関し、尾崎秀実はその手記で次のように述べている。

「昭和13年春頃より、当時同盟通信上海支局長であった松本重治と、南京政府亜州司長高宗武との間に、日支間の平和回復に関する努力が行なわれていました」「13年春には高宗武が秘かに渡日し、下相談が進められ、松本重治などの斡旋により、近衛内閣も直接工作に携わり、松本重治の友人である犬養健、西園寺公一なども直接交渉の当事者としてこれに参加するにいたりました。私はこの工作には直接参加しなかったのですが、犬養、西園寺などと友人関係にあることや、近衛内閣の嘱託であったことから、この間の状況をしばしば耳にし、また同人などより、この工作につき意見を求められておりました」と言い、また犬養健との関係について「犬養は父親同様、支那問題に異常な関心を持っており、支那事変以後は、支那問題の専門家である私につき種々意見を求め相談するというふうで、私と同人との関係は極めて親しくなっていきました。汪兆銘工作が始まってからは、犬養は当初よりこれに関係し、爾来支那問題に終始してきたのであります」

「犬養は私を信頼するに足る友人として取り扱い、特に支那問題に関しては、私をよき相談相手として種々意見を求めておったのであります。」と言っている。

   この尾崎の手記は、前にも一言したごとく、政治的な考慮から、関係者への影響を考え多分にぼやけたところがあるが、新政権工作の中心人物はむしろ尾崎秀実であったのである。彼はまた別の検事調書の中で、

「日本と蒋介石との直接交渉は早くより香港を中心として小川平吉、茅野長知氏、軍関係者、外務省関係者などそれぞれ別な路線を通じて工作が行なわれておったことは、新聞記者仲間の話、現地での聞き込み、反対の立場に立つ汪兆銘運動関係者の話などから聞いていた。」

と言っているが、反対の立場に立つ汪兆銘派とは犬養、西園寺、松本重治の線であり、実は尾崎自身であったのだ。なぜかく断言するか、それには理由がある。彼はすでにしばしば述べたごとく、共産主義社会の実現に全生命を賭し、一切を犠牲にして傾倒してきた真実の共産主義者であり、日華事変から太平洋戦争へ、そして敗戦への現実的進行は、彼がその手記に描き出した第2次世界大戦から世界共産主義革命への構想と余りにも一致しているからである。

   近衛内閣は11月3日声明および22日声明で「東亜新秩序建設」という用語を用い、これを事変処理のスローガンとしてきたことは周知のとおりであるが、この新秩序なる概念は、尾崎によれば、共産主義的秩序を意味したものである。すなわち彼の手記を重ねて引用するならば、

「帝国主義政策の限りなき悪循環、すなわち戦争から世界の分割、さらに新たなる戦争から、資源領土の再分配という悪循環を断ち切る道は、国内における搾取被搾取の関係、国外においても同様の関係を清算した新たなる世界的体制を確立する以外にはありません。すなわち世界資本主義に代わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められるのであります。しかもこれは必ず実現し来るものと確信したのであります。」

   「日本自身は、私の以上のごとき考え方からすればすこぶる敗退の可能性を多く含んだ国ということになります(注、日本は対米英戦の緒戦においては一応必ず勝利を占めるが、6ヶ月後にはその情勢が不利となってくるという意味)。もちろん戦争はあくまで、世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行なわれるものでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるのでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば、やがて全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じくらいの敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なりドイツなりが簡単に崩れ去って米英の全勝に終わるのでははなはだ好ましくないのであります。(大体両陣営の対立は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になったときに英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換をもって、ソ連、支那と結び、別な角度から英米に対抗する体勢を取るべきであると考えました。この意味において、日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは、大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対要件であるということをしきりに主張しておりましたのは、かかる含みを込めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者ともほとんど矛盾することなく主張されるのであります」と言っている。また彼は

「日、ソ、支、3民族国家の繁密友好なる提携を中核として、さらに英、米、仏、蘭などから解放されたインド、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピンなどの諸民族をそれぞれ1個の民族共同体として、前述の3中核と、政治的、経済的、文化的に繁密なる提携に入るのであります。この場合それぞれの民族共同体が、最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、その民族の独立と、東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を、一応自ら選び得るのであります。なおこの東亜新秩序社会においては、前記の東亜民族のほかに、蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満州民族共同体などが参加することが考えられるのであります。

   申すまでもなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすものでありますから、世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが、相矛盾するものであってはならないことは当然であります」と言っている。

