三田村武夫著 自由社
前回までの内容
まえがき
序説 コミュニストの立場から
1. コミンテルンの立場から
2. 日本の革命をいかにして実践するか
第1章 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
1. 裏返した軍閥戦争
2. コミンテルンの究極目的と敗戦革命
3. 第2次世界大戦より世界共産主義革命への構想 ――尾崎秀実の手記より――
第2章 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
1.3.15事件から満州事変へ
2.満州事変から日華事変へ
第3章 日華事変を太平洋戦争に追い込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
1.敗戦革命への謀略配置
2.日華事変より太平洋戦争へ
……
●近衛新体制から太平洋戦争へ
何のための新体制か
近衛を引っ張り出して日華事変から全面戦争への主役を演ぜしめることが、軍閥政治軍人の秘かに計画した最も重要なテーマであったことはすでに述べた。この点は尾崎の構想する共産主義革命への謀略コースの中にも、同じ近衛が最も利用しやすい、また最も利用価値の高い人物として描かれたに違いない。政治軍人の謀略的立場から言えば、近衛は当代第1の声望家で、しかも宮中方面に絶大な信用があり、彼を表面に押し立てることにより政界、財界、官界、言論界いずれも思うままになることを計算したであろうし、左翼の革命謀略の立場から言えば、近衛の進歩的な時代感覚と左翼思想への同情と理解が見逃し難い魅力であったに違いない。この点に関し、近衛の政治幕僚の1員であった風見章氏は、「文芸春秋」昭和24年11月「近衛文麿氏をめぐりて」の回想録の中で、「左翼思想への同情」という一項をもうけ、「近衛氏は、左翼思想にはその運動にも深い理解と同情を持っていた。それの弾圧には、こころよしとしていなかった。第1次内閣で馬場氏が内務大臣をしていた当時である。いわゆる人民戦線弾圧のうわさが伝わり出した頃、確か私が使いにたったように記憶するが、近衛氏の意向として、馬場氏に乱りに弾圧しないでほしい、ことに人民戦線派なるものは弾圧するほどのこともないようだから、それを問題にするのはやめた方がよかろうと言いに行ったことがある」と言っている。第1次近衛内閣で、日華事変を長期戦に追い込む基礎的な条件を作るための主役として踊らされた近衛は、汪兆銘新政権国策の第1幕だけを務めて、これと不可分関係のものと考えられていた国民再組織の問題を取り上げただけで、14年正月早々辞めてしまった。尾崎の調書を見ると、この期間、尾崎が近衛に進言した主要な意見として、
1.支那事変処理に関する意見
2.支那事変遂行の経過についての観測意見
3.汪兆銘工作についての意見
4.国民再組織の1私案
などを挙げており、また尾崎、蝋山、平、西園寺などが前に指摘したごとく、「中央公論」「改造」誌上で筆を揃えて、事変処理のための、すなわち東亜新秩序建設の使命完遂のための国内新体制確立を主張していることは、注目に値する。
かくて近衛は一応退陣し、次に平沼内閣が登場し、その次に阿部、次に米内内閣ができたが、ここに注意すべきことは、陸軍は勝手にいつでも都合のよいときに内閣を潰したり作ったりする力を持っていたことである。
近衛は内閣を辞めた後、支那事変の全面的拡大に責任を感じ、また第1次内閣の経験から何とかして軍部を抑える手を秘かに考えていた。近衛は枢密院議長の職にあったが、地位や名誉に何のこだわりのない彼は、いつでも辞める腹で米内内閣の末期頃から新党運動の計画を進めておった。
近衛の考えは、軍に対抗するためには憲法上独立機関である議会が独自の政治見識と立場をとる以外にないという結論であり、そのためには政党自身がまず独自の見識と立場をとり得る強固なものとなる必要があると考え、秘かに新党組織の構想を進めていた。この点については風見氏も、前掲文芸春秋近衛回想録の中で、昭和15年5月頃から近衛を党首とした新党計画を進めていたと言っているが、筆者もこの近衛の計画を承知していた。というのは、風見氏の言う同じ15年の5月頃すなわち第2次近衛内閣ができる2,3ヶ月前のことであるが、近衛と会ってきた中野正剛から、今度近衛がいよいよ新党を作ると言い出し協力してくれと言うから、君、宣言、綱領、政策、組織要綱の草案を考えてくれという話があり、筆者は仮に「日本国民党」という党名をつけ、宣言、綱領、政策、組織要綱の草案を書いて中野正剛に渡したことがある。
ところが近衛のこの計画を知った陸軍の武藤軍務局長一派の幕僚と、近衛をとりまく尾崎一派の国民再組織論者(いわゆる新体制、全体主義的単一国民組織)は、この近衛の新党計画を新体制政治組織に切り換えるために、米内内閣をやめさせて近衛を再び内閣の首班に押し出した。これにはもう1つ理由がある。それは阿部、米内両内閣の間に、次の飛躍すなわち日華事変から対米英戦争への準備計画が一応整ったので、これを実行に移すために再び近衛を表面に出し、彼の人気と政治力を利用する必要を感じたとみることができる。
かくして昭和15年7月22日第2次近衛内閣の出現となり、同時に新体制運動が開始され、政治の面では国民単一組織の大政翼賛会結成となり、長い歴史を持った日本の2大政党たる政友会、民政党を始め、その他ほとんど全部の政党が解散し、議会は全く権威を喪失し、議員の集団は大政翼賛会の議員部的存在に転落してしまった。しかしてこのいわゆる政治新体制の企画立案は、陸軍の武藤章(軍務局長)、佐藤賢了(軍務課長)、内務官僚の主流唐澤俊樹(前警保局長、後に次官)、山崎巌(次官)、政党方面では大麻唯男、前田米蔵、および地方農村に特異な政治力を持ち、農村官僚の足場となっていた産業組合を背景とする有馬頼寧一派であった。そしてその理論的指導の役割を果たした者が、近衛の外郭政治ブレーン組織として知られていた昭和研究会であった。しかしこの政治新体制すなわち翼賛会組織が、軍部・官僚の前衛機関としてナチ化するに至るまでにはなお相当の経緯があった。近衛は新党計画を翼賛会組織に切り換えはしたが、内心ではこの翼賛会に独自の政治力を持たせ、軍部・官僚に対抗する考えを持っていたのである。ところがいよいよ発足してみると、陸軍の武藤、佐藤の線と内務官僚の手で、地方長官を府県支部長とし、在郷軍人を組織の中核としたナチ的な組織に切り換えられてしまった。このとき重要な一役を買ったのは内務大臣平沼騏一郎である。翼賛会創立当初、近衛から協力を求められ、常任総務の一員として参加した中野正剛は、この軍部・官僚の翼賛会乗っ取り運動に絶対反対し、真正面から攻撃の矢を向け、近衛をして窮地に立たしめたこともあったが、近衛がその性格の弱さから軍部・官僚の攻勢に屈伏したとたん、彼は翼賛会を脱退して反対運動を開始したのである。筆者もその渦中の1人であったからこの間の事情は詳しく承知している。
後に至って(昭和18年の春)、筆者が近衛に会ったとき、なぜ新党計画を変更してあのような翼賛会を作ったのかという話を持ち出したところ、近衛は「なぜあんなことになってしまったのか自分でもよくわからない。ただ自分が枢密院議長を辞めて、新党工作を始めたとたん、また否応なしに内閣に引っ張り出され内閣を作ってみると、野にある場合と立場が違い、誰はいかぬ、彼は嫌いだと言うこともできず、結局いつの間にか皆でよってたかってあんなことにしてしまった。また実際権力を握っている陸軍や内務省がこうするのだと言ってちゃんと案を作ってきた場合、誰もそれはいかぬと抑えるだけの勇気と力を持っているものがなく、結局いつのまにかあんなことになってしまった。この軍部と官僚に実権を握られた翼賛会を何とかする道はないものか」と言ったことがある。近衛は聡明でものわかりがよく、話は聞き上手で誰の話もよく聞いたが、その話や意見の背後に何が潜んでいたかを結局見破ることができなかったのであろう。
この新体制の問題に関して、「中央公論」の15年12月号で、尾崎秀実が「満州国と協和会」と題した一文の中で「第1次近衛内閣の末期に国民再組織の問題が論ぜられ始めたときから、新政治体制の具体的な提案の内に、満州における協和会の組織や経験が多分に取り入れられているのが見られた。本格的な段階に達した日本の新体制の中核組織たる大政翼賛会の構造、特に協力会議には少なからざる類似点が見られる。ともかくも満州協和会の10年に近い民衆組織の実践は充分生かされるべきであろう。もとより日本政治の現段階は、満州のそれよりもはるかに複雑であり高度なものではあるが、日本民族が政治的未墾地に試みた貴重なる実験の結果は、高く評価されなくてはならないはずである」と言っていることは、何ものかを暗示するであろう。
対米英戦争への理論構成とその世論指導
