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活 動 報 告report

 日清・日露戦争の原因と日韓併合             平成27年5月17日 作成 正岡 富士夫・文責


Ⅰ はじめに(「侵略」とは)

  我が国は侵略国家であったのか?「侵略」という言葉は、戦後日本の外交や国民の心を金縛りにしてきました。支那と韓国は口を開けば、我が国に「侵略の歴史を直視せよ」と責め、謝罪が足りないと言い募ります。我が国を貶めようとする人々は、大東亜戦争に止まらず、日清・日露戦争に溯って我が国の歩んできた道を侵略だとして誹謗中傷します。世界の中で、我が国一国だけが侵略者であり、その他の国は常に受け身の平和志向国家であったかの如き論で、我が国が戦争を仕掛けられないような仕組みを作っておけば世界平和が保たれると考えているようです。

 近現代史に限れば、我が国が日本列島を離れて対外的行動をとったのは明治以降であり、それ以前即ち江戸時代の日本は鎖国政策をとって、外国へのアクセスを積極的に行うことはありませんでした。明治に入り、最初に対外的行動をとったのは、明治7年に征韓論と関連して台湾へ出兵[1]したこと、明治8年に日本の軍艦が朝鮮の砲台と交戦した「江華島事件[2]」の2件に過ぎません。これらを日本の侵略行動の先駆けの如く言う人もいないではありませんが、当時の明治政府はいわば生れたばかりの乳幼児のようなもので、明治9年から10年にかけて頻発し、西南の役でやっと終止符を打った内乱対処に忙しく、とても対外的に積極的な行動をとれる状態にはありませんでした。

 明治27(1894)8月から翌284月までの日清戦争、明治372月から翌388月までの日露戦争が、近現代における我が国の本格的な対外戦争であり、それは現代日本の繁栄に向かって一つの大きな節目となる大きな出来事でもありました。この二つの戦役に勝ったこと、更にはその戦い方の内容が欧米諸国を様々な意味で感嘆・感服させたことがなければ、我が国が英米等の欧米先進国と肩を並べる大国になることもなかったし、従って米国と激烈に戦った大東亜戦争も起きなかったに違いありません。その代わり、白人の有色人種に対する優越思想は些かも否定されることなく存続し、アジア・アフリカ諸国の有色人種国家・民族は今も白人国家の支配の下に呻吟していなければならなかったでしょう。

 日清・日露戦争の背景・原因・経緯・結果・影響などをきちんと理解することこそ、私たち日本人が誇りを取り戻す出発点でもあるのです。この両戦役に勝つことで、我が国は結果的に台湾と朝鮮を統治下におくことになりました。日本は台湾や朝鮮、後にはパラオ諸島などの南洋諸島などを統治しましたが、その統治の内容は、イギリス・フランス・オランダなど白人欧米諸国が行った植民地支配とは全く異質なものでした。ですから、それらを植民地と呼ぶのは正確な歴史理解ではありません。「日本国内地」に対する「日本国外地」と呼ぶのが正しいし、戦前はそう呼んでいました。政府は、外地を内地同様或いはそれ以上にお金をかけて発展させるべく努力しました。

ともあれ、日本を侵略国家と見る人たちは、日本軍の侵略的軍事行動でもってこれらの外地を獲得したわけですから、日清・日露戦争は侵略戦争だと言うわけです。

では「侵略戦争」とは何か、「侵略」とは何か、その定義・解釈は明確になっているのでしょうか。紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王は、中近東からエジプト、さらにインド西部までまたがる大帝国を建設しました。その過程でアテネを初めとする多くのギリシャの都市国家はもちろんのことペルシャ帝国などの大国家を武力によって征服しましたが、この有名な英雄・アレキサンダー大王の大遠征を称えることがあっても侵略だとして非難する人は世界中どこを探してもいません。また、ローマ帝国はイタリアの都市国家から征服行動を繰り返し大帝国へと成長しましたが、それを侵略行動と呼ぶ人はいません。13世紀には、チンギス・カンとその子供たちは、他民族の大量虐殺を繰り返しながら西は東欧のハンガリー、東は朝鮮に及ぶユーラシア大陸の大半を領土とする巨大帝国を築き上げましたが、それを侵略と非難する話を聞くことはありません。なぜでしょう?

「侵略」という言葉は中世以前の地球にはなかったからです。中世以前の世界では、一つの民族が他民族を、一つの国家が他国を武力によって攻め滅ぼし、支配下に置くことは日常茶飯事、当然すぎるほど当然なことで、良いことでも悪いことでもなかったのです。むしろ、広域国家の誕生によって文明・文化の交流を促進するというメリットの方を高く評価する考え方の方が主流です。「侵略」という概念そのものが中世以前の世界にはなく、「侵略」の言葉・意味が人々の考えの中に存在しなかったということです。

1618年から1648年までヨーロッパ全域で行われた三十年戦争の結果、その講和条約として締結されたウェストファリア条約において、初めて神聖ローマ帝国内の諸侯の国々に「主権」と外交権が認められ、「主権」という概念が登場しました。「主権」は、他国の干渉を拒否できる排他的権利ですから、この権利が認められることに相対して「侵略」という概念が生まれたのです。つまり「主権」を侵害すれば、それは「侵略」になるわけです。近代以降の世界を支配したのはヨーロッパの帝国主義ですから、「主権」「侵略」という概念は世界共通のものとなりました。

とはいえ17世紀において「侵略」が外交文書等によって明確に定義されていたわけではありません。19世紀においても至高の存在者である主権国家は相互に対等であるので、戦争は一種の「決闘」[3]であり、国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていました。

初めて国際社会で戦争の違法化が決められたのは、昭和3(1928)年のパリ不戦条約(戦争放棄に関する条約)でした。しかし主権国家が自己保存本能に基づく自衛権を持つのは当然であり、条約交渉の過程で自衛戦争は違法ではないことが確認されました。不戦条約は、ケロッグ米国務長官とブリアン仏外相によって提議されたことから、ケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれていますが、提唱者であるケロッグ国務長官は「自衛戦争」について次のように言明しました。「自衛権は、関係国の主権の下にある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約の下においては、自衛権がどんな行為を含むか又いつ自衛権を発動するかについて各国自ら判断する特権を有する。その場合、自国の判断が世界の他の国々によって是認されないかもしれないという危険はあるのだが。合衆国は自ら判断しなければならない。・・・そしてそれが正当なる防衛でない場合は、米国は世界の世論に対して責任を負うのである。単にそれだけのことである」と。これは「世界世論に対して責任を負う」すなわち「自衛ではなく侵略とみなされる」のは、負けた場合だけであると宣言しているに等しい声明であり、現にアメリカは、湾岸戦争など中東における武力行使を上記論理によって自衛権の発動とし、ロシア・支那など一部の国を除き、それを是認しました。

不戦条約(1928.8.17) (日米英独仏伊ソ等63カ国が加盟)

1条 締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、且つその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す。

2条 締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因の如何を問わず平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す。

3条 (批准と加盟手続き規定につき省略)

 不戦条約とは、国際紛争を解決する手段としての戦争を禁止することを謳い、その行間において自衛戦争を担保していると解釈できます。そして自衛権の行使に関する決定と裁定は各当事国の権利に属するというのです。「自衛」の名目によらずして戦争を行う国がどこにあるでしょうか?あらゆる戦争当事国は、ロシア(ソ連)のように明白な侵略国家でさえ、自国の戦いを「自衛戦争」であると主張し正当化してします。自衛権を認め合い、しかも自衛権の発動が正当なるか否かの判断が当事国に委ねられている場合、「戦争法規」の宣言や条約が如何に空しいものか、多言を要しないでしょう。米国人の中には「不戦条約は“新年の決意”あるいは“サンタクロースの手紙”の如きものである」と嘲笑する者さえいました。

 不戦条約においても、侵略の定義はされず、侵略か否かは当時国が判断するというものでした。そして第二次世界大戦・大東亜戦争ではどうだったのでしょうか。東京裁判がそれを如実に証明しましたが、「勝者=自衛」、「敗者=侵略」という大前提の上に裁判が行われました。

 戦後になって、昭和49(1974)1214日、国連総会において「侵略の定義に関する決議」が採択されました。それによると、「侵略」とは「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」であって、次のような行為を侵略行為としています。

 武力の先制使用を絶対要件とし

②軍隊による他国領域への侵入、占領、全部または一部の併合

③軍隊による他国領域への砲爆撃、兵器の使用

④軍隊による他国の港、沿岸の封鎖

⑤軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に対する攻撃

⑥受入国との合意に基づいて他国に駐留する軍隊の合意を逸脱した違反駐留

⑦外国駐留軍が第三国への侵略行為を許容する受入国の行為

⑧上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を行う集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与

 ただしこの定義はあくまでも国連安保理事会が侵略行為か否かを判定する基準として定められたものであり、国際条約のように批准国が全て拘束されるものではなく、また、国際法上の一般的な定義と言えるものではありません

また、国連憲章51には、「安保理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と明記されており、自衛権は国家固有の権利として認められています。

 従って、結論として言えることは、自衛戦争が認められる限り(認められなくなることは、地球統一政府ができるまであり得ないが)において、全ての国は自国の行為を正当化するため、相手方を侵略者と決めつけ、水掛け論が飛び交うだけのことであり、武力の先制使用についてもよほど明白な証拠がない限り、お互いに相手が先仕掛けたという水掛け論に終始する可能性が高いということになります。

 「侵略」とは?「勝てば官軍(自衛)、負ければ賊軍(侵略)というのが冷静な結論であり、それは未来永劫変わることはないでしょう。国内と違い国際社会では、戦争に負ければ、どんな正しいことをしていても、悪者になり犯罪者になるのです。そして勝てば人道上の罪など国際法違反の罪を重ねても免罪されるということになるでしょう。つまり負けること自体が大罪なのです。

Ⅱ 日清戦争

 1 排外主義の朝鮮

日清戦争は、日清間の直接的な利害対決(両国間の領土紛争等)ではなく、朝鮮問題に起因して起こりました。我が国と支那は近代の初めから敵対関係にあったと考えるのは大間違いで、日本と支那とは平等・対等の関係から出発しました。このことは明治4(1871)年に結ばれた両国間の最初の条約である日清修好条規が完全な対等条約であったことを思い起こせば十分でしょう。

