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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 支那事変から上海事変へ                  平成27年10月18日 作成 正岡 富士夫



1.満州事変

1931(昭和6)年9月18日、関東軍高級参謀板垣征四郎と作戦主任参謀石原莞爾による謀略事件。

 関東軍は、「支那軍が満鉄線を破壊し、日本軍守備隊を襲ったので交戦中」と電報し、第2電以下では「敵は抵抗中なので奉天城を攻撃する」と報告したが、実は、満州側は寝込みを襲われて何のことかわからないうちに奉天を占領されてしまう。もし当時、張学良軍20数万が抵抗してきたら、1万の関東軍では勝ち目がないため、前もって在朝鮮軍の増援を計画し、実際に詔勅なしに越境出兵を実行した。事変後ほぼ3日で関東軍は満州の中央部を抑え、朝鮮軍は東部を確保し、残るのは、満州北部と長城線に近い西部だけであった。10月に入って参謀本部の指示なしで錦州に向けて進軍している関東軍に対し、奉天帰還の勅令が出された。10月末、正式に北部、西部の制圧の許可を仰ぐが、参謀本部ははっきりと不拡大方針を指示した。北部軍閥馬占山には敗戦を喫するが、朝日新聞が抜け駆けで敗戦を報道すると、各社の報道合戦となり、日本中から関東軍がんばれの声が高まる。他方、馬占山には全支那から激励、拠金が殺到して、双方引くに引けなくなる。そこで参謀本部からも、作戦後早急の撤退を条件としつつも馬占山攻撃の命令が出ると、第2師団6千名は、2万名の馬占山軍を撃破して、チチハルに入城する。その後板垣、石原の工作で、馬占山を含む北部各指導者は支那本土からの分離独立を宣言した。

 

2.満州国建国

 日本軍の迅速な行動で9月20日朝までに満鉄沿線の張学良軍は敗退した。この状況を見て、9月24日には奉天省で、9月26日には吉林省で、9月27日にはハルビン特別行政区で、9月29日には熱河省と東辺道で、それぞれ独立が宣言された。なぜこのように急速に独立の声が上がったのか。その原因は1920年代の張作霖、張学良親子の2代にわたる暴政に関係していた。不換紙幣の乱発、数年先までの税金の前取りなど、張軍閥の圧政を憎む満州文治派政治家たちが、支那本部の戦乱から満州を守る「保境安民」運動を起こしていて、独立の機運と措置ができていたからだ。独立諸地域の中で、奉天省、吉林省以外は日本軍がまだ進出していない地域だった。そこでも独立が起こっているのは満州人の自発的運動であることがわかる。実際、当時の満州の民は、関東軍の張軍閥打倒に快哉を叫び、感謝した。11月10日には奉天に自治指導部が創設され、奉天文治派政治家である于沖漢が部長に就任した。その政権の骨子は次のようであった。

   保境安民主義を徹底するため、新たな独立国家を建設する。

   南京国民政府との関係を断絶する

   軍隊を廃し国防は日本に委任する。王道政治に則り、満州を極楽浄土とする。

 昭和7(1932)年2月16日、奉天に東北行政委員会が設立された。これは新国家建国の母体となったもので、構成したのは「支那人、満州人および蒙古人のみなりき」とある。これにより全会一致により溥儀が元首に選ばれ、3月9日満州国執政に就任。昭和9(1934)年3月1日溥儀は皇帝となり満州帝国が成立した。

●満州国の治績

初等教育の向上

   司法部職員の素質改善。

   衛生施設の改善および原住民医師、薬剤師などの再教育、アヘン吸引の悪習抑制。

   産業開発5か年計画。

   通信の改善、郵便税引き下げ。

   産業経済政策。

 

 「旧軍閥の不換紙幣の洪水は、新通貨の発行によっておさまった。満州在留外国人は、日本人の施策に対して好感を抱いている。日本人はやるべきことをきちんとやるので信用できる。2年前の日本の行動の是非は、極東の現状あるいは将来に対してもはや関係ない。満州は今や「啓蒙的開発」というのが最も適切な過程を経過している。その証拠は、3000万の民衆がこの過程から恩恵を受けていることだ。彼らは日本人ほどの利益を受けぬだろうが、仕事の大半は日本人が引き受けているので、利益に関して日本人が分け前を主張するのは当然だ」(ロンドン・タイムズ紙報道)

