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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 大東亜戦争下の東南アジア               平成27年6月21日 作成 早乙女 菊夫

 

DVD「自由アジアの栄光」(H17制作)

「戦うビルマ独立義勇軍・インド国民軍」

紙資料:「大東亜会議」

大東亜会議とは、1943(昭和18)年11月5日・6日、大東亜戦争下の東京に、タイ、ビルマ、インド、フィリピン、中華民国、満州国の6首脳が集まり開催された、史上初めてのアジア諸国の代表者会議である。

 

Ⅰ.大東亜戦争下の東南アジア 

  インドネシアにおける「祖国防衛義勇軍(PETA)」

   原田熊吉ジャワ派遣軍司令官により、インドネシア軍創設の教育を開始した。38000人を養成。タンゲラン青年道場から錬成隊を経て「祖国防衛義勇軍(PETA)」(後のインドネシア国軍)に発展。日本の敗戦時、1000名以上の日本軍人が帰国をやめて独立戦争に参加し、インドネシア国軍とともに戦い多くが戦死した。(DVD映画「ムルデカ」参照。レンタルビデオ可)

  ビルマにおける「独立30人志士」の養成

 南機関の鈴木敬司大佐が開戦前からビルマの優れた青年を日本に招き、30人志士を海南島に集めて猛訓練をした。アウンサン(オンサン)、ネウィンなどが、「独立は自ら勝ち取るもの」と教えられた。大東亜戦争開戦後、タイ・バンコクで「ビルマ独立義勇軍(BIA)」(後のビルマ防衛軍)を結成。

日本教官による軍事訓練が行われる。日本、昭和18年8月1日独立を認める。

米・英に宣戦布告。

   インドにおける「インド国民軍(INA)」の設立とインパール進撃

藤原機関の藤原岩市少佐が、投降してきた英印軍に降伏を呼びかけてインド独立を働きかけた。さらにドイツからスバス・チャンドラ・ボースを招き、ボースを指導者とする「インド国民軍(INA)」が誕生した。インド仮政府も誕生。米・英に宣戦布告。インパール作戦を日本軍と実施。

④ マレーにおける「マレー興亜訓練所」の開設

日本軍により約800名のマレー青年が軍事教育・訓練を受けた。

⑤ フィリピンにおける日本軍政の不評

インドネシア・ビルマ・インド・マレーで見たような、民族主義者や独立の志士たちを支援し訓練して白人支配者に対する独立義勇軍を育成することなど、親米派の行政府や植民地行政官的感覚の日本軍政幹部は考えようともしなかった。

 

Ⅱ.大東亜会議の意義

昭和15年に成立した第2次近衛内閣は、従来唱えられてきた「東亜新秩序の建設」を「大東亜新秩序の建設」と言い換えた。「東亜」とは「日満支」を根幹とする発想だが、「大東亜」はこの「日満支」に「南方」を加えたものとされた。しかし「南方」を加えた「大東亜新秩序の建設」と言われたところで、それが具体的に何を意味するのか、国民には一向に判然としなかった。これを「大東亜共栄圏の確立」という、耳に心地よい戦時スローガンに置き換えたのが、松岡洋右だった。(昭15)

「大東亜共栄圏」は、「西欧の植民地勢力をアジアから駆逐してアジアを解放し、共に栄えてゆこう」というもので、はなはだわかりやすく、国民の間に広く浸透していった。昭和16年の対米英戦争も大東亜戦争と呼称されたが、戦時スローガンの「大東亜共栄圏の確立」は、意外にも戦争目的とは直接結びついていなかった。戦争目的は宣戦の詔書に「今ヤ、マコトニ已ムヲ得サルモノナリ」とあるとおり、あくまで「自存自衛のため」の域に止まっており積極的理念を欠いていた。しかし「自存自衛」は戦争の「動機」ではあり得ても、「目的」たり得ない、それでこの戦争に欠けている戦争目的を明確にし、「公明正大」な理念を置こうとしたのが、在中華民国大使重光葵であった。

「大東亜戦争を戦う日本には、戦う目的について堂々たる主張がなければならない。自存自衛のために戦うというのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つことが世界平和の基礎であり、その実現がすなわち戦争目的であり、この目的を達成することをもって日本は完全に満足する」(重光葵著作集・1昭和の動乱より)