 日清修好条規は18カ条で構成されていますが、その条文には格調高く両国間の友好が謳われています。例えば第1条は「こののち両国はいよいよ和誼を厚くし、天地と共に窮まりなかるべし。両国の領土は互いに礼をもって扱い、いささかも侵越することなく、永久安全を得させむべし」と記され、甚だ趣ある格調高い文章で両国永遠の親交を力強く約定しています。この条約で重要な点は、日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合うことによって完全な平等条約となっている点です。

 かように立派な条約が両国間に交わされているにも拘らず、日清戦争が勃発し、この美しい条約である修好条規は廃絶されました。国際情勢が変われば、かくも簡単に反故にされるのが友好条約だという史実も忘れてはなりません。戦争状態の発生は当事国間の一切の条約関係を廃棄させます。日清戦争後、明治29年に結ばれた日清通商航海条約は先の修好条規と違って、勝者たる日本にのみ治外法権を認め、また清国に関税自主権がないなどの点で不平等条約でした。この不平等条約の改正をめぐる日支の意見の相違と紛議が、後年、満洲事変へ発展する両国間の一大懸案となりました。それを思えば満洲事変の種子は、既に日清戦争の中に蒔かれていたといえます。

 明治新政府は明治元年(1868)1月、世界各国に王政復古の旨を通告しましたが、朝鮮については従来朝鮮との接触に当ってきた対馬藩主・宗義達を通じて、維新による王政復古の事情を告げ、修好回復を希望する旨の政府の国書を提出しました。しかし朝鮮は、国書に「皇室」「奉勅」「朝廷」などの文字があるのは旧例に反する上に、従来は朝鮮が与えた印章を使用していたのに、今回は新しい印章が使用されているという理不尽な理由で修好提議の受理を拒否したのです。

 500年近く支那に服属してきた朝鮮にとって、「皇」「勅」「朝廷」などの文字は支那のみが属国に対して使うべき文字と考えられていたからです。そして朝鮮側は、「皇・勅」等の文字を使うのは、朝鮮を日本の「臣隷」とする野望を示すものであるとの言い掛かりをつけてきました。

 明治29月、我が国は朝鮮外交を対馬藩主・宗氏の手から外務省の所管に移し、同年12月、外務省官僚を釜山に派遣して、維新通知の国書への回答を督促させますが、朝鮮は頑として応じません。翌明治310月、我が国は使節一行を渡朝させ、外務卿よりの書簡を示して国交を求めました。我が国が宗氏を介せず、直接に提出した最初の国書でした。この書簡には「皇」「勅」「朝廷」など、かつて朝鮮との間に摩擦を生じた字句は一切避けて使用していませんでしたが、朝鮮側はこれをも拒絶し、交渉はすべて宗氏を介すべしとの旧例を固守して譲らず、使節一行は空しく釜山に留まること1年有余にして帰国する始末でした。この間、国王の実父である朝鮮執政府の権力者大院君は、八道各地に「斥洋碑」を建て、攘夷と侮日の意気は高まる一方であったといいますから、最近の韓国によく似ています。

 明治5年、朝鮮政府は我が国の朝鮮における外交事務所である釜山の草梁和館への薪炭・食糧の供給を断つなどの敵対的な行動に出ます。翌6年、朝鮮の排外気運は更に高まり、草梁和館の門前に侮日告示を掲示するまでに我が国への敵対意識を露骨に表します。現在、ソウルの日本大使館前に慰安婦像を設置するのと似ています。この報が東京に達するや「朝鮮討つべし」の気運、つまり征韓論が一気に高まりました。

 征韓論がその後どうなったかは西郷隆盛の死で終わる西南の役としてよく知られているところですから割愛します。ところが前述した江華島事件が起こることによって、思わぬところから朝鮮との国交問題が解決します。

2 日朝国交正常化

   明治8920日、朝鮮西岸の航路研究を行っていた軍艦雲揚号が、飲料水を求めようとして江華島に近づいた時、突如同島の砲台より強烈な砲撃を受ける事件が発生しました。

 日本国旗の模本は既に朝鮮政府に交付してありましたので、艦長は、マストに軍艦旗を掲げ日本の公船であることをアピールしましたが、朝鮮は発砲を止めません。やむなく雲揚号は反撃を加え、陸戦隊を上陸させて砲台を占領し、武器を捕獲して長崎に帰着しました。

 艦長の報告を受けた日本政府は、問罪の使を派遣すべきことで一決、参議・中将の黒田清隆を全権として渡朝させることになりました。翌明治92月、「朝鮮側が国書を拒絶したこと」及び「雲揚号を砲撃したこと」この二点について朝鮮側全権と談判しました。朝鮮側はさまざまに弁解しましたが、終に修好を開くことを承諾し、227日、「日朝修好条規」が調印されました。これは朝鮮が外国と結んだ最初の条約でした。因みに韓国の史書は、雲揚号事件を、日本が侵略的意図から計画的に惹き起した事件であると記しています。

 この日朝修好条規第1条は「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を有せり」と謳い、朝鮮の独立自主を明言し、第4、第5条は釜山の他に貿易港2か所の開港、第10条は朝鮮開港場における領事裁判権を取極めています。いわゆる治外法権です。これは一見不平等のようですが、江戸時代には、朝鮮で罪を犯した日本人は、和館館主(総領事に相当)に引き渡され、犯人は身分に応じて館主が裁くか、対馬に送還されて藩主が藩の法規慣例に従って裁判する慣わしでしたので、単に旧例に従っただけで、旧例の大好きな朝鮮にとってはむしろ当然のことでした。条約に基づき、我が国は朝鮮公使館を首都・漢城に開設し、幕末以来途絶していた日朝国交はここに漸く正常化したのです。

 さて、清国及び朝鮮と我が国の関係や国交正常化に至る経緯について、教科書は次のように書いています。

[清と朝鮮国との関係] 清とは、1871年、対等な立場での条約(日清修好条規)を結びました。清と朝貢関係にある朝鮮国は、欧米に対して鎖国し、また、新政府との国交を結ぶことを求めた日本の要求も拒んでいました。

 政府内には武力で開国をせまる主張(征韓論)が高まり、1873年、いったん使節の派遣が決定されましたが、欧米から帰国し、国力の充実が先であると考えた岩倉具視や大久保利通は派遣を中止させました。その結果政府は分裂し、使節の派遣を主張していた西郷隆盛や板垣退助などは政府を去りました(明治6年の政変)

 その後、日本は朝鮮に開国を求める交渉を進め、1875年の江華島事件をきっかけに、翌年朝鮮との間に、清の宗主権を否定し、独立国と認める条約(日朝修好条規)を結び、朝鮮を開国させました。しかし、その内容は不平等な条項を押し付けものでした。また、この条約は、近代的な国際法に基づく欧米型の外交関係をアジアに持ち込んだもので、中国を中心とするアジアの伝統的な国際関係と対立することになり、日本と清は、朝鮮に対する主導権を巡り、次第に対立を深めていきました。

(東書24年度版154頁~155)

 

 

 3 自主・進取の気概なく権力争いで混迷を深める朝鮮

   明治8(1876)年開国した朝鮮においては、鎖国・守旧派の大院君は失脚し、王妃閔妃の一族が改革派を取り込んで、近代化政策に着手します。しかし、閔妃政権は、国富の充実と国政の近代化に対して明確な思想や展望を持ち合せていた訳ではなく、時の流れに身を任せて閔氏一族の繁栄を図ることを最優先にしていましたので、官制の近代化を行ってもその要職には能力や適性には関係なくことごとく閔氏一族やその縁者を充てるという有様で、李朝の発展を阻害した勢道政治そのものに戻ってしまいました。乏しい財政であるにも拘らず、王室と閔氏一族の浪費、横領、中央から地方まで行きわたった汚職など、政権は腐敗しきっていました。それでも貧窮生活を強いられて苦しむ一般民衆からは、厳しい税の取り立てが行われていました。

閔氏一族政権の改革派官僚は、日本近代化に倣わんと、明治14(1882)年に大規模な視察団を我が国へ派遣し、同年末から翌15年春にかけて、陸軍工兵堀本少尉を招いて新式軍隊を編成するなど軍制改革を断行しました。このような革新の風潮に対して、儒学生など守旧派や軍制改革で罷免された兵士達は当然深い怨みを抱いていました。明治15(1883)723日、役人による腐敗米・砂・糠の混入した俸給米の不正支給が明るみに出たことをきっかけに旧兵の暴動が起きると、それに便乗した大院君が反乱を煽動したため、閔氏一族政権に不満を抱く一般民衆は暴徒化し、兵の暴動と合流して大暴動へと拡大して行きました。この乱を「壬午の軍乱」といいます。この乱によって日本公使館が襲撃され、日本人の多くが殺害され、花房公使以下少数は済物浦(仁川港)に逃れ、命からがら帰国しました。

 朝鮮では大院君が政権の座に返り咲きました。花房公使の報告を受けた日本政府は、居留民保護と朝鮮政府に軍乱の責任を問いただすために陸軍歩兵千数百名を派遣しました(816)。一方、清国政府はこの軍乱勃発の報を1週間後の81日には入手、810日には3,000名以上の兵を漢城に送り、日本軍を圧倒する勢力を示します。

大院君と花房公使の交渉は膠着しましたが、清国軍が大院君を拘束し天津へ連行、大院君一派が政権から一掃され、閔妃一派が復帰、清の仲介によって日朝間に済物浦条約が結ばれました(830)。朝鮮側は犯人の厳罰の他、日本に対して賠償金50万円を支払うこと、公使館警備のため漢城に日本軍若干を置くこと、日本に謝罪使を派遣することを約束しました。

壬午の軍乱の結果、結局は清の宗主国としての権威と力がフルに発揮され、漢城に進駐した清国軍を背景に李朝への影響力はこれまで以上に強化されたのです。

10月には朴泳孝を修信大使とする修信使一行が来日して謝罪し、事件は落着します。因みに償金50万円は5カ年賦で支払われる約定でした。朝鮮側が明治15年、16年に各5万円の支払を完了した後、我が国は明治17年、賠償金残額40万円を朝鮮政府に返還すると共に、汽艇1隻と山砲2門を贈与して朝鮮の内政改革の援助としました。結局は賠償金をとらず、むしろ日本の持ち出しに終りました。