   要するに、尾崎のいわゆる東亜新秩序とは、亜細亜共産主義社会の実現を意味し、世界共産主義社会完成の方向と矛盾してはならないのである。この目的達成のためには、日本やドイツが簡単に敗れ去ることは好ましいことでなく、また日本と蒋介石政権と和平して日華事変に終止符を打つことも困ることであり、日本帝国主義と蒋介石軍閥政権とさらにアメリカ帝国主義、イギリス帝国主義が徹底的に長期全面戦争を戦い抜かねば都合が悪いのである。この尾崎の構想をもって日華事変の通行を判断すれば、日本政府と重慶政府との和平を成立せしめないために何らかの手を打つことが必要であり、そのための手段として考えられたものが汪兆銘の新政権樹立工作と見るべきである。すなわち日本政府及び軍部と一体不可分の関係に立ち新政権を作り上げることにより、汪兆銘を敵国通謀者とし反逆者として逮捕命令を発した重慶政府との和平交渉を永久に遮断する楔を打ち込んだものであり、日本政府と汪兆銘政権が共同防共を闘争目標として掲げたことは、国共合作の上に立つ重慶政府を対象とした苦肉の策と見るべきである。この尾崎をよき相談相手としてその意見を徴し、彼の構想の上に作られた南京政府がいかなる性質のものであるかは説明を要しないであろう。

   この謀略の犠牲となった汪兆銘は、昭和19年11月10日名古屋帝大病院で淋しく死んでいった。彼もまた近衛と同じように、見えざる影の糸に操られて悲劇の主役を演じたロボットだったのである。

 

長期戦への理論とその世論指導

   漢口陥落を契機として、日華事変がようやく長期戦の様相を呈してきたとき、政府の新秩序声明に呼応するがごとく、事変処理の構想として登場してきた「東亜協同体論」はやがて大東亜戦争共栄圏建設の理論体系に発展し、戦争の新しい進歩的倫理的指導理念としてジャーナリズムの寵児となり、遂に日本を悲劇的方向に追い込んでいったが、この新しいテーマが最初に公然とジャーナリズムに提議されたのは、昭和13年11月号「改造」の巻頭論文蝋山政道の「東亜協同体の理論」である。

   彼はこの論文でまず聖戦の意義を説き、その聖戦の意義は東亜に新秩序を建設せんとする道義的目的を有しているところにあると言い、支那事変の本質に論及して、欧州大戦後に作られた国際連盟機構や、不戦条約などが前提としたような、制限された部分的な目的を有する戦争とは根本的に異なり、世界文化史的に見て全面的な論点を含意し、それを決定せんがための戦争であると述べ、今事変の最大の意義は「東洋の統一」への民族的覚醒にあるが、その東洋の統一への現実的過程には、悲劇的な民族相克の運命と西欧帝国主義体制との衝突という障害が横たわっていると論じ、新しい東洋のイデオロギーが先行してこの東洋統一への新秩序が生まれるのではなく、まず砲煙弾雨の間、敵火の洗礼を受けた東亜の合理化としての東亜思想が成長していくのだと説き、その東亜的統一の新秩序は、政治的新体制をもった東亜民族の地域的協同体であり、それは西欧的帝国主義を超克した世界新体制構成の原理をなしたものだと言い、その東亜協同体の政治的、経済的、地域的綱領を示している。

   ついで翌月すなわち昭和13年12月号「改造」の巻頭に三木清の「東亜思想の根拠」なる論文が現れているが、この論文の要旨は、東亜協同体の思想においてのみ支那事変解決の方向は見出せる、しかして東亜協同体は偏狭なる民族主義を超克し、帝国主義、資本主義の問題を解決し、世界を白人的見地からのみ考える思想を打破して、真の世界の統一を実現すべき意義を有している、そしてそれは、東亜の地域に限らず、世界の新しい秩序に対して指標となり得べきようなものでなければならない、東亜の新秩序は、世界の新秩序であり得ることによって、東亜の新秩序となり得るのであると言っている。