 満州国は日本の傀儡国家であると言われている。確かにその言葉は当たっている。しかし傀儡だから日本は悪いことをしたとは言えない。建国の初期はまさに傀儡という言葉がそのまま当てはまるであろうが、この国が追々正常に発展し、立派な独立国となって日本や諸外国と対等に交際できるようになれば、傀儡でなくなってくる。日本と対等の同盟国たり得る兆しは見え始めていた。建国に際し、首長となった者は、もともとの満州族の長であった。そのもとに5族が集まって国を作った。もちろん不満分子(馬占山など)や国民政府側の働きかけに応じたものも若干はあり、それの討伐戦は存在したが、彼らが討伐されまたは国外逃亡した後は、満州国は支那大陸で最も安全で、最も繁栄した地域となった。昭和8(1933)年5月31日、塘沽停戦協定が成立し、長城線を中心とする非武装地帯から国民政府軍が撤退したので、関東軍も6月5日長城線に撤退した。塘沽停戦協定は全文5か条の純軍事協定だが、これによって支那側は満州国の存在を事実上認めたことになった。その後、日満支の緊迫した関係は支那事変までの4年間は、表面上、一応緩和された形になった(昭和10年5月、天津日本租界において、日本に協力的な2つの現地新聞社社長の連続殺人事件がおこり、天津軍を刺激した。また停戦区域から熱河省にしばしば侵入して治安を乱すゲリラを追って、関東軍が長城を超えて関内に進出する事件も発生した。しかし大きな軍事衝突には発展しなかった)。日本政府も蒋介石も戦争を欲してはいなかったが、戦争を推進する大きな力があった。支那側について言えば、支那共産党軍の存在であった。80万の国民党軍は、15万の共産党軍の地域を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産党軍は各地のソビエト地区を放棄して、延安に敗走した。さらに国民党政府を援護して反日態度を取らせた欧米諸国の力もあった(特に当時のドイツは支那との貿易関係を重要視し、支那政府の希望に応じて有力な軍事顧問団を派遣して、それらの手引きによって支那産のタングステンと引き換えに、軍需品を支那に輸出するドイツ商社もあった。後述)。また日本側にも統帥権を振りかざして下克上の風潮に乗り、血気にはやる勢力があったことも忘れることのできない問題であった。さらに関東軍には北支に親日満地帯つまり第2の満州国を作ろうとする魂胆があるため、その後も北支侵入の策動が絶えなかった。

一方、支那側も国民党政府の基本方針が満州の奪還にある以上、裏面では抗日が激化するばかりであった。支那側から見れば、外国の権益が自国内にあるということは非常に苦痛なことである。特に南満州を根拠地としている東3省の張一家にとっては重大な問題であることはもちろんである。張作霖を継いだ張学良は父親と違って日本に対しては徹底的に反抗する決意を固めていた。そのために国民党に参加、南京政府に連絡し、日本が死活問題と考えている満州における権益を急速に奪回しようという、極端な排日政策を実行した。このために満州では日支の間に衝突の起こることは必至の形成になっていた。

また当時日本の満州国建設の力は目覚ましいものがあった。日本が満州国に手を出せば、日本の経済力は直ちに枯渇して、経済方面からだけでも日本は破滅すると世界的に宣伝されていたが、一向にそんな様子はない。日本は力強い経済力をもって満州国の建設を急速度に進めていた。日本の経済力が少しも衰えないばかりでなく、満州国の建設によって日本の国力は飛躍している感さえあった。それのみならず東洋人である支那人の目から見ると、日本が国際連盟を脱退して世界の大国を向こうに回し、単独に満州国の建設に進んでいる姿は非常に頼もしいものと見えたのであろう。支那からは続々と各種の留学生が日本に送られてきた。その有様はちょうど日清戦争直後のようであった。支那の政治家、外交官が東京を訪れるのも非常に多くなった。

 

3.第1次上海事変

昭和7(1932)年1月18日、日本人僧侶に対する殺害、暴行をきっかけに起きた日支の市街戦。日蓮宗の日本人僧侶3人が支那人の一団に襲われ、1人死亡2人重症。日本側は上海市長による陳謝と補償および抗日団体の解散を迫った。しかし事態は解決せず、情勢は険悪となる。1月29日支那軍陣地から機銃射撃があったのがきっかけで市街戦となる。3月24日から停戦交渉。4月29日天長節観兵式の最中、爆弾が投げ込まれて爆発(犯人は、朝鮮独立運動団体所属の朝鮮人)。その結果、野村吉三郎中将右目失明、重光葵公使右足切断、村井総領事重症。停戦協定5月5日に調印。

