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活 動 報 告report

 台湾統治と朝鮮統治                     平成27年7月19日 作成 正岡 富士夫

―植民地支配とは何か?-

Ⅰ はじめに(植民地とは)

  我が国の歴史学者の主流は、「日本は朝鮮・台湾を植民地支配した。だから、日本は悪いことをした」からスタートする人が少なくありません。明確に言わないまでも「植民地支配したから侵略国家である」ということを大前提にしているのです。「植民地」という語は、教科書、歴史書、メディア、各種論文などでいたって安易に使われていますが、「侵略」よりも遥かにその意味は曖昧かつ幅広く、語感そのものに使う人の恣意的な意図や思想がこめられている場合が少なくはありません。

 極端な例を挙げれば、北海道、沖縄は勿論のこと東北北部まで日本の植民地であると主張する者もおり、こうなってくると世界のほとんどの地域が何らかの形で植民地ということになってしまいます。例えば、スコットランドやアイルランドはイングランドの植民地であり、アメリカ中西部の殆どの州は東部13州の植民地であると言えるでしょう。支那について言えば、チベット、新疆ウィグルなどは典型的な植民地であると言えるし、東三省(満洲)もまた植民地と呼ぶにふさわしいでしょう。

 つまり植民地かどうかを議論することは余り意味のないことで、大切なことは、その地域に住む人たちに対して如何なる「統治」が行われたかを論ずることだと言えます。

 我が国の多くの歴史教科書は概ね次のような記述内容となっています。

 台湾を領有した日本は、台湾総督府を設置して、住民の抵抗を武力で鎮圧し、植民地支配をおし進めました。(東京書籍24年度版156)(28年度版も同じ)

 1910年、韓国は日本に併合されました。日本は、朝鮮総督府を設置して、武力を背景とした植民地支配をおし進めました。学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日本史や日本語を教えて、日本人に同化させる教育を行いました。(160) (28年度版では更に以下のように「改悪」されています。)

 1910年、日本は韓国を併合しました(韓国併合)。韓国は「朝鮮」と呼ばれるようになり、首都の漢城(ソウル)も「京城」と改称されました。また強い権限を持つ朝鮮総督府を設置し、武力で民衆の抵抗をおさえ植民地支配をおし進めました。学校では、朝鮮の文化や歴史を教えることを厳しく制限し、日本史や日本語を教え、日本人に同化させる教育を行いました。植民地支配は1945(昭和20)年の日本の敗戦まで続きました。

 小学校(社会科6年生上)では次のような記述となっています。

 1910年に人々の抵抗を軍隊でおさえ朝鮮(韓国)を併合しました。植民地となった朝鮮の学校では日本語の教育を受けることになり、朝鮮の歴史は教えられず、朝鮮の人々のほこりが深く傷つけられました。そして土地の制度が変えられ、多くの朝鮮の人々が土地を失い、日本人の地主の小作人になったり、仕事を求めて日本などへ移住したりしました。こうした状況に対して、朝鮮の人々は独立運動をねばり強く続けて行きました。

(東京書籍27年度版)

 日本が朝鮮や台湾を「植民地統治」した或いは「植民地支配」したという場合、その前提には統治した住民を苛酷に取り扱い、富を収奪して、民族の違い故の不当な差別をしたなどという批判が込められているということです。それは「植民地主義」の老舗である欧米諸国が、アジア・アフリカ諸国など17世紀以降、西欧文明に大きく後れをとった地域・民族に対して、まさに「苛酷な植民地支配」を行ったという人類の記憶に由来していると思われます。

 では、欧米帝国主義においては、実際にどのような苛酷な植民地支配が行われたのでしょうか?

植民地支配の帝王は、言うまでもなく大英帝国です。イギリスは、北米を重罪人の流刑地にしていましたが、アメリカが独立すると、次にオーストラリアを流刑地にしました。オーストラリアは、住んでみると気候がよく地味もいいので普通の市民も移住するようになりました。普通の市民といっても本国では喰いつめ厄介者にされていたものが多かったようです。こういった白人たちがその後約1世紀にわたってオーストラリアを血まみれの大陸に変えました。20世紀に入っても先住民族であるアボリジニの虐殺が行われていたのです。豪州大陸東南部の最初の入植地であるニューサウスウェールズ州立図書館(シドニー)には、昭和2(1927)年の日付で「今日の収穫アボリジニ17匹」と記された資料が残されています。600万人もいたアボリジニは、現在わずか30万人しかいません。オーストラリア本土の次にはタスマニア島が流刑地になりました。毎年4000人の囚人が送り込まれ、1853年までに約7万人の白人がタスマニア島に住みつきました。タスマニアには50万人のアボリジニの人々がいましたが、そのほとんどが崖から突き落とされ、銃殺され、ここでは絶滅しました。

 その詳しい状況が、GHQによって焚書された『豪洲聯邦』(昭和179月刊行 宮田峯一著 紘文社)に記されていました。

イギリス移民が大挙して原住民の居所を襲い、放火して付近一帯の土地まで焼き払い、そこに本国から持参した穀類の種子を蒔いたようなことは枚挙に暇がないほどであった。

数十名の原住民をカヌーに乗せて、沖の方へ漕ぎ出させた後、海岸から一斉射撃を浴びせて、あたかも鳥獣を殺すようにして殺戮した。

原住民を使嗾して仲間同志の闘争を惹き起こさせ、彼らの絶滅を図った。

原住民が夜中沐浴している時や、野営の篝火を囲んで楽しく団欒している時、突然襲撃して、全員を皆殺しにするような行為もしばしばあった。

負傷者は脳を打ち砕かれ、赤子は火中に投ぜられ、まだぴくぴく動いている肉には銃剣が情け容赦もなく突き込まれ、原住民がその周囲で安眠するために取り囲んでいた篝火は、夜明け前に、彼等を焼く火葬の火となった。

インドは、オーストラリアとは少し事情が異なり、古代から文明の栄えた先進地域でした。昔から木綿産業が盛んでしたが、産業革命が起きると、イギリス本国から木綿が圧倒的に安い値段で入ってくるようになり、木綿を作って生活している何百万人というインド人たちが、これにより生活できなくなりました。その上、イギリス政府は木綿の生産量を減らすため、木綿の作り手たちを何万人も集めて、その手首を切り落としたのです。インドの木綿工たちは当然仕事ができなくなり餓死してしまいます。そしてベンガル湾に沿って何百万人という白骨が並んだと伝えられています。

 インドシナを支配したフランスはどうだったでしょうか。

 住民に対する苛酷な税の取り立てが行われ、反乱が起きると武力で鎮圧しました。サイゴンでは、容疑者は裁判なしでギロチンにかけられました。一方では阿片を売り、10歳以上の子供を炭鉱で働かせて人頭税を徴収しました。税金が払えないと政治犯と看做され、監獄に放り込まれました。従って収入の少ない老人や子供の囚人が多く、彼等は鎖で繋がれていました。だからフランスは都市の数ほど監獄をつくり、それでも足りないからとサイゴンの南の島コンダオに4つの監獄と拷問棟「虎の檻」を建てました。ここには屋根がなく、鉄格子越しに生石灰と水を素っ裸の囚人の上に撒きました。囚人はやけどを負い、さらに熱帯の太陽に焙られました。囚人が死ねば、遺族から葬式税を取り立てました。

 インドネシアを植民地としたオランダはどうだったでしょうか。オランダの統治政策の基本は、愚民政策・貧民政策でした。オランダン人はインドネシア人を家畜と同様或いはそれ以下の存在として扱いました。鞭打ち・平手打ちは当たり前で、不手際をした2人の現地人女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部にトウガラシ粉をすりこんで、木杭に縛りつけて見せしめにすることもありました。オランダ領インドネシアの悪名高い「強制栽培制度」は1830年に開始されたもので、植民地政府は、農民の命の糧であった米作を強制的に止めさせ、そのかわりコーヒーや砂糖キビ、藍、煙草、胡椒などヨーロッパ人が喜ぶ作物を栽培させ、ヨーロッパへ輸出して、莫大な富を築きました。主食を失い、貧困と飢えにあえぐインドネシア人の平均寿命は、35才にまで低下したといわれています。インドネシア原住民とオランダ人の所得比は、113,000(100円:130万円)もあり、当然ながら現地人による窃盗など貧しさゆえの犯罪も頻発しました。刑務所で過酷な労役を課せられている囚人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと、出所を拒んだという話もあります。そのためでしょう。日本軍が入ってきたときには、地鳴りがするような歓迎のどよめきが湧き起こったと言われています。

 以上一例に挙げたような欧米白人種による有色人種に対する典型的な植民地政策の共通した特徴は、支配下に入れた地域を何らかの形で自国本土の利益源とし、そこに住む先住民たちの利益・幸福・安全については全く考慮の外に置かれたというものです。支配の形は、本国から送った行政組織で直接統治したり、現地人の行政組織を活用して間接統治したりと様々ですが、支配の目的は一貫していました。レーニンが次のように喝破しています。「ヨーロッパの近代における繁栄は、植民地における豊富な資源の一方的略奪と、安価な労働力の収奪による」のだと。また、岡倉天心は「ヨーロッパの繁栄はアジアの屈辱である」と述べました。本国から企業や入植者がやってきて、現地民を奴隷化し迫害する、これこそが所謂「苛酷な植民地支配」でした。入植者の土地や収益確保のためならば、現地人を淘汰・虐殺することを当然視する考え方が基盤となっていたのです。

 このような植民地支配が文明的な人類としてやってはいけないこと、不当な支配であると考えられ出したのは、せいぜい大東亜戦争以降の20世紀後半になってからです。第二次世界大戦後、東京を初めとする南京、上海、マニラ、シンガポールなど世界各国の50か所の軍事法廷で日本の戦争犯罪を追及しているさなかに、フランスやオランダはインドシナやインドネシアにおける植民地を奪回・維持しようと武力を使った無駄な努力を続けたほどでした。

白人による有色人種に対する苛酷な扱いの根っこには何があったのでしょうか。18世紀の有名なスウェーデンの植物学者リンネは、人類はみな同一の種に属していることは認めていましたが、人類にはその下位分類である亜種が存在するとみていました。第二次大戦後、アメリカで米国人類学者協会会長を務めたクーンペンシルバニア大学教授は、「人類には明確に識別可能な5つの亜種、即ちオーストラロイド、カポイド、コーカソイド、コンゴイド、モンゴロイドがあり、おのおのそれぞれの地域でヒト科の祖先から現在の姿へ進化した」という説を発表し、近代における白人種(コーカソイド)の支配的立場は、進化によって得られた遺伝的優位性の当然の結末であるとしました。この人種差別を当然視する学説は、20世紀後半の国際社会においてさえ支配的な定説となっていたのです。

20世紀後半においてさえそうだったのですから、20世紀前半、19世紀、18世紀の世界で、産業革命によって圧倒的な武力を備えた白人種が、アジア・アフリカの有色人種を劣等な生き物として、人間とは看做さないほどの不当な差別をすることに何の心の痛痒を感じなくても不思議ではなかったともいえます。

韓国や我が国の進歩的文化人がよく口にする「苛酷な植民地支配」という言葉の裏側には、以上述べたような人種差別思想に基礎を置く欧米諸国の行った南アジアや東南アジア諸国への非道極まる統治イメージがあるようです。しかし、日本の行った朝鮮・台湾・南洋諸島などの外地に対する統治はまったく違うものでした。むしろ、日本の統治は欧米のそれとは全くの対極にあったと断言できます。

我が国おいては、明治期から「植民地」という語に忌避すべき侮蔑的なニュアンスを感じ取り、外地を「植民地」と呼ぶことへの反感がありました。欧米の植民地支配の実態を少しでも垣間見れば、あって当然の反感です。従って外地を植民地と呼ぶことを避け、「単に台湾・朝鮮・樺太等地名を呼ぶ」ことが慣例となっていました。明治38(1905)年の帝国議会において、当時の首相で第2代台湾総督でもあった桂太郎が、「台湾は日本なのか植民地なのか?」いう質問に、うっかり「無論植民地であります。内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまい、議員達の間に大いに感情的反発を呼ぶという珍事がありました。議員側からは、「台湾を植民地にするとはいうことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとする!」といった非難が出たのです。