重光は、昭和17年初頭、南京に中華民国大使として赴任するや、まず日中関係を改善すべく「対支新政策」(=汪兆銘との和解)を提唱、積極的に汪兆銘政府と話し合う一方、陸軍および政府に働きかけた。重光の「新政策」の骨子は、日本の権益保護ばかりを謳って汪兆銘を絶望的な立場に追い込んだ「日華基本条約」(昭和15)を廃し、日・中間に完全な平等関係を樹立、日本は内政干渉を行わず、中国の自主的建て直しを援助する、という点にある。重光の努力の結果、租界における中国の治外法権の撤廃や、全面和平の後、日本軍隊の撤退を約束する日華新協定、日華同盟条約が次々と結ばれるに至り、ようやく汪兆銘の面子も立つことになる。

一方、すでに日本軍は膨大な南方資源を手中におさめ、中国における各種権益に固執する必要はなくなっていた。それにもかかわらず、中国戦線は泥沼的状況になり、決定的勝利の見通しが立たないでいた。従って60万にのぼる膨大なシナ派遣軍を南方に転用できないという陸軍の焦りが募っていた。陸軍としても、汪兆銘政権の強化によって、重慶(=蒋介石政権)との和平の可能性が開ければそれに越したことはなかったのである。重光は一応の成功を見た「対支新政策」を、大東亜地域に拡大し米英の大西洋憲章に対抗して日本の戦争目的を世界に向けて宣明するという遠大な構想を抱いた。そして昭和18年4月東條に意見書を提出し、東條も重光構想(=「大西洋憲章」に対抗。特にチャーチルの言う「民族自決の原則」を謳いながら「英・仏の植民地には適用されない」という盲点をつこうとした)を支持した。こうしてこれまで「自存自衛」と認識されてきた戦争目的に「アジア解放」という理念を導入した。大東亜会議は遅まきながら日本の戦争目的を内外に声明する最初の機会だったのである。

  重光の本音は、日本の敗戦を予想し、日本が戦後のアジアに生きるためには、アジアの解放と独立という投資を行っておかねばならないという点にあった。アジア諸国において解放と独立が達成されるならば、たとえ日本が敗戦の憂き目に会おうとも、アジア諸国は暗黙のうちに日本の戦争の歴史的意味とアジアにおける日本の存在理由を認めてくれるであろう、と考えた。

東條もアジア諸国の独立と交換に、アジア諸国から物的人的協力を取り付けようとした。軍人の本分として、究極の目的は対米英戦の勝利にあり、そのため「アジア総力戦」という形にもって行きたかった。重光は「東條の、新政策に対する理解は、軍の首脳部及び軍人政治家として現れた人々の誰と比較しても最も深いものであって、少なくとも戦争目的を公明正大な立派なところに置こうと努力したことは、大東亜会議その他の場合における彼の言動から見て明らかである」(1「昭和の動乱」より)と述べている。同時に東條内閣の本質は、満州国を作った軍人的発想を持ってアジアを統治しようとした「満州内閣」とも認識していた。(昭和12年、関東軍参謀長に就任した東條は、「内面指導」という、軍部が植民地統治に積極的に介入して、人事・実務を掌握する方法論で成功したと自負していた。満州国建国当時は石原莞爾が好例であるように、「満州建国」をアメリカ建国になぞらえ、「満人のための、満人による、満人の」国家建設の理想を抱き「満州で働くものはすべて日本国籍を捨てるべし」と唱えるものも実在したが、理想主義者は次々と排除され、次第に家父長日本の属領的位置に堕していった。祝日の際の式典がすべてまず「天皇陛下万歳」に始まったことなど、極めて象徴的であろう。)