近衛新体制と並行して必然に展開されたものは、対米英戦争への攻勢であった。その政治的処置の重要なるポイントが、日独伊3国同盟の締結にあったことは言うまでもないが、軍閥政治軍人およびこれを裏面で指導している革命謀略指導部の対米英全面戦争へのプログラムと、近衛及びその一連の宮中現状維持上層部並びに政界、財界の指導者層が3国同盟に期待した「勢力均衡平和」への希望とは、正反対の方向にあった。そこでどうしても新体制後の政治条件を、前者の方向に基礎づける理論と世論とを構成しなければならない。
それがいかに巧妙に行なわれたかを、客観的に、現実の資料を根拠として検討してみよう。この問題は重要であるから、その所論は筆者の意訳を用いず、原文のままその要点を抜粋する。
1.事変処理の角度から(平貞蔵) 「中央公論」15年7月号所載
「支那事変が東亜解放の聖戦たる基礎は、その世界性を有することに存する。ゆえに聖戦の遂行は、従来のままの性格、従ってまた世界資本主義との本質的結びつきを放棄しない限り不可能に属する」
「列強の運命と東洋の運命が定まる、数百年に1度しか来ない歴史的転換期である。旧体制において重んずる面子のごときものにとらわれる愚を捨てなければ、傷ついたヨーロッパ勢力がその回復のために東洋の再支配を企てるであろう」
2.世界の運命と日本の望み(蝋山政道) 「改造」15年8月号巻頭論文
「今や世界と人類の前に一個の重大な問題が投げ出されている。世界と人類との運命はどうなるかの疑問これである。遠く満州事変、エチオピア戦争、スペイン内乱などの事件に端を発せる局地的変革から、やがて支那事変の勃発と欧州戦争の再発によって大規模なる東亜および欧州の戦乱に至って、ようやくこの『世界的変革』は単なる変革でなく、何らかの新しい『世界変革』が進行し始めたことを顕現せしめるにいたった」
「この世界の運命の転換を惹起しつつある、現下の世界動乱の革命的諸情勢裡にあって、日本がその神州不滅の信念を一億同胞に確固と抱かしめつつ、その転換を策し、危機を打開していく望みは東亜新秩序の建設方策を推進することをおいて他に見出し得ない。これを目標とする新挙国政治体制の樹立によって、その望みを担っていく強力な体制の実現することが、現下の日本にとって最大の時務であり、最深の政機の所在である」
3.新体制に関連して(平貞蔵) 「改造」15年8月号所載
「今日の世界的変革期において、なおかつ英米への経済依存関係を断つことが、国家存立の基礎をおびやかす所以であるかのごとく考え、英米に依存して旧秩序を維持せんとする人々は今も少なからず存する」
ここで論者は、英米デモクラシー国家群の勢力衰退は必然であると論じ、
「英米への経済的依存関係、従ってまた英米との政治関係に関し、我々は全く新しく考え直す必要に迫られているのである」
「今日に及んで現状維持に執心する人々ありとすれば、それは一身一家の利益のために歴史の歩みに逆行するものであるとされてもやむを得ないであろう」
「世界の旧秩序に結びつく国内旧秩序への執着が日本において一挙に払拭されないのは、相当な理由あるものとせねばならなかった。だが今日の事態はもはやそれを許さない。歴史的転換期に処して、生き、戦い抜き、国家的使命を果たさんとすれば、旧態依然たるを許さないのである。時代の変化に目を覆う者に進歩のあろうはずがない」
4.強力外交論(堀真琴) 「改造」15年9月号時局版所載
「支那事変の勃発は、わが国にも従来の外交理念を清算すべき機会を与えた。わが国は、無意識的にもせよ、あるいは漠然と意識したにもせよ、従来の外交理念をもって律しきれぬあるものを、客観的情勢の中に見出し、いわゆる東亜新秩序の建設という1つの確たる世界的政策的目標を立てるに至ったのである。しかしながら現実においては、わが国はいまだ自由主義的な外交の残滓に災いされて、この目標を実現すべき方策としての外交――世界政策を樹立することができない。我々がわが国外交の無力化を憂うるのも、実はこの世界政策としての外交が樹立されていないということの意味にほかならない。我々は外交が既に全体主義的な概念に変化していること、その理念もまたそれに伴って変化していることを明確に認識し、2000年来のわが国民の歴史的使命に覚醒して、世界の平和に貢献すべき世界政策としての外交を樹立せねばならない。外交強力化の方法はこれ以外にない。」
5.青年の興起と新政治体制運動(細川嘉六)「改造」15年9月号時局版巻頭論文
「英独の戦争において、ドイツが勝つかイギリスが勝つか、いずれが勝つにしても、今日すでに明確な一事は、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカの内いずれか数カ国が協同して、アジア殊に極東アジアに圧迫し来たり植民地、半植民地の再分割を強要することである。」
「かくのごとき事態は世界市場に未曾有の大変動であり、言うまでもなく日本はこの大変動に無関心ではあり得ない。日本が長年大陸に築き上げたものを、すべてあるいは大部分喪失するか、あるいはこれを基礎としてさらに東亜諸民族またはアジア諸民族の真実な信頼を獲得し、諸民族興隆の中心力となるか」
「この内外に迫る事態は、日本史上未曾有の国民的試練である。客観的事態の進行は事実として正に、今日こそ日本青年がその全力を傾倒し興起せざるを得ないことを指示しているのである」
「現時局の重大性深刻性は現在その極点に達している。青年が自任するところに偉大であり、把握する理想に向かって大胆に邁進することは、史上未曾有の現時局が、客観的な巨大事態の力をもって、青年に要請してやまないところである」
6.事変処理と日独伊枢軸(平貞蔵) 「中央公論」15年9月号所載
「ソ連、イギリスとともに、日本に圧力を加えつつある北米は、大なる経済力と軍備を擁して戦争の圏外にある。北米が日本との経済的関係を断てば、依存関係が深いだけに北米の期待を裏切り、日本は敢然起つであろう。だが日本も北米を牽制する手段を有しないわけではない。日米貿易の断絶は北米にとっても打撃であり、日独伊枢軸を強化し、日本が南洋に進出すれば北米は原料において困窮する。もし支那事変を解決し北米に当たれば、アジア南洋より完全に敗退せざるを得ない。北米はソ連と協力せんとしても独伊により妨げられる。イギリスがヨーロッパにおいて全く無力となり、カナダまたはオーストラリアに移ってその移民帝国の残骸を擁し北米と協力するときは、太平洋は正に波高きものとなる。しかしその際といえども、南米は日独伊の市場となる可能性が多く、東亜の指導力は日本以外に移ることはあり得ない」
7.世界政治の道徳的基礎(蝋山政道) 「中央公論」16年9月号巻頭論文
「今日の世界政治には新しい道徳の側面はまだ薄弱である。古き世界道徳はすでに滅びた。また滅ぶべき理由があった」
「日独伊3国同盟が、時として国家の同志的結合と呼ばれるのは決して理由のないことではない。かような同志的国家の共同の志向として考えられている世界新秩序の建設運動が、さらに新しい世界政治への道徳的基礎をいかにして培養するかが、我々にとってもまた世界全体にとっても今後の重大な関心事でなければならない」
「支那事変以来わが国はこの東亜の旧秩序に変革を加えんとして、新秩序と共栄圏の建設に邁進し、聖戦の旗の下にその苦難の道を歩みつつあるのである。東亜の地域こそは、従来の国際道徳を1歩越えた道徳的基礎の上に立つ社会たらしめねばならぬとする国是に他ならない」
「今後米国の参戦その他によって、世界的動乱がいかに旧秩序的形態に転換発展しようとも、わが国は東亜の天地においては、新秩序の理想を実現すべく邁進し、そのために、旧秩序諸国に対する必要な臨機応変の施策を行なうべきである。それがやがて、世界政治をして、新しい道徳的基礎に立たしむる1歩であり、その基地ともなるのである」
8.独ソ戦の進展と日米関係(平貞蔵) 「改造」16年10月号時局版所載
「ヨーロッパから退陣を余儀なくされた場合、アメリカはその生産維持のためにも、巨大な過剰商品の市場を必然にアジアに向け、またアジアの独占的特産物を必要とする」
「現在の世界動乱は、アジアの資源や市場を何らかの形において、完全に再編成するまでやまぬと思われる」
「大戦の帰趨がドイツの不利に進展した場合においても、世界再編成におけるアジアの重要性は毫も減少するものではなく、英米の支那強化がより一層強力に推し進められてくるものと考えねばならない」
「この世界大動乱の中にあっては、まず日本を永久に生かし得る道がいかに困難なものであろうと、確固として把握されねばならず、そのときどきの外交交渉も、究極において、この基本国策を生かし得るごとく進められねばならぬであろう。日本の進むべき道を見つめ、繰り返し強調したいのはこの1点である。」
9.ヴェルサイユ体制の再考察(蝋山政道) 「改造」16年10月号所載