 

4.支那事変勃発までの背景 

  関東軍は繰り返し声明を発表して、支那側の排日態度を改めなければ日本は断固として自衛手段に訴えると支那を威圧していた。支那は天津方面における軍の責任者于学忠を罷免し、その軍隊を北支から移駐せしめ、藍衣社など排日の秘密結社も中央軍の憲兵第3団と共に撤退することになった。こうして北支方面からは国民党政府の軍隊および党部の力を一掃することができた。

ア.梅津・何応欽協定(昭和10年6月10日)

昭和10年5月2日天津の親日満州新聞「国権報」と「振報」の両社長が暗殺された。支那駐屯軍の調査の結果、藍衣社中央総執行部長楊虎が指揮し、北平軍事委員会分会、藍衣社、国民党が関与していたことが判明した。「支那側のテロは塘沽停戦協定違反である」と警告し、次のような回答を得た。

(1)国民党部の河北省撤退

(2)中央軍の河北省撤退。

(3)全国に排日禁止を発令。

しかし、この協定は排日機関や軍からも破られた。

イ.土肥原・秦徳純協定(昭和10年6月27日)

6月5日夜、チャハル省に入ろうとした関東軍4名が宋哲元により入城を拒絶され、さらに24時間監禁された。土肥原特務機関長は宋哲元に談判して、ついに内蒙一帯からの宋哲元軍撤退の要求を容れさせた。

(1)チャハル省内の排日機関の撤去

(2)宗哲元軍のチャハル省からの撤退

これにより第29軍はチャハル省から北平方面に移駐したが、この第29軍が後の盧溝橋事件に関与した。すでに共産党員などの抗日分子が数多く潜入していて支那共産党中央との連絡を密にしていた。

   ともかくこの2つの協定によって北支一帯から支那軍および国民党勢力を駆逐し、その後は日本軍部が自由に後の政権を作ることができる状態になった。

ウ.支那側3原則(昭和10年9月)

支那側からの度重なる挑発行為について、日本側からの抗議申し込みに対する提案。

(1)両国は相手の完全な独立を尊重すること。

(2)両国は真正の友誼(ゆうぎ)を維持すること

(3)両国側の一切の事件は平和的外交手段により解決すること。

日支が友好になれば諸協定は必要なくなるので取り下げること、そして両国が平等というのならこれまでの不平等条約(租借地、居留地、領事裁判権など)を廃止することを要求してきた。

エ.広田3原則(昭和10年10月)

それに対して、日本側は「広田3原則」を逆提案した。

(1)排日取締と欧米依存からの脱却

(2)満州国の黙認と反満政策の中止

(3)共同防共(共産主義化した外蒙古は3国の脅威である)

オ.続発するテロ事件

昭和10年1月から5月までに、北支で50件に余る抗日テロが続発した。テロを仕掛けたのは、河北省政府主席于学忠、国民党の一部、中央直系軍、憲兵第3団、藍衣社(国民党秘密特務工作機関で、テロ活動が主務)、CC団の特務工作隊、支那共産党の特務工作隊。

(1)昭和10年11月9日、中山秀雄1等水兵、上海で藍衣社により射殺。

(2)昭和11年7月26日、第一次豊台事件。支那兵約20人が豊台の日本軍兵舎に殴り込みをかけて日本軍将兵に暴行。

(3)昭和11年8月、渡辺(大阪毎日・東京日日特派員)、深川経次(上海毎日新聞編集局長)、田中武夫(満鉄調査部員)、瀬戸尚(漢口通関商社社長)以下一行4人が抗日暴徒に襲撃され、渡辺、深川は惨殺、田中、瀬戸は重傷を負う。国民政府の謀略。川越大使と須磨南京総領事が、国民政府の張群外交部長と交渉して、弔慰金、治療費が支払われることになり外交的には解決。

(4)北海事件。昭和11年9月3日、在留日本人の薬局店主中野純三が広東省北海で惨殺。(支那第19路軍によるもの。第19路軍は第一次上海事変のとき、日本軍と激戦した抗日意識の強い雑軍。)国民政府が弔慰金を支払う。