ひとつ言えることは、この大東亜会議の開催、大東亜共同宣言の発表が、これより1年前の、日本が戦勝の勢いに乗っているときに行われていたならば、はるかに大きなインパクトを与えていたかもしれないということである。しかし戦局が日本に有利であったなら、重光構想が陽の目をみたかどうか疑問のあるところでもある。戦局が不利となり、是が非でもアジア諸国の協力を得なければならないという認識が陸軍中央部に行き渡ったために、重光構想が急浮上したのであった。すなわち大東亜戦争後半に至って、日本が国家及び民族存亡の瀬戸際に直面しているという不安が底流し始め、どうやって戦後世界に生き残るのか、世界に向けて日本の戦争目的を普遍的な言葉で語っておく必要がありはしないか、そういう疑問が中枢の人間たちの胸に宿って初めて重光構想がまじめに検討された。

 

ア.インドについて

大東亜会議における発言の華は、チャンドラ=ボースの演説であった。早くからガンジーやネルーの国民会議派の「平和主義の無能」と決別し、闘争によってインドの独立を勝ち取ることを生涯の規範としてきた彼の演説はいわば血の叫びとなった。「インドにとってはイギリス帝国主義に対し妥協のない闘争をする以外に道はありません。たとえ他の国民にとってイギリスと妥協することを考えることができたとしても、少なくともインド国民にとってはそれは問題外であります。イギリスとの妥協は奴隷制度との妥協を意味し、私たちは今後絶対に奴隷制度とは妥協しないと決意します。」「私はわが国民軍(=INA)の兵士たちがこの戦争にどれだけ生き残るか、私は知りません。一番重要なことはインドが自由になる、ただそのことであります。」と彼は熱っぽく語った。この会議に集まったアジア代表の母国は何が何でも最後まで日本とともに戦争を継続していかねばならない理由を確実に持ち合わせていたわけではない。しかしボースはこれからのインドの解放のために最後まで欧米と戦うことが必要と信じていたし、事実それ以外に独立への道はなかった。

イ.ビルマについて 

一方ビルマのバーモウも「私の胸に浮かんでまいりますのは、過去において政治情勢のしからしむるところにより、西洋において出席を余儀なくせられたる諸会議の想出であります。しかしながら私は常によそ者が、よそ者の中にある感じを免れることができず、あたかも古代ローマにおけるギリシャ人奴隷のごとき感を抱くのが常であったのであります。本日この会議における空気は全く別個のものであります。この会議から生まれ出る感情はこれをいかように言い表しても、誇張し過ぎることはあり得ないのであります。多年ビルマにおいて、私はアジアの夢を見続けてまいりました。私のアジア人としての血は、常に他のアジア人に呼びかけてきたのであります。昼となく夜となく、私は自分の夢の中で、アジアがその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日この席において私は、初めて夢にあらざるアジアの呼び声を現実に聞いた次第であります。我々アジア人は、この呼び声、我々の母の声に応えてここに相集うて来たのであります。これをしも私は我らのアジアの血の呼び声と称するであります。今や我々は心を以て考える時期でなく、まさに血を以て考えるべきときであり、私がはるばるビルマより日本へ参りましたのも、この血を持って考える考えの致すところなのであります。」と語った。

 

ウ.インドネシアについて

昭和18年初頭、東條英機は「近くビルマとフィリピンに独立を与える」と声明を出したが、インドネシアは除外されていた。スカルノは「インドネシア民族の頭上に打ち下ろされた鉄槌である」と語り、ハッタは「インドネシアに最も不愉快な侮辱と刺激を与える」と批判した。なぜインドネシアが独立国として認知されなかったか、といえば、インドネシアはマレーとともに「帝国領土」と規定されていたからである。インドネシア独立に強行に反対し、直轄領として確保すべきことを主張したのは帝国陸海軍統帥部である。軍部としては、軍需物資として不可欠の石油、天然ゴムを中心とする資源をみすみす手放したくなかった。独立を認めれば、資源の入手、補給もすべて独立政府との交渉を通さねばならず、作戦上の要求に直ちに対応できなくなるというのである。「独立」と引き換えに人的物的資源を動員するというのが東條の方針だったから、東條としては、インドネシアの独立を望んでいた。しかし、その東條も統帥部の意向を変更させることはできなかった。そして独立国でないがゆえに、インドネシア代表は大東亜会議には招待されなかったのである。

 