壬午の軍乱後も、清は3,000人の軍隊を朝鮮に留め、その指導の下に閔氏一族の政府を再建、閔氏一族もまた日本式改革を捨てて、清に依存する事大主義の政策を採用します。朝鮮の官制は清国式に改められ、両国間の条約を以て朝鮮が清の属国であることが明記され、古来の宗属関係が再確認されたのです。

駐留清国軍は、漢城市内で掠奪・暴行を働き、集団で富豪の家を襲い、婦人を凌辱、酒肴の相手をさせるなど乱暴狼藉を行いましたが、支那では伝統的に軍の掠奪・暴行は戦利的利得として許される習慣があったため、指揮官は見て見ないふりをしました。ところが清軍兵士たちの暴状は際限なくエスカレートして行ったため、さすがの清国駐留軍司令官も放置しておくことはできなくなり、特別風紀隊を組織して取り締まったといいます。

おさらいしますと、李氏朝鮮では、1863年、国王の実父として政権に就いた大院君が1873年に失脚、そして閔妃一派が政権の座に就くも1883年壬午の軍乱で政権を追われ、また大院君が復帰するも1カ月余りで清軍によって拘束連行され、再び閔妃一派によって政権がつくられるという混迷を極めた状況が続いていました。自民党と民主党の政権交代によっても、事務次官以下ほとんどの官僚は変わらないのとは違って、大院君と閔妃の交代によって官僚は総入れ替えになり、中には殺害されてしまう官僚もいるわけですから、政治・行政の継続性はほとんど期待できません。結局は、20年間、朝鮮の政治は内輪もめ争いを繰り返して、ほとんど前進しないばかりか、折角日朝修好条規によって独立国となったのに、清国の属国へと後戻りしてしまったのです。

4 金玉均のクーデター(甲申事変)と天津条約

   清国の干渉強化と清への依存度を深める閔氏政権に反発する金玉均ら独立党は、あくまで清国からの独立を目指す近代化を強く唱え、開化派が二分されます。清に頼る事大党と日本を範として朝鮮の近代化と独立を遂げんとする独立党が激しく対立することになりました。

 独立党は政権を握る閔妃一派に憎悪されて要職に就くことができません。そのため朝鮮近代化計画は思うように進捗しませんでした。このような状況下、明治1712月に清仏戦争で清が敗れるや、独立党はこの機に乗じて事大党を一掃しようと図り、金玉均、朴泳孝らはクーデターを起こしました。この乱で事大党の主な政敵を倒した独立党は、翌日新政権を樹立、更にその翌6日には、清国への朝貢虚礼の廃止、門閥廃止、財政改革、宦官の廃止、巡査の急設による窃盗の防止、近衛兵設置など14項目の革新的政治綱領を公表しました。

 ところが事大党は清国の出兵を要請し、優勢な清軍が王宮に侵入するにおよんで、クーデターは敗退します。この事変で日本公使館は焼き払われ、婦人を含む多くの日本居留民が惨殺されました。この変乱を「甲申事変」といいます。政変に失敗した金玉均、朴泳孝らの独立党幹部は日本に亡命しました。

 甲申事変は結局のところ日清の衝突でしたが、これは翌明治184月、我が国全権・伊藤博文と清国全権・李鴻章との間に調印された天津条約で決着を見ました。

 天津条約の内容は、次の3カ条です。

1. 4か月以内に日清両国が朝鮮から撤兵すること。

2.朝鮮は軍隊を教練して自ら治安を維持すること。朝鮮軍隊の教練は第三国に委ね、以後、日清両国とも朝鮮で教練を行わぬこと。

3.将来朝鮮に変乱が発生して日清両国が出兵する時は先ず互いに行文知照(文書で通知)し、事変後は直ちに撤兵すること。

日清とも条約通り撤兵しました。しかしそれでも朝鮮は自由な立場に立つことはできませんでした。袁世凱が通商事務全権委員という名目で依然漢城に留まり、朝鮮への圧力と干渉を強めると共に、漢城に支那人街を形成するなど、清国商人を庇護して日朝両国の商人を圧迫したからです(清国は200余名の兵商(便衣兵)を密かに漢城に残留させたともいわれています)

 甲申事変における独立党の敗北により、清は日本の進出を一応阻止したものの、清国にとって新たな脅威が朝鮮に現れます。ロシアです。ロシアは、巧みな術策で朝鮮王宮上下にロシアの勢力を浸透させるのに成功し、清の過剰な干渉に辟易とした朝鮮政府内に親露的傾向が生ずるに至ります。

 ロシアの進出に脅威を感じたのは、清のみならず英国も同じでした。当時英国はアフガン方面でロシアと対立しており、満洲を南下して支那・朝鮮を侵し、太平洋進出を企図するロシアの勢力を阻止する戦略的必要性がありました。明治18(1885)4月、英国艦隊は突如、ロシア東洋艦隊の要路にあたる朝鮮南端の巨文島を占領します。英国の強硬措置に驚愕したロシアは、清国と朝鮮を介して英国に抗議し、英国が巨文島を占領するならばロシアもまた朝鮮半島の一部を占領すると主張しました。この問題は2年間の交渉の後、清国がロシアから「将来朝鮮のいかなる部分も占領せず」という宣言をとりつけ、これを保証として英国艦隊が巨文島から撤退して解決したのでした(明治20)英国艦隊の巨文島占領は、ロシアの朝鮮半島への朝鮮進出が如何に極東情勢を緊迫させるかを如実に示した事件でした。とりわけ、このような自国を巡る国際間抗争に、朝鮮自身が自主的に対処する能力を欠いていたところに、朝鮮問題の複雑さと悲劇性があったと言えます。

 しかし、朝鮮の親露傾向はますます強まり、明治21(1888)には「露朝陸路通商条約」が結ばれ、その結果翌年には朝鮮北東部の慶興が対露貿易のために開かれ、ロシア人の租借地が設けられたのです。更に朝鮮はロシアの豆満江自由航行権を許可しましたが、これは30年前、ロシアが満洲への侵略の第一歩として清国との間に愛琿条約を締結した時、黒竜江・ウスリー江の航行権を獲得したやり方とそっくりで、ロシアが朝鮮侵略に着手し始めたことを公表するに等しいものでした。

 朝鮮問題は、当事者能力をほとんど失った朝鮮政府の不甲斐なさを目前にした、日本と清の対立に加えて、そこにロシアが割り込んできたことによって、益々混迷の度を深めていきました。

 さて日本へ亡命した金玉均はどうなったでしょうか。朝鮮政府は逮捕引き渡しを再三我国に要求しましたが、我が国は彼らを政治犯として扱い、引き渡しを拒絶し、父島滞留中は月額15円、北海道滞留中は月額50円の手当を支給しました。官吏の初任給が30円の時代です。明治23年には東京在住を許され、井上馨、後藤象二郎、犬養毅、福沢諭吉、頭山満など朝野の人士の厚意と援助で金は日本の生活を享受していました。明治27(1894)3月、金は日本人同志が反対したにもかかわらず、甘言に誘われて上海に連れ出され、到着の翌27日上海のホテルで射殺されました。遺体は清国軍艦で朝鮮に送られ、屍体の首と両手両足を切り分けるという六支の極刑に処せられました。金の父は処刑、母は獄死しました。

金玉均の暗殺を知った我が国論は沸騰しました。金玉均の葬儀は510日、浅草本願寺で日本人の知己友人たちによって盛大に行われ、墓は東京本郷の真淨寺にあります。金の知己の甲斐軍治が朝鮮で梟首台から金の遺髪を収めて帰り、これを埋めて建てたもので、「朝鮮国金玉均君之墓」と大きな楷書文字が深々と彫り込まれている墓石の高さは2メートルを超す堂々たるものです。それは境内のどの日本人の墓よりも大きく、また国内でこれ程立派な墓を探すのは難しいほどです。

5 東学党の乱と日清戦争の勃発

   皮肉なことに金玉均の死のわずか2カ月後の18945月、朝鮮半島に東学党の乱(甲午農民武装蜂起)が起こります。東学は1860年に興った民衆宗教で、儒教・仏教・道教を合わせた反日・反欧的教義を唱え、西のキリスト教に対して東学と呼ばれていましたが、農民疲弊を背景に地方官吏の横暴な徴税に対する反政府運動の様相を濃くしていきました。全羅道の郡主の不当な徴税に対し、東学教団の幹部が千名余の農民を率いて郡役所を襲撃、農民軍は1万名に膨らみ、政府が派遣した朝鮮政府軍を打ち破り、5月末全羅道の道都・全州を落とします。これに対して愚かにも閔氏一族の政府は、清国に鎮圧を要請しました。

 清国は出兵に先立ち天津条約に基づき我が国へ事前通告をしましたが、その通告文に「属邦保護」という文字がありました。我が国は朝鮮国が清国の属邦たること許容できないという立場でした。我が国も事前通告を行い、清国軍との均衡を保つため、公使館と居留民保護の必要もあって出兵します。これを見た李朝政府は急遽農民軍の税制改革案の受理と農民軍の安全を約束して、農民軍との和平を提議し、東学党軍はそれを受けて全州からの撤退を開始しました。そして李朝政府は日清両国に軍の撤収を要請します。

 清国は日本に共同撤退を提案しますが、日本は逆に清国に対して朝鮮の内政改革への共同介入を提案します。清国はこれを拒否、日本の強硬姿勢に驚いた袁世凱は密かに漢城を脱出し、支那に帰還しました。そこで710日、日本は朝鮮政府に内政改革案を示し、「内政改革が行われなければ内乱が再発するのは必定だから、改革のない限り撤退できない」と主張したのです。実はこの頃農民軍は解散したわけではなく、税制改革が行われなければ再蜂起する恐れもありました。

 日本は、722日を回答期限として、清国軍の撤兵と宗属関係破棄を要求します。回答がなかったため、日本軍は漢城の城内に入って諸門を固め、王宮を占拠し、閔氏一族を政権から追放して、大院君を執政とします。政権の座に復帰した大院君は直ちに、清との宗属関係の廃棄を宣言し、6月初旬から7月下旬にかけて忠清南道(ソウルの南西方面)の牙山に集結していた清兵約4000名の駆逐を我が国に要請しました。また、大院君は、朝鮮最大の課題である内政改革にも即刻着手しました。