「英米はヴェルサイユ体制の維持を今次の欧州大戦の主要目標としているものであり、ヴェルサイユ体制に対して根本的反省を加えていないことが判明する。それゆえにこそ、いたずらに戦争はその規模を拡大して、世界的戦争に発展する危険性を孕んでいるのである。」
「今日なお重大な問題がある。それは今日依然として英米側がこの過誤に似た考え方をしていることである。それは他でもない、ドイツに対して公然とまた暗にわが日本に対し『侵略者』の称をもって呼びなしていることである。かような一方的な道徳的呼称をなすことが、国際政治の上では最も禁物なのである。然るに前述の英米共同宣言(=1941大西洋憲章)においてしきりに侵略者呼ばわりをしている。この宣言は平和への条項でなくて、戦争への宣言的条項であるとすれば、必ずしもそれを取り上げる必要もないが、もし多少なりとも将来の世界秩序の形成に対する平和条約たる意図を表現したものであるとすれば、それは正にかつての「戦争責任」にも比較さるべき重大な国際的過誤であると言わなくてはならない。そうした過誤を改めない限り、英米は世界平和を宣言する道徳的資格を欠いていると言わなくてはならない」
「今次の欧州大戦の推移が将来いかなる方途を辿るかは、今日にわかに予断できないけれども、この国際政治の道徳的基礎について、人類殊に英米のごとき現状維持の国家群が大いに反省するまでは、真の世界平和は招来し得ない」
10.世界再編成と日本(平貞蔵) 「改造」16年10月号所載
「世界戦争が今後いかなる発展を示すかは予測し難い。独ソ決戦に至るか妥協するか。独英決戦に至るか妥協するか。アジア、ヨーロッパ大陸を通ずる一大協力体制が作られて、アメリカ、イギリスと決戦するに至るか。ソ連の犠牲においてその他の国が妥協するか、アジアの犠牲においてするを考慮するか、アメリカあるいはローマ法皇などの仲介による和平を各国が内心期待しているのであるが、それはすべて各人の予想の範囲を出ない。私が常に憂うるのは、国民の中に、アメリカの真意と真情を知らざる者、またはこれを無視せんとする者の意外に多いことである。アメリカは世界平和のために、国内生活の切り下げをするがごときことはなし得ない事情を有する。アメリカの拡張した重工業力は所詮東洋に向けられる他はない。仮にアメリカと平和的に競争しようとしても、その際日本は極めて不利な条件のもとにおかれる。自由通商が行なわれると考えるのは既に夢であるが、自由通商で日本が優勢を保ち得ると考えるのは一層危険な夢である」
11.大戦を最後まで戦い抜くために(尾崎秀実)「改造」16年11月号所載
「欧州に戦争が始まったとき、人々はこれを英独の決闘であると見た。しかしながら、ソ連をも捲き込んだ現在では、これを第2次世界大戦と見ることに何人も異議をさしはさまないであろう。私見ではこれを世界史的転換期の戦いと見るのである」
「旧世界が完全に行き詰って、英米的世界支配方式が力を失ったところから起こった、世界資本主義体制の不均衡の爆発に他ならないこの戦争が、英米的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から、社会経済的段階に移行するであろう」
「以上のことと関連して、我々は政治指導部に希望したいことがある。当局は日本国民を率いて第2次世界大戦を戦い切る、勝ち抜けるという大きな目標に添うて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ、意味があるものと言い得る。また今日、日本には依然として支那問題を局部的にのみ取り扱わんとする見解が存在している。これは、世界戦争の最終的解決の日まで、かたづき得ない性質のものであると観念すべきものであろう。私見では、第2次世界戦争は『世界最終戦』であろうと秘かに信じている。この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない」
12.企画院の国防国家要綱
かくて16年8,9月から10月頃には謀略配置のあらゆる部署において、対米英戦争への準備を完了したものと推測できるが、このことを実証する資料として16年11月17日発行、新紀元社より出版された企画院研究会著「国防国家の綱領」を検討してみることは有意義である。
この書はその序文の内容から見て、当時企画院審議室の実権を握り、陸軍政治軍人と密接に結合し、表面の主張はナチ的全体主義的綱領を掲げ、その思想内容は、マルキシズムとソ連社会主義計画経済の理念によって裏付けられていたグループにおいて書かれたものであることは、推測するに難くない。冒頭にまず世界戦争は始まったと言い、
「昭和16年6月22日を期して、第2次欧州戦争と支那事変は遂に完全に1つの世界戦争と化せしめられた。独ソ開戦を機として、欧州と東亜における2大戦争は、東西の2大新秩序建設戦を、文字通り世界新秩序建設戦すなわち世界維新戦にまで高めてしまった」
「独ソ開戦は直ちに東亜の事態に影響を及ぼし、今なお重慶に余韻を保って抗戦を叫び続けている蒋政権をして、いよいよはっきりと米英の手先であることを暴露させ、今や英、米、ソ、支による対日包囲陣形が着々として進行しつつあるかに見える。かくして複雑微妙に展開する国際状勢の進展は、大東亜共栄圏の確立に邁進する皇国日本をして、いついかなる事態に立ち至らしめるかも知れぬ。真に一触即発の危機に立たしめ、東亜の風雲益々急を告げて、太平洋の波は正に高からんとしている。
真に皇国日本の現状を凝視するとき、未曾有の難局はひしひしと我らに押し寄せ、国防国家の建設、国家総力戦態勢の整備なくして、この超非常時局の突破は期し難きを覚えしめるのである。世界戦争は始まったのだ。国民は一致団結してこの危局を乗り切らねばならぬ」という書き出しで
(1)転換期の世界史的意義
(2)満州事変の意義
(3)革新と現状維持の相克
(4)世界史発展の方向
(5)皇国の真姿を自覚せよ
(6)国防国家とは何か
(7)国防国家の綱領
など12項目からなる国防国家の構想を述べている。
重ねて言うが、この書物は昭和16年11月の出版であり、その執筆は遅くも10月中に書かれたものであることは間違いない。
以上本項において述べ来たった諸論文とこの国防国家の綱領を対比して検討するとき、筆者の主張する、精緻にして巧妙なる敗戦革命の謀略配置が、鮮やかに浮かび出てくる。
●独ソ開戦とシベリア傾斜論
日本の陸軍は、元来大陸作戦をもって建軍の本義としており、日露戦争以来その戦略配置は対ソ戦に重点を置き、殊に満州事変以来は関東軍が軍略、政略両面で陸軍の根幹をなしておった。その陸軍が本来の作戦基地を捨ててなぜ南方に行ったか、これは重要な問題である。
松岡外相が日独伊同盟締結の余勢をかって独伊を訪れ、帰途モスクワに立ち寄って日ソ中立条約を締結した真意は遂に永久に不明である。しかしながら、歴史の客観的現実は、ソ連に後方の憂いを無からしめ、対独戦の勝利に貢献したことだけは、厳然たる事実である。その政治的価値は小さいであろうが、尾崎秀実と最も親しかった西園寺公一が、松岡外相就任と同時にその政務嘱託となり、訪欧のたびに同行したことも何らかの意義なしとしない。
「独ソ戦の勃発は我々の立場からは極めて遺憾なことであります」
「私たちは世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界共産主義社会の実現を目指しているのであります。従って我々がソ連を尊重するのは、以上のごとき世界革命実現の現実過程において、ソ連の占めている地位を意義あるものとしての前進の一里塚として、少なくともこの陣地を死守しようと考えているのであります。」
と言っている尾崎秀実は、この独ソ戦の開始に当たっていかなる態度をとったであろうか。この問題は極めて重要であるが、遺憾ながら筆者は正確な資料を持たない。ただ彼が、日本がソ連の背後をつく危険を感じ、軍部、政府の要路に対してしきりに説いたシベリア傾斜論なるものがある。この問題について、彼は検事調書の中で
「(1)元来シベリアは独立して立ち得る地域ではない。欧露によってのみ支配さるべきもので、したがって日本がシベリアを領有してみても、欧露に強い政権ができればシベリアはその政権に支配されるであろうこと。
(2)資源の関係から見ても、日本が現在必要とする石油、ゴムのごときはシベリアにはなく、この点からすれば日本にとってはむしろ南方進出こそ意味があること。
(3)現在の日本としてはソ連の内部的崩壊が到来すれば、極東ソ連領は武力を用いずして支配下に収め得るので、殊更武力を持ち得る必要を認めないこと。
などの諸点を挙げて、ソ連に対する攻撃の無意味なることを強調したのであります」