エ.フィリピンについて

一方「東亜解放のための戦争」という理念は、すでに米国によって独立を約束されていたフィリピンでは新鮮味に欠け空疎に響いた。東條の唱えるアジア全域の「満州国化」と日本の「家父長的指導」の行使に対し、強く反発したのがフィリピンのラウレル大統領である。彼はアジア諸国の自主独立尊重の論陣を張る。日本の軍部、特にフィリピンの現地軍には、大東亜会議の理念、たとえば「相互に自主独立を尊重し」云々のごとき理念はまるで浸透しなかった。日本によるフィリピンの占領地行政は、支離滅裂でほとんど正視に耐えない、と言ってよかった。フィリピンの民心は日本軍を離れ、軍事同盟条約など結べるような状態ではなかった。ラウレルは「率直に言って、日本はフィリピン人の心理をつかむに失敗せり。フィリピン民衆はこの3年間、初めて多数の日本人と接触して残忍なる民族なりとの観念を抱くに至れり。その掲げる理想は我らの共鳴措く能わざるものなるも、その行なうところは民衆の生活を顧みず、かえってこれを不安ならしめ、軍に対する不満不平の声は徐々に全国に瀰漫す。殊に憲兵の苛烈横暴に対する反感は、政府要路の者に至るまで浸潤し、到底救うべからざるに至れり」と指摘した。「日本はなぜ、かつて台湾総督児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、力を持って強圧するのではなく、人情を持ってフィリピン民衆に臨まなかったのであるか。これが日本の失敗と言わずして何であろうか。」(同)「日本の占領はスペイン時代を再現したようだ。しかもスペイン時代は名目だけでも裁判制度があったのに、日本の憲兵は、裁判も何もなく、相手が何人だろうと意に介しない。これは日本の比島政治史上の大失敗である(ベニグノ・アキノ国会議長)。」日本占領軍に対する幻滅と落胆の奈落に沈みつつ、それでもラウレルは「独立」を目指す。すでに米国によって1946年にはフィリピンの独立を約束されていたが、戦時中の状況下で、フィリピンが敢えて独立に踏み切る必要があったのは、「米国だって1946年になればどう態度を変えるかわかったものではない。植民地の人間は宗主国に対し、深い不信感を持っているんです。だからどんな機会でも捉えて、独立の夢を叶えなくちゃいけない。たとえ東條首相の勧めだろうと、戦局の前途がおもわしくなかろうとチャンスはチャンスなのです」(ラウレル大統領次男ホセ・S・ラウレル3世談)ということであった。

 

Ⅲ.大東亜共同宜言

  抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは、世界平和確立の根本要議なり。然るに米英は自国の繁栄の為には、他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望を逞うし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。

  大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す

 1、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す

 1、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

 1、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す

 1、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

 1、大東亜各国は万邦との交誼を篤うし、人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し、以て世界の進運に貢献す

 

Ⅳ.敗戦後の東南アジア

1.インドネシア

1945年(紀元2605年)8月17日インドネシア独立宣言(昭和20年7月17日に日本は独立を容認した。イスラム教徒のスカルノはキリスト教徒による西暦を記すのを嫌った結果、日本の年号を記すことになったのだろうー深田)。この後、インドネシアは英軍及びオランダ軍と戦争に入る。独立維持の戦争の中心はPETA(郷土防衛義勇軍)であった。そして敗戦後日本への望郷の思いを捨て、インドネシアに残り、「アジア解放」の理念を信じ、オランダに対する独立戦争に参加した約1000名の日本兵がいた。彼らは国立墓地に手厚く葬られている。1949年12月27日インドネシア独立を勝ち取る。

“   Unknown soldiers who devoted their life to the war of independence…  

Indonesia will remember you forever”  (ジャカルタ・カリバタ墓地)

「独立戦争に命を捧げた名もなき兵士たち、祖国はあなたたちを永遠に忘れない」

 