我が国は大正8(1919)年、第一次世界大戦後のパリ講和会議において、世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張し、そして提案しました。具体的には、第一次世界大戦後の集団安全保障体制の中心的役割を担うべく創設された「国際連盟規約」の中に、「締約国はなるべく速やかに連盟員たる国家における一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何により法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を入れることを提案したもので、現代の世界常識から見ても極めて人道的・民主的先進性を備えた内容でした。

賛成票は、日本の他、仏、伊、ギリシャ、中華民国、ポルトガルなど11票、反対票は米、英、ポーランド、ブラジル、ルーマニアの5票と賛成多数でしたが、議長であったウィルソン米大統領が、議長権限をもって「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言したため陽の目を見ることはできませんでした。

この提案は日本を含んだ海外でも報道され、大きな反響を呼ぶことになりました。日本次席全権であった牧野伸顕[1]は西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人などからこの提案に関し感謝の言葉を受けたといいます。また全米黒人地位向上協会からも日本提案への感謝のコメントが発表されました。賛成多数であったにもかかわらず自国のウィルソンが議長裁定により法案を成立させなかったことに対して、当然ながら米国内の都市で抗議行動が頻発し、100人以上が死亡、数万人が負傷するという大規模な人種暴動が起きました。

 欧米において人種差別撤廃に対する抵抗が強かった理由は明白です。コーカソイド以外の有色人種に対する優性意識を絶対的な前提として、特に、白人種の対極にあると見ていたネグロイド(黒人)を奴隷として使役したという長い歴史があったからです。

 16世紀から19世紀にかけて、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルの奴隷商人たちは、ヨーロッパから銃器や木綿製品を植民地でもあるアフリカ西岸や東岸へ持ち込み、黒人と交換し、奴隷として南北アメリカ大陸や西インド諸島で売却しました。そして砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物を購入して、ヨーロッパの市場において高値で売り大儲けをしたのです。これが所謂「奴隷貿易」であり、黒人は中間商品としてヨーロッパ商人たちの利潤増大の道具となり、そして売り飛ばされた地域では、食べさせるだけでいい極めて安価な労働力として酷使されたのでした。奴隷貿易が最盛期を迎えるのは18世紀で、推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は約400万人が奴隷として売買されたといわれています。

 因みに、日本にやってきた黒人は、天正9(1581)年イタリアの宣教師が召使として連れて来た日本名「弥助」が有名です。初めて黒人を見た織田信長は、墨を塗っているのではないかとなかなか信用しませんでしたが、着物を脱がせて体を洗わせ、本当に彼の肌が黒いことに納得した信長は、この黒人に大いに関心を示し、交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士身分に取り立て、屋敷と刀を与え、身近に置いたといいます。イエズス会日本年報によると、信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは城を与えようとしていたという話さえあります。

 ともあれ植民地という概念の基底には、人種差別主義があり、その差別意識と一体となって支配地域に住む住民を使役し、或は奴隷として商品化し、富へと転化させ本国へと持ち帰るという行為があります。

 日本の行った朝鮮と台湾の統治は、定義が曖昧なだけに植民地であると言えなくもなく、そのように言われればそれを否定するのは面倒な話になりますが、欧米がアフリカ・アジア・オセアニアなどで行った植民地支配とは全く違うものだという主張はできます。そして、「欧米型植民地を植民地の定義とするならば、朝鮮と台湾は決して植民地ではない」と言うべきです。前述したように日本には人種差別意識はなく、朝鮮や台湾に住む人々を無償で使役、或は奴隷として商品化するようなことは皆無であり、後で具体的に述べるように、正当な殖産興業によって富を得ることはありましたが、不当な富の収奪はなく、現地に住む人々の社会と生活を改善・向上させたからです。

 ですから、韓国人などが、日本は植民地支配をしたと言い募る場合、「その植民地という言葉をどのような意味合いで使っていますか?」と問い質す必要があります。冒頭で述べたように多くの人は「植民地」という用語を使うことによって、「無思考・無批判かつ短絡的に」苛酷な統治を思い浮かべているからです。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000011470.gif

Ⅱ 台湾統治

1 日本統治以前の台湾

   台湾島は東西144km、南北394㎞、面積36,200㎢(≒<九州)、澎湖列島をはじめとする76の島々を擁し、西は支那大陸と約200㎞の台湾海峡で隔てられ、南はバシー海峡を挟んでルソン島と約350㎞、北は沖縄県の与那国島とはわずか120㎞の位置にあります。中央部には東アジア最高峰の玉山(新高山:3,952m)を含む山脈が連なり、東西を分けています。

 清朝に至るまで支那の歴代王朝には台湾本島に対する領有意識・意欲はなく、澎湖諸島までが清国東端の領域という認識にありました。明朝の滅亡後(1644)、反清復明を掲げて清朝に抵抗した鄭成功が台湾を根拠地としたため、清王朝(康熙帝)は台湾対策に力を注ぎますが、台湾には異なる時期に南方から移住してきたと考えられるさまざまな言語と習慣をもつ多数の部族が先住し、マラリアなど風土病が蔓延する未開の地であったため、積極的にこれを統治しようとする政策は採られませんでした。

 当時の台湾には、異なる文化と言語をもつマレー・ポリネシア系の10数種族及び国禁を犯して移住した少数の支那人が全島に分散して住んでいました。従って彼らによる統一勢力が育つことなく、次々と外来勢力による支配を受けました。1624年、オランダが支那~東南アジア~日本の多角貿易中継基地として植民地化し、島内の物産(鹿皮、鹿肉、砂糖)を輸出して多大な利益をあげました。オランダは、新たな作物の移植などの農業開発、ローマ字による言語教育などの教化政策も少し行いましたが、その統治政策はあらゆるものに重く課税して絞るという欧米帝国主義国家の典型的な植民地経営であったためその苛斂誅求に耐えかねて原住民の反乱暴動が相次ぎました。

 台湾は、オランダがやってくるずっと以前から、日本と支那の商人達による出合貿易の重要拠点となっていました。オランダは台湾を自国領土と看做しており、排他的な領域支配と貿易独占を図りましたので、支那や日本の交易に10%の関税を課しました。1625年、朱印船船長濱田弥平はこれに力づくで抵抗、長崎で対日交易の特権を幕府から与えられているという弱みからオランダ政府が譲歩するという事件が起きました。このとき、濱田弥平は台湾の先住民代表十余名を連れて、江戸城へ参府、時の将軍・家光に拝謁、オランダの支配の苛酷さを訴えると共に、台湾全島を献上することを申し出て、将軍から多大な賜り物を与えられました。この申し出は、鎖国政策を視野に入れていた幕府の容れるところとはならず、1639年に鎖国となり、日本船の台湾往来は途絶えました。

1662年、シナ大陸を追われた鄭成功が25千の軍勢でオランダの根拠地を攻め落とし、オランダの支配は38年で終りました。この頃の台湾の人口は、先住民8万、移住民2万、鄭成功軍3万、計13万余に過ぎませんでした。鄭政権は反清復明を国是として常時戦時体制にあったため、軍事作戦に伴う出費に応じた税負担が重く住民にのしかかりました。その苛酷さはオランダ以上で、人頭税はもちろんのこと家屋税、豚舎税、鶏舎税、製造税、捕獲税、運搬車税、漁獲税、停泊税、結婚紹介税など名目のつくことには殆ど課税されました。重税に苦しむ住民は、次第に怨嗟の念を募らせ、終には鄭氏政権を見限るようになりました。その間、移住民の人口だけが増え続け15万人に達したため、先住民は被支配者として少数民族への道を辿ったのでした。見方を変えれば、鄭氏政権もまた欧米式の帝国主義的植民地政策を採ったということになります。

1662年、鄭成功が没すると後継者争いなど内紛の絶えなかった鄭政権は、1683年、康熙帝に降伏し23年で幕を閉じます。清朝最高の名君と言われる康熙帝は、台湾本島は放棄した方がよいという朝廷内の支配的意見を押し切り、台湾領有の勅令を下しました。しかし、康熙帝には領有したものの積極的に統治し開発する積りは全くなく、台湾が再び反乱軍の根拠地になることを防止するのがその狙いでした。清国政府は台湾と澎湖諸島を福建省の管轄下に置き、現地には官吏及び陸軍と水軍から成る約1万の軍隊を派遣し、単身赴任の3年任期で交代させ、清国人の土着化を防止しました。さらに既に台湾に移住していた清国人10数万人を強制的に本国へ帰還させ、台湾への渡航を厳しく制限しました。しかし人口過剰に苦しむ支那沿海各省の住民にとり、台湾は希望に満ちた新天地に見え、密航者は後を絶ちませんでした。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Soldiers_of_the_Japanese_expedition_in_Taiwan.jpg2 台湾出兵

  日本は明治維新後間もない頃に本当に台湾を領有しようとする意図があったのでしょうか。日本が侵略国家であったとする我が国の歴史学者の中には、この台湾出兵さえもアジア侵略の第一歩であったかの如く主張する者がいます。東アジア政治史の研究家・伊藤潔は「日本政府はこの事件を利用して、琉球の日本領有確認と台湾進出を同時に果すことを目論んだ」と述べています。

 この事件とは、明治4(1871)年、宮古島から首里へ年貢を輸送した琉球御用船が暴風で遭難、台湾南部に漂着した乗員66名のうち54名が斬首された事件です(牡丹社事件)12名の生存者は、清国移民により救助され福建省経由で宮古島へ送り帰されました。明治政府は清国に対して賠償などを求めますが、清国政府は「『台湾は化外の地』であって清朝の管轄内ではない」として責任を回避しました。翌年、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は清国の責任追及のための出兵を政府に建議します。この問題は、紆余曲折を経て外務卿副島種臣の下に持ち込まれましたが、その頃征韓論が沸騰し始めており、その騒ぎの中で台湾処分問題は店晒しにされ、明治610月、征韓論に敗れた西郷が下野すると板垣、後藤、江藤、副島の4人も参議の職を辞し、近衛士官が大挙して兵営を去り、結局、台湾処分問題は消え去ってしまったかのようになりました。

 この時期、全国で300万とも言われる士族が失職し、その不満と熱気が日本列島の津々浦々で土煙を上げるが如く加熱していました。そのエネルギーをどこかに逃がしてしまわなければ内部で爆発、即ち内乱が起こる危険が満ちていました。当時の明治政府その実質的リーダーであった大久保利通が、そのはけ口として、店晒しになっていた征台論を拾い上げ、実行に移したのが「台湾出兵」でした。その発案者であり、征台軍の指揮官となったのは、陸軍大輔西郷従道でしたが、従道は兄隆盛の首唱する征韓論の反対論者であり、大久保と志を同じくする徹底した内治優先主義者でした。この二人が企てた「台湾出兵」が真面目に対外進出を目的としたものでないことは明らかです。

 更には、日本政府に積極的な台湾領有化の意図が存在していたならば、日清戦争末期に台湾本島への上陸作戦を実行していたはずですが、実際には台湾海峡の海運の要衝である澎湖諸島の港湾の一部を占領したに過ぎませんでした。

 さて、明治7(1874)4月、ほとんど軍隊とは言い難いほどの薩摩や肥後などの鎮台兵と壮士(旧士族等)3,658(上記写真参照)を引き連れて、台湾南部に上陸した西郷従道は、当然とはいえ戦闘らしい戦いはせず、先住民と猪狩りのような小競り合いを20日ほどやって戦いは終りました。戦死者はわずか12名でしたが、マラリアなどの風土病で561名が死亡しました。

 この紛争は、大久保利通の超人的とも言えるしたたかな談判によって、同年10月末、日清両国間に、出兵戦費に相当する賠償金40万両支払い及び日本軍の撤兵という条件で講和条約が結ばれ、更に清国はこの台湾出兵が国民保護を成した日本政府の「義挙」であると認め、遭難被害者遺族に弔慰金10万両を支払うことで決着しました。これによって琉球国民が日本国民であることを、清国が正式に認めたことになり、やや曖昧であった琉球の日本帰属が欧米列強に認知されました。このことはその後の沖縄を含めた先島諸島の領土問題に対して、我が国の国益に及ぼした功績は大きかったと思われます。なぜなら、大東亜戦争後の領土処分において、先島諸島の帰属は問題とされず、何の疑いもなく我が国固有の領土とされたからです。現在の東シナ海・南シナ海における強引な支那の拡張政策を見る時、その思いは益々深くなります。

 この台湾出兵は、国内に鬱積した不満を瀉血療法によって治療しようとした不純な動機によるところが大で、しかも欧米列強公使から大変な不評を買い、木戸孝允など内治派からも厳しく批判されたやや強引かつ行き過ぎの政策であったことは疑いのないところですが、決して領土的野心によるものでなかったことも事実として認めるべきです。