と言っている。このシベリア傾斜論が果たして軍部及び政府をして南進断行を決意せしめる動機になったか否かは立証する途がない。しかしながら、日本の政府及び軍部がいよいよ南進を決定し廟義またこれを裁定したとき、尾崎からこの報告を受けたゾルゲはモスクワのコミンテルン本部に対し「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何」という電報を打ったということを筆者は聞いている。日本を対米英戦に追い込めば確かに任務は終わったのだ。
●かくて太平洋戦争へ
かくて、尾崎秀実がおそらくは逮捕直前に書いたものであろうと推測される前掲「改造」11月号の論文で、「日米外交折衝もまたかかる目的のための一経過として役立たせしめた場合のみ意味がある」と言い残したそのまま、既に準備され、決意されていた対米英戦争を、最も効果的に戦うため、野村大使の平和交渉となり、来栖大使の謀略外交となり、遂に「日本の悲劇」太平洋戦争への突入となったのである。
太平洋戦争開始直後、あたかも尾崎謀略グループの意志を代表したかのごとき形において書かれた蝋山政道の「世界大戦への米国の責任」と題した論文が、「改造」17年1月号に記載されていることはまことに興味深いものがある。彼は言う、
「元来無自覚な国家より恐ろしいものはない。しかも単に無自覚ではなくて、ひたすら自国の優越を見て相手の実情を顧みない驕慢に陥れる無自覚においておや。そは真に人類の歴史において比類なきものである。過去8ヶ月にわたる日米外交交渉における米国の態度こそは、徹頭徹尾この無自覚なる世界政策に災いされて、遂に日米の国交を破局に逢着させたものであるのみならず、しかも最後まで日本の屈服を夢想していた形跡あるに至っては我々はその評すべき言葉を知らない。しかしながらその反面において、日米交渉において、わが国が最後まで外交手段によって解決すべく真摯なる努力を続けるに遺憾のなかったことは、既に大東亜戦争の大転換を見たる今日においても特筆大書に値するものである。」
「米国は、数次の交渉における日本の真摯なる態度を通じて、当然認識し得べかりし答えの限度を悟らず、驕慢にも日本の譲歩屈従を期待したのである。その結果として運命的なる愚かなる選択をしたのである」と。
3.太平洋戦争より敗戦革命へ
●革命へのプログラム
対米英戦争は遂に開始された。軍部と政府は一切の組織と機関を総動員して、聖戦完遂、世界新秩序への戦争をあくまで戦い抜けと叫び続け、ジャーナリズムはまた最大限の表現を用いて戦争への興奮を煽り続けた。だがしかし、その裏面に何があったか、この問題はすでにしばしば述べてきたが、筆者は敗戦の筋書きをさらに明らかにするために、もう一度尾崎秀実の前掲「改造」11月号所載の論文と彼の手記によって、この戦争の表と裏を検討してみよう。
まず彼が、今次の大戦は「世界史的転換期の戦い」だと言ったのは、世界資本主義体制から世界共産主義社会への転換のための戦いだという意味である。だから彼は「この戦争は世界旧秩序すなわち米英資本主義体制に逆戻りする可能性はない」と言うのであり、「戦争はやがて軍事的段階から社会・経済的段階に移行する」と言うのは、敗戦、内乱、資本主義の自己崩壊から、共産主義革命へそして社会主義経済体制建設闘争に移行するという意味であり、「支那問題は、世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものだ」と言うのは、この日華事変そのものがこのプログラムのもとに進められてきたものであり、従って武力戦争の段階が、社会・経済革命の段階に入り、アジア共産主義革命が具体的に日程にのぼるまではそのままだということである。そして彼がこの戦争は「世界最終戦」だと言ったのは、この戦争で世界の資本主義制度が総決算となり、レーニンの言ったごとく、資本主義そのものがなくなるから、従って戦争もこの戦争が最終の戦争となるという意味である。
そこで、この尾崎が、いまだ対米英戦争が始まっていない10月に書いた「改造」の論文は、その含蓄するところ、手記の内容とピッタリ合うのであるが、問題は、「この戦争は必ず負ける」ことを承知の上で対米英戦争に追い込み、日本の政治指導者は国民を率いて第2次世界戦を戦い切れ、勝ち抜けるという大きな目標に沿って動揺するなかれ、日米外交交渉もこの対米英戦に勝ち抜けるという確信をもって、その戦略的な一経過として役立たしめよ、この戦争を戦い抜くために、国民を領導することが戦国政治家の任務だという全く表裏、正反対の意味を持つ残酷な主張を何と解釈するかの点であるが、この点は彼の徹底せる革命家の本質を如実に示したもので、彼のプログラムから言えば、革命への結論の出るまで戦争をやめるなということであり、それはレーニンの言う「有望な革命の前途を打ち壊すような中途半端な平和や、戦争打ち切りは革命のために最も有害だ」ということである。
●敗戦コースへの驀進
かくして、敗戦革命への謀略は完全にレールに乗った。その後になすべきことはこのレールから脱線せしめないこと、すなわち戦争を中途半端で中止させないこと、「政治指導者は日本国民を率いて第2次世界大戦を戦い切る」ことであり、「勝ち抜けるという大きな目標に沿って動揺することなからんこと」であり、「この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務」となったのだ。そのために選ばれた軍閥のチャンピオン東條内閣は、どんな手を打っていったであろうか。国民ことごとく骨身に応えて承知しているから表面の出来事は多く説明を要しないであろう。以下、対米英戦開始以後、この戦争を中途半端でやめないために、戦国政治家が打ち込んでいった戦争政治の楔のみをあげてみよう。
言論結社禁止法の制定
太平洋戦争開始直後に開かれた臨時議会(16年12月)に、まず「言論出版集会結社等臨時取締法」なるものを提案し、一夜のうちに成立せしめた。この法律は、集会、結社を全部政府の許可制とし、軍部、政府、官僚に都合の悪い演説会や結社(政党、思想団体)は一切許可しないこととした。また「人心惑乱罪」という罪の規定を設けて、政府の政策や方針を攻撃したり批判したり軍部や官僚の悪口を言った場合は、厳重に処分されることとした。つまり戦争反対や政府攻撃のできない建前となし、戦時中不平不満を述べることは非国民であり国賊だということになった。本法に絶対反対して奮闘した平野力三君が、卓をたたいて憤慨している場面が瞼に浮かんでくる。
翼賛選挙―東條ワンマン政党の出現
昭和17年4月の衆議院議員総選挙に、翼賛選挙と称する官制推薦選挙を行い、その結果「翼賛政治会」と称する政党をつくった。そして前に述べた言論結社禁止法で、この翼賛政治会以外の政党は全部解散させてしまった。かくて議会は完全に東條内閣の御用機関となり、議会の中でも政府攻撃や戦争批判をなす政党をなくしてしまった。
戦時刑法改正―東條幕府法
昭和18年2月の国会で戦時刑事特別法を改正して、内閣を倒す計画や運動をした者は厳罰に処することとした。また軍部や政府の攻撃をすると「国政変乱罪」という罪で罰せられる規定を設けた。これで東條内閣は「法律の防弾チョッキ」を着たわけで完全に独裁専制の幕府政治がやれることになった。
これでおしまいである。尾崎の立てたプログラムどおり、日本の戦国政治家は、この世界史転換の大戦争を勝ち抜けると確信?して国民を率い、戦い抜いた。そして彼のプログラムどおり、敗戦コースを驀進したのである。筆者は、言論結社法にも推薦選挙にも戦刑法にも反対し、弾圧覚悟で東條内閣打倒運動をやった1人であるが、5人や10人の力ではどうにもならず、結局捕えられて巣鴨に送られただけであった。そして東條の強敵中野正剛もついに憲兵隊に捕えられ腹を切ってしまった。
敗戦経済と企画院事件
敗戦革命のプログラムに関連してさらに一言触れておきたいことは、戦争経済と企画院事件の思想的背景である。
この問題についても、すでにしばしば触れたから多くの説明を要しないが、企画院事件の記録を調べてみると、昭和10年5月内閣調査局設立当時、「民間有能な人材」として採用された高等官職員(今の2級官)の中に、すでに共産主義思想の前歴者があり、昭和12年企画庁、企画院に改組された際、さらに多数の共産主義分子が流入して「高等官グループ」「判任官グループ」などの組織をつくり、満州事変以来朝野に起こってきた「国家の革新」「現状打破」「戦時体制の確立」などの時代的風潮に乗じ、コミンテルン第7回大会の決議「人民戦線戦術」に戦術的基礎を置き、
「官吏たる身分を利用し重要なる国家事務を通じて、共産主義の実現を図るべく相協力して活動し、従来極左的非合法運動に終始せる我が国共産主義運動を、現実の情勢に即した合法場面の運動に戦術的転換をなしたもの」で、その特質は、