 6 日清戦争余話

   日清戦争の推移についてはよく知られているところであり簡述に止めます。漢城から清国軍を実力で排除したときに、既に実質的な戦端の火蓋は切られていたと言えます。明治27(1894)725日、日清両国の海軍は朝鮮西岸の豊島沖で遭遇交戦し、我が艦隊は清国艦隊を撃破しました。また陸上では、大院君の要請に応じ、729日牙山駐屯の清国軍を攻撃し平壌へ敗走させます。

 両国宣戦布告するや、清軍は我が軍の北進を阻まんと平壌に籠りますが、我が軍が四方から迫ると、915日夕刻、清国軍は突然城壁に白旗を掲げ降伏します。ところがこれは一時攻撃を緩めさせる偽装でしかなく、清国軍は闇夜にまぎれて城から逃亡してしまいましたので、916日、我が軍は難なく平壌を占領しました。

 翌17日、我が海軍は黄海に北洋艦隊を撃破しました。10月に入り、第一軍(司令官、山県有朋陸軍大将)は鴨緑江を越えて満洲に進み、下旬には九連城、鳳凰城を陥れました。大山巌陸軍大将を司令官とする第二軍も1024日、遼東半島に上陸し、金州・大連湾を攻略、1121日には旅順を占領します。

清国海軍は、敗残の軍艦をもって山東半島北岸の威海衛に終結したため、我が軍は陸海よりこれを攻撃することとし、明治281月末、第二軍の一部は山東半島東端の栄城湾に上陸、たった1日で威海衛の砲台を占領しました。海軍は2月初旬、水雷攻撃で敵の旗艦定遠をはじめとする諸艦を撃沈、北洋艦隊の大部分を撃破したため、提督丁汝昌は12日、遂に白旗を掲げて降を請い、我が軍は217日、清国唯一の軍港威海衛を占領、鎮遠等の諸艦を収め、ここに清の北洋水師は潰滅しました。3月に入ると第一軍・第二軍は合わせてまさに首都北京へ迫らんとしたため、清は降伏せざるを得なくなりました。明治28(1895)4月、下関条約が結ばれ、朝鮮の独立、賠償金2億両、遼東半島、台湾・澎湖諸島の永久譲渡が決められました。

李氏朝鮮は、日清戦争2年後の明治30(1897)、完全な独立国であることを示し、国号を大韓帝国と改め、国王は皇帝に即位しました。

歴史教科書には次のように記されています。

 台湾を領有した日本は、台湾総督府を設置して、住民の抵抗を武力でおさえ、植民地支配をおし進めました。

(東書24年度版162)

 日清戦争は、戦時国際法に対する両国の態度及び国民性の相違を際立たせた点で、注目すべきものがありました。

 我が国は開国維新以来、西欧に倣って国内法の近代化に努めた結果、条約改正も進捗し、明治277月、日清開戦以前に、まず英国との間で治外法権撤廃に成功していました。

 我が国は国内法のみならず、国際法にも多大な関心を示し、早くも明治10年西南戦争の折には、ヨーロッパの赤十字を範として、敵味方の区別なく傷病兵を救護するため博愛社を設立しました。これが後に日本赤十字社となったわけですが、これについては、「国際社会の仲間入りをする以上、速やかに赤十字条約に加盟しておくように」との明治天皇の思し召しがあったのです。赤十字条約は正式には「戦時における傷病兵の救護に関するジュネーブ条約」といいますが、これに加盟した翌明治204月、陸軍大臣大山巌は赤十字条約の注釈を軍隊に配布して熟読すべきことを命じており、当時の日本軍の国際法遵法努力の一端を垣間見ることができます。なお赤十字加盟と同じ1910月、海上国際法に関するパリ宣言にも加盟しました。

 明治天皇は、清国に対する宣戦の詔勅の中で「卑しくも国際法にもとらざる限り」一切の手段を尽くすべしと仰せられ、国際法尊重を強く将兵に求められたのです。

フランスの国際法学者フォーシーユは、「日本政府が、その採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は、日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、自らはこれを尊重した」という絶賛の言葉を残しました。

 日清戦争当時、清国は赤十字条約にもパリ宣言にも加盟しておらず、一切の日本船舶に対して無差別撃沈を命じたり、日本将兵の首に償金を出したり、また清国在留の一般邦人を殺害するなど、その行為は国際法に違反する野蛮を極めました。国際法は、交戦国の一方が国際法を無視するときは、他方に報復する権利を認めています。しかし我が国は敢えて清国に対して報復の権利を行使せず、例えば開戦直後の84日、勅命をもって在日清国人の身体、財産の保護を命じ、現に長崎では清国商人が戦争中も平時と変わらず自由に往来していました。

 我が国はこの他、私掠、暴行を禁じ、赤十字精神で傷病兵や俘虜を厚遇する等、国際法と文明の慣行を尊重実践した事例は枚挙に暇がなく、国際法の第一人者であった有賀長雄博士はこれを評して「日清戦争の最も重要な特質は、交戦国の一方は戦争の法規慣例を遵守しなかったにも拘らず、他方はこれを厳守せんと努めたことだ」と論じましたが、これは前記フォーシーユの言と見事に合致しています。

 周知のことですが、支那の歴史は古来虐殺の事例に事欠きません。この支那伝統の嗜虐行為を、近代に入って日本人が初めて目の当たりにしたのは日清戦争においてでした。

 支那側の行為を語る前に、明治28222日付報知新聞に掲載された仏紙記者2名の従軍記を紹介します。

 両名は「大日本帝国軍隊が世界に対して誇るに足る名誉を有することを観察し報道することを愉快に思う」と先ず書き出しています。そして日本軍の栄城湾(山東半島)上陸が「毫末の(わずかの)乱るるなくして整然と行われた」ことに感心したと述べた後、「上陸した村はずれの某家に『産婦あり。入るべからず』との掲示が出ているのを発見して予想もしなかったことである」と驚嘆しています。この他、日本軍の敵に対する慈愛の実例をいくつか挙げた後「余らは日本帝国の如き慈愛心に富める民あることを、この広大なる地球上に発見し得るを怪しむなり」とまで称賛し、続いて支那軍について次のように記しています。

「翻って清軍を見よ。日本軍卒の一度彼等の手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しめるにあらずや。或は手足を絶ち、或は首を切り、睾を抜く。その無情、実に野蛮人にあらざれば、よくすべきの業にあらず。しかして日本はこれあるに拘らず、暴に報ゆるに徳をもってす。流石に東洋君子国たるに愧じずと云うべし」と―。

 支那軍の軍紀は乱れに乱れました。牙山で我軍に敗れて平壌に退いた清軍は、朝鮮人に対して略奪、強姦、虐殺をほしいままにし、清軍のゆく所、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、流石の李鴻章も「髪、天を指す」と打電するほど激怒したそうです。

 明治271118日、旅順北方の土城子に斥候に出た我が将兵11名が、支那軍に虐殺された様子を現認した秋山好古騎兵大隊の稲垣副官が書いた手紙には「敵は我軍の屍に向かって実に言うべからざる恥辱を与えたり。死者の首を斬り、面皮を剥ぎ取り、あるいは男根を切り取り、胸部を割きて入るるに石をもってす。この様を見て誰か驚かざらん」とあります。

 支那軍の余りに残忍な戦闘法の結果、明治279月、漢城に入った山県第一軍司令官は次の如き布告を麾下将兵に出さねばなりませんでした。

「軍人といえども降る者は殺すべからず。然れどもその詐術に係る勿れ。かつ敵国は古より極めて残忍な性を有せり。誤って生捕りに遇わば、必ず酷虐にして死にまさる苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為をもって身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して生捕りになるべからず。むしろ潔く一死を遂げ、もって日本男児の名誉を全うすべし」

 これが捕虜となることを禁じた我国最初の訓令でしたが、後世「捕虜になることは武人の恥」とする日本軍独特の敢闘精神へと変じ、大東亜戦争終結に至るまで、戦場の日本人はこの精神に殉ずることになったわけで、米軍相手にも同様な精神で臨むことになり、無用に戦死者を出す一因となりました。

Ⅲ 日露戦争

1 三国干渉

下関条約調印の墨痕もまだ乾き切らぬ明治28423日、露仏独三国は、我国が条約で獲得した遼東半島を放棄せよと“勧告”してきます。ロシア公使の勧告は「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするもので、右は極東の永久平和に障害を与えるものである」というもので、仏独の勧告もほぼ同じ文面でした。

軍事的にも財政的にも三大強国を相手に新たな戦いを起す実力のない我が国は、涙を飲んで“勧告”を受諾、遼東半島を清国に還付せざるを得ませんでした。当然国民世論は激昂します。そこで明治天皇は、激昂した世論が大局を誤ることなきようにとの叡慮から「遼東還付の詔勅」を渙発され「深く時勢の大局に見、微を慎み、漸を戒め、邦家の大計を誤ることなきを期せよ(時勢の大局を深く観察し細かいことにも慎重に気を配り、軍備を次第に充実し(有事に備え)国家の大計を誤ることがないようにせよ)と、国民に隠忍自重を諭されたのでした。

衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らの対外強硬派は、遼東還付の翌6月、①日本の光栄を回復するため速やかに軍備を拡張すること②政府は遼東還付の責任を明らかにすること③朝鮮における日本の地位と勢力を維持することの3項目について臨時議会開催を要求する運動を起しますが、忽ち「安寧秩序に害あり」として弾圧されました。明治291月、遼東還付に関する内閣弾劾上奏案が衆議院に上程され、これも否決されました。信じ難いことかもしれませんが、これが後に「憲政の神様」と称された尾崎行雄の主張でした。軍備拡張を唱えたのは、政府や軍部ではなく、政党や国民であり、言論人だったのです。他日遼東奪還を心に深く誓いつつ国力の充実に精励する「臥薪嘗胆」の時期が始まりました。それは日露直接対決の前奏でもありました。