3 台湾割譲と台湾民主国

  日清講和条約は明治28(1895)417日に調印されましたが、清国政府はこの事実を事前に台湾の官民へ知らせませんでした。翌日これを知った台湾当局(巡撫≒知事)及び支那系台湾人は、「倭に服すればわが郷土は夷狄に陥らん」として、清朝政府の措置に抵抗します。その背後にはフランスの暗躍があり、日本による台湾領有を阻止すべく、台湾への派兵を準備しますが、仏領マダカスカル島で動乱が起きたため中止となりました。遼東半島に続く第二の「列強の干渉」になる恐れがあったのです。台湾当局はフランスの介入に期待します。519日、フランスの軍艦が到着し、台湾が独立すれば、フランスが武力介入し、台湾割譲を阻止することが可能になることを示唆しました。こうして523日「台湾民主国独立宣言」が発せられ、25日独立式典が行われました。しかし、フランスも含め欧米列強は台湾民主国を承認することはありませんでした。

 我が国は清国から国際合法的に割譲を受けたのですから、可及的速やかに統治を開始するのは当然の成り行きです。また清国政府と正式な受け渡し手続きも必要です。日本軍は529日、即ち台湾民主国成立の1週間後に上陸を開始し、清国全権との間で授受手続きを終えました。

 この時期の台湾の人口は、先住民(ポリネシア系)45万、移住民(支那人)255万、合計約300万と推計されています。529日、近衛師団が台湾に上陸すると、台湾民主国の首脳陣は公金を横領して本土へ逃亡、台湾民主国に雇われていた広東人傭兵が治安を乱したこともあり、614日には台北住民は治安維持のため日本軍を迎え入れ、台北は無血開城されました。617日海軍大将樺山資紀台湾総督は、占領した台北で台湾総督府始政式を執行します。また帰国を求める北部の旧清国軍については、講和条約に基づいて帰国事業を行いました。

 最初に上陸した日本軍は北白川宮能久親王率いる近衛師団の1個師団だけでした。当初樺山総督は、台湾全土の占領は容易であると考えていましたが、台湾に骨を埋める覚悟をしている移住系住民は婦女までもが戦闘員となり決死のゲリラ的抵抗を見せたため、日本軍は苦戦します。大本営は、台湾情勢を「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、7月に増派を決定します。日本軍が土兵や土匪と呼んだ義勇兵は、日本軍の大軍を見ると白旗を揚げて笑顔で迎え入れ、少数になれば後ろから襲いかかって攻め立てるという支那人特有の戦法をとったため、日本軍はその対策として村まるごと殲滅するといった強硬手段に出ることもありました。このことがさらなる反発を呼び、抗戦運動を長引かせたとも言われています。結局、何度も増派され、最終的には2個師団以上の戦力を投入することになりました。

日本軍は、北部から中部山岳地帯を経て、10月台南へ進出します。1019日、台湾民主国軍は最終的に崩壊、明治28(1895)1118日、樺山総督は台湾平定宣言を大本営へ報告、5カ月に及ぶ台湾平定戦は終結しました。この戦闘で、日本は約76,000人の兵力(軍人約5万、軍夫26,000)を投入、死傷者5,320(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514)、さらに軍夫7,000人の死者を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14,000人の死者を出したとされます。日本側の兵員損失の97%以上は病死者であり、総体的に見れば住民の武力抵抗は小さなものだったことが推定できます。また近衛師団長北白川宮中将は、掃討戦のさなか風土病で病死されました。皇族として初めての外地における戦死者となった能久親王を主祭神とする神社が台湾各地に数多く創建されましたが、大東亜戦争後、国民党によって全て壊されました。

この台湾平定作戦を以て、日本の台湾侵略とする歴史学者が少なからずいるようですが、果してそうでしょうか?仮に、大東亜戦争終了後、我が国の一部にポツダム宣言受諾を無視して占領軍に抵抗する勢力があり、日本政府の決定に反して九州や四国で占領軍と戦闘を行うことがあった場合、占領軍たる米軍は日本を侵略したということになるのか、そう言う学者に尋ねてみたいものです。

4 台湾統治政策概観

  日清講和条約の第5条に、「台湾住民に対し2カ年の猶予期間をもって、台湾に留まり日本国籍を取得するか、台湾に所有する不動産を売却(財産整理の自由と国外持出非課税)して支那本土等へ去るか」の国籍選択の自由を与えることが取極められていました。これによって5,000人前後の住民が退去しましたが、99%以上の住民は台湾に留まりました。その後の台湾の目を見張るような発展を知った退去者は臍を噛んだことでしょう。

 初代総督樺山資紀から第3代乃木希典までは任期が1年又はそれ以下と短く、抵抗する抗日ゲリラとの戦いなど治安の安定が主な仕事でした。台湾が急速に近代化へ向かうのは、第4代総督陸軍中将児玉源太郎(台湾総督に82カ月在任、在任中に大将へ昇進)に請われ民政長官となった後藤新平の科学的な思考に基づく施策が打ち出された以降です。児玉源太郎は、台湾総督でありながら、陸軍大臣、内務大臣、満洲軍総参謀長(日露戦争中も台湾総督)を兼務するという激務をこなしていましたから、台湾の近代化の実務は後藤新平によって急進したと言えます。

台湾統治の最重要課題の一つに、抗日ゲリラと共に阿片の蔓延という問題がありました。台湾人の阿片吸飲の悪習の歴史は古く、オランダの植民地時代に持ち込まれたものでした。阿片は薬としても使われる上に、国民生活に深く浸透した生活習慣に関わるだけに、一気に非合法化すれば阿片に依存した人々の反感を買って、抗日勢力に塩を送ることにもなりかねない問題でした。医師でもあった後藤は、阿片を専売制にして阿片吸飲者の漸減を図ると共に、専売収入を得て台湾経営の財源としました。それと併行して住民教育によって阿片の弊害を自覚させ、住民が自主的に吸飲習慣を絶つように仕向けたのでした。明治33(1900)年には169千人であった阿片中毒者は、1917年には62千人となり、1928年には26千人へと激減して行きました。

総督府は、近代化施策実施にあたり土地調査、台湾旧慣習調査、戸籍調査の実施によって台湾の実情を正確に把握した上で、産業開発のためのインフラ(道路、港湾、鉄道など)整備に着手、台湾銀行法を定め台湾銀行を設立、貨幣を統一するなどの貨幣改革を行い、産業の開発と振興、東南アジア、支那本土などとの貿易金融基盤を整備しました。

 総督府は水利灌漑施設の整備法を定め、新たな耕地の開拓と農産物の飛躍的な生産向上を実現、さらに米の品種改良や製糖業の育成に努め、ほぼ10年で食糧自立を超えて財政自立を果たしました。

 インフラ整備と産業振興の成果を大正6(1917)年の統計でみると、基隆や高雄の港湾整備、南北縦貫鉄道(600キロ)の全線開通、米の生産の倍増(250万石→500万石)、砂糖生産の11倍増、貿易収支の拡大と黒字化(輸出9.8倍、輸入5.4)と躍進したのです。

日本政府は年間約700万円(700~2,000億円)の補助金を台湾総督府予算に割き、台湾の開発を促進しました。13年は要するとみられていた台湾の財政独立は、3年も早く明治38(1905)年に成し遂げられ、その間の補助金総額は2,424万円(2500~7000億円)でした。

水力発電についても台北から南に向けて次々と建設され、昭和8(1933)年から昭和9年にかけて東アジア最大の日月潭発電所が建設され、農業依存から脱却し工業国へと発展するためのエネルギー基盤を支えました。

1930年代になり日支事変が始まると、台湾は「南方作戦の兵站基地」となり、鉄鋼、化学、機械、紡績などの近代軍需関連工業が急激に成長し、昭和12(1937)年には工業生産高が農業のそれを上回り、工業社会へと変貌しました。それによって社会インフラも相乗的に整備され、鉄道網の充実農村までの路線バスの普及航空路線の就航ラジオ放送の開始郵便局網・電信電話網の整備主要都市での上下水道整備などが次々と進められたのです。

 台湾統治40周年の記念行事として台北で行われた博覧会(昭和10)を視察した支那本土の国民党政権視察団は、「日本人にできて支那人になぜできないのか?わずか40年の経営で、台湾と支那の格差は驚くばかり!」と評し、日本帝国主義の支配を批判するどころか、その成果に驚愕し絶賛する報告書を提出したといいます。

 総督府は、単に物質的な発展に止まらず、台湾人を近代国民へと変える施策にも力を注ぎました。阿片吸飲のほか纏足、辮髪の追放、時間厳守観念の醸成、遵法精神の確立、近代的衛生観念の確立などです。これらの因習の追放について、総督府は「急いては事をし損じる」の格言通り「強制」を以て急速実施せず、漸禁政策を採用し、学校教育や新聞雑誌を通じた宣伝による奨励手法によって成果を挙げました。特に纏足の廃止は、女性の社会進出を促進し、服装の近代化に拍車をかけ、台湾人の審美観を変化させて、再び纏足を尊ぶことはなくなったのです。

 時間厳守観念については、通学時、通勤時に学生や工員に対して時間厳守を要求し、勝手な遅刻早退を許さないことによって習慣づけました。鉄道やバスの運行は、時刻表によって管理し、乗客に時刻表に合わせた乗車を求め、運行会社には時間通りの出発と、目的地への到着を求めました。大正10(1921)年からは、日本国に合わせ毎年610日を「時の記念日」と定め、官庁や各種団体などを通じて講演会やパレード、音楽会を行い、ポスター、ビラの配布などによって時間の重要性を普及・指導しました。

 総督府は、警察と保甲制度(自治会・町内会)をもって、犯罪の防止と秩序の維持に努めました。同時に学校教育や社会教育を通じて台湾人に近代法治観念と知識を注入し、公正と正義を具現した司法裁判を行うことで人々の信頼を獲得、一方人々も法も守り秩序を重んじることによって安心して日々の生活に安んじられることを感得でき、社会の中に遵法精神が確立したのでした。

 近代的衛生観念の確立については、統治の初期から水道を敷設し都市住民へきれいな飲料水を供給、都市の地下に排水管を敷設したほか、家々の出入口に必ずゴミ箱を置くよう規定し、決まり通りに廃棄物処理を行うことを義務付けました。保甲組織を通じて定期的な地域環境の整備・清掃活動を実施させ、予防注射、隔離消毒、鼠捕り活動、強制採血を行い、必要に応じて薬を供給するなど、近代的な公衆衛生と医療制度を幅広くかつ総合的に確立したのでした。これによって台湾の人々は、住宅建設の際には風通しや日照、便所の位置に注意を払うようになり、規定通りの予防接種を受け、用足しの後の手洗いが習慣化し、所かまわずゴミを捨てたり痰を吐いたりすることがなくなりました。

*以上、台湾の精神的改善等については「台湾中学歴史教科書」による。

教育については、ペスト、マラリアなどの風土病を撲滅するため医学校が設立されたのに続き、初等、中等、高等教育機関を次々と設置しました。1944年時点、小学校1109(932,475)、師範学校3(2,888)、職業学校117(32,718)、高等女学校22(13,270)、中学校22(15,172)、帝国大学1(357)を数えるに至り、児童の就学率は92.5%という驚くべき高さに到達したのです。なお台北帝国大学は、昭和3(1928)年に、京城帝国大学に遅れること4年、大阪帝国大学より3年早く、名古屋帝国大学より9年早く、創設されました。現在も台湾大学として存続しています。

高い出生率と死亡率の低下により人口は連続増加し、統治初期の明治29(1896)年に約260万人であった人口が、統治末期の昭和18(1943)年には約660万人へと増加しました。昭和5(1930)年から昭和16年の間に、台湾の人口は年間増加率で2.5%に達し、当時の主要国の2倍ないし10倍であり、世界第1位でした。

台湾統治の実態を物語る事業として、最後に鉄道敷設について少し詳しく述べます。台湾には日本統治の始まる4年前に既に基隆から新竹までの106.7㎞に鉄道が敷設されていました。洋務派で改革推進主義者であった台湾巡撫(知事)の劉銘伝の努力によるものです。しかし支那人特有のモラルの低さ、例えば支那人作業員が測量杭を抜いて薪にしたり、経路を勝手に変えたり、沿線農家の作物を盗んだり、そういったことが続いたこともあって計画通りには進捗せず、失意のうちに台湾巡撫を辞しました。劉銘伝が敷設した線路は、規格が低く、大型機関車は走ることはできず、しかも清国官僚が支那本土へ逃げ帰る際、各施設を破壊して行きましたから、とてもそのまま使えるような代物ではありませんでした。