「日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において、当面の国家的要請を利用する『上からの変革』すなわち国家の要請する革新に名を借りて、共産主義社会の実現に必要なる社会主義的社会体制の基礎を確立すべき諸方策を、まず国策の上に実現せしめ、もって国家の自己崩壊を促進すべく企図したもの」となっている。
そして、このグル―プの中心人物は和田博雄、正木千冬、勝間田清一、稲葉秀三、小澤正元などであったが、ここに注目すべきことは、立派な学歴をもち、優れた才能を有する人物が、判任官または判任官待遇の地位に甘んじて企画院に入っていたことである。
なお企画院には、このグループのほかに、もう一つのいわゆる「革新官僚のグループ」があった。これは陸軍の武藤章、池田純久、秋永月三、沼田他稼蔵に直結するもので、先に述べた「戦争50年計画」をその年度割に従って、時の政府の政策として実施せしめた一派で、迫水久常(大蔵系)、美濃部洋二(商工系)、奥村喜和男(逓信系)、柏原兵太郎(鉄道系)を中心とし、将校、大蔵、逓信、内務などの官僚と密接に繋がっていたものである。
昭和15年7月第2次近衛内閣の出現により、いわゆる政治新体制、経済新体制問題が政府の重要政策として取り上げられた頃、筆者は、これらの革新官僚としばしば席を同じうし、いわゆる経済新体制問題を論議したことがある。その際筆者は重要なことを発見した。
「このような官僚独善の統制経済を強行すれば、経済機構の根本がくずれて生産力は逆に減退する。生産拡充の目的と反対の結果を生ずるのではないか!」
「現在のような資本主義経済組織では絶対にダメだ。長期戦に備えるためには、資本主義的な営利経済機構を根本的に改めて、本格的な戦時計画経済体制をつくる必要がある!」
「経済機構の根本的改変によって、時間的に空間的に『生産力減退』という空白ができるじゃないか!」
「それはやむを得ん……戦争は長期戦だ、100年戦争になるかも知らない!」
「戦争は今やっているのだ、現在の生産力が減退することは、現在の戦争に負ける結果となるじゃないか…」
「戦争の将来は長い…1年や2年の時間的空白はやむを得ない犠牲だ!」
およそ、このような問答を幾度もしたことがある。そこで筆者は昭和16年2月15日衆議院の治安維持法改正委員会で「結果の認識と目的罪の成立」という刑法学上のテーマを取り上げ、戦時経済の実権を握っているいわゆる革新官僚が、この統制経済(計画経済)を実施すれば、少なくとも一時的には経済機構の混乱を来し、戦時生産力の面に時間的に空間的に空白の生ずることを認識し、しかしてこれを強行することは、その生産力減退による敗戦の結果をも認識するものであり、治安維持法にいわゆる「国体変革」の目的罪が成立することとなるという論理を持ち出し、司法省政府委員と論議したことがある。
企画院事件の記録が官憲の手ででっち上げられたものか、あるいは本人の自由意思によって述べられたものか、これを確認する途がない。ただ客観的事実は、この記録にあるがごとき結果を招来したことだけは歴史が実証している。
また別の「革新官僚のグループ」が主観的にどんな思想を持っていたかを確かめる途はないが、資料に加えた「国防国家の綱領」から見ても、ナチ的なファッシズム的表現形式は採っているが、理念的な裏づけにはマルキシズム経済理論の思想体系が流れ込んでいることは否定し得ない。
さらにもう1点つけ加えたいことは、戦時中これらのいわゆる「進歩的革新官僚」によってしきりに唱えられた「営利主義、自由主義の否定」である。
「この戦時下に、自由主義的な営利主義を考えたり、個人主義的な自由経済を考えるものは国賊だ。一切を挙げて国家に奉仕せよ、戦場の将兵を思え…」
といった調子のお説教である。そしてついに「産業奉還論」まで飛び出した。「わが忠勇なる将兵は戦場で国家に命を捧げている。資本家財閥はその生産権を国家に奉還せよ」と言うのだ。
軍閥政治軍人の先駆的役割を果たした橋本欣五郎が、日華事変勃発以来「大日本青年党」を率いて大いに活躍したことは周知のとおりであるが、彼は、昭和14年10月の機関紙「太陽大日本」に署名入りの運動方針を載せ、
「戦場における将兵は全く一体となり、生死を共にして、高貴なる国策の遂行に生命を奉還している。国内において一部資本家が厖大な利潤を独占するがごときは、戦場の将兵や英霊の前に断じて許さるべきではない…」「…戦時下、殷賑を誇る大軍需工業は、精根を枯らしつつある勤労者の血と汗があることを忘れ厖大な利潤を資するがごとき資本家はまさに国賊である…」と論じ
① 軍需工業の国営
② 電力事業の総国営
③ 金融事業の国営
などを主張し、
「経済奉還は金融奉還に始まる。すなわち営利主義的金利の廃止であり、国策的金利となる。そして金融国営の実現とともに、金融に対する営利主義的支配力はなくなり、国家の金融に対する支配力は国家生産に動員される…」と言っている。陸軍大臣の訓示と社会党の綱領をチャンポンにしたようなこの変てこな論理がどこから出てきたのであろうか。その源流が「戦争50年計画」にあることは推測するに難くないが、筆者が冒頭に述べた革命謀略の巧妙なる「ロジックのマジック」が、この戦時経済政策の中にも奥深く浸透したものと見ることができるであろう。
かくして敗戦へ
以上述べてきたごとく、日本の敗戦は最初からプログラムの中に書き入れてあったのだ。だがこの正確な筋書きを知っていたものは極めて少数の、おそらくは数名ないし10数名の者に限られていたであろう。同じ日本の革命ないし改造を目的としていたとしても、いわゆる青年将校の中から生まれた革命思想はあくまでもファシズム革命で、それは天皇の下に国家至上主義と、一君万民の平等主義に立脚した倫理的正義感に発足したものであった。従って一部の論者が言うごとく、いわゆる軍閥政治軍人が客観的には容共派であったとしても、主観的には敗戦主義を肯定していたのではなく、あくまでも「戦争に勝つこと」「勝てること」を信じていたものと見るべきである。そうでなければ、敗戦革命の筋書きを書く場合、この政治軍人を謀略の対象とすることは危険なのである。「勝てる」と信じ「天皇革命」が可能だと信じているところに利用価値があったのだ。したがって彼らは敗戦革命への協力者であったが同志ではない。また近衛周辺のいわゆる進歩的理論家が敗戦謀略の同志だったとも思われない。彼らもまた政治軍人と同様に、その進歩的思想家、学者の自意識のために、意識せずして敗戦革命への巧妙なる謀略戦術に利用された、「意識せざる」協力的同伴者となったものであろう。企画院の革新官僚、人民戦線フラクション、昭和研究会の進歩的理論家にしても同様なことが言えるだろう。だが、しかし、歴史的現実の客観は、あくまでも共同の責任である。知らなかったとか、そんなつもりではなかったとかの言葉ですまされるような生易しい問題ではない。8000万国民の苦痛だけではなく、東亜全民衆に、さらに米、英その他善意なる世界の人類にも禍害を及ぼした世界史的な重大問題である。
最後に、プログラムのしめくくりをつけておこう。
太平洋戦争開始直後、先に述べた言論結社弾圧法の登場を見て「謀略にやられた」と見た我々は、何とかして過ちを小にして食い止める途を探した。シンガポール陥落の直後、正確な日は2月7日夜、海軍の長老、兵学、海戦の権威と言われた中村良三大将と中野正剛は密かに会合して「即時休戦、全面講和」の方策につき協議した。筆者も同席した1人である。すでにイギリスの有力筋と何らかの連絡がついているらしい模様であった。そして中野は近衛と東久邇宮へ、中村大将は海軍首脳部へ、それぞれ手を打つ申し合わせをした。しかし結果は東條の怒りを買っただけのようであった。このときのことではないかと推測されるが、元海軍軍令部総長豊田副武氏は、「文芸春秋」昭和25年新年号「謬られた御前会議の真相」のなかで、
「…シンガポール陥落後英国からの申し入れがあったと言われており、また米内大将はシンガポール陥落後に終戦とすべきであったというような意見を述べたと聞いているが、そういうことを米内大将が自発的に考えたのか、あるいはそういったような外交上の経緯があって、米内大将がそれに対する所見を披歴したのであるのか、またいつ行なったのか、その辺は私は知らない。シンガポール陥落即終戦決意の説は、果たして英国から申し入れがあったのかどうかは知らないが、国内の戦争反対論者がそのように考えるのは当然であって、過誤をいつまでも続けずに早く悔い改めるのがよいじゃないかと言うのは無理もないが、この問題を客観的に見るととてもその実現は考えられない。何しろ緒戦の戦火に酔った軍部の鼻息は大変なもので、もしこの軍部の強い力を抑えて終戦に導くような大きな政治家とか、あるいは政治力とかいうものが当時あったならば、もっとさかのぼってこの戦争を始めずに済んだだろうと考えざるを得ないからである」