2.ビルマ

国防大臣アウンサンに率いられた15000名のビルマ国軍は1945年3月17日、ラングーンで日本への協力のため出陣式を行うが、27日にはビルマ国軍を人民独立軍と改名して日本に宣戦を布告、日本軍に対し全面攻撃に出る。バー・モウはアウンサンとこの日本軍に対する宣戦布告を打ち合わせ済みであった。日本の敗戦後、ビルマが独立を維持するためにはアウンサンに日本軍を攻撃させ、「反日」の証を残しておかねばならぬ、そうバー・モウは考えた。彼の判断では、国防大臣アウンサンが日本軍攻撃という「反日の証」をつくることによって戦後を生き抜き、うまくいけばビルマの独立も維持できアウンサン自身も延命できるだろうが、首相の自分は英米に宣戦布告した「職務権限」から連合国側の格好の標的になるので、日本に亡命する以外にないと判断した。新潟県の六日町に隠れ住んだが、結局昭和21年1月18日英軍に自首し8月に釈放。1948年1月4日ビルマ、イギリスから独立。

 

3.インド

また戦後、戦勝国のイギリスがインド国民軍(INA)の幹部たちを反逆罪の名においてニューデリーで裁判に付したことによって、インドは独立の機会をつかんだ。イギリス側の心づもりとしては、この裁判をみせしめとし、INAの将兵に厳罰を与え、インド人の絶対服従を要求しようとしたものだが、インド人はもはや昨日のインド人ではなかったのである。INAはインド解放という大義のために戦った英雄たちであった。全インドの民衆たちは抗議のデモに立ち上がり、ストライキを繰り広げた。イギリス官憲は伝統的な容赦ない武器による弾圧で押さえ込もうとしたが、今度はインド人は屈しなかった。インド議会の国民会議派の領袖たちは裁判の不当、武力弾圧の不当を糾弾するのみならず、日本に対する「戦犯裁判」に対しても声高に抗議し、連日の新聞の紙面を埋めた。曰く、広島・長崎に原爆を投下したトルーマン大統領こそ真の戦犯である。曰く、赤十字の標識をつけた日本の病院船阿波丸を撃沈した米海軍こそ裁かれるべきである。このとき日本とともに戦ったチャンドラ=ボースこそ彼らの先達であった。インド民衆は久しく彼らの耳もとになり続けていたガンジーの非暴力の訴えを捨てた。この裁判に弁護側証人としてニューデリーに呼ばれていた藤原岩市少佐に対して、インド側首席弁護人だったデサイ博士は日本の敗戦に深い同情と励ましの言葉を述べた後、「インドはまもなく独立を獲得する。その契機を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドのみならずビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族共通のことだ。インド4億の民はこれを深く肝に銘じている。インド国民は日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりである。他の東南アジア諸民族も同様と信ずる」と語っている(インドは他国に先駆けて単独で日本と講和条約を結んだ)。1947年8月15日独立。

 

Ⅴ.日本の功績

大東亜戦争が結果としてアジアの解放をもたらしたことは事実であるが、それに対する日本の功績は次の2つに尽きる。その第1は、有色人種が白人に勝てることを示したこと。それは20世紀に入って2度目である。もう1つは日本人が東南アジアの人に戦争の仕方を教えたことである。宗主国側は、分割統治の目的で故意に優遇した少数民族以外は、現地人にはつとめて武器の使用を学ばせないようにした。しかし日本は、民族語の普及を通じて民族意識を再興させ、エリートの要請、自治組織、現地人軍隊の編成訓練を通じて、結果としてはそれまで欠けていた独立国運営の基盤を作った。戦争の技術だけでなく、日本が教えたのは敢闘精神だった。講和条約後に早々にケンブリッジに留学した私(=岡崎久彦)が、東南アジアの留学生から異口同音に聞いたところでは、彼らが真に学んだのは、日本人の突撃精神だったという。日露戦争における白人に対する有色人種の勝利、国際連盟創設時における人種差別反対、そして大東亜戦争による白人支配の覆滅、いずれも日本は利他的な目的で行ったわけではなかったが、それが与えたインパクトが歴史の流れを促進し、やがてそれが第2次大戦後の世界において結実したのである。

大東亜戦争後、50年余りを経た今日、東京裁判による歴史観を見直すべき時期が到来しているのを痛感せざるを得ない。この裁判においては、「民主主義対ファシズム」という対立図式を硬直的、教条主義的に適用し、戦時における日本の行動すべてをファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基づく歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、誠に不幸であった。大東亜会議は「アジアの傀儡を集めた茶番劇」では決してなかったのである。自らは敗北したが、戦後のアジア・アフリカの独立という新しい波をもたらしたものは、疑いなく「大東亜戦争」であり、それは300年にわたるヨーロッパ文明による世界支配を揺るがした。