 2 北清事変

   日清戦争の原因が東学党の乱にあったように、日露戦争を直接的に誘引したのは義和団事件(北清事変)でした。義和団は元朝以来の白蓮教の流れをくむ宗教的な秘密結社で、団徒は義和拳という拳法を習い、熟達すれば弾丸・刀剣の危難を防ぐことができると信じるほどの迷信徒でした。明治32(1899)年、義和団は「扶清滅洋」を高唱して山東省に排外運動を起し、1900年に入るとその活動は直隷省(河北省)、山西省、更に満洲にまで波及します。彼等はキリスト教徒を殺害し、教会、電線などすべて西洋伝来のものを破壊しましたが、中でも鉄道破壊は内外を驚かせました。4月下旬、義和団が北京に入ると、西太后は彼等を義民とみなし、かえって彼らを利用して国権を回復しようと謀ったため、暴徒はいよいよ猖獗を極め、6月に入ると日本公使館員とドイツ公使の殺害事件が発生します。

 またこの月、北京公使館区域が義和団に包囲されるとともに、清政府は列国に対して宣戦布告を発するに至ったのです。翌7月に入ると、北京公使館区域は、義和団と清国兵合わせて数万の兵力に包囲され、籠城も限界に近づきました。絶望的状況に陥った4,000名以上の各国外交官、居留民、護衛兵、キリスト教徒たちを救出するとなれば、当然ながら現場に最も近い我が国の出兵は列国の熱い要望と注視の的となりました。

ところがロシアだけは、満洲占領の口実を得るため、籠城者が殲滅されることを望んでいましたので、日本に対する救援要請を事あるごとに妨害しました(日本公使館二等書記官として北京籠城を経験した石井菊次郎の『日本外交秘録』より)

 我が国は列国から余計な疑念をもたれないよう慎重な態度を持しましたが、英国から4回にわたって出兵要請がなされるにおよんで、遂に列国の希望と承認の下に、第5師団を派兵し、これを主力とする8カ国連合軍は814日、北京公使館区域を義和団・清兵の包囲から救出しました。連合軍の総兵力は約2万、その半分は日本軍でした。この事変処理に当っても、数々の我が国・我が軍の誇るべき美挙とロシアを初めとする列強の悪行がありました(細部は別機会に説明)

 義和団事変最終議定書は、19019月、連合11カ国と清国との間で調印され、事変は落着しました。この議定書で清は賠償金45千万両(63千万円)の支払いの他、「北京・海浜間の自由交通を維持する」ため、各国が天津、塘沽、山海関など12か所の地点を占領する権利を承認しました。これが後年、重大な意味を帯びることになります。というのは、この駐兵権によって我が国は諸外国と共に支那駐屯軍を置くことになったのです。昭和12年、盧溝橋で支那側から不法射撃を受けた我が部隊もこの条約による駐兵権に基づいて駐屯していた部隊でした。

 3 義和団事件に乗じたロシアの南進

 義和団の乱が満洲に波及するや、ロシアは建設中の東支鉄道保護に名を借りてシベリア方面と旅順から大兵を満洲へ送り、19007月から侵攻を開始し、10月には全満洲を占領しました。満洲での露軍の行動は横暴を極め、鉄道保護に無関係の市邑をも攻撃占領し、無辜の民を虐殺すること数え切れないほどでした。東アジアの血史に残る「江東六十四屯虐殺事件」が発生したのもこのときです。

 義和団事変が起こると、露軍は満洲侵入に先立ち、江東六十四屯の万余の住民を、銃剣をもって駆逐し、罪なき約56千人の住民を虐殺、その死体を黒竜江の濁流に流し去ったのです。「黒竜江の悲劇」と呼ばれる世紀の惨劇でした。この大虐殺こそ、ロシアの満鮮侵略から日露戦争へと続く東亜血戦史の序曲となりました。ロシアは住民を完全抹殺することによってこの地を自国の領域に加え、度重なる支那の返還要求に対しても現在も応じていません。

 ロシアは、義和団事変鎮定後も条約に違背して撤兵せず、満洲保護化の密約を清国との間に3度にわたって結ぼうとしましたが、日英米などの強い抗議にあって失敗しました。日英同盟の成立(19021)は、清国を勇気づけるとともにロシアをも威圧する効果があり、結局1902(明治35)4月、露清の間に満洲還付協約が調印されました。この協約によれば満洲を占領した露国軍隊の撤退は3期に分けて行われるものとされていましたが、実行したのは第1期のみで、それ以降は撤兵どころか、かえって奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、満洲に加えてモンゴルや直隷省(河北省)さえもロシアの勢力範囲にしようとする野望をあからさまにしてきたのです。

 もしロシアが、この満洲還付協約を誠実に履行していたら日露戦争は起こらず、その後の我が国の満洲進出もなく、日韓併合に至ることもなかったでしょう。

 この頃ロシアは、対韓侵略の意図も露骨に表するようになっていました。先ずロシアは、森林保護を名目として韓国の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、続いて明治361903)年7月には軍事力をもって韓国を圧迫して、竜岩浦租借条約を結ばせます。我国がこれについて韓国政府に強硬に抗議した結果、韓国政府は右契約の無効を声明しましたが、ロシアはこれを完全無視し、竜岩浦占領の既成事実化を着々と進めました。もはや韓国政府の力をもってしては、ロシアに侵略を翻意させることができないことは明らかでした。

ロシアの冒険主義的な満韓侵略政策に対する危惧と批判は、ロシアの指導層の内部にすら存在しました。ロシア宮廷の有力な政治家であった蔵相ウィッテは回想記にこう書いています。

「この危険な仕事(韓国支配のこと)は無論日本人に知れ渡り、日本人は、ロシアは表面では韓国から手を引いたと見せ、裏では韓国占領の野心があるのだと解釈した。日本人が極度に我々に反抗するようになったのは極めて自然の成り行きと言わねばならぬ。遼東半島占領と、次いで義和団鎮圧の口実で満洲に軍隊を送り、その後になって撤兵しないと云う二つの事実によって支那は全然ロシアを信用しなくなった。日本も同じであった。もしわれわれが日本との協約を正直に遵守して韓国で陰謀などやらなかったら、日本はもっと安心したに違いなく、我々に対して断然たる態度をとらなかったであろう。だが我々は、一方では遼東半島から日本を退去させながら自らこれを占領し、他方ではその代償として日本と協約を結びながら陰険な手段でこれを破るようなことをしたのだ。日本がロシアを信用しなくなったのも、また当然すぎるほど当然と云わねばならない」

 4 対露交渉の決裂

   満韓に対するロシアの侵略意図が疑いなきものとなった明治36(1903)8月、我が国は遂に対露直接談判を打って出ます。談判は翌年1月までの5カ月に及びました。この対露交渉での我が国の主張の骨子は

(1) 清韓両国の独立と領土保全を尊重し、右両国における通商上の機会均等を相互に約す。

(2) ロシアは韓国での日本の優越した利益を、日本は満洲の鉄道に関するロシアの特殊利益を承認する。

(3) 韓国の改革と善政のため助言と援助(軍事援助も含む)を与えるのは日本の専権であることをロシアは承認する。

 というもので、ロシアが承諾し難い条項は一つもありませんでした。しかしこれに対するロシア側の対案は、

(1) 韓国の独立と領土保全の尊重は相互に約するも、満洲は日本の利益範囲外なので交渉の対象としないこと。

(2) 日本の対韓援助は軍事以外とし、日本は韓国を軍事目的で使用しないこと。

(3) 朝鮮の北緯39(概ね平壌~元山を結ぶ線)以北を中立地帯とすること。

 ロシア案は、満洲の独立と領土保全は交渉外として触れず、日本が韓国に派兵することを禁止し、更に朝鮮半島北部を中立化することによって、満洲におけるロシアの自由行動を安全ならしめんとする何とも虫のいい要求でした。

 これに対して我が国は、清韓両国の独立と領土保全の尊重、満洲を日本の利益範囲外とするなら韓国も露国の利益範囲外として相互に承認すること、中立地帯を設けるなら朝鮮側だけではなく、満朝境界の各50キロを中立とすること、及び日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること、を主張しました。

ロシアは、頑として自己の主張を譲らず、その間、極東のロシア軍隊には動員令を下し、何ら回答を寄せることなく戦争の準備に邁進していました。空しく回答を待つこと3週間、我が国は遂に24日、対露国交断絶と開戦を決定、同6日、露国側に国交断絶を通告するに至りました。

 日露国交断絶と共に干戈の発動となり、明治3727日、東郷平八郎司令長官は連合艦隊を率いて佐世保を発し、9日未明、旅順港外にて敵艦隊に魚雷を放ち、敵艦3隻に大損害を与えました。また瓜生少将率いる第4戦隊は9日、仁川沖に敵艦ワリヤーク、コレーツの2隻を撃沈します。210日、宣戦の詔勅が渙発され、ロシアもまた同日宣戦して、日露戦争がはじまりました。

 歴史教科書には次のように記されています。

 ロシアの勢力拡大を見て、韓国での優位を確保したい日本と、清での利権の確保に日本の軍事力を利用したいイギリスとは、1902年に日英同盟を結び、ロシアに対抗しました。こうして戦争の危機がせまってきました。

(東書24年度版164)

 5 日露戦争余話

   日露戦争の推移については、皆よく知るところであり、また長い話になるので割愛します。

明治38527日、日本海海戦の史上未曾有の大勝利で我が国の勝利が決定づけられ、95日に次に示すポーツマス条約が調印されました。

(1) 露国は、日本が朝鮮で政治、軍事、経済上の卓絶した利益を有し、かつ必要な指導、保護、管理を行う権利を承認する。

(2) 両国は18カ月以内に満洲より撤兵する。

(3) 露国は遼東半島租借権を日本に譲渡する。これにつき両国は清国の承諾を得ること。

(4) 露国は東支鉄道南満洲支線(長春・旅順間)を付属の炭鉱と共に日本に譲渡する。

(5) 露国は北緯50度以南の樺太を日本に譲渡する。

 日露の死闘は終局し、これによって我が国は満洲と韓国をロシアの手中より救い出すと共に、我国自身の独立と安全を守り抜いたのでした。

 日露戦争の重大意義は、アジア及び世界の抑圧された民族に希望と自信を与え、その民族独立運動を促したことでした。しかし、我が国の歴史教科書は、一部の教科書を除き、日露戦争のこのような世界史的意義について一行の紙幅も割こうとしていません。

 日露戦争は有色人種の白色人種に対する勝利であり、また立憲国家の専制国家に対する勝利の戦いでもありました。日本の輝かしき勝利が、西洋列強の桎梏下に呻吟するアジア後進諸国に与えた衝撃は甚大で、日露戦争は全アジアを覚醒、奮起せしめ、ここに民族独立運動は澎湃として起こり、広がっていったのです。