(5)昭和11年9月、日本総領事官警察官の角田進巡査、広東省で暗殺。さらに北京の朝陽門で行進中の日本軍兵士、支那兵に射撃される。

(6)昭和11年9月18日、第二次豊台事件。

(7)昭和11年9月19日、漢口で日本領事館警察の吉岡巡査が暗殺。

(8)昭和11年9月23日、上海で陸戦隊員田港朝光1等水兵が射殺。

カ.華北自治運動(北支工作・華北工作)

華北民衆はかねてから国民党政府の過去10年間の搾取政策に不満を持っていた。彼らは過酷な課税に苦しみ、ときに過激な道に走ることがあった。

昭和10年6月28日、豊台政変。梅津・何応欽協定成立直後、白堅武という人物が自分の軍隊によって北平を占領し、反蒋介石派の決起を促し、親日満政権を樹立しようとしたが結局敗走して終わった。

   昭和10年10月、香河事件。河北省香河県で農民自治運動が勃発。約1000名の農民が自治請願隊を組織し、国民党政府の否認、地方自治の実行を主張した。

 

   関東軍と支那駐屯軍(=天津軍)は、かねてから華北5省(河北、山東、山西、綏遠、チャハル)の自治運動を支援して、ここに第2の満州国を作ろうという考えを持っていた。この考えと華北住民の動向との相乗効果が自治運動を拡大強化させていた。現地日本軍は、軍閥の長たちが自治に進もうとしているのを見て、まず塘沽停戦協定で定めた非武装地帯(戦区)だけの自治を行わせることとした。昭和10年11月25日、戦区督察専員殷汝耕(親日官吏)は、第29軍長宗哲元の了解を受けて、「冀東防共自治委員会」を設置した。「本日より中央から離脱し、自治を宣布し、連省自治の先頭に立って東亜の平和を図る」というものであった。南京政府の支配を受けたくない華北人による親日政権である。同年12月25日、同委員会は、「冀東防共自治政府」と改称し、長官には殷汝耕が就任した。(背景として、蒋介石が英国の指示により「幣制改革」を華北にも及ぼそうとしたことがあったため、影響を排除しようとした日本側が親日派の殷汝耕に樹立させた)

一方北平や天津では、自治反対と自治要請の2つの主張が存在した。事態の窮迫を感じた国民党政府は、その威令下にある華北政権を樹立しようとした。そこで12月18日、宗哲元を委員長とする「冀察政務委員会」を発足させ、河北、チャハル2省と北平、天津2市の政務を処理させることにした。民意尊重、廉潔、日華親善、防共、自治を宣言した。かくして、昭和10年末には、「冀東防共自治政府」と「冀察政務委員会」が成立したが、前者は南京政府から離脱して独立を主張して親日的であるのに対して、後者は委員長が日本側意中の宗哲元であるが、国民党政府の一機関であるという、日支双方の妥協の産物であった。こうして華北は分裂した。

キ.綏遠事件(昭和11年11月14日)

内蒙古のチャハル省、綏遠省で独立または自治の要求が起こり、国民党政府と対立する動きがあった。関東軍が後ろから援助を行い、関東軍参謀の田中隆吉中佐指揮の内蒙古軍(主席徳王)が国民党政府軍(主席溥作儀)と戦ったが敗れた。日本恐るるに足らずと自信を強めた国民党政府の抗日気勢は一段と激しくなった。

ク.西安事件・第2次国共合作(昭和11年12月12日)

掃共戦に従事していた張学良麾下(きか)の東北軍を督戦するため西安を訪れた蒋介石は、張学良、楊虎城に監禁され、内戦を停止して抗日に立ち上がるよう要求された。この事件後、国民党の大勢は抗日に傾いていった。親米派、親ソ派の元老たちは連共抗日を唱え、親日派、反共諸派は退潮した。一方支那共産党はこの事件がきっかけで、息を吹き返した。こうして国共内戦は停止し、抗日の空気はますます全土に広がり、日支和平などは成立しないような雰囲気となっていった。

 

5.盧溝橋事件(昭和12年7月7日)