   ここで興味深いことは、同じ12月号の「日本評論」に、当時陸軍省報道部長の地位にあった佐藤賢了大佐が、同じ「東亜協同体の結成」なる表題を用いて1文を寄せていることである。その要旨は、蒋介石政権を相手とせず、新興政権の成立発展を助けて、更生支那建設に協力することが今次事変解決の終局の目的であると言い、その更生新支那とは、現在の支那から欧米依存、容共抗日の思想を除いて、日満支3国が真に提携共助し得る支那の姿である、そのためには久しい間支那に加えられてきた西洋の政治的経済的侵略、圧迫、搾取を取り除いて、東亜協同体を結成することが必要であると言い、そしてそのためには、政治、経済、行政の各部門に渡って大改革が必要であり、総動員法の全面的発動が必然であると述べている。翌14年1月号「中央公論」の巻頭には、「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」と題する尾崎秀実の論文があり、この論文は12月22日の近衛声明を引用して、この声明こそ新秩序がおびる最高の政治的宣言が示されたもので、それは正しく東亜協同体的相観を示したものだと言い、東亜協同体の理念が事変に対処すべき日本の根本方策の不可欠の重点となったと主張し、「一身をなげうって国家の犠牲となった人々は、絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。東亜に終局的平和をもたらすべき、東亜における新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない」と断じている。さらに彼は、蝋山政道の「改造」11月号における東亜協同体論を支持し、この事変処理方式を推進するためには、政治的には全国民的統一の政治形態と経済組織の再編成が不可欠の条件だと論じている。

   筆者はこの尾崎の論文についても一言しておきたい。既に述べたごとく、尾崎のいわゆる東亜の新秩序とは、共産主義社会の実現を意味していたのである。この共産主義社会実現の人柱となることが、この事変のために血を流した人々の望むところに違いないと断ずることが果たして許されるであろうか。

   同じ「中央公論」14年1月号に中西功の「占領地区経営の諸問題」と題した論文があり、この論文の内容は「東亜協同体の方向は、近衛首相の声明となってから、現在では非常に広範囲な内容を持つこととなった。しかし東亜の諸民族を統合して平和郷としての東亜協同体を結成すること、しかもそれは日本のみでなく、支那をも含めた一個の発展として結成されること、この新社会のために必要な行動の理論が創造されることは絶対に必要であると言っている。

   更に「改造」14年3月号巻頭に「東亜政局における一時的停滞と、新たなる発展の予想」と題する尾崎の長文の論文があるが、この論文の要旨は、第2次世界大戦勃発の危険を示唆し、日本が東亜において終局的な地位を確保し得るのは、その戦争の終局以前ではあり得ない、その予想と、確固たる日本的政策の遂行力を持たずして、戦争の勃発を待つことは無意味だと言い、第1次近衛内閣の取り上げた、国民再組織問題の具体的解決の必要を説き、さらに日本の主観的条件と東亜の客観的立場から南進政策の必然性を論じ、東亜協同体組織の歴史的意義を述べ、結局東亜政局は極東における英、米、仏自由主義国と、日、独、伊反共国家群との衝突によって新しい展開が予想されると言っている。

   また「中央公論」14年5月号巻頭に「青年知識層に与う、愛国心と民族的使命について」と題した三木清の論文があるが、この論文で彼は、「今日わが日本はかつてその歴史に見なかった重大な時機に直面している。この時機において、愛国心が自己の中に燃え上がらないということは不可能である。もし誰かが愛国心を有しないと言ったとしても、我々はそれを信ぜず、一個の偽悪者であると見做すであろう」と言い、「日本民族の使命として東亜協同体の思想を分析し、この東亜協同体の建設は同時に世界的意義を有するものであって、それはまた必然に国内における新しい秩序の建設を必要とする。日本は聖戦の使命完徹のために、主体的に整備されねばならず、この整備は国内の改革なしでは不可能であろう」と論じている。

   次に注目すべき記事は、同じ「中央公論」14年5月号所載の「第2次世界大戦と極東」というテーマをとりあげた座談会である。この座談会の出席者は細川嘉六、堀江邑一、尾崎秀実、平貞蔵、城戸又一、丸山真男の6名であるが、この座談会において、細川、堀江、尾崎、平のグループが出した意見の結論は、「結局欧州大戦は起こるであろう。起こった場合、日本は独、伊と提携強化していくほかはない。世界大戦が起こった場合、日本が巻き込まれずにいるようなことは単なる仮説で、結局日本も参加する。また大戦が起これば米国もいずれ参加するであろう。要するに戦争なしに新秩序建設の方向に行ける可能性はない」と言うのである。

   この座談会で注目すべきことは、尾崎が東亜協同体の理論家として指摘されていることである。しかもそれが、尾崎と近衛内閣の関係を詳しく承知しているはずの平貞蔵の発言である。尾崎はこの平の発言に答えて、東亜協同体実現のためには、奥地の対日抗戦政府に対抗し得る新政権を作り上げることだと言っている。

   次に最も注目すべき事柄は、その翌月すなわち14年6月号「中央公論」に、「新時代を戦う日本」と題する土肥原賢二の論文が寄せられていることである。その要旨の一説に曰く、