総督府は樺山総督の時から台湾縦貫鉄道の敷設を急務としましたが、急速整備が進んだのはやはり第4代児玉総督就任以降です。児玉は、帝国議会に官設鉄道の敷設を提案、工事予算(前記補助金とは別)として3,000万円(現在換算概ね6,000億円に相当⇔新国立競技場2520億円で見直し)を要求、議会は2,880万円を認め、10カ年継続事業としてスタートさせました。

劉銘伝によって敷設された基隆~新竹間は、不備が多く問題が大き過ぎたため結局路線変更が必要となり、ほとんどの区間が新設されることになりました。

縦貫鉄道は、南北両方向から始められ、北部は基隆~豊原、南部は高雄~林内までとされ、豊原~林内の区間は中部工区として南北の工事進捗状況を踏まえて着手されることになりました(下図参照)

縦貫鉄道敷設には大変な苦難が待ち構えていました。その第一は、用地確保の問題でした。日本の統治が始まって数年しか経過していないこの時代は、まだ日本の支配を受け入れていない人々が多く、用地買収に大変な苦労がありました。欧米並みの植民地支配や共産国家ならば住民を追い出して否応なしに土地を取り上げればいいのですが、日本式統治ではそうはいきません。支那特有の問題として「風水」の因習があり、線路が町を貫くと風水が悪くなるとして、有力者が団結して鉄道建設の反対したため、迂回しなければならないこともありました。当時の大きな町が鉄道駅を置くのを拒んだことが原因で没落の道を辿り、そのおかげで駅の置かれた寒村に過ぎなかった所が、その後大都市へと発展することも珍しくない現象となりました。

第二の問題は労働力で、マラリアを初めとする風土病が蔓延し、大きな犠牲が出たため、人夫の不足は常態化していました。

第三には資材、特に鉄と枕木の調達に困難を極めたということです。台湾には未だ製鉄所がなく、内地から運ばなければなりませんでした。その上明治37(1904)年から日露戦争が始まり、日本としては台湾どころではなく、鉄の供給がままならない状況下で工事を進めなければならなかったことです。皮肉なことに豊かな森林資源のあるはずの台湾で枕木の調達にも難渋しました。原木を切りだしても、道路が未整備で、河川は水量が安定しない上に滝が多く、島内での杉材の調達ができず、沖縄や鹿児島から基隆港に搬入するという大きな手間を強いられたのでした。

第四には、台湾中部の難所における敷設工事でした。標高400mを越える丘陵地帯で悪路が多く湿気が高く、マラリア、ペスト、コレラも発生しました。ゲリラに襲われる危険もあり、激しい労働と相俟って、労働力の不足に悩まされました。この中部区間には、大河川が集中し、水勢が激しく、橋脚工事に日数を要しました。縦貫鉄道全体で、開通時に大小301か所に橋が架けられました。トンネルもこの区間に集中し、断崖のような場所が多く、当時の施工技術では大変な困難を伴いました。

数多の困難を克服し、明治41(1908)420日、基隆~高雄間の408.5㎞が全通します。因みに門司~鹿児島間が全通したのは、その翌年1121日のことでした。中央線全線と小倉~大分間更にその翌年烏山線宇都宮~烏山間はその15年後の大正12(1923)年、驚くべきことに予讃線高松~松山間が全通したのは、その19年後の昭和2(1927)年でした。

開通記念式典は、日本統治時代で最も大きな行事と言われ、閑院宮戴仁(コトヒト)親王を初め貴賓163名、来賓1,200名を招き、縦貫鉄道の中間である台中で盛大に挙行されました。その後も勾配区間の解消や複線化、列車の高速化、縦貫鉄道に接続する支線の充実、台湾島周回鉄道の計画など継続的改善に努めたのです。

伊藤潔は、「このような目覚ましい産業の発展を通じて、台湾の経済は政治と同様に完全に植民地化され、つまり日本経済に従属するものとなったことも見逃せない」といかにも戦後の日本学者らしいコメントをつけています。定義も曖昧なダークな用語「植民地」が如何にいい加減に使われ、日本人の贖罪意識を刺戟し続けているかがわかる一節です。

 

Ⅲ 朝鮮統治

 1 李朝末期社会の腐臭

  李朝末期我が国でいえば幕末から20世紀初頭の朝鮮半島の実情について知らなければ、その後日本の統治によってどのように朝鮮社会が変化したかを正しく知ることはできません。幸いなことにこの時代、キリスト教宣教師や旅行作家などが朝鮮事情を詳しく伝えており、現代の私たちは、残された写真と共にかなり具体的に朝鮮社会の実態を知ることができます。

 朝鮮は昔から儒教だけの国であったわけではなく、高麗時代までは仏教が栄え、我が国の仏教も百済等朝鮮半島を通じて伝わったものが少なくはありません。ところが李氏朝鮮の時代になると、儒教を国教と定め、仏教は徹底的に弾圧されるようになりました。僧は都に入ることを禁止された上に賎民階級に身分を落とされました。また、全国に1万刹以上もあった寺院は、242寺に限定され、その他の寺院は所有地と奴卑を没収され、その多くが破壊されました。最終的には世宗の治世(1424)2宗派36寺院の他は廃寺となり、朝鮮半島の仏教は著しく衰微したのでした。

 朝鮮半島における仏教の衰退は、町や村の佇まいや風景だけではなく人々の心まで殺伐とさせたようです。黄文雄は、「儒教国家というものは、たいてい政治的には不寛容であり、刑罰については残虐極まりない傾向がある。それに対し仏教が隆盛した支那の南北朝時代、朝鮮の高麗時代には、刑罰が寛容で、数百年にわたって死刑が行われなかった」と述べています。

 朝鮮は、我が国にはやや遅れるものの紀元前後から国が出来始めましたが、約2,000年弱もの長い歴史を持ちながら、一度も封建(地方分権)制というものを民族として体験することはありませんでした。統一新羅以降は、常に中央集権制であり、地方には中央政府から役人が派遣されて行政を行いました。

 我が国の場合は、平安時代までは律令体制という中央集権制で、国司が朝廷から任命され、地方の行政を司っていましたが、鎌倉時代になると幕府によって任命された地頭や守護が地方の実質的権限を持つようになり、地方分権へと移行して行きました。戦国時代は典型的な地方分権で、各地の大名たちは他の大名に負けないように自分の領国を富ませ、民を増やし、生産力を高め、ひいては軍事力を強化する競争を行いました。名将と言われる戦国武将である北条早雲、武田信玄、上杉謙信、織田信長などは、皆領国経営の達人でもあったのです。自分の領国を豊かにできない大名は淘汰されていきました。江戸時代も地方分権で、各藩の大名は自国を富ますために積極的に新田開発を行いました(下図参照)。この体制は明治4年に断行された廃藩置県まで続いたのです。廃藩置県によって地方行政を担当していた藩主(知藩事)をすべて東京へ召致し、代わりに中央政府が知事を派遣することによって中央集権体制を布いたのでした。従ってこの廃藩置県は王政復古に並ぶ我が国近代化の大きな転換点だったのです。

 500年以上も続いた儒教偏重と中央集権制の悪弊がヘドロとなって腐臭を漂わせていた社会、それが19世紀末の李朝政治・社会でした。丁若鏞(テイジャクヨウ)という18世紀から19世紀にかけての実学者が『牧民心書』という著作を残しています。丁若鏞は科挙に合格して官僚となり地方を監察する職務(暗行御史)に就き、李朝後期の地方行政の実情をつぶさに調査・見聞しました。李朝末期には地方に赴任する役人への給与は支払わなかった、いや支払う必要がありませんでした。ですから、地方の役人は、自分が民から取り立てた税金を自分の給与に充てざるを得ないということになります。そのようなことを長い間続けていると人の常としておかしなことになっていきます。地方役人たちは、中央政府に対しては過少申告、民衆に対しては過大徴収することにより自分たちの手元に残る財を多くするよう懸命な努力を払うようになります。丁若鏞は、李朝末期の地方官は王宮高官の縁故者や官職を買った者ばかりであり、官職を得て地方へ赴任すると、買官に要した経費を取り戻し、更に蓄財するため、不法不当の徴税、賦課金、課役を民に課し、民衆は塗炭の苦しみの中に沈んでいったと書いています。

 当時の朝鮮の人口のうち90%が農民で、そのうち80%が小作農でした。朝鮮には「春窮、麦嶺越え難し」という諺があります。農民は、収穫した米の5割以上を徴税され、翌年3月頃には食い尽し、ジャガイモや麦の採れる6月までは、草の根、干し草、どんぐり、松の木の皮を食べて凌がなければならない、それが毎年、年中行事のように繰り返されていたのです。ですから旱魃などがあって凶作となるとすぐ大飢饉が起きるのですが、李朝政府にはそれを救済する財力と気力がありませんでした。とても考え難いことですが、李朝末期1902年の農地は、李朝初期の農地の広さの約23へと大きく減少しているのです。原因の一つは、地方役人たちによる隠し田畑の増加にありますが、農地の荒廃もあります。それにしても農民が90%を占める国家において、500年もの間、李朝政府は何をしていたのでしょうか。因みに我が国では、李朝成立の1392年頃の耕地面積は約100ha、李朝末期の1900年頃は約550haで、約5.5倍に増えています(上図参照)

 日清戦争のきっかけとなった東学党(1894)の発した檄文が、李朝末期の官僚の実態を的確かつ穏健に伝えています。

① 官僚が私利私欲のため民衆を苦しめている悪事について国王は何も知らない。

② 李朝政府の大臣、道知事、郡守らは国の発展に全く無関心であり、私腹を肥やすことにばかり一生懸命で、彼等を取り締まる術がない。

③ 科挙試験は贈収賄、取引、売買の場以外の何ものでもなく、官僚としての適性を見るための試験ではない。

④ 官僚たちは急速に累積しつつある国の負債には無関心であり、傲慢で、虚栄心が強く、姦通に耽り、貪欲である。

⑤ 地方官を命じられた官僚の多くが任地に赴任せずソウルに住んでいる。平和時には媚び諂い、有事には逃げ出して任務に背く。

 朝鮮は国家と言い得るのか?と疑問を感じるほどの体たらくで、国の行政機能はほとんど機能していない上に、機能していないことに何の疑問も感じていないということです。国家対国民という図式で見ると、国家は国民から税を絞りとるだけで、国民の安全や生活の向上には全く無関心で、何もしない、したがって国民は自然放牧状態の牛のような存在で、国家から恩恵を受けるようなことは一切なかったというのが李氏朝鮮の政治でした。農業国家でありながら、500年もの長い間、政治の主導する農地開発が行われなかったというのも頷けます。

 2 七奪との戦い

   韓国が主張する「七奪」とは、我が国が日韓併合に伴って、主権国王、人命、国語、土地、資源、姓名を奪ったというものです。この中に一つだけ正しいものがありますが、残りの六つは根拠がない作り事であるか、若しくは事実は反対であり、日本人は韓国人の「七奪論」に真正面から反論し、歴史の真実とは何かを主張すべきです。20003月より韓国で使用された『国定韓国中学校歴史教科書』の中で、日本の統治について書かれている内容を紹介します。この教科書を2000年に中学1年生で学んだとすれば、彼等は現在20歳代後半ということになります。


1 民族の受難

(1) 日帝の憲兵警察統治の実像は?