と言っているが、まことにその通りで、このときの終戦提議など、戦争反対論者の気狂い沙汰としか見られず、鼻息の荒い軍部は相手にせず、客観的に見てとても実現は考えられなかったであろう。しかしもう1歩踏み込んで観察すれば、その鼻息の荒い軍部も終戦提議をすぐ戦争反対論者とみる見方も、みな「戦争を中途半端で止めるな」という謀略の手に乗っていたのだ。
もう1つ最後に書き加えなければならない謀略の幕切れがある。筆者は昭和19年2月、保釈で巣鴨を出てから、身柄を裁判所に預けたまま前の倒閣運動を続けておった。19年7月東條は遂に形で退却したが、後に出てきたのは、また同じ系列の小磯内閣であった。そして「あくまで戦い抜く」決意で20年の3月まで来た。その頃筆者はどうにも我慢がならず、近衛、鳩山、天野氏等と共に戦局転換につき協議しておった。3月23,4日の両日、湯河原の別邸にいる近衛を訪ね、最後の決心を促したところ、彼は、
「ここまでくれば命は投げ出している。しかし僕が決意しても、前のごとく従来と同じような形で総理大臣になっても何とも致し方がない。僕はこの頃、明治初期の荒波を乗り越えてきた三条や岩倉が、なぜ太政大臣の地位にいたかよくわかってきた。1国の責任を負うためには、兵馬の実権をも完全に握らなければどうにもならない。軍部に命令し得る立場に立たなければ、総理大臣になっても前と同じことでどうにもならない。…」
と言った。ところがこの方法はたった1つしかない。海軍大臣か軍令部総長または内大臣から陛下に申し上げて、勅命で近衛に特別の権限を与える以外に方法はない。どうしてこれを実現するか、海軍の米内は優柔不断で駄目、木戸は陸軍を恐れてとてもこの大役を引き受けそうもない。いろいろ協議しているうちに、豊田副武大将が陸に上がって軍令部総長のイスに就いた。当時まだ現職の議員だった筆者は口実を設けて豊田大将を訪ねた。率直にこの戦局をどうするかと談じ込んだところ豊田大将は、「政治的断あるのみ…」すなわち外交的「断」をやって戦争をやめる以外手はないという。誰がそれをやるか、近衛はいかにと言うと、ここまでくれば近衛公が決心する以外にない、近衛さんが本当に腹を決めてやるなら協力しようという話になった。ここまで話がくるうちには副官や憲兵にじゃまされながら3,4回会ったと記憶している。そこで軽井沢に行って近衛に会った。たしか6月の末であった。近衛にその話をすると近衛も真剣に腹を決めたらしく「死ぬことは簡単だが…ただ死んでも国は救えませんからね。…」
と言い、それから、
「昨夜鳩山君に会った。7時頃から12時過ぎまで話し込んできた。鳩山君が、近衛君、君は一殺多生ということを知っているか、100人を生かすために1人を殺すことだ、8000万日本国民を救うために100人か200人の軍閥を斬れ…お公卿さんの君にそれができるか、その決心がなかったらとても日本は救われん、君がもう一度出てみても駄目だ、と言った。鳩山君の言う通りだ、僕はその決心をした。ところで、僕にああ言った鳩山君は軍閥征伐の荒療治に協力してくれるだろうか。…」と言った。そこで筆者は、
「鳩山さんは政治家です。あなたに強要して自分は責任回避するようなことはしないでしょう」と言って別れ、鳩山氏に会ってその話をし、再び近衛を訪ねて再確認し、近衛公の意見で、筆者が木戸を訪ね近衛がいよいよ最後の決心をした旨を告げる役目を引き受けて東京に帰り、7月8日、麻布の和田邸(木戸の実弟)を訪ね、木戸にこの話を伝えて帰った。
問題はこれからだ。その直後、近衛自身上京して木戸に会い、陛下にも直接お会いしたはずだ。そしてその結果どうなったかというと、これは近衛から終戦後聞いたのであるが、木戸か、陛下から直接にか、その点近衛ははっきり言わなかったが、とにかく外務大臣か総理大臣に相談した。ところが近衛にそれほどの決意があるならモスクワに行ってくれということになり、その準備をしているうちにポツダム宣言が出てしまった、というのである。
先にも述べたから繰り返さぬが、当時外務省条約局長の職にあった萩原氏が言っているごとく、外務省も陸軍すらもソ連が参戦するなどとは夢にも考えていなかったのだ。ところがソ連の参戦はちゃんと予定表にあったのだ。そのモスクワへ「もう降参しようと思うから仲裁して下さい」と言って行ったのだ、笑えない喜劇である。
そして20年の悲劇「軍閥狂騒曲」は、プログラムどおり8月15日を以て前段敗戦の幕切れとなった。
さてこれからどうするか。
後段の共産主義革命実現への新しい幕が開かれたのであるが、最初のプログラムと現実の進行過程に2つの大きな変更が加えられたことを一言しておかなければならない。
第1の点は、革命の時期である。最初のプログラムは、大体19年の暮れ頃か、20年の春頃ソ連および中共と連携、協力を得て敗戦の泥沼にあえぐ前線の兵士をプロレタリア同盟軍の武装に置き換え、国内プロレタリアートと結合せしめて敵前転回を敢行し、1917年3月―10月の革命に持っていく計画であったに違いない。そしてもし客観的主体的条件がそれを可能ならしめないときは、最後まで戦争を追い込み、敗戦の混乱に乗じて一挙にまずブルジョア民主革命を断行する、すなわちブルジョア封建政府を打ち壊して民主主義革命をやる、そして共産主義革命に移る計画であったろう。ところがこの筋書きの作者兼演出者が昭和16年10月に捕えられて巣鴨に行ってしまった。
次に第2の点は、プログラムになかった米英軍が日本本土に上陸してきたことだ。
上のごとき2つの重要な点に変更が加えられた。さてしからばどうするか。
第1、ブルジョア民主主義革命が現実の日程に上ったのだから、この民主主義革命の過程において、プロレタリア共産主義革命すなわちプロレタリア独裁政権樹立への障害物をできるだけすみやかに取り除く、すなわち
(1)ブルジョア政府の権力的支柱の打倒
(2)政界、財界、官界などから革命の防波堤となり得る一切の条件と勢力の一掃
(3)労農革命への主体的条件の整備すなわち共産党を主体勢力とした民主人民戦線の結成
第2、革命への客観的、主体的条件成熟と同時に一挙にプロレタリア革命に突入する。ただし、これは必ずしもいわゆる武装蜂起の暴力革命のみを意味しない。客観条件の正確なる分析判断に従って戦術的に決定する。
新しい歴史への日、8月15日、この日をもってこの暗黒時代への回顧を終わる。国民―人民―はプログラムの後段の途を選ぶか、それとも、20年間目隠しされて歩かされてきた暗闇の途に憤激し、覚醒して、別の新しい、明るい、自由な道を選ぶか、それは自由な人間に与えられた基本的権利だ。
あとがき
悪夢の15年、悲劇の昭和政治史を回顧し終わって、まことに感慨なきを得ない。ことに戦時中衆議院に議席を持っていた1人として全国民諸君に謝すべき言葉がない。軍閥官僚に阿諛迎合、追従した一連の政党、政治家の不甲斐なさを責めてみても、同じ政治家の一人であった自分の責任を免れることはできない。私は、政治こそ一国の――そして同じ社会条件のもとに生きていく多くの同胞の運命を決する最大の、最高のものであること、そしてその政治は、常に大衆の中に、今日の言葉で言えば「人民の中」にあらねばならないこと、更に常に掘り下げ掘り下げて、真実の「あるべき姿」を正確に把握しなければならないことを、この稿を進めるペンを通して、改めて切実に、骨身に刺すほど痛感したことを告白せざるを得ない。そしてさらに、政治は平面的な現実面の中にあるのではなく、立体的な歴史過程の中に、見えざる大きな流れとして絶えざる成長を続けていくものであること、権力の上に築かれた空虚なる政治支配は、見えざる社会の底流を累積して俄然たる崩壊を馴致するものであることを切実に学び得たのである。
アメリカの故ルーズベルト大統領は、スターリンとのヤルタ協定に煩悶してその死を早からしめたと伝えられている。最近米国では戦時中の政府施策または要路の人々の行動に過誤なかりしかをしきりに検討しているかのようである。例えば、ヒス事件およびその一連のいわゆるスパイ容疑事件のごとき国会の委員会で熱心に論議究明され、司法権の発動すら促している。戦争に勝ったアメリカにおいて然り、しかるに史上未曾有の過誤を犯した日本において、その責任の究明を一切連合国側にのみ委ね、自ら深く反省するところ少なきはなはだ遺憾に堪えない次第である。前者の覆るを見て、後者のいましめとするとは、我々が古くから教えられてきた言葉であるが、我々はもっと真剣に過去を反省する必要があるのではないか。
最後に、この昭和政治史の中で、最も重要な役割を果たしてきた尾崎秀実君について、別な立場から一言しておきたい。彼は私と同郷の岐阜県出身である。日華事変の始まった直後、風見章氏から「すばらしい人物を発見した。これが本当の進歩的愛国者というのだろう…」と聞かされたのが、この尾崎秀実君であった。その後私も2,3回は尾崎君に会っている。しかし思想的に何ものか別のものを秘しているかのように直感されたので、立ち入った政治論など試みる機会もなかった。