 「アジアは日本の勝利を跳び上がって喜んだ」と『日露戦争全史』の著者ウォーナー夫妻は書いています。独立の気運はフィリピン、ベトナム。ビルマ、インドネシアなど東南アジア全域に及びました。

 インドは特にそうでした。「日本の情熱が私の情熱を掻き立てた。・・・民族主義的な思想が私の心を満たした。私はヨーロッパの束縛からインドとアジアの自由を取り戻すための瞑想に耽った」とネールは述懐しています。「大きな興奮がインド全土を駆け巡った。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壺のまわりに集まって日本の勝利について語り合っている」―これはインドを旅行したあるイギリス人の見聞です。

 最も衝撃の大きかったのは支那でした。日清戦争以後、支那人の日本留学生は増えていましたが、日露戦争中からその数は激増し、戦争の終った翌明治39年、東京在留中の支那人留学生の数は15千にも達しました。

 日清戦争での清の敗北は、支那知識階級に「日本はなぜ強いのか」との疑問を投げかけましたが、今や支那人留学生は直接日本社会に触れ、日本が維新によって外圧を克服し、立憲君主制度と富国強兵を通じて近代国家に躍進した歴史の道筋を理解したのです。彼等が日本を学ぶことによって祖国支那を衰亡の淵から救わんと願ったのは自然の成り行きでした。そして明治38年から留学生の間に革命気運が台頭していったのです。

 日露戦争に勝った日本は、正に昇る太陽の如く、白人帝国主義下に呻吟するアジアと世界の諸民族に希望と勇気を与えました。日本に憧れる留学生の一人であった蒋介石は、当時を次のように回想しています。

 「当時(日露戦争翌年)、郷里に土豪劣紳(官僚や軍閥と組んで庶民を搾取していた悪徳大地主や金持ち)が横行しているのを痛憤し、わが国が帝国主義の圧迫を受けているのを目撃した。とくに日本が一弱小国でありながら発奮して強大になり、ロシア帝国を打ち破ることができたことは、私の精神に最も大きな刺激を与えた。そこで・・・母の許しを乞い、日本へ行って学ぶことにした。国民の一人としての義務を尽くし、国家の外恥を雪いで、自強を促進しようと考えたのである」(『蒋介石秘録』)

 支那の作家魯迅の弟周作人も日露戦争のあと日本に留学した支那人の一人ですが、後年、日露戦争での日本の勝利から受けた感激をこう述べています。

「私が初めて東京へ行ったのは明治39年、丁度日露戦争の終った翌年のことである。今では支那の若い人はもう殆ど知らないだろうし、日本人でもおそらく身にしみては知るまいと思うのだが、その頃の日本は私どもに二つの大きな影響を与えたのだった。一つは明治維新、一つは日露戦争である。当時支那の知識階級は祖国の危機を痛切に感じ、如何にすれば国を救い西洋各国の侵略を免れうるか、ということに最も腐心していた。そこで日本が維新を成功させ、変法自強の道を発見したのを見て多いに奮起し、ロシアに勝利したのを見て更に少なからず勇気づけられ、西洋に抵抗して東亜の保全を計るのは不可能でないことを思い知った。・・・支那人が如何に明治維新に感服讃嘆し、日露戦争に関していかに日本の勝利を願ったことか、今思い出しても実際奇異なくらいである。率直に言って、それは去年の大東亜戦勃発の時に幾分勝るほど真実で熱烈であった」(『留学中の思い出』)

 また、日本とは不倶戴天の敵であった毛沢東ですら、「私は彼(日本留学から帰国した教師)が日本について話すのを聴くのが好きでした。彼は音楽と英語を教えていました。その歌の一つに日本の『黄海の海戦』というのがあり、その歌詞の美しい言葉を未だに一部分覚えています。・・・当時私は日本の美を知り、また感じ取り、このロシアへの勝利の歌に日本の誇りと力といったものを感じたのでした」(エドガー・スノー『支那の赤い星』)と語っています。

 インドの王族出身でありながら、愛国者であったビハリ・ボースが、インドの独立運動を志すようになったのも日露戦争に刺激されてのことでした。彼は日露戦争の翌年に国民会議派に参加し、武力革命を主張しました。

 日本の勝利が独立運動家に勇気と希望を与え、民族主義の気運を盛り上げ、運動を推進したのは、このほかトルコ、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアにおいても同じでした。

 またアジアのみならず、長年ロシアの暴圧に苦しんできたフィンランド、ポーランド、スウェーデンなどの欧州の国々もロシアの敗北を切望し、日本の捷報に歓喜したのです。

Ⅳ 日韓併合への道

 1 甲午改革―朝鮮近代化への始動

   日清戦争勃発前、我が国は閔氏一族の政権を追放し、大院君を執政に迎えて、朝鮮の内政改革に乗り出しました。この親日政権が日清戦争中に実施した諸々の内政改革を「甲午改革」といいます。それは実質的な意味において朝鮮近代化改革の最初の試みでした。貴賤門閥に関わらない人材の登用、人身売買の禁止、寡婦の再婚を許可、官吏の不正利得の罰則化、司法権限によらない捕縛や刑罰の禁止、賎民身分の廃止、拷問の廃止、租税の金納化、優秀な少年の海外留学、阿片の禁止など208件の改革案が示されました。これらの項目を改革に挙げざるを得ないこと自体からも、如実に当時の朝鮮の政治社会の停滞と前近代性を窺い知ることができます。

 しかしまたも朝鮮政府内の権力抗争はこの改革をも行き詰らせ、内政改革は停頓しました。大鳥公使は更迭され、10月上旬、維新元勲の井上馨が新たに公使として着任して大院君の追放など荒療治を行いますが、ゲームを楽しんでいるかのような朝鮮政府内の抗争の前には歯が立たず、思うように改革は進みませんでした。

 甲午改革と同時並行的に進展した日清戦争は日本の圧勝裡に終結しましたが、我が国が三国干渉でロシアに譲歩したことによって、朝鮮政府内に侮日親露の傾向が生じ、開化・守旧両派の争いはいよいよ激しくなり、挙句の果ては親日・親露二派に分かれての抗争となってしまいました。

 ここに至って我国は「将来の対朝戦略はなるべく干渉をやめ、朝鮮をして自立せしむる」方針を閣議決定しましたが、この対朝政策の転換は、閔妃には日本の対露恐怖症の表れとしか見えず、親露政策によって日本を制し、自派の勢力を拡大しようと企みます。

 新旧抗争はまた、ロシアの利用するところとなり、ロシア公使はロシアの強大性を説いて閔妃一派に接近します。かくして朝鮮内部の暗闘はいよいよ底止めする所を知らず、やがて政変へ至ります。

 朝鮮はこの貴重な時機に独立を忘れて、内部の暗闘に明け暮れ、近代化を日本の侵略として排斥しました。ロシアの影が大きくこの国を覆うようになったこの時期以降は、朝鮮をめぐる国際政局は益々厳しさを加え、自らの力で独立する機会は二度と巡って来なかったのです。

 閔妃、これまでにも何度か名前の出たこの朝鮮王妃は、聡明多才、権謀術数に長け、事ごとに国政に容喙しました。「閔妃を葬れ!」は在韓の日本志士のみならず、反閔妃派の朝鮮政客の叫びでもありました。

 明治28107日、朝鮮政府が訓練隊解散と武装解除を通告すると、8日早朝、閔妃排除を心に深く決意した日本の三浦梧楼公使の指示を受けた訓練隊と日朝有志は大院君を擁して王宮に入らんとし、この際訓練隊は待衛隊と衝突して王宮は紛乱に陥ります。この乱中に閔妃は殺害されました。これを「乙未の変」といいます。かくして親露派に替って親日派が権力を掌握します。

 乙未事件の直後、親日派の新内閣が組織され、再び改革を断行しました。先ず清国に倣った正朔()を改め、明治28(1895)1117日を開国504(李氏朝鮮成立の1392年を起点とする)11日と定め、太陽暦を採用しました。また先に日本を範として小学校令を出しましたが、ここに至って初めて漢城に4つの小学校を設け、小児に対する種痘規則を定め、郵便事務を開始しました。更に我国と同じく一世一元の制を定め、開国505(1896)より年号を建陽と定めることにし、断髪令を出して国王自ら率先して断髪を実行しました。

 断髪令の強行は民心の離反を招き、明治29年には各地に騒乱が発生しました。同年1月、騒乱鎮圧で首都の警備が手薄になった虚に乗じて、ロシア公使は公使館防衛の名目でロシア水兵100名を引き入れ、親露派と謀って国王を王宮から奪取してロシア公使館に移したのです(211)。この事件を国王の「露館播遷」といいます。

 政局は逆転し、親日派政権幹部は惨殺され、多くの親日派は日本に亡命しました。国王はロシア公使館より詔勅を下し、親日派の逮捕を命じ、断髪令その他の改革事項の撤廃を宣言したため、朝鮮の混乱は極に達します。この異常な変乱で日本人30余名が殺害され、10余万円の財産が被害を受け、我が国の勢力は失墜してしまいました。国王と共に朝鮮政府もロシア公使館内に入り、朝鮮政局は完全にロシアの掌握するところとなってしまいました。

 朝鮮国王と政府がロシア公使館の中に遁入してしまった結果、朝鮮の政策はロシア公使館において決定されるという奇観を呈することになり、朝鮮政局の前途は甚だ憂慮すべき状況となりました。

 ここにおいて我が国は、列国共同で朝鮮の独立を保障するか、ロシアと協商して朝鮮の内政を共同監督するかの二途を模索し、列国が朝鮮問題に関しては対岸の火を見るが如く冷淡であったため、結局ロシアと協商して、ロシアのそれ以上の進出を阻止する他ありませんでした。そこで結ばれたのが「小村・ウェーバー覚書」(明治295)であり、「山県・ロバノフ(外相)議定書」(296)です。これによって日露の勢力均衡と妥協が成り、朝鮮国内が安定した結果、明治30(1897)2月、国王は1年ぶりにロシア公使館から王宮に帰還しました。