国権侵奪

ハーグ特使事件を口実に高宗皇帝を強制的に退位させた日帝は、軍隊を解散させた。その後、司法権と警察権まで掌握して軍事、行政、司法、治安などあらゆる分野の支配権を掌握していった。また日帝は激しい抗日戦争を繰り広げていた義兵活動をある程度抑えると、韓国を植民地化する具体的な作業に入っていった。そうして一進会の李容九、宋秉峻(ソンビョンジュン)などが親日派の先頭に立ち、国を日本に併合させる各種の請願書や声明書を発表した。これは国権侵奪が韓国人の要請によって行われるように偽装しようとする謀り事だった。ついに日帝は軍隊と警察を全国各地に配置して我が民族の抵抗を予め封じ、李完用を中心とした売国内閣と所謂合邦条約を締結した(1910)。こうして長い間独自の文化を創造しながら発展してきた我が民族は国を奪われ、日帝の奴隷状態に陥るようになった。

憲兵警察統治

 国権を強奪した日帝は朝鮮総督府を設置して我が民族を強圧的に統治した。…(中略)…韓国に対する日帝の植民地支配のやり方は憲兵警察を先頭にした強圧的で非人道的な武断統治で、憲兵が全国的に配置されて警察の任務を担った。韓国人のあらゆる政治活動は禁止され、集会と結社の自由を剥奪され、…(中略)…民族新聞の発行が禁止され、多くの愛国志士達が逮捕されたり、投獄されたりして生命を失った。日帝は彼等の植民地支配におとなしく従う韓国人をつくる教育政策をおし進めた。日本語を中心に教科を編成し、韓国人に高等教育を受ける機会を与えなかった。韓国人には、こき使うのに相応しい初歩的な技術と実務的な内容しか教えなかった。

民族分裂統治

 民族をあげた31運動が起きると、日帝は武断統治では韓民族を支配することが難しいことを悟るようになった。そうして、韓民族の文化と慣習を尊重し、韓国人の利益を大事にするという、所謂文化統治を掲げた。日帝は我が民族を懐柔するため、教育の機会を拡大すると宣伝し、ハングルで書かれた新聞の刊行を許可した。そして日本人しか任命されていなかった総督府の役人に韓国人も任命し、憲兵警察制度を普通警察制度に変えて韓国人に対する弾圧を少なくするとした。しかし、このような日帝の新しい政策は親日派を養って我が民族を仲たがいさせ、分裂させようとする狡猾な政策であり、韓民族の団結を抑え、独立運動をくい止めようとする方針には変わりがなかった。

2 日帝の経済収奪政策は?

土地の略奪

 植民地支配下で韓民族は日帝の経済的な収奪にひどい苦痛を被った。この中で最も大きな被害は土地を侵奪されたことだった。日帝は我が国権を奪った直後、土地の略奪を積極的に推し進めた。総督府は土地所有関係を近代的に整理するという名分を掲げて、所謂土地調査事業をおし進めた。土地調査事業は土地所有権を調査して法的に確定すること、土地の価格を調査して公式に確定すること、土地の様子と形を調査することなど、大きく三つの点で進められた。これによって朝鮮後期以来続けられてきた慣習上の耕作権、開墾権など、農民が主に持っていた各種権利は徹底して否定された。すなわち、耕作農民の土地に対する権利は完全に否定されたのである。

(以下略)

産業の侵奪

 日帝の産業侵奪政策によって我が民族の経済活動は大きく衰退し、民族産業の発展は抑圧された。韓国の産業を掌握するため、日本の金融機関が早くから韓国に入ってきて日本商人の活動を支援し、新しい貨幣を通用させて韓国の金融を支配した。朝鮮総督府は、会社令を公布して、韓国人が会社を設立する時には必ず朝鮮総督の許可を受けるよう規定した。これは韓国人の企業活動を抑制し、韓国民族資本の成長を抑圧する措置だった。朝鮮ニンジン、塩、タバコなどは専売制度を実施して朝鮮総督府の収入とした。莫大な森林も朝鮮総督府と日本人の所有となり、鴨緑江と豆満江流域の多くの森林資源が略奪された。金、銀、タングステン、石炭などの鉱山と韓国沿岸の主要漁場も、日本人がほとんど独占的に支配した。こうして、日帝は韓国の産業に対する侵奪を積極的に推し進め、韓国を大陸侵略の足掛かりとするため、鉄道と道路、港湾と通信などの施設を整えた

食糧収奪

 日本は第1次世界大戦をきっかけに工業が更に発達し、都市人口が急速に増加して深刻な食糧問題に直面した。日帝は韓半島で産米増殖計画を実施して、彼等の食糧問題を解決しようとした。これは品種改良、水利施設の拡充などによって米を増産し、日本へ持っていくためのものだった。しかし日帝は米が目標通り増産されなかったにも拘らず、増産量よりずっと多くの量を日本へ持っていった。これによって農民は小作料やいくつもの重い税金を負担しなければならなかったので、ひどい苦痛を蒙るようになった。…(後略)

民族抹殺政策

(前略)…そして日帝は私たちの民族精神を根絶やしにするため、所謂日鮮同祖論を主張し、内鮮一体と皇国臣民化のスローガンを掲げた。また韓国語の使用を禁じ、日本語だけを使わせ、私たちの歴史を教えることを禁じた。ハングルで刊行されていた新聞も廃刊させ、韓国語や歴史の研究も禁止させた。さらに、日帝は私たちの名前までも日本式氏と名前に変えるよう強要し、各地に日本の神社を建てて参拝させ、子供たちにも皇国臣民の誓詞を覚えるよう強要した。このような日帝の蛮行は世界史に類例のないものだった。

物的・人的資源の収奪

 日帝の侵略戦争によって我が国は戦争物資を補給する兵站基地に変わった。日帝は物資を生産するため韓半島に金属、機械、化学系統の軍需工場を建設し、鉄、石炭、タングステンなど地下資源の増産を促した。また、供出という名で食糧ばかりか各種の物資を強制的に略奪した。戦争の終盤には、クズ鉄、真鍮の器、匙とはし、釘など武器をつくる材料は何であれ奪い、飛行機の燃料として使用するため松の皮をはがして松脂をとらせるまでした。物的な略奪をほしいままにしたのではなかった。日帝は韓国人を強制徴用によって連行し、鉱山や工場で辛い労働を強要し、志願兵制度と学徒兵制、徴兵制を実施して多くの青年たちを戦場に追いやった。日帝は女性達も勤労報国隊、女子勤労挺身隊などの名で連行し、労働力を搾取した。更に多くの数の女性を強制的に動員して、日本軍が駐屯しているアジア各地に送って軍隊慰安婦として非人間的な生活をさせた。

 国定教科書でありながら、余りにも悪意に満ちた反日・侮日の嘘だらけの記述であることに一瞬放心状態になり開いた口が塞がらないほどだと思います。

このような教育を受けた韓国国民に「反日」を止めろというのは無理な話であり、対韓外交については大臣レベルを含め全てのレベルでの交渉においてこのような教育を臆面もなく行っている国家・民族であるということを片時も忘れてならないということです。

しかし、もっと注意すべきは、冒頭で例示した東京書籍の28年度版記述が、大筋で韓国教科書の内容に沿った内容になっていることです。

 3 朝鮮統治政策概観

 (1) 土地調査事業

   出鱈目極まる李朝政府の農業政策(そもそも政策と呼ぶことに異論があるが)を受けて、土地調査は絶対に避けては通れない事業であることは常識的に理解できると思いますが、韓国人はこの事業を七奪の筆頭に挙げており、また、一度は日韓の共同の土地調査事業に関する大々的な研究が行われながら、何らかの圧力によって闇に葬り去られた経緯があるので、少し詳しく述べてみたいと思います。

 日韓併合から9年間、1,200万円(現在換算:約2500~3000億円)もの巨額の費用をかけて行われた土地調査は朝鮮の歴史上初めて近代的な土地所有関係を確立した国家存立に関わる基本事業でした。朝鮮王朝は数百年の間、全国規模での土地調査を一度たりとも実施していませんでした。理由は、推測ながら費用がかかって面倒だということ、調査すると隠し田畑が発覚して不都合な官僚たちが多かったからでしょう。朝鮮王朝の土地調査は「量田」といい、土地の性質、位置などを測量し、記録する作業で、総督府が行った土地調査事業とは比較にならないほどの単純で不正確なものでしたが、全国規模の量田は1719年に行ったのを最後に200年間放置されていました。200年の歳月が過ぎれば、耕作者の死亡、変更、土地そのものの性質の変化が甚だしく、政府が把握している土地の状況と現状とは著しく乖離して、役所にある帳簿はほとんど役に立つものではなかったはずです。明治31(1898)年、即ち高宗が皇帝に即位して大韓帝国と国号を改めた翌年、上記問題を正そうと全国規模の量田事業(光武量田)を開始しますが、日露戦争の勃発によって進捗することなく中止されました。日露開戦まで6年間もあったのですから、本来ならば相当調査が進んでいなければなりませんが、その結果は明らかにされていません。総督府は、この量田事業を引き継ぎ、遥かに根本的で体系的な調査を行った、それが土地調査事業でした。

 言うまでもなく農業国家であろうが工業国家であろうが現代国家においては、土地の正確な位置と性質、所有関係が明確にならなければ、農業政策を立案することすらできず、国民から土地を買い上げて道路など各種インフラを整備する際の重大な障害となり、土地所有に基づく税の徴収もできず、国民は土地を売買することはできません。

 今や幻の大著となった『朝鮮土地調査事業の研究』(金鴻植、宮嶋博史、李榮薫、朴錫斗、趙錫坤、金戴昊の共著)は、564頁にも及ぶ、本事業を体系的に研究分析した初めての実証的な研究成果です。この著作によって反日策動の主な手段とされてきた「日帝の土地強奪論」は完全に克服されました。この本で明らかにされたことは次の4項に大きく整理することができます。

① 「事業」の過程で土地の強奪はなかった。国有地の略奪は全くなく、むしろこの期間に米の価格が4倍にも高騰したため、農民の立場から見れば地税の実質負担が半分に減った。韓国の政府系機関の学者によって土地強奪に対する憶測が拡散してきたのは、朝鮮民族の集団情緒がこれを受け入れたからである。調査事業が始まる前、朝鮮には所有関係が明らかではない土地がごろごろしていたが、その過程でも土地が総督府所有となることは珍しかった。また、土地境界や所有権をめぐる紛争処理で、民族による差別はなく、総督府は全般的に農民側に立った処分を下した。

② 「事業」は近代的改革であった。この事業を通じ、総督府は全国の人民の私的所有を近代的規定により法定化して証明制度を具備し、近代的所有制度及び地税制度を確立した。土地の境界と性質を把握して規定するという面では、こうした調査が相当の部分なされた光武量田と継承関係にあるが、所有者把握の面で光武量田は遥かに劣り、この事業によって初めて完結できた。

③ 農民及び一般住民は「事業」の成果を歓迎した。総督府の土地調査事業に対して、朝鮮農民たちはおおよそ喜んで協力する雰囲気であり、8年にわたる事業期間に農村住民がこれに物理的に抵抗した事件は一度もなかった。総督府は調査事業のため「臨時土地調査局」という機関を設置運営したが、この作業を遂行した総督府の官僚たちは、実地調査や紛争地処理において厳正かつ清らかであり、効率的な姿勢で臨んだ。このような強力な官僚集団こそ近代国家に必要な本質的な構成要素であり、総督府官僚は賞賛してもしきれないほど精錬された集団であった。

④ 申告主義は効率的な方式であった。調査事業では、まず一定期間、定められた様式に則って土地の目録と所有者からの申告を受けた後、紛争が発生した土地に対してのみ、総督府が介入して、所有者を確定する方式を用いた。これは総督府が朝鮮人民の無知に付け込んで土地を強奪するための計略ではなく、当時としては最善の方法であり、従って朝鮮人民たちは自発的な協力を惜しまなかったのである。

 この研究は、先に紹介した韓国教科書の記述が如何に歴史を冒涜した捏造であるかということを完膚なきまで証明しました。特に、土地申告の過程において所有権移転が殆どなく、総督府が強奪したという主張は完全に否定されました。総督府の行った土地調査事業によって、全ての土地に対して、等級、種類、地形、広さ、所有者などが法の保護の下に確定され、土地の自由売買が可能となり、生産性が大きく向上する契機を作ったのです。そうなれば土地を購入して経営規模を拡大する小作農が増え、土地を売却したい者は都市に出て賃金労働者になり、或は商業を営むなど、自由に職業選択を行える資本主義経済の基盤となったのでした。

 『朝鮮土地調査事業の研究』は、1999年アジア通貨危機で倒産した大宇グループが、1990年代商業性のない学術書籍出版を支援するため行った学術叢書事業の中で叢書シリーズの一つとして刊行されたのですが、発行されてすぐ釈然としない理由で絶版となり、現在手に入れるのは極めて困難ということです。