ところが、昭和18年12月15日、私が巣鴨拘置所に送られていったとき、尾崎君はゾルゲと共にこの巣鴨の拘置所にいたのである。この頃は既に死刑の判決が下されていたはずであるが、私は拘置所の廊下で尾崎君がハンカチを振り、ニコニコとしてゾルゲと挨拶を交わしている姿を2度ばかり見かけた。何事か大事を成し終わったという感じの、少しも動揺の見えない落ち着いた態度であった。
その頃彼は、妻に与えた書簡の中で、前にも一度その一部を引用したが、
「元来私にとっては思想なり、主義主張なりは文字通り命がけのものであったことは申すまでもありません。したがってそれを根本的に考え直すということは、一度死んで生きかえるにも等しい困難なことだったのです。しかしながら一度これを成し遂げた後はほとんど想像も及ばぬ確固たる平安の境地に達したわけであります。この点は命がけで思想し行動したものだけが知るところで、到底失礼な言い分ですが、駆け出しのマルクス・ボーイのいわゆる転向者などの理解し能うところではありません。」「私は時局の緊迫に圧され、ふと目の醒めたとき、順逆を誤ったことに卒然思い至ったときには何とも言えない焦燥を感じました。ああ、もし僕がこんな立場になかったら、どんなに国家のため有力な活動を成し得ただろうかと。しかし実に今は平静な気持ちにあることは、英子もよく存知のとおりです。この境地に達し得た理由は、実に国家の生命と栄光の永遠なることに対する確信を得たからであり、このよき国の土に融け込むことを喜びとするに至ったからであります。生死を越えた落ち着きは、我々にあってはただの宗教的な信仰だけからは由来せず、国家と民族の悠久性の確信に立つものと悟りました。」
と書き送っている。すなわち彼は1度死んで生きかえるにも等しい困難な思想転向を成し遂げたと宣言し、ふと目が醒めて順逆を誤ったことに卒然思い至ったときには何とも言えない焦燥を感じたと告白している。そして、
「今の私には内部には多くの思想と貴い経験の集積が満ちているのです。しかし客観的にもまた主観的にもそれは絶対に許され難いことでしょう。永遠に私一個の内部のものとして地下へ持って去りましょう。それでいいのです」
と言っている。
順逆を誤ったことに卒然思い至り、一度死んで生きかえるにも等しい思想の転換を成し遂げた尾崎秀実が、その多くの思想と貴い経験の集積の中から、永遠に彼一個の内部のものとして地下に持ち去ったものは果たして何であったろうか。昭和17年初頭に書いた手記の中で、あれほど断固として共産主義者としての信念を述べている彼が、静思2年、既に確定した死を前にして、貴い経験の集積から悟り得た新しい人生の道――私は、後日、この新しいテーマを取り上げて別の一編をつづりたいと思っている。
共産主義の問題は、たとえ万巻の書物をひもといても、書斎の思索からは断じてその本質は把握し得ない。マルクス主義も共産主義もその真髄はあくまで政治綱領であり、実践の哲学だ。したがって、これを肯定することも否定することも、実践の中から学ばなければならないことを切言して本章の結語とする。
書評
読売新聞社社長 馬場 恒吾
三田村君の「戦争と共産主義」を読んで驚異の目を見張らない日本人がどこにあろう。我々は今、太平洋戦争に敗れて以来惨めな5年間を経験した。日本の歴史は日本がこれまでに戦いに敗れた記録を持たなかった。太平洋戦争が初めてである。元より少しでも常識のある日本人には、世界を敵とするごとき戦争が、そうした結果になることは初めより明白であった。だから真珠湾攻撃の瞬間まで、そんな馬鹿げた戦争を始めようとは大抵の人が思わなかった。それが実際に起こったとラジオが知らせたとき、我々は思わず「しまった」と叫んだ。そして取り返しのつかないことを始めた日本の軍人の愚かさに愛想を尽かすのみであった。
三田村君の著書を読んで多くの日本人は再び驚きを新たにするであろう。この無謀な戦争を起した軍人の背後には彼らを操っていた者があることを暴露しているからだ。それは他でもない、尾崎秀実やゾルゲなど共産党員たることが暴露して死刑に処せられた連中である。彼らの行動は、世界をソヴィエトの支配下に置かんとする共産党の方針に従って行動したものである。その内情を知ってか知らずしてか、彼らと同種類の行動をしたものは今なお日本に活動している。三田村君はこの書において驚天動地の警鐘を鳴らしている。我々は一度はこの警鐘に耳を傾ける必要がある。
評論家 岩淵辰雄
満州事変から、太平洋戦争に敗れるまでのことは、日本の歴史において、大きな秘密であると共に、世界の歴史における謎である。軍部を中心にして押し進められた事変と戦争の表面的な経過は、東京裁判の記録によって概略が明らかにされた。しかしそれは軍部ファッショの面からその辿った道筋を明らかにしたに過ぎない。殊に、そこには東京裁判という、一定の制約があって、取り扱われた資料も太平洋戦争に重きを置いた傾向があり、歴史の本当の秘密に触れようとしなかった。戦後になって、いろいろな日本人によって、当時の回想・思い出の形で公にされた文書も多量に公刊されたが、そのいずれもが、その人たちが置かれた地位と立場から経験と見聞を基にして書いたもので、事変と戦争の性格なり世界史的な面からこれを解剖したものではない。
三田村氏の「戦争と共産主義」はそういう意味で、今まですべての人から閑却され、見落とされていた歴史の秘密を明らかにしたものだ。
「我々は一切の戦争に反対するものではない、共産主義国家に対する戦争には絶対に反対するが、資本主義国家間の矛盾と戦争は、極力これを増長せしめよ」というレーニンの指導精神は第1次大戦以来、世界に投げかけられた大きな懸案であったにもかかわらず、第2次大戦は、レーニンが希望したような方向に向かって、資本主義国家間の共食いの戦争になった。満州事変以来の日本の軍部ファッショの進んだ道も、ソヴィエトに対しては、極力衝突を避けつつ、抵抗力の弱い中国に向かって東亜同胞相食む侵略のコースを取り、次いで、太平洋戦争に突入して、大日本帝国の滅亡を見るに至った。
日本の多くの知識人は、当時日本共産党が弾圧し尽くされて、表面から姿を消していたことをもって、戦争と共産主義との関係を抹殺しようとする傾向がある。彼らには、政治の実際が、一般知識人の理解や認識以上に、はるかに複雑にしてかつ微妙なものであることが呑み込めないのである。なるほど、当時いわゆる日本共産党なるものは弾圧されて、その姿を消していた。しかし、日本共産党が消えてなくなったからといって、共産主義の世界革命の政策が日本から姿を消したわけではなかったのである。
「戦争と共産主義」は、その世界史的な秘密に、日本人として初めて研究の手を伸ばしたものである。しかも「戦争と共産主義」は、すでに過去になった戦争時代の秘密あるいは謎に、解明の機会と緒を与えただけではない。敗戦後の現在から、将来の日本に対して、大きな警告を与えるとともに、『冷たい戦争から熱い戦争』に当面している世界にも、新しく示唆と啓蒙を与えるものである。私はこの書を大方の人々に、必読の好書として推薦するに躊躇しないものである。
評論家 阿部眞之助
陰謀はいつでも敵を敵として正面から立ち向かわず、敵の中に隠れ、敵の心臓に食い入って、敵を倒す。ヒトラーのマイン・カムプには、5列活動がいかに効果的であるかを、言葉を尽くして説明していた。これは多分共産党からの借り物だったと思われるが、彼らの腹中に、共産党の秘密活動が食い入っているのに気がつかなかったのは、今にして思えば迂闊きわまる話だった。私たちは、ゾルゲ事件が暴露したとき、想像もつかない怪奇な出来事に目を見張った。しかしこれは東洋の片隅に起こった偶発的な出来事として、軽く見過ごされてしまった趣がある。深く、広く、そのよってきたる根源を見きわめ、掘り下げようとはしなかったのである。
私たちがもし、第2次世界大戦の原因のすべてを、共産党の陰謀により、挑発されたものと解するなら、それは甚だしく偏った見解と言わなければならないだろう。だが共産党の挑発が有力に働いていたことも、疑うことのできない事実なのである。おそらくこの活動は、世界中が赤色の一色で塗りつぶされるまでは続けられるだろう。私は共産党活動の性格から描き出した架空の問題として、これを言っているのではない。日本の当面する現実の問題としてこれを言っているのである。日本の労働運動や学生運動が、どうして必要以上にまで険悪の形相を持たねばならないか、底を探れば必ず底に探り当たるものがあるはずだ。
三田村武夫著「戦争と共産主義」は、これらの疑問に明解に答えてくれる。それは過去の戦争における共産主義活動の解剖というだけのことではなく、現実の日本の問題を処理する上に、欠くことのできない基礎的な知識を提供するものであろう。
リーダーズダイジェスト・日本支社社長 鈴木文史朗