 当然とはいえ、ロシアは不誠実でした。ロバノフ外相は、我が国と議定書を約定しつつ、ほぼ同じくして露清密約を結び、また朝鮮とも密約を結んでロシア人の軍事教官を送りこんだり、鴨緑江の伐採特許を獲得したりして、日露の覚書や議定書の精神を踏みにじったのです。越えて明治304月、朝鮮はロシア士官160名を雇い入れる契約を結び、依然ロシアとの密着ぶりを表します。

 露韓密約は翌30年に日本側の知るところとなりましたが、その密約によれば、「朝鮮国王は希望すればいつまでもロシア公使館に滞留できること」、「朝鮮はロシアの軍事・財政顧問を傭聘すること」及び「朝鮮に変乱ある時、或は他国が朝鮮の自主独立を阻害する時は、ロシアは兵力をもって援助する」ことが約されていました。しかしロシアの高圧的な対韓外交は、次第に韓国民の反感を招き、明治3123月の頃には排露気運が高まりました。

 韓国の反感に憤激したロシア公使は韓廷に対し、ロシアは韓国の要請で、その自立を援助するために軍事教官と財政顧問等を派遣したのに、今になってその好意を無視する挙に出るのは容認し難い、韓国はロシアの援助を要しないのか、もしそうならロシアは必要な措置をとるであろうと迫り、24時間を限って回答を求めたのです。驚き怯えた韓国は、内密に我が国の助言を求めてきます。我が国は、ロシアの援助を丁重に辞退するよう助言し、韓国もその通りロシアに回答すると、思いがけずあっさりとロシア勢力は韓国から撤退してしまいました。その裏事情は、ロシアの戦略拠点としてもっと重要な旅順・大連にありました。ロシアが旅順・大連を租借したのは、韓国から軍事・財政顧問を引き揚げたわずか4日後でした。

 旅順・大連はロシアが三国干渉で日本を圧迫し、清国に返還させた遼東半島の軍事・通商上の要衝です。日本に返還させたものを今度は自分で奪おうとするロシアとしては、何とかしてこの筋の通らない租借を日本に認めさせる必要に迫られました。そこで日本を一時的に宥めるため、韓国における日本の地位を承認せざるを得ないと判断したのでしょう。その目的で結ばれたのが、同年4月の「西外相・ローゼン駐日公使協定」です。この協定では、日露両国とも韓国への内政干渉をしないこと、ロシアは韓国における日本の商工業上の権益等を認めることなどを約したものでしたが、ロシアはこの協定で韓国への進出を放棄したのではなく、シベリア鉄道と東支鉄道が完成し、極東侵略の準備が整った暁には再び朝鮮半島へその爪牙を伸ばさんと時機を窺っていたのです。

2 韓国の背信と日韓議定書

  日露戦争が世界の民族独立運動を勇気づけ、促進したのとは反対に、ひとり韓国のみが日本に併合される道を辿ったことは一見矛盾した現象のように見えます。

 明治37(1904)1月、日露関係が急迫するや、韓国政府は、突如「厳正中立」を密かに列国に打電しました。しかし既に漢城を制圧していたロシアはこれを無視します。朝鮮にはロシア軍を撤退させる力はありません。したがってその“中立声明”は一片の空文に過ぎませんでした。

 そもそも日露間で宣戦布告も交戦行動も起きていないのに、この奇妙な声明が出ること自体おかしなことですが、それには理由がありました。日露間の戦争になれば、日本が朝鮮半島を進路に選ぶことは明白ですので、日本軍の韓国領土利用を予め封じておきたいロシアから知恵を付けられ、韓国政府が中立声明を発したのだといわれています。ところが“中立宣言”の数日後、日本は黄海で、ロシア軍の出動を要請する手紙を携行して旅順へ向かう韓国人を乗せた小舟を拿捕したのです。その手紙の発信者は“中立宣言”を声明した当の大臣でしたから開いた口が塞がらない程の背信です。これによって、韓国には中立の意思など微塵もないことが立証されました(HB・ハルバート『朝鮮亡滅/古き朝鮮の終幕』)

 当時在韓のカナダ人ジャーナリストであったマッケンジーは、日露開戦の直前、宰相の李容翊に面談し、もし韓国が滅亡から救われようとするなら、改革が必要であると強調したところ、李は即座に韓国は安全である、何故なら我々の独立は欧米諸国によって保証されているから、と答えたといいいます。

 これに対してマッケンジーは「力によって裏付けられていな条約は無意味であることをあなたは理解していない。尊重されるべき条約を望むなら、それに応じた生活をしなければならない。改革がなされなければ、滅亡しかない」と強調しました。すると宰相は「他国が何をしようと問題ではない。我々は今中立であるから、中立の尊重を要請する声明を出した」と述べたましので、マッケンジーが「もしあなたが自衛しないならば、彼等は何のためにあなた方を守ってくれるだろうか」と質問したところ、宰相は「我々はアメリカと約束ができている。アメリカは、いかなる事態が発生しても、我々の友人である」と固執したそうです(『朝鮮の自由のための闘い』)。欧米に依存して、自国の独立のために一指をも動かそうとしない無気力・他力本願の韓国の姿を活写しています。

 2月、我国が対露開戦劈頭に先勝するや、韓国はにわかに態度を親露から親日に一変させ、ここに日韓議定書が締結されました。この議定書は①韓国は施政改善について日本の忠告を容れること、②韓国の危機に際して日本は軍事上必要な地点を収用できること、などを骨子としていました。これは従来の日韓関係を一変し、明確に保護化への第一歩を標した点で大変重要な意義を有しています。

 併合への歴史的過程は日露開戦を契機として始まり、戦争と共に進行して行ったといえるでしょう。韓国の不安定な政情が日露戦争を誘発し、その戦争が日韓併合を促進するという、何とも因果な歴史的運命に日本と韓国は呑み込まれていったのです。

 3 韓国内政改革の始動

   議定書調印から半年を経た明治378月、第一次日韓協約が結ばれ、まず財政改革が始まりました。韓国政府財政顧問には大蔵省主計局長を長年勤めた目賀田種太郎が就任し、大蔵省で鍛えた手腕を揮って紊乱した朝鮮の財政整理に尽力しました。彼が先ず着手したのは通貨の改革でした。

 朝鮮では貨幣の濫鋳が甚だしく、朝鮮の貨幣は世界の悪貨のうちでも最たるもので①良貨②良い偽造貨③悪い偽造貨④粗悪過ぎて暗い所でしか通用しない偽造貨、の4つに分類できるとさえいわれていたのです。目賀田は貨幣濫鋳の弊を除くため既存の造幣局を閉鎖し、第一銀行漢城支店をして韓国政府の国庫事務を取り扱わせ、同行が朝鮮で発行する銀行券を無制限に通用させる等、非常な決意と苦心で貨幣整理を断行し、世界最悪と言われた朝鮮の通貨を健全な基盤に置くのに成功しました。

 ルーズベルト大統領は日本の韓国保護化に何の干渉もしないどころか、むしろ止むを得ない必然だと考えていました。英外相ランズダウンもまた「韓国は日本に近きことと、一人で立ち行く能力なきが故に、日本の管理と保護の下に入らねばならぬ」と書いていますが、韓国を知る者ほど韓国の自立に絶望的で、世界の共通認識はほぼそういうところで一致していたのです。

 必ずしも日本の勝利を信じていなかった韓国政府は二股をかけ、議定書の約定にも拘らず、我軍の作戦遂行に対して非協力的でした。しかしながら、韓国の一般国民の中には日露戦争に彼等なりの期待と理解を持ち、日本軍に好意を寄せる者も少なからずいたことも事実です。

 戦争初期に朝鮮北部を旅行したマッケンジーは、「どこでも韓国の国民からは日本軍に対する友好的話題ばかりを聞かされた。労務者も農民たちも友好的であった」と書き記しています。その理由は、日本軍の行動には自制があり、敵対者に対してさえも寛仁であり、軍律が厳正で、住民を丁寧に遇し、徴発した食糧にも公正な代価を支払ったため、日本軍は韓国民の心に影響を与えずにはおかなかったとマッケンジーは書いています。

 下層階級の人々は、日本が自国の官僚の圧政を正してくれることを希望していたし、上流階級の人々の多くは、朝鮮の遠大な改革は外国の援助なしには遂行し難いと確信しており、そのため日本に心を寄せていたとも言われています。

 親日的な朝鮮人の団体として有名な一進会が結成されたのも、日露戦争中の明治37年秋でした。一進会会長には元東学党幹部だった李容九が推され、会員数は百万(当時の1906年頃の韓国人口は、約980万なので10人に1人が会員:2050歳の男性に限れば最低でも3人に1)と称されました。一進会の5大綱領は(1)韓皇室の尊栄、(2)人民の生命財産の安固、(3)施政の改善、(4)財政・軍政の整理、(5)日本軍への積極的協力、でした。

 李容九は日露戦争を、ロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止してアジアを復興することこそ、朝鮮の運命を開く道と考えたのです。一般には排日空気の濃厚な朝鮮で、このように対日協力を声明し実践することは多大な困難を伴うものでしたが、一進会は敢えて親日へ踏み切ったのでした。

 その頃、朝鮮鉄道は釜山から漢城までで、我軍が満洲へ兵を送るのに必要な漢城から新義州までの鉄道はまだ敷設されていませんでした。我が国は早急に鉄道敷設工事を進める必要に迫られましたが、韓国政府が非協力的であったため、日本軍は困窮します。この時、一進会が鉄道敷設に起ち上がってくれました。京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は、黄海道、平安南道、平安北道を合わせて15万人に上りました。また北鮮から満洲へ軍需品をチゲ(荷物を背負う道具)で運搬するのに動員された会員は115千人で、この鉄道建設隊と輸送隊を合わせると、百万会員のうち26,7万人が動員されたことになります。そしてその費用は領収雇金26,410円、会員自費金額122,704円という数字が残っており、大部分が会員の自弁であったことを示しています。

 しかし残念なことに、日韓人の間に、このように深い理解と美しい協力関係が見られたにも拘らず、日本軍に従って渡韓してきた日本人商人たちの横暴な行為が朝鮮の人心を離反させ、やがて戦勝が続くにつれて、日本軍自身も韓国民に対して横柄で抑圧的な態度をとるようになって行った、とマッケンジーは書いています。