 

Ⅵ.語録 

ア.「1943年の末、アジアの独立した諸国代表が、史上初めて一同に会する機会を持った。それは1943年11月5,6日の両日、東京で開かれた大東亜会議である。事実、これは歴史を創造した」(「ビルマの夜明け」バー・モウ)

 イ.「われわれは、隔てられた人間としてではなく、すべての国民を包含した単一の歴史的家族として寄り集まっていた。こんなことはかつてなかったことだ」(同上)

ウ.「歴史的に見るならば日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」(同上)

 (この誤解している諸国民の中に「日本国民」自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇があると言えそうである。)

エ.「君たちはアジアの敵と組み、アジアの見方と戦っているのではないか。」

(重慶の国民政府にラジオで語りかけたチャンドラ=ボース)

オ.「大東亜会議は、これまでの幾多の国際会議とは全然本質を異にする」

(インド チャンドラ=ボース) 

カ.「ナポレオン後のウィーン会議は、メッテルニヒに支配され、1919年のヴェルサイユ会議は、クレマンソーとロイド・ジョージに支配されて、弱肉強食の様相を呈し、強国は弱国の犠牲による成果の分配に虎視眈々たるものであった。会議では、強弁と恫喝が横行した。しかし大東亜会議は強弁も恫喝もない、『ひとつの家族パーティ』だった。大東亜における新しき諸国家間の秩序建設の諸原則を確立した」(同上) 

 キ.「日本の今次大戦も、考えようによっては昔の十字軍同様であり、すなわち日本が占領した、全東南アジア全民族の解放運動だということになる。戦争には負けたが、数百年にわたって眠っていた民族を自覚させ、独立できると教え警鐘であった。日本国民はアジア諸国民の自覚を促した救世主である」(同上)

 ク.「日本の最も大きな貢献は我々に独立心を掻き立ててくれたことだ。これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。PETAの訓練を受けた人たちが残らず感じていることだ。」(インドネシア サンバス将軍)

 ケ.「日本軍の大東亜戦争があったためマレーシアの独立は50年早まった」

(マレー大学副学長)

コ.「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治意識の遅れていたマレー人たちの間に、その意識の成長を促し、マレーにおける民族主義の台頭と発展に触媒の役割を果たした」(マレーシアの歴史学者)

サ.その他

例1 フィリピンに対する賠償問題が暗礁に乗り上げたとき、これの打開にあたったのは、ラウレルとその知友の村田省蔵元大使だった。

例2 バー・モウ政権下の外務大臣ウー・ヌーは、戦後首相に就任し、他国に先駆けて対日平和条約と賠償経済協力協定を結ぶ。

例3 ワンワイタヤコンが国連議長として、日本の国連加盟に努力。

 

Ⅶ.教科書などの記述例

 ア.東京書籍中学生「歴史」現行版

「日本は、植民地や占領地でも、厳しい動員を行いました。多数の朝鮮人や中国人が、意思に反して日本に連れてこられ、鉱山や工場などで劣悪な条件のもと過酷な労働をしいられました。こうした動員は女性にもおよび、戦地で働かされた人もいました。戦争末期には徴兵制が朝鮮や台湾でも実施されました。

東南アジアにおいても、日本軍は、労働を強制したり、物資を取り上げたりしました。また、日本語教育などをおしつけました。そのため、現地の住民の日本に対する期待は徐々に失われ、各地で抵抗運動が発生しました。日本軍は、抗日的と見なした人々を厳しく弾圧し、多くの犠牲者が出ました。」 

 

イ.    自由社中学生「新しい歴史教科書」現行版

日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に、独立への夢と希望を与えた。日本軍の破竹の進撃は、現地の人々の協力があってこそ可能だった。もともと親日国だったタイに加えて、シンガポールなどで日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され、インドネシアやビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられた。

日本は、これらのアジア各地域に戦争への協力を求め、あわせてその結束を示すため、1943(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催した。会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、「大東亜共栄圏の建設」を戦争目的とした。