「戦争と共産主義」の中心題目は、共産主義者尾崎秀実がゾルゲらと謀って日支事変を逆用して敗戦必至の日米戦争にまで追い込み、それにより共産主義日本を建設しようとしたところにあるようだ。尾崎は10余年朝日新聞の記者であったが、彼が大正の末頃、入社試験に合格して東京朝日の社会部に入ったときの社会部長は、筆者であった。彼の履歴書によると、一高から東大と優良な成績を続け、さらに大学院まで卒業していた。それにしては、社会部記者としての彼は、特ダネをとることも文章を書くことも全くダメであった。学校の秀才、新聞記者としては必ずしも優秀ならざる例に、私はいつも尾崎のことを考えて、新聞学の講演に話したりした。
彼は愛想がよく、腰も軽く、新聞原稿として書くものはいずれも平凡であり、何の特色もない男と私は思っていた。確か私の下に3年くらいいて、それから東亜部に移り、大阪朝日の同部に回され、運命の上海へ、支局員として転出したものであった。
後で、彼が左翼張りの中国に関する論文で売り出したとき、彼の社会部記者時代の先入観から、3年や4年上海にいたくらいで中国通となりすました彼の器用さには驚いたが――そんな才があろうとは思えなかったので――私は彼の論文を信用せず、ほとんど1つも読まなかったと思う。
彼が朝日を辞めてから、風見(章)や近衛のところへ出入りし、待合遊びなどを盛んにやっていると聞いて、彼も政界をお出入り先にする世間師になったのかくらいに思った。
ところで、戦争中ゾルゲ事件が明るみに出て、彼がその主役と聞いて、今度は本当に驚いた。私の印象に残っている彼は、そんな大それたことのできる人物とはどうしても思えなかった。
彼の死後出版された「愛情は降る星のごとく」という少女雑誌の題目のような彼の遺文集が、あまりに評判が高く、左翼の文筆陣は彼を殉教者のように祭り上げたので、一冊買ってみたが、私には3分の1も読めなかった。書いてあるのは彼の一面ではあろうが、他の半面を知り、彼の人物を知っていると、本気になって読む気になれなかった。「目的のために手段を選ばず」という共産党の根本思想を実行して、祖国を戦争から戦争へと駆り立てた揚げ句、陰謀が暴露して獄に入れられ、もう逃れないと観念して、しおしおとして殊勝なことを書き綴ったものがあの書ではないか。
三田村君が多年の研究により書いた「戦争と共産主義」は、今この時期に日本国民に示唆するところが非常に多い。この書の中に記録されている尾崎のグループの中には、免れて恥なき何人かがいはしないか。彼らがいわゆる同伴者でなかったとしても、一尾崎にものの見事に駆使されていたわけである。
現在の日本には、第2、第3の尾崎がうようよしているように思われる。また第2、第3の尾崎に駆使されている学者や新聞記者も少なくないようだ。三田村君の精励克苦な研究と鋭利な史眼で、この書の結論――現在の日共党員の活動とその最終目標――を書くことを奨めたい。
東京大学総長 南原 繁
「我々の眼に覆われていた多くの秘史について知ることは、今後祖国の再建にとって極めて重要な意義を持つものと存じ、興味をもって拝読しつつあります」
早稲田大学総長 島田孝一
「この度のご出版により、私としてはいまだ充分にしておりませんでした種々の真相をはっきり把握することが出来ましたのは、何よりの幸せでありまして、この点に対しては殊のほかありがたく思っております」
元慶応義塾大学塾長 小泉信三
「共産主義者が戦争誘発を企つべきことは、彼らがその主義に忠なる限り当然為すべきことの1つであろうとは存じますが、その確証と見るべきものは存じませんでした。御新著の着眼の一点はここに存するもののごとく、小生としてはいまだ断定には憚りますが、かかる事実もあったのかと思わしめるものが多く、深き注意をもって拝読いたしました。ドイツその他の国々でも、日本でも、かつてナチ、ファッショ運動に狂奔したものが、今日赤旗を担い歩く事実は最も顕著であり、ここに社会学者の特に留意すべき問題があるように存じます」
最高裁判所長官 田中耕太郎
「昭和政治秘史の名に背かざるものなることを通読により了解、資料を含めて極めて有益に存じ候」
元大審院判事 飯塚 敏夫
「早速開放して読み始めましたが、正直のところ少なからず驚かされました、実に容易ならぬことだと思いながらだんだん読み進んでいます。読めば読むほど思い当たることばかりで、なるほどそうだったかと思い、過去を改めて反省しています。何に致せ、時務に適切至極な驚醒の書で、これを著された御骨折に敬意と感謝を捧げます」
序 岸 信介
知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日「岸先生、大変な本を見つけました。是非ご一読下さい」と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読むほどに、私は思わずウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽を潰し、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相を始め、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた繰り人形だったということになる。
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、しかるに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり判事を勤めたのだから、まことに茶番というほかない。
この本を読めば、共産主義が、いかに右翼・軍部を自家薬籠中の物にしたかがよくわかる。なぜそれができたのか、誰しも疑問に思うところであろう。しかし考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)は、ともに全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべきほど今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。
国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結意向は筋書き通りにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して間断なく続いていることを知らねばならない。往年のラストボロフ事件、また最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角に過ぎないのであろう。
これを食い止めるには、自由主義体制をとるすべての国家が連帯して、「自由と民主主義」をがっちりと護り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。
私は、私自身の反省をこめて以上のことを強調したい。またこのショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。
復刊に際して 遠山景久
私はかねがね、大東亜戦争の真の原因について、疑問を持っていた。
かつて、論争社という出版社を経営し、「コミンテルン・ドキュメント」という膨大な単行本と「リヒアルト・ゾルゲ獄中手記」を出版した際、国際共産主義運動史の文献をずいぶん調べたが、ゾルゲ・尾崎事件の真相及びその背景はなかなか解明できなかった。
また、日本陸軍が、その主力を関東軍に注入し、多年にわたって対ソ戦を想定して、日夜、猛訓練を重ねてきたにもかかわらず、なぜ、突如として対米戦――大東亜戦争に踏み切ったのか、その理由が今日まで解せなかった。
ところが、最近、ある学者たちの会合の席で、偶然この疑問に対するヒントを与えられ、血眼になって探し発見したのがこの本である。
本書は、昭和25年、「戦争と共産主義」という題名で初刷りが発売されたが、当時は占領中であり、GHQ民政局ではアメリカの共産主義者が主導権を握っており、同局の検閲官によって、この本は発売禁止になってしまったと聞いている。
爾来、今日まで、この貴重な歴史の真実を語る文献は、陽の目を見ることなく埋もれていたのであるが、遂にこれを発見し、ここに世に出すことを得たのは望外の喜びである。
なお、前記「リヒアルト・ゾルゲ獄中手記」の中で、ゾルゲは次のように、自己の実行を総括し告白している。「私と私のグループの活動は、直接、ソビエト連邦将来の繁栄に貢献し、また間接には、世界革命のために貢献した。我々はソヴィエト連邦のためだけでなく、共産主義革命のためにも働いたわけである」と。
「大東亜戦争の真の原因、すなわち正しい歴史の真実」が今初めて、本書によって脚光を浴びることになったわけである。
この真実が広く世界に知られることによって、自由のために貢献できるならば、これに勝る幸はないと思う。