 4 日韓併合

 日露戦争中の明治38(1905)8月には第2回日英同盟が結ばれ、英国は日本の韓国保護化を承認しました。そして日露戦争が日本の勝利に終わるや、もはや韓国保護化を遮るものは何もありませんでした。明治3811月、第二次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、韓国の外交権は日本の掌握するところとなります。

明治40(1907)、韓帝高宗はハーグの万国平和会議に密使を送り、保護条約の無効を訴えようとしましたが失敗します。この事件で高宗は退位し、皇太子が新帝に即位しました。これとほとんど同時に第三次日韓協約が結ばれ(7)、我が国は韓国内政を掌握し、統監の下に改革を行うことになります。「維新」の二字を国是として、政治、司法、産業、教育、衛生などあらゆる面で韓国近代化への施策が強力に推進されました。

 明治42(1909)10月、併合に消極的だった統監伊藤博文が安重根のためにハルピン駅頭にて暗殺されるや、韓国併合論が高まり、翌明治43(1910)8月、韓国は遂に我国に併合され、首都は漢城から京城と改名され、李氏朝鮮は5百余年の歴史を閉じたのでした。

 5 日韓併合余話

 李氏朝鮮の社会は、現代の私たちが想像するのが困難なほど遅れていました。制度文物のみならず、思考様式そのものが停滞していたのです。朝鮮国民にとっては、近代化は即ち悪でした。朝鮮社会上下にあまねく普及定着したこの硬直した思考が、どんなに朝鮮の近代化を妨げる結果になったかは計り知れないものがあります。電車を走らせることさえもが、この国では暴動のきっかけになりかねなかったのです。

 『朝鮮近代外交史年表』によれば、19018月には線路に眠っていた二人の韓国人が轢死する事件があり、190310月には電車が韓国人の子供を轢殺したことに端を発し、漢城に騒動が起こり、日本の警察官が出動して騒動を鎮圧した事件、翌19041月には朝鮮人労働者が電車に轢殺されたことから再び騒擾が起き、米国守備隊が出動して鎮圧する事件が発生しています。

 漢城に電車が開通した時、韓国の数人の政府高官が、「人間にとって本然的なものである睡眠を妨害することは不法行為であり、電車は軌道上に寝ている人が目覚めるまで待つべきである」という勅令を発布するよう国王に嘆願書を提出することもありました。

 以上のような話は、当時の朝鮮社会の救い難い蒙昧と前近代性を象徴して余すところがないと言っていいでしょう。「近代的改革」を「日本の侵略」と看做し、他方「近代化」それ自体を罪悪視する思考様式が韓国社会の発展に大きなマイナス要素として作用したことは否めません。

 韓国では「義兵」がとても人気があります。救国を目的として掲げた民衆の自発的な武力組織を韓国では義兵と呼んでいるからです。反日的な義兵運動は明治28年閔妃を殺害した乙未事変の直後から起こったのですが、この義兵運動が激しくなったのは、明治40(1907)、第三次日韓協約が結ばれ、統監府によって韓国軍隊が解散させられてからです。解散した軍隊が義兵に合流し、義兵運動は武器と組織を得て、各地で激しい反日抗争を展開するに至ったわけです。

 「韓国民には独立の意思も用意もなかった」という説に対して、韓国側は“義兵闘争の凄まじさを見よ”と反論します。義兵運動の激しさは認めますが、それは朝鮮民族の伝統的文化・民族性に潜む“恨のエネルギー”が噴出したに過ぎず、一定の文明的・科学的思潮や民族意思に基づいて、国民の安寧と繁栄を目指し、よき社会を建設しようといった正統的な運動ではなかったことも事実です。1907年から日韓併合翌年の1911年までの間に、駐留日本軍等官憲と交戦した義兵は14万人を超え、交戦回数2850回、死亡した義兵17千名以上に上りますが、日本側の死者はわずかに133名を数えたに過ぎませんでした。これは何を意味するのでしょうか。日本軍は義兵よりは優れた兵器を持ってはいましたが、2千数百名程度の兵力であり、決して圧倒的とは言えない戦力でした。義兵運動は、腐敗しきってどうにもならない李朝の「王室保護」と「衛正斥邪」という伝統的な儒学思想にしか拠り所がなく、がむしゃらに武装闘争することを目的化しているところに限界がありました。従って、本気で日本軍を倒し、追い出すことを考え、全国の義兵を統一組織して戦うことはほとんどありませんでした。

 ただ一度だけ、明治40(1907)12月に1万名規模の義兵が結集し、連合部隊を組織して漢城進攻を試みたことがありました。全軍の総大将は李麟栄という儒者でした。ところが今まさに進軍という時になって、李のもとに父親死去の訃報が入ると、彼はすぐさま総大将を放り出し、喪に服するため帰郷してしまったのです。そして漢城に迫ろうとする先遣部隊が日本軍の先制攻撃を受けて敗退すると、指揮官不在となったこの大部隊は、四散分裂して二度と大部隊を結成することはありませんでした。

 逆説的に言えば、義兵運動が大同団結して、日本軍を朝鮮半島から撃退できるほどであれば、日本の統治を受けることはなかったし、またその必要性もなく、韓国民自ら国政を近代化し、自ら社会を改善できたということではないでしょうか。

Ⅴ まとめ

  さて、「日清・日露戦争は侵略戦争であったのか?」という問いに答えたいと思います。

昭和49(1974)年の「侵略の定義に関する国連決議」に従えば、日本も、清国も、ロシアも共に侵略者であったということになります。なぜなら日清戦争においては、日清共に朝鮮の領土に軍隊を派遣して戦い、日露戦争においては、日露ともに清国領土に大軍を派遣して戦ったからです。しかし、1974年に決めたことを1894年、1904年に起きたことに溯って適用するのは、近代法の根本に反することですから妥当性を欠いています。

 1928年の不戦条約からみても、日清・日露両国ともに国際紛争を解決する手段として武力行使に踏み切ったのですから、これもまた三国ともに侵略者ということになります。

 では、自衛かどうかに関してはどうでしょう。日清戦争においては、清国が自衛を主張することの根拠は乏しいといえます。日本が朝鮮へ勢力を伸ばしたとしても、それは支那本土を侵すことにはなりません。また、清国にとっては、朝鮮は清国防衛の防波堤ではなかったのです。現に我が軍は陸海に圧勝して北京に迫っていながら、北京陥落前に清が求めてきた講和に応じたことがそれを証明しています。清国は日本に支那本土侵略の目的がないことを見抜いていたのです。

 我が国が自衛を主張することについてはどうでしょう。これは明治維新の頃から一貫した我が国の主張ですが、朝鮮が自立して安定した近代国家になってくれれば、ロシアの脅威に対して我が国の安全が保障されるという一途の思いでしたから、自衛を主張することはできると考えていいでしょう。つまり、日清戦争は、日本にとってはロシアの侵出を念頭に置いた自衛の戦いであり、不戦条約違反で起訴されることはないということになります。

 日露戦争については、ほとんど議論の余地がないほどに、ロシアの侵略性は明白で、逆に日本側には自衛を訴える多くの根拠があります。

 もちろん、1928年に締結された不戦条約を、日清・日露戦争に適用するのは法の不遡及の原則に反しますので、歴史的には意味のないことです。

 日清・日露戦争に日本は勝ちましたので、第二次世界大戦の原則を適用すれば、「勝てば官軍」で、我が国は胸を張って「自衛戦争」であったと主張しても構わないでしょう。

 不戦条約も「侵略の定義に関する国連決議」においても明確にはされていませんが、武力行使に至らざるを得ない理由及び戦争目的の正当性即ち「動機」は、国家のとった武力行動が侵略的なものか否かを判断する重要な要素ではないかと考えます。

 日清戦争について言えば、清国の動機は「朝鮮の属邦化」であり、日本の動機は「朝鮮の自立」でした。日露戦争について言えば、ロシアの動機は「満洲の収奪」、「朝鮮の支配」による「東アジア及び太平洋への進出」であり、日本の動機は「日本の安全確保のためのロシアの南進阻止」でした。ですから、動機の点からみれば、我が国に分がありそうです。

 しかし戦争が行われれば、動機とは無関係に戦後処理が行われるわけで、仮に日清戦争で日本が負けていれば、朝鮮は清の属邦となり、著しく近代化が遅れることになったでしょう。そして、大陸への足掛かりがなくなった我が国にロシアと対決する足場はなく、日露戦争も起きず、ロシアは簡単に満洲を領土に組み入れていたでしょう。さらに支那、朝鮮そして日本への欧米諸国による租借地獲得合戦が加速し、20世紀もアジアの植民地化が促進されていたことはほぼ疑いのないところです。

 我が国の韓国併合、台湾の領有は、日清・日露の戦いにおける日本の動機では決してありませんでした。戦後処理の結果であり、日本が勝ったことによる歴史的必然でした。その統治に関する詳細な説明は省きますが、間違いなく言えることは、この歴史的必然がなければ、韓国と台湾の現代的発展はなく、経済的・社会的発展は少なくとも半世紀以上遅れていたということです。

 以上、日清・日露戦争が侵略戦争であったか否かという問いに対する最終的な答えは、国際法の観点からはもちろんのこと、「動機においても結果においても『侵略』とはどうしても言えない」というのが本稿の結論になります。

 しかし冒頭でも述べたように、大東亜戦争に負けた我が国は、近現代における日本の生き方を全否定され、悪者にされてしまい、現在もされようとしています。20世紀が歴史になろうとしている今日、それを追認し続ければ、終には、日本もかつてのスペインのような斜陽国家に落ちぶれてしまうでしょう。だからこそ今、私たちは日清・日露戦争に殉じた英霊に深謝し、先人の偉業を称え、誇るに足る日本の歴史をさらに深く学ぶ必要があるのではないでしょうか。()

*参考文献等

① 『大東亜戦争への道』 中村粲 展転社 平成2128

② 『韓国併合への道』 呉善花 文藝春秋 平成12120

③ 『新しい社会 歴史』 代表・五味文彦  東京書籍 平成24210

④ その他ウィキペディア



[1]台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の処理を巡って対立した清朝に対して、明治政府が行った台湾への出兵。近代日本軍が行った最初の海外派兵。

[2]明治8920日、漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。細部は後述。

[3] 古代ゲルマン民族の世界では、決闘は自らの正しさを証明する神聖な行為とされていた。