日本の南方進出は、「アジアの解放」という名目をかかげつつも、自国のための資源の獲得を目的とした。この戦争は、戦場となったアジア地域の人々に大きな損害と苦しみをあたえた。特に中国の兵士や民衆には、日本軍の行動により、多数の犠牲者が出た。日本は、占領した東南アジアの各地では、軍政をしいた。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力した。しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝などを強いたことに対する反発もあった。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動がおき、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民もふくめ多数の犠牲者が出た。また、戦争末期になり、日本の戦局が不利になると、食料が欠乏したり、現地の人々が過酷な労働に従事させられることもしばしばおきた。日本軍が敗戦で撤退すると、旧宗主国のイギリス・フランス・オランダは直ちに再支配にもどってきた。しかし、これらの植民地は、ほぼ十数年の間に、次々と自力で独立国となった。日本軍の将兵の中には、敗戦のあと現地に残り、これら植民地の独立勢力に加わった者もあった。 

      

ウ.山川出版社高校生新日本史B改訂版現行版

…この間、1943年に、東条内閣はビルマ・フィリピンなどを形式的に独立させ、その政府代表者を東京に集めて大東亜会議を開き、アジアの欧米植民地からの解放を唱え、占領地の住民から戦争遂行へ協力を得ようとした。工業生産力や資源でアメリカ合衆国に著しく劣る日本は、余裕がなくなって、占領地から強引に資源や食糧の獲得をはかった。また占領地の住民を強制労働に従事させたり、彼らの歴史や文化を無視して、日本語や神社参拝を強要した。このため、しだいに住民の反日抵抗運動は増大していった。

 

エ.実教出版高校生日本史B28年度版

戦局が大きく転換する中で、政府は占領地の人々の対日協力を確保するために、戦争目的を明確にする必要があることを認識するようになった。1943年11月、東京で「大東亜会議」が開催され、日本・タイ・フィリピン・ビルマ・中国(汪兆銘政権)・「満州国」・自由インド仮政府の代表が参加した。ここで採択された宣言は、大西洋憲章を強く意識して、「大東亜を米英の桎梏より解放」することをうたい、「道義に基づく共存共栄」「自主独立の尊重」などをかかげていたが、日本の植民地である朝鮮や台湾の独立を認めるものではなかった。日本にとっては、占領地を組み込んだ自給自足の経済圏を建設することが戦争継続の絶対的な条件であった。「大東亜共栄圏」は、そのためのものであり、「共栄」という理念とは異なって、占領地では軍政と日本語使用強制などの皇民化政策のもとに、圧政と収奪がおこなわれた。また朝鮮・台湾・「満州国」でも皇民化政策と戦争への動員がなされた。日本の過酷な支配に対して、占領地では抗日運動が展開され、日本軍は治安の確保に追われた。

 

オ.橋川文三「「大東亜共栄圏」の理念と実態」岩波講座日本歴史21巻より

1943年(昭和18115日~6日の第二次世界大戦半ば,日本敗戦の色濃くなったころ,占領諸国の離反を防ぎ戦争協力を確保することを目的に東條英機が主宰した会議。東京の議事堂で開催された。出席者は,東条をはじめ,中華民国の汪兆銘・タイ国のワン=ワイタヤコーン・満州国の張景恵・フィリピン共和国のラウレル・ビルマのバー=モー,それに自由インド仮政府のスバス=チャンドラ=ボースであった。この会議では,『大東亜共同宣言』が採択・発表された。まったく時期遅れにも各民族の独立尊重・互恵提携がうたわれ,相変らずアジア地域の共存共栄が叫ばれたが,まったく空疎なものにすぎなかった。したがって,各地民族の協力が得られなかったばかりでなく,民族闘争の高まりを食い止める何らの具体策も生まれなかった。」

 

参考文献 「大東亜会議の真実」          深田祐介

「再検証『大東亜戦争』とは何か」    村上兵衛

       「アジアの独立と『大東亜戦争』」     西岡香織

      「百年の遺産 日本近代外交史73話」   岡崎久彦

      「新日本史B」                山川出版社

「新しい社会 歴史」             東京書籍

「市販本 新しい歴史教科書」        自由社