 (2) 日韓併合後の驚異的な経済成長

   我が国が朝鮮の産業を侵奪したと韓国国民は教えられています。これもまた事実に著しく反しています。朝鮮の産業構造は、統合後も暫くの間GNP80%を農業生産が占める状況でした。併合初期の朝鮮の社会状態は自足経済の段階にあり、我が国でいえば平安後期と同程度日本や欧米に千年以上遅れていました(「大韓帝国の経済組織と経済単位」経済学者・福田徳三)。要するに農業以外には産業と呼べるものはなかったということです。それが総督府の産業振興政策によって昭和18(1943)年には工業生産額が農業生産額を上回り、堂々たる工業国へ変貌を遂げたのです。農業生産額が減ったわけではありません。農業生産額は、併合時には3億円、1930年には8億円、1943年には164,000万円と急増していますが、工業生産額がそれを上回りました。1930年には3億円で農業生産額の半分以下だったものが、1943年には186,000万円と22,000万円も農業生産額を上回り、その間の年平均成長率はなんと15%という驚異的な数値を記録しました。しかもこの時期、世界は大恐慌に見舞われ、先進国は例外なく景気後退を強いられ苦しんでいたことを考慮すると、この頃の朝鮮の経済成長はまさに奇跡的と言っても過言ではないでしょう。(*参考:昭和初期の円の価値は、現在の500010,000)

 さてここで現在韓国が批判するのが、それらの発展によって得られた果実は、すべて日本に吸い上げられたというものです。まず、韓国の教科書に書いてある「会社令」について、それは本当に朝鮮人にはできるだけ会社を創らせないことを狙ったものだったのでしょうか。会社令は明治43(1910)年から大正9(1920)年までの期間限定の政令であり、資本主義市場経済の未熟な韓国において、現代風に言えば情報弱者を守るために設けられたものでした。併合当初の韓国には、「会社」とは何かが全く分からない者が多く、単なる利権確保の手段と考えられ、良民が狡猾な業者の甘言に騙され、或は有望な事業に過剰な業者が参入し立ち行かなくなる恐れがあったからだと、会社令制定の理由が述べられています。従ってこの政令は、朝鮮人だけではなく日本人にも適用されました。また、許可制にして朝鮮人の起業を抑制したわけではなく、妥当な事業内容であれば認可されました。会社令施行期間中に設立された会社数は、日本人によるもの398社、朝鮮人によるもの129社でした。

 経済力、資本力が圧倒的に違う内地と朝鮮ですから、日本人による起業が多いのは当然で、上記の数は、むしろ実力以上に朝鮮人に認可されたと言えます。またこれによって韓国民族資本の成長を抑圧したというのも理不尽な見方です。工業化に投入された資本の多くが内地人の所有であっても、いったんそれが朝鮮国内に投資されれば、それは朝鮮国内に雇用・消費など様々な面で恩恵をもたらし、朝鮮人企業家のビジネスチャンスを増大させることになります。現在我が国の企業が支那やベトナムなどに投資し海外進出していますが、これは受入国の誘致によるものが多く、日本企業の進出によって受入国が多いに利益を得られるからです。しかしこれも韓国教科書の考え方に従うなら、民族資本抑圧の侵奪ということになります。

 鴨緑江の奇跡とも言われる朝鮮北部(現北朝鮮)での電力産業と化学窒素工業の爆発的成長にも触れないわけにはいきません。韓国の歴史教科書は、これについても「日帝は大陸侵略を画策して韓半島を兵站基地にした。そのため発電所や軍需工場が建設され、鉱山開発や重化学工業に力が入れられた。しかしこれらは全て日帝の戦争遂行のためであり、韓半島を植民地経済体制におき徹底的に隷属させるためであった」と歪曲しています。しかし最初に立ち上がったのは電力産業です。電力は戦争の役には立ちません。次に立ちあがったのは肥料工場であり、その次はセメント工場でした。いずれも民需産業だったのです。兵站基地にするつもりならば兵器製造などの重工業優先でなければなりませんが、そうではありませんでした。もしそうであれば、大東亜戦争において米軍は朝鮮を空爆していたはずですが、大戦を通じて朝鮮は内地と違っていたって平和で空襲をうけることはありませんでした。アメリカの脅威となるような重要な軍需工場がなかったことを示す確実な証明であるといえるでしょう。

 

終戦時完成分(単位KW)

工事中(戦後完成) (単位KW)

朝鮮

赴戦江第1(13)、長津江第1(14.4)、第2(11.2)

虚川江第1(14.5)水豊(70)

雲峰(50)、義州(20)

日本

国鉄千住(12)、東電信濃川(16.5)、中電奥原(8.7)

黒部第3(8.1)

佐久間(35)、黒部第4(33.5)

新高瀬(128)、田之倉(38)

米国

TVA水力年間総発電量114KWH=朝鮮戦前水力発電量

世界最高水準の豊富で安い電力供給が始まると、内地の重化学工業は競って朝鮮北東部地域に進出し、空前の産業革命がここに興ります。これらは我が国の国策主導ではなく、民間の市場原理によって行われたものでした。内地の実業家が豊富な水力資源を見出し、朝鮮の農業の拡大に伴い電気を使って製造される化学肥料の需要が高まることに目を付け、その成功を見た内地の大規模資本がビジネスチャンスと見て進出したということであり、総督府の支援はあったにせよ基本は民間主導でした。1927年から稼働し始めた窒素肥料工場の水電解設備は世界第1位、硫安生産量は世界第3位、従業員45,000人、家族を含めると約18万人の生活を保障していたのです。この「鴨緑江コンビナート」に起業した大規模企業は内地資本でしたが、それに付随して起業される中小規模の企業は朝鮮人による土着資本によるものがほとんどでした。朝鮮における昭和4(1929)年時点の朝鮮人所有企業比率は18.2%でしたが、昭和12(1937)年になると、5,413社のうち2,278社、すなわち40%が朝鮮人所有となります。勿論、資本額で比較すると朝鮮人所有企業の資本は内地人のそれの16程度であり、総資本額でいえば10%程度に過ぎません。しかし、世界大恐慌が始まった1929年から10年間に、工業生産は3倍になり、朝鮮人資本は6倍以上に拡大されたのです。即ち朝鮮人もまた朝鮮経済の主役と呼ぶに何の不足もないほどに成長していたのです。これを、「産業の侵奪」と強弁することに心の痛みを感じないとしたら、もはや何を言っても無駄ということになります。

 (3) 朝鮮における食糧政策

   朝鮮半島は黄海側及び朝鮮海峡側に注ぐ河川に大河が多く、有史以来、大規模な治山・治水事業が行われておらず自然のまま放置されていました。日本の河川に比べると流水量は2倍もあるのに、渇水期の流水量は110以下になり、従って洪水と旱魃が交互に朝鮮半島を襲い、そのたびに民衆は飢餓に陥りました。ソウルなど一部の都市で堤防護岸工事が行われていただけでした。約1500年前の統一新羅の頃に造られた大きな調整池など灌漑を目的とする堰堤(エンテイ)など水利施設が皆無であったわけではないのですが、歴代王朝によって十分な拡張・維持工事などが行われず、李朝末期になると荒廃し、遺跡しか残っていないような悲惨な状況になっていました。

 大正14(1925)年、10カ年の治水事業計画予算5,000万円(現在換算5000~1兆円)が帝国議会で認められ、洪水被害の大きい河川、灌漑面積の広い河川を優先して逐次着工していきました。水田面積は、併合時847,000町歩であったものが、昭和3(1928)年には約2倍の162万町歩へと急増しました。因みに、それまでこういった公益事業に駆り出された農民たちは、税の一部()としてただ働きで使役されていましたが、我国では至って常識ながら総督府は日当を支払いました。それは朝鮮の人々にとっては吃驚仰天するほどの有難い出来事でした。

 さて、韓国教科書が書く「食糧収奪」についてですが、実態は日本の人口の増加に伴う米の不足を朝鮮の米で補填したといった単純な話ではありません。概して見れば、戦前の日本の食糧自給率は90%以上であり、食糧安全保障の観点から言えばほぼ理想的な状態にありました。昭和15年当時内地人口は7,400万人、米については内地産が1,200万トン、朝鮮と台湾から移入された米が250万トン、その他インドやタイから輸入された米があり、自給率は75%ですが、米に代るものとして国産の麦、芋、トウモロコシなどがあり、米にこだわらなければほぼ自給していたと見ることができます。韓国の高校教科書には、下表の数値を挙げて日帝が米を収奪したと主張していますが、朝鮮の米の生産量は、内地に比べると遥かに少なく、収奪しても余り意味がありませんでした。下表は大正9年から昭和7年までの朝鮮半島における米の生産量・移出量・消費量をほぼ2年毎に表したものです。

 

生産量

移出量

消費量

万石

万トン

万石

万トン

万石

万トン(a)

人口万人(b)

a/b(kg)

 

大正9(1920)

1,270

190.5

185

27.8

1,085

162.8

1,692

96.2

 

大正11(1922)

1,432

214.8

340

51.0

1,092

163.8

1,721

95.1

大正13(1924)

1,517

227.6

475

71.3

1,042

156.3

1,762

88.7

昭和元(1926)

1,497

224.6

544

81.6

953

143.0

1,862

76.8

昭和2(1928)

1,730

259.7

742

111.3

988

148.2

1,867

79.4

昭和4(1930)

1,370

205.5

540

81.0

830

124.5

1,969

63.2

昭和6(1932)

1,590

238.5

760

114.0

830

124.5

2,004

62.1

昭和7(1933)

1,630

244.5

870

130.5

760

114.0

2,021

56.4

 a/bの値は、一人あたりの年間消費量です。当時の朝鮮人は年間100kg以下、即ち660(1合=150g)1日当たり1.8合以下しか食べられなかったということになります。1合のカロリーは250キロカロリーですので1.8合なら450キロカロリー、通常必要な1,500キロカロリーにはとても届きません。麺類やパンなど他の主食や副食品が現代のように豊かでなかった昭和初期に朝鮮の人々がこれで生きて行けたとはとても信じられません。内地ではどうかといえば、約1,500トンの米に対し、7400万人ですから、年間日本人一人当たりの米の消費量は200kg、即ち1,333合、1日当たり3.6(900キロカロリー)で所要カロリーの半分以上を主食によって摂取していたことになり、概ね適正な食糧需給であったといえます(炭水化物による適正カロリー摂取は、700キロカロリー/1)

 では、平均的に内地人よりは体格のいい朝鮮人は、どのように生きていたのでしょうか。日本統治時代に、草の根や樹木の皮などを食べていたという話は聞いたことがありませんので、何か裏技があるはずです。日韓併合時の内地、朝鮮、台湾は、ほぼ同一の経済原理が働く同平面上の市場であり、物流は豊富な地域から窮乏した地域へ、価格の安い所から価格の高い所へと流れ込むのが自然の動きであり、朝鮮で米が不足すれば内地や台湾から流入し、朝鮮で米が余れば内地へ流入するといった具合でした。つまり、米は一方的に朝鮮から内地へ流れたのではなく、台湾や内地から朝鮮への米の移入もあったのです。そうでなければ、人口が連続的に増えるわけがありません。次に示す記事はその明白な証明です。〈記事-1〉は大正14(1925)725日付の東亜日報の記事で、「仁川玄米上陸~朝鮮に在米が不足するという事を聞き、門司商人が諏訪産の玄米2千石を朝鮮に送り、近日中に到着」ということを伝えるもので、〈記事-2〉は昭和10(1935)821日付東亜日報「日本内地払下げ米 朝鮮へ逆移入」と題する記事です。

 また、朝鮮から台湾への米の移出は極めて少なかったのに対し、台湾からの朝鮮への米の移出は年々増大していることが台湾総督府の公式記録によって明らかになっています。その理由もやはり経済原理に従ったものであり、台湾米は内地米、朝鮮米に比べて安く、朝鮮の立場から見れば、朝鮮米を内地へ売却し、その分台湾米を移入すれば利益を得られたからでした。つまり朝鮮から内地への米の移出量が増えれば、増えた分に相当する米を台湾等から移入していたということです。

昭和5(1930)年、前年の世界恐慌に伴い生糸の対米輸出が激減、生糸価格が暴落しました。これを導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、しかもその年の豊作となり、米価は急落しました。内地の農村では米価の暴落によって日本史上初といわれる「豊作飢饉」が起きました。更に朝鮮や台湾からの米の移入が加わって、内地の農村は壊滅的な打撃を受けたのです。ところが翌年には状況一転して東北・北海道が冷害による大凶作に見舞われます。昨年の米価の暴落のため現金がない、そこに加えて食べる米もないという状況になりました。不況で他に働く場も少なくなっていた上に、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥ります。娘の身売りが行われ、授業料の徴収が困難となり、小学校教員の給料不払い問題も起こりました。