   「今次事変の聖戦の意義は、単に国家が自己の生存上の問題や発展のためにのみ戦っているのではなくして、世界の正義と新秩序と新文化のために戦っておることである。今次事変を契機に、東亜の新秩序、東亜の協同体世界、東亜の新文化、戦争の世界史的意義などなどがさかんに論議されるに至ったのはこのためである」

「東亜協同体の理念は、今次事変の血と砲煙と犠牲と死の中から我々が得た貴重な理念である」

   「東洋は我々の真理で支配するか、それとも我々東洋人は欧米デモクラシーやソ連のボルシェビキの奴隷となるか、我々の理想か、我々の新文化か、彼らの旧支配か、我々の新時代か、彼らの旧時代か、血の決意のみがこの結果に勝利する」

   「ここに我々が今回提唱し、実践しつつある東亜協同体の政治的意義の重大性がある」と言っている。

   この論文は原文のまま要点を抜粋したが、その用語と構想は蝋山、三木、平、尾崎などとそっくりそのままのところがあり、どこからか借りてきたような文章であるが、当時参謀本部にいた土肥原賢二中将が公然と署名して中央公論誌上に載せたことは、注目すべき価値がある。すなわち軍閥とその幕僚の背後に何があったかを物語る有力な証拠とも言えるであろう。

   次に「中央公論」14年9月号巻頭に「東亜協同体と帝国主義」と題した蝋山政道の論文が再び現れている。この論文は支那事変解決の方法は、東亜協同体の建設以外にないという主張を政治学的に論じたもので重要な意味がある。彼は言う、「昨年の秋頃から、東亜協同体が各方面において提唱され、今次事変の終局目標に対する具体的理論の1つとして論議されてきた。今回の事変当初において、政府の事変対策がいかなるものであったにせよ、過去数年にわたってこじれてきた日支関係の盤根錯節(混み入っていて解決の難しいこと)を思うとき、事変の拡大は不可避であり、抜本塞源(弊害の根本原因を抜き去り源を塞ぐこと)の方途以外には遂に事変収拾の方途は見つからぬであろうというのが、この理論の提唱された理由でかつ根本的なものであった」

「東亜協同体は、西の帝国主義に代えるに東の帝国主義をもってするものではなくて、東西において帝国主義体制そのものを棄却し、それに変わって民族と地域と文化の協同体をもってし、全世界秩序の構成に対し一寄与を名さんとするものである」と言っている。

   次に興味ある論文は「中央公論」14年10月号「政治上層部の時局認識を質す」と題した西園寺公一の一文である。彼はこの論文で、第1次近衛内閣が支那事変解決の方途として掲げた、東亜新秩序の建設とその推進力となるべき革新的な国民組織の問題に行き詰って退陣した後に、平沼、阿部両内閣が出現したことに頗る不満を持ち、かかる傾向は政治上層部の時局認識の欠如によるものだと決めつけ、「支那事変解決の根本方針としては、近衛声明に包含された東亜新秩序という観念が、不変の国策として確立されたものと了解している。これは世界史上いまだかつてみることを得なかった戦争結果の方式である」

「この興亜国策は、幸いにして支那にある同憂具眼の士の奮起によって、いよいよ軌道に乗ることを得たのである。すなわち汪兆銘氏の和平建国運動が最近に至って本格的活動を開始し、すでに準備時代の第1段階を終わって新しい段階に入ったのは、我々の衷心から欣快とするところである」と言っている。

   同じ「中央公論」10月号巻頭には、平貞蔵の「欧州動乱と日本」と題した論文があるが、その要旨は、事変解決の方法は近衛声明以来明らかにされた新秩序の建設にある。この方針が実現されるためには、日本も支那も旧態を捨て、東亜における国際秩序の変換を来たさねばならぬ。欧州の動乱はこの根本方針を貫いて、これを具体化する機会に到着したのである。重慶政府は外国の援助を期待し得ず、汪兆銘を中心とする新中央政府は、国際情勢に恵まれて圧倒的に成長するであろうと言っている。

   以上近衛新秩序声明以来、近衛の最高政治幕僚と見なされたメンバーの面々が、筆を揃えて論陣を張り、東亜新秩序の歴史的意義を強調し、東亜協同体の理論体系を展開し、汪兆銘新政権樹立に最大の期待をかけ、日本ジャーナリズムを総動員して世論と国民の目をこの方向に誘導し来たったことは大きな力である。しかもこれらの諸論文を深く味わって読むとき、尾崎がその手記において明らかにした、東亜共産主義社会実現への構想と思想的に相通ずるもののあることを見逃すことができない。