豊作及び台湾・朝鮮からの米の移入が内地米の価格暴落の原因であると見た農林省は、内地農業保護のため、移入制限をかけようとしました。それに対し朝鮮総督府は朝鮮農家の保護を理由に、米の完全自給を主張する陸軍の応援を得て、移入制限を拒否し通しました。産業の急激な発展があったとはいえ内地に比べ幅広い産業構造が未熟な朝鮮には、内地へ移出して現金を得る生産物が相対的に乏しく、米の移出は朝鮮農民にとって貴重な換金作物だったからです。

「歴史の歪曲」それはまさに韓国の教科書のためにある言葉ではないでしょうか。

(4) 朝鮮文化の保護

  文化の基盤は言語です。言語の基本は「話し言葉」です。話し言葉を目で見るための道具として「書き言葉」が生まれました。「総督府は朝鮮語の使用を禁止し、日本語の使用を強制し、ハングルの新聞を廃刊し、朝鮮の歴史の研究や教育を禁じた」と韓国の教科書には書いています。確かに、学校教育現場において使われた話し言葉は日本語でした。これを以て日本語の強制というのらしいのですが、逆に聞きたいのは当時の朝鮮語の語彙で以て近代的な教育が出来たのかということです。国語や社会については、少しはできたかもしれませんが相当な制約があったでしょう。理数系の教育や近代社会に関する教育は不可能に近かったと思います。欧米によって作られた様々な概念や用語は、朝鮮語には存在せず、日本語でしか表現できなかったからです。現在の支那が、近代用語のほとんどを日本語から借用しているのを見ても理解できるでしょう。現代韓国語は支那以上に漢字熟語の80%以上が和製語で、日本由来であることを隠すために漢字を使うことを禁ずる法律があります。商売に関する用語、金融・取引に関する用語、技術に関する用語など全ての用語が日本語を介さなければどうしようもないのですから、朝鮮人に日本語を教えないということになれば、朝鮮人には社会に出て働く機会を与えないほどの甚だしい差別ということになります。勿論、それ以前の問題として、韓国は日本に併合され、日本の一部になったのですから、日本国民として生きていくためには日本語は不可欠であるということです。ですから、現在日本の学校で行われている英米人教師による英語教育の如く、朝鮮の人々が1日でも早く日本語が使えるようにするため日本語で教育することは極めて合理的で効果的な教育手法だったのです。

それでは総督府は朝鮮語の使用を禁止したのでしょうか。事実は真逆であり、朝鮮語が禁止されたことは一度もなく、むしろ奨励しました。総督府は昭和14年まで日本人官吏に朝鮮語を学習させるため朝鮮語奨励予算を組んでいました。若い人はすぐ日本語を習得できても、地域で生活する壮年以上の朝鮮人との意思疎通には朝鮮語が必要不可欠だったからです。

昭和11(21)から終戦まで総督府の官吏を務めた西川清という人が昨年(平成26)99歳にて御存命で、『朝鮮総督府官吏最後の証言』という本を出版しました。彼によれば、官吏の給与、昇進、税金、待遇のすべてが日本人も朝鮮人も差別なく、道庁の部長クラスは殆ど朝鮮人で、その下で働いたと書いています。課長が日本人なら課長補佐は朝鮮人、その下は日本人という具合でサンドウィッチのように混ざり合って仕事をし、とても仲が良かったと回想しています。役所の中でも朝鮮人の官吏同士は朝鮮語で普通に話していたそうです。また道庁内に御真影が飾ってあるということはなく、日の丸の国旗掲揚や君が代の斉唱もなく、彼自身約10年の朝鮮勤務の中でその経験は記憶にないほど少なかったということですから、皇民化政策の実態はほとんどなかったということです。

併合後すぐ総督府は学校教育における朝鮮語科目を必修としました。必修科目にするということは教科書をつくるということです。教科書をつくるとなれば、朝鮮語の標準語を制定しなければなりません。また、「書き言葉」としてのハングルの綴字法を統一・確定しなければなりません。これらの事業の完成により、朝鮮語が一つの民族言語として確立されたと言っても過言ではないでしょう。民族共同体の中で占める言語の重要性に着目するならば、日本は朝鮮民族を抹殺したのではなく、民族として自立させたと言うべきです。

日鮮同祖論或いは内鮮一体論は、日本の朝鮮侵略の歴史的正当性を偽装するための方便であると韓国は主張していますが、これもまた歴史の歪曲です。これらの論が日韓併合時に併合理論として使われたというならそうでしょうが、これらの論は併合後10年、20年を経て総督府による統治が進む中で朝鮮社会が急激に発展し国民生活が豊かになる中で自然発生的に出てきて朝鮮社会に広がっていったものです。

この両論は差別されがちな朝鮮を内地と同等・平等に扱うべきことを主張するのが一義的な目的でした。それは、3.1独立運動の首謀者の一人で3年の懲役刑を受けながら1年半そこそこで出所、その後穏健派へ転向した崔麟という朝鮮知識人の次の言葉によく表れています。

真心と赤誠を以て朝鮮人は帝国臣民たるを自覚・自認し、日本人は朝鮮人を真の同胞国民として認めなければならない。内心に爆弾と剣を抱いて、日本国民でござると仮装・偽装し、同一同胞と言いながら優越感を示すならば、これまた渾然一体の日鮮一家は成立し得ない。朝鮮の民族性を尊重し、朝鮮文化を崇拝しながらも、我々は日本帝国臣民たることができ、日本帝国の世界に対する使命に貢献しながら大東亜の平和に尽力することができるのである。

「皇国臣民の誓詞」が様々な集会の場で斉唱を義務付けられたのは事実のようですが、これを作ったのは李覚鐘という朝鮮人であり、南総督(1936~1942)に上申して採用され、全半島に広がったもので、それ以前にはありませんでした。子供用と大人用がありましたが、子供用は次のような誓詞でした。

1.私どもは大日本帝国の臣民であります。

2.私どもは互いに心を合わせて、天皇陛下に忠義を尽くします。

3.私どもは忍苦鍛錬して、立派な強い国民になります。

満洲事変は併合後約20年を経過した昭和6(1931)年に起きますが、その一因となったのは朝鮮人が日本帝国の臣民であるということでした。リットン報告書はこのことを詳しく述べていますが、要約すれば次のような内容です。

日本の法律によって日本国籍を持つ80万人の朝鮮人の満洲居住は、日支間の政策の衝突をさらに尖鋭化させた。1910の朝鮮併合によって朝鮮人は日本国民となったのであるから、日本国民に南満洲における居住権、商租権並びに東部内モンゴルにおける合弁農業企業の参加を許す「南満洲と東部内モンゴルに関する1915年の条約」および交換公文の規定は、等しく朝鮮人にも適用されるべきだと、日本側は主張した。日本が治外法権を持っている結果、満洲において領事館警察を維持するという日本の主張は、これに朝鮮人が関連する場合、絶えざる紛争の原因となった。日本側は、1927年末ごろから、一般的排日運動に伴って支那官憲が満洲において朝鮮人迫害運動を煽動していると主張する。そうした圧迫は、満洲諸省が南京国民政府に忠誠を宣言したのち、さらに熾烈になっているという。満洲の支那官憲は、支那に帰化しない朝鮮人に対して差別的命令を発した事実について否定していない。

 満洲における支那官憲による朝鮮人迫害に対して、朝鮮では激しい排支運動が起きます。李朝末期の朝鮮半島には約3千人の華僑が住んでいましたが、日本統治下の朝鮮産業経済の急伸を見た主に山東省辺りの支那人が越境し、満洲事変の頃には7万人弱まで急増していました。その支那人に対して朝鮮人が暴動を起こしたのです。

 そして昭和67月、満洲に入植中の朝鮮人とそれに反発する現地支那人農民との間に水路に関する小競り合いが起き、朝鮮人の権利を擁護せんとする日本官憲VS支那官憲・支那人農民が衝突する「万宝山事件」が起きると、朝鮮全道にわたって激烈な「反支運動」が続発しました。暴動は仁川に始まり、急速に多くの都市に伝播、支那人127人が虐殺され、392人が負傷し、支那人家屋等が襲われ250万円に達する支那人財産が破壊されたのでした。朝鮮における排支運動は、内地へも飛び火し、在日支那人が朝鮮人に襲撃される事件が各地で頻発しました。

 日本政府は蒋介石政府に対し朝鮮内の排支暴動に遺憾の意を表明し、暴動で犠牲となった支那人遺族に賠償金を支払い一応の決着をみました。

 支那本土における日支対決の様相が濃くなる中で、上記のような朝鮮人の運動の活発化は必然的に、内鮮一体、一視同仁の熱風を巻き起こし、朝鮮人が自主積極的に日本に同化しようとする方向に進むのは歴史的必然であったともいえます。

 さて、韓国が主張する「朝鮮史研究やその教育の禁止」の実態はどうだったのでしょうか。李氏朝鮮は高麗の伝統を継承して、専門の機関を設け歴代国王の実録を編纂していました。太祖(李成桂)から第25代哲宗までの472年間の歴史書です。第26代高宗と第27代純宗の実録は、昭和9(1934)年、宮内大臣の管轄下で王公族の家務を掌る機関として京城府に置かれた李王職(リオウシキ)により編纂されましたが、現在韓国はこれを編纂規則に合わず日本人の見解によったものとして認めていません。因みに李王職の長官は朝鮮人が務めることが多く、その組織には、李氏朝鮮以来の祭祀・陵墓・雅楽を司る掌祀係も設けられていました。

 総督府は併合後すぐ「古蹟保護」と「古蹟調査」に乗り出し、続いて「朝鮮半島史」の本格的な通史編纂を計画しました。「半島史」となれば史料の収集範囲が広く困難であったため中断され、改めて大正11(1922)年に「朝鮮史編纂委員会」を設置して編纂作業を開始、大正14(1925)年に勅令をもって「朝鮮史編修会」へ改組して編纂を本格化させました。同会には日本側の歴史学者のみならず、朝鮮側の知識人・文化人も多数参加しました。昭和7(1932)年から刊行が開始され、昭和13年に本編の刊行が終わり、大東亜戦争開戦直前の昭和15年に完成しました。朝鮮半島全域および日本・満州などに採訪して借用された資料は4,950点、そのうち重要なものを選んで作成した複本が1,623冊、本文・史料よりなる稿本は3,500冊にのぼる大作で、「新羅統一以前」、「新羅統一時代」、「高麗時代」、「朝鮮時代」(前中後期の3)という6部構成になっています。

総督府がまとめた「朝鮮史」は実証主義に徹した歴史書としての評価がされていますが、当然ながら現在の韓国では「植民地支配」を代表する歴史書とされ、編纂に関わった朝鮮人の中には、戦後「親日派」として糾弾された者もいます。編纂の一員であった歴史学者中村栄孝は、「一般の目に触れたことのない史閣(朝鮮の古い史料を保存していた場所)の秘籍を公開して周密な史料を示し、断簡零墨(文書の断片や一滴の墨痕)を重んじて考証を試み、古文書や記録に典拠を求めて秘事を究明し、史疑(歴史的疑問)を解決していく学問的研究方法に基づいた編修の準備は、注目と信頼を博するのに十分であった。…(中略)…正史及び実録を基本とし、更に記録・古文書を加え、広く内外の典籍を参照して資料を網羅し、最も公正な立場から整理記述した通史であることにおいて、この『朝鮮史』に比べるべきものはない」と述べています。

戦後韓国は、総督府によって「壇君朝鮮」は実在しない伝説であるとして「朝鮮史」から除外されたことに腹を立て、「韓国の歴史研究を禁止し、私たちの歴史を教えることを禁じた」と主張しているのです。韓国国定教科書には、小学校、中学校、高校ともに壇君王険の建てた「古朝鮮」が実在したとかなり詳しく書いています。例えば高校歴史教科書には「檀君の記録は、青銅器文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」などと書かれていますが、紀元前2333年に壇君王険の即位した国が朝鮮にあったと考える歴史学者は、韓国を除けば世界のどこにもいません。紀元前2333年といえば、支那においてさえ伝説の五帝である堯や舜以前のことであり、エジプト、メソポタミア、インダス文明においてもその前期から中期に属する古い時代です。この時代に朝鮮に国家があったとしたら、世界の子供たちは五大文明の一つとして朝鮮文明があったことを教わる筈です。こういった世界文明には必ず記録史料や考古学的裏付けが無数に付属していますが、壇君朝鮮には皆無であり、これを歴史的事実と教える韓国の国民的精神に異常さを覚えずにはいられません。

次に歴史教育はどうだったでしょうか。総督府は「朝鮮史」を刊行しましたから、それに基づき子供たちに教えた筈です。総督府の嘱託として「朝鮮史」の編修に携わった人々(41)は、編纂事業を終えた後、学者として教育や研究の場へ帰って行きました。前出中村栄孝氏もその後京城帝国大学で教鞭を揮っています。総督府は教科書を「朝鮮語」と「日本語」で作りました。その一例を右図に示します。このページは、新羅の初代王「朴赫居世」を説明する部分です。

 以上説明してきたように、総督府は朝鮮の歴史を実証的に研究し、子供達には朝鮮の歴史をきちんと教えていたのであって、朝鮮の人々に民族として忘れてはならない民族の歴史があることを自覚させようと努めていたのです。

 (5) 3.1運動の真実

   韓国が「日帝の統治は憲兵警察を先頭にした強圧的で非人道的なもの」だったと主張する根拠として挙げるのが「3.1運動」です。韓国は勿論日本の教科書(自由社、育鵬社も)は、これを朝鮮民族自決に基づく独立運動とし、特に韓国の教科書は大々的に取り上げ、日本の警察と軍隊が平和的に行進するデモ隊を銃剣で無慈悲に鎮圧したと書いています。金完燮は『親日派のための弁明②』の中で、「三一運動の真実」と題して詳しくこれを論じていますが、彼はこれを「独立運動」というよりも単なる「暴動」に過ぎなかったと断じています。3.1運動は、東学の流れをくむ天道教、キリスト教、仏教から33人の代表者が加わって烽火を上げたことになっていますが、仏教が反日的であるわけがなく、朝鮮の宗教界全体の運動であることを偽装するために、反日的な二人の僧侶を探し出して名を連ねただけでした。

 そもそもの火種は天道教の教主・孫秉煕(ソンピヨンヒ)が、「丙辰の年(1919)3月は国権回復が成就する」という「いい加減な予言」を教徒たちに告げ、その運動費を口実にかなりの金額を集めていたことでした。孫はその金で豪奢な暮らしをしており、地方の教徒たちから約束の履行を追及されていました。33日に高宗の国葬が営まれることになっており、地方の指導者や多数の信徒がソウルに集まるのを利用して、孫が一芝居打とうとしたことが3.1運動の発端になったのでした(1919.3.9日付京城日報の報道)

 31日、孫秉煕により招集された自称「民族代表」の33人は、仏教2人を除いて全員一堂に会し、群衆の前で独立宣言を読み上げ、その後デモ行進に移る予定でした。ところが彼等は「群衆が暴徒化」するのを恐れ、予定を変更、妓生旅館「泰和館」の特別室を借り切り、静かに「独立宣言文」を読み終えると、女将を呼び警察へ電話させて、自首してしまいました。反逆罪等極刑になるかもしれないと考えた3.1運動の首謀者たちは、群衆を放り出して裏口からこっそり逃げてしまったのです。この時点で、独立運動は真面目に考えられたものではないことが判然としましたが、地方からはるばるやって来た教徒たちは、ああそうですかという訳にはいきません。時も折、高宗の毒殺説、米国が人口500万以上の民族を全て独立させることを決定したという流言飛語が飛び交うと、それに興奮した群衆は、翌2日から全国の主な都市で万歳デモを始めました。最初のうちは、暴力的行動は抑制されていましたが、労働者達が加わると、デモ行進だけではなく、ストライキ、車両や施設の破壊など暴力行為へと発展、4月になるとデモは地方へも拡散し、農民たちも加わって、武装し、面()事務所、憲兵事務所、地主の家、内地人の家を襲撃するなどの本格的な暴動へと変化し、当初の独立請求運動の意味は完全に色褪せ、略奪と破壊、殺人と放火が続く単なる反日暴動となったのです。

 総督府の対応は、平和的なデモ行進に対してはこれを見守り、殺人等を行う暴徒に対してのみ治安維持と正当防衛の範囲で実力を行使しました。韓国の教科書は、日本の憲兵警察が平和的なデモ行進に対し、武力を行使し、無差別虐殺したという風に書いていますが、もし初期にそのような対応をしていたら、万歳デモが全国に拡散することはなく、すぐ鎮静化していたでしょう。総督府の人権的・民主的対応が暴動の拡大を招いた一つ原因であったとも言えます。

 金完燮は、それにつけこんで暴動を拡大させたのが、反日運動を支那や朝鮮で裏から唆していたキリスト教、特に米国の長老派であったと述べ、アジア民族同士を反目させ、全世界の有色人種の希望であり太陽のような大日本帝国を牽制するため、米国など白人キリスト教国が企てた陰謀だった、と結論付けています。

 金完燮は、3.1運動と戦後起きた光州民主化運動の5.18運動を比較して、3.1運動は、当時の朝鮮人にとってはさほど関心のない、少数の“不逞鮮人”達の騒動だったとしています。

 

年月

目的

期間

延べ参加人数

死者

負傷者

逮捕者

3.1運動

1919.3

朝鮮独立

90

46(5,100)

561(6.2)

1,567(17.4)

12,668(140)

5.18運動

1980.5

民主化、民政化

10

200(20)

207(20.7)

2,400(240)

3,200(320)

上表の括弧内数値は、1日当たりの人数ですが、3.1運動は、5.18運動に比べ如何に穏やかな暴動であったかを示しています。3.1運動は全国規模であり、5.18運動は1都市で行われたことを考慮すると、更にその穏やかさが際立ちます。

逮捕され検察に送致された被疑者12,668人のうち、起訴されたのは6,417人、有罪判決を受けたのは3,967人、15年以上の実刑は一人もなく、3年以上の懲役刑が僅か80人でした。最高裁で内乱罪の適用が一括棄却されたため、3年以上の懲役刑はほとんどなく、翌年の李王家李垠(リギン)殿下と梨本宮方子(マサコ)女王の御成婚による恩赦で刑期が半減、結局すべて2年以下の軽い刑となりました。民間人死者553人、軍・警察の死者8人、全壊した面事務所(村役場)19、同半壊33、警察署・駐在所・憲兵分遣所等全壊16、同半壊29、郵便局全壊2、同半壊9、この他にも民間の家屋を襲撃した暴徒達に対する量刑としては、現在の日本の司法制度に照らしても余りにも寛大過ぎると思われます(現在なら無期、10年以上が多数?)

 鎮圧現場で圧倒的な数の劣勢の中で命を危険に曝しながら暴徒と対決しなければならなかった憲兵・警察の状況はどうだったのでしょうか。併合翌年の総督府の憲兵・警察の勢力は、憲兵8,000、警察6,000余で、そのうち大多数を占める憲兵補助員と巡査補助員は100%朝鮮人で、警察には幹部クラスに朝鮮人がたくさんいました。日本人は、憲兵・警察合わせて約6,000人でした。地方の憲兵・警察駐在所には、多くて20人程度しかおらず、警察は武装が貧弱であったため、武器に頼らざるを得ませんでした。

 現在のソウルだけの警察兵力でも約25,000もあり、3.1運動当時、朝鮮半島全体の治安の維持をその半分強の14,000で守っていたことを考えると、韓国の教科書に書くような強圧的な統治ではなく、むしろ朝鮮人民一般は総督府に協力的であり、治安が安定していたことを伺わせます。日本の正規軍は、朝鮮北部・ロシア国境防衛のために第19師団が駐屯していましたが、この兵力が暴動鎮圧に動員されることはありませんでした。

 ちょうど同時期19194月、イギリス植民地下のインドで、民族指導者2名の逮捕に抗議する女性や子供含む非武装の約2万人のインド人民衆に向かって、イギリス領インド帝国軍1個小隊が警告なしに機関銃を乱射、逃げ出す民衆の背中に向かって弾丸が尽きるまで銃撃を続け、約4,000人を虐殺する事件が起きました。後日、調査委員会に召還された指揮官・ダイア准将は「実弾がなくなり、4,000人しか殺せず残念だった」と堂々と陳述したといいます。ダイア准将は大佐に降格・罷免されましたが、訴追されることはありませんでした(アムリットサル事件)

 因みに3.1運動の「独立宣言書」を起草した崔南善は、1年余で出獄、その後新聞社を立ち上げるなど文人界で活躍し、前述「朝鮮史」編集委員になり、昭和14年には満洲建国大学教授にも就任しました。崔は、大東亜戦争が敗勢へと傾いた昭和18年、朝鮮全域を学徒兵勧説隊の一人として遊説しました。そのときの演説は概ね次のようなものでした。

昔から春秋に義戦はないと言われているが、今度の戦争を義戦―聖戦と言わずして何と言えようか。大東亜の建設、全人類の解放、主義と信念を生かすための聖なる戦いに行くとは何と快心事であることか。日本国民としての忠誠と朝鮮男児の意気を発揮して、一人残らず出征することを願う次第である。

Ⅳ まとめ

  台湾に関する本は少なく、韓国に関する本は無数と言っていいほど発刊されています。理由は明白です。韓国人は、なぜあれほど日本を非難し、貶めるのか、日本はそれほど朝鮮に対し酷いことをしてきたというのであれば、事実はどうだったのかを確かめたいということでしょう。

 我が国は、台湾と朝鮮など外地を統治しましたが、一番お金をかけ、気を遣い苦労したのは朝鮮でした。戦後、その朝鮮が最も反日であり、一番お金をかけず、また気も使わなかったパラオなど南洋諸島の人々が最も親日なのは本当に皮肉なものです。

 台湾は約50年間の統治年月の中、僅か9年で財政自立し、その黒字分は内地へ還元されましたが、朝鮮は結局終戦まで財政自立できず内地からの支援が続けられました。1910年から1944年までの朝鮮に対する内地からの投資額の総計は約208000万円と推計され、仮に、戦前の1円が現在の1万円~3万円に相当すると計算すると、日本政府は約20兆円~62兆円という莫大な金額を朝鮮のために投資したことになります。この日本からの資金の出所は勿論日本国民(台湾も含む)の納めた税金でした。

 黄文雄は、『韓国人の反日、台湾人の親日』という著作において、世代交代によって台湾もいずれ反日になるだろうと述べています。しかし、台湾の子供たちが国民中学歴史教科書『台湾を知る』で学ぶ限りにおいては、それは杞憂かもしれないと期待しています。そして韓国人の反日は今後もますます拡大・強化していくことでしょう。なぜなら教科書における反日記述ぶりはいささかも衰えず、むしろ「従軍慰安婦」に関する問題などでより過激になっているからです。

 我が国は、国家として政府として国民全体の問題として、この二つの隣国に加え、支那と北朝鮮との関わり合いについて歴史の真実を基盤とした戦略的な思考と対応を迫られています。唯々仲良くすればいい、相手の言いなりになって内政干渉を甘受し、謝って穏便に済ませればいいという主体性のない従来型の対応では関係を悪化させるばかりであることに気付くべき秋が到来しているのではないでしょうか。()

*参考文献等

① 『「植民地朝鮮」の研究』 杉本幹夫 展転社 平成14611

② 『親日派のための弁明』 金完燮 草思社 2002718

③ 『親日派のための弁明②』 金完燮 扶桑社 20041130

④ 『台湾』 伊藤潔 中央公論新書 1993825

⑤ 『台湾を知る』 中華民国 雄山閣 2000320

⑥ 『台湾鉄路と日本人』 片倉佳史 2015215

⑦ 『韓国人の反日・台湾人の親日』 黄文雄 光文社 1999430

⑧ 『韓国併合への道』 呉善花 文藝春秋 平成12120

⑨ 『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 講談社 1998810

⑩ 『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 光文社 1998830

⑪ 『朝鮮総督府官吏最後の証言』 西川清 星雲社 2014815

⑫ 『韓国の小学校歴史教科書』 三橋広夫訳 明石書店 20071010

⑬ 『韓国の中学校歴史教科書』 三橋広夫訳 明石書店 2005831

⑭ 「植民地朝鮮における歴史書編纂と近代歴史学」 桂島宣弘

⑮ 『韓国が漢字を復活できない理由』 豊田有恒 祥伝社 2012710

⑮ その他Web.ウィキペディア



[1] 大久保利通の二男。吉田茂の義父、麻生太郎の祖父