盧溝橋で支那共産党軍の発砲がきっかけで日支軍衝突。日本は義和団事件(1900年)議定書に基づき日本は天津に支那派遣軍の2個連隊5700名ほどを駐留させていた。7日夕方、豊台の兵営から出発した清水中隊(支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊)は、堤防東側の荒れ地で夜間演習に従事していた。まだ日が明るいうちに現場に到着した8中隊の兵士たちは、普段無人の堤防に支那の兵士たちが壕を掘っている姿を視認している。

暗夜の10時半頃、日本軍は堤防の方向から実弾射撃を受けた。いわゆる「盧溝橋の第1発」である。北京市内で牟田口廉也連隊長らと南京政府の出先である冀察政務委員会の間で外交交渉が始まるが、支那側は堤防には配兵していないと抗弁、合同の調査団が現地へ向っているとき、再び支那側からの発砲が起き、日本軍は堤防陣地を攻撃、占領した。

  第1発の「犯人」についてはその後、半世紀にわたり諸説が乱立、支那は一貫して日本軍の発砲と主張し続けたが、昭和61(1986)年、盧溝橋守備隊長であった金振中(1903~1985)の手記が、他の関係者の回想と合わせ、北京で刊行されたことにより決着した。金が当日の夜、堤防に部下を配兵していたこと、近づく日本軍への発砲を許可していたことが明らかにされたのである。支那政府は、金手記を否定はしていないが、満州事変以後、日本が一貫して進めた支那侵略政策の過程で起きたことで、第1発の犯人を問題にするのは、大筋を歪めようとする陰謀だとか、1900年の義和団の乱以来日本を含む列国の軍隊が支那に駐屯し続けていたのが不当だといったことで争点をかわそうとしている。

「正論」(H17 10月号)より

「7月11日、内地より増派部隊の派兵が閣議決定したのは事実だが、7月中に動員令が3回発令されても、そのうち2回は撤回されている。一方蒋介石は7月9日に動員令を発令し、11日には国民党政府軍の大部隊が南京から北上を開始している。日本政府が派兵に躊躇した理由は、現地で7月中に停戦協定が4回も結ばれたためだ。4回とも支那側の協定違反により破られたが現地軍は辛抱強く交渉している。しかし月末に南京政府軍の大軍が迫り現地部隊が危機に瀕したので、やっと発令された。」

同じく「正論」(H17 10月号)より

77日夜22:30に最初の不法発砲を受けてから、わが方は一発も応射せず隠忍自重に努めていたが、7時間後の78日午前5:30に3回目(数え方によっては4回目)の射撃(一斉射撃)を受けて初めて応戦したこと、現地部隊が鉄帽を用意していなかったこと、演習用の空砲の他に実包は各兵30発(戦闘の際は120発)しか携帯していなかったことなどの事実を見ても、わが方に戦争企図が皆無であったことが立証できよう。その後政府も陸軍中央も事件発生から3週間にわたって不拡大方針を堅持したこと、その間現地の情勢によって2度内地師団の派兵を下令しながら、その都度現地からの情報を信じて2度とも派兵を中止したほど慎重であったこと、支那側の度重なる背信行為ことに726日の広安門事件発生で不拡大方針の中心であった石原莞爾作戦部長さえもついに不拡大方針を変えざるを得なかったことなどの経緯は、現地のみならず陸軍中央もまた紛争の拡大を望んではいなかった事実を物語っている。」

特に事件発生直後の深夜、わが軍特殊情報班が傍受した北京大学内の支那共産党秘密無電室より、延安の共産党軍司令部に緊急発進された電信は極めて重要である。「205205010055(=成功了。うまくいった)というもので3回反復送信されたという。盧溝橋で日支両軍を衝突させるのに成功したとの報告電信に相違あるまい。事件と支那共産党との深いかかわりを示唆する証言である。事件拡大の背後に支那共産党北方局主任劉少奇の指導のあったことは今や定説と言えよう。「戦士政治科(課?)本(中国人民解放軍 総政治部発行)」の記述によると、「7.7事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を持って党中央の指令を実行したもので、これによって我が党を滅亡させようと第6次反共戦を準備していた蔣介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果滅亡したのは中国共産党ではなく、蔣介石南京反動政府と日本帝国主義であった」とある。

「盧溝橋事件」に関して支那共産党に対して出されたコミンテルンの指令

(昭和1410月興亜院政務部資料)

   あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。

   目的を貫徹するためあらゆる手段を利用すべく、局地解決・日本への譲歩により支那の解放運動を裏切ろうとする要人は殺してもよい。

   下層民衆階級に工作しこれをして行動を起こさしめ、国民党政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならない。

   党はボイコットを全支那的に拡大しなければならない。日本を援助せんとする第3国に対しては、ボイコットを以て威嚇する必要がある。

   共産党軍は国民党政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならない。

   党は国民党政府軍下級幹部・下士官・兵士ならびに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。

 

「中国近代現代史」(中国人民教育出版社)の記述

193777日、日本軍は盧溝橋付近で軍事演習を行った。日本軍は兵士1人が失踪したことを口実に、苑平県に入って捜査させるよう理不尽な要求をしたが、中国守備軍はこれを拒絶。戦争を挑発したい下心がある日本軍は盧溝橋の中国守備軍を攻撃し、さらには苑平県をも砲撃する暴挙に出た。忍耐の限界を超えた中国守備軍は、奮起して抵抗し、全国的な抗日戦争がここから始まった。…日本の侵略者は占領地において奴隷化教育を推進した。学校教育の面では日本と傀儡政権(汪兆銘)は東北の占領区で、全学習年限の中での初頭教育段階の比重を大きくした。その目的は小さいころから青少年に対し、奴隷化思想を注入することにあった…日本の侵略者は農業、交通運輸業、金融業、労働力などの領域で、占領区においてあらゆる形式の略奪を行い、ほしいままに中国の資財を搾取し、労働力を奪いとった。」

支那の歴史教育

1.中国は常に絶対的な善

2.洗脳の一環(共産党のイメージアップ)

3.イデオロギー中心(真実を教えることではない。「南京大虐殺死者30万人というのは政策決定であるので、変更は絶対不可能です。」)

7月7日 22:40 演習を終了した日本の「支那駐屯軍」の中隊に向けて発砲があった。中隊から大隊・連隊へ報告され、軍使を派遣することになった。

  8日 03:25 再び日本軍に向けて銃撃があった。

     04:00 軍使が連隊本部を出発

         04:20 2回目の銃撃の報告で、連隊長は戦闘を許可した。しかしこれは砲撃に至らなかった。

         05:30 日本軍に向けて3回目の猛射があり、ついに日本軍は反撃に出た。最初の不法射撃より7時間後であった。

              (陸軍中央・外務省は不拡大・現地解決を決定)

      9日 02:00 停戦協議が成立した。

         現地で停戦協議が成立したため、閣議は内地からの派兵の提案を見送った。

      10日 内地からの派兵を内定した。

      11日 内地からの派兵を決定したが、現地で停戦協定が成立したので見合わせた。(この盧溝橋事件を「北支事変」と命名)

      20日 内地3個師団の派兵が承認された。しかし翌21日満州・朝鮮からの増派で十分との報があり、22日再度内地からの派遣を見合わせている。その後、25日「廊坊事件」、26日「広安門事件」という日本軍が襲撃される事件が発生し、ついに27日陸軍中央は内地師団派遣の動員を命じた。28日全面攻撃を開始。実に事件発生より3週間経過後である。

 

6.廊坊事件(昭和12年7月25日)

  北京南約50キロにある廊坊で、支那側の了解を得て北平=天津間の切断された電話線の修理のため派遣された日本軍が支那軍の射撃を受けた事件。

 

7.広安門事件(昭和12年7月26日)

  日本軍が支那側に事前通告をした上で、北京在留邦人保護のために部隊を派遣したところ、日本軍の一部が広安門を通って市内に入るや、支那軍が突如城門を閉鎖して、本隊と場内に入った派遣隊とを切り離し、その双方に攻撃をしかけてきた事件。

 

8.通州事件(昭和12年7月29日)

  通州にて、婦女子を含む350余人の日本人居留民のうち、200余名が冀東政府保安隊および暴民に虐殺された事件。(盧溝橋事件の後も日本政府は、華北は宗哲元の支配下にあるから安全だと考え、在留邦人の帰国命令を出さなかった。)

  事件が起きたのは7月29日の午前4時だった。3000人ほどの通州保安隊が110名ほどの日本軍守備隊兵営を包囲し、日本人商店、旅館、民家を急襲した。通州の日本人380名の内、約200名が虐殺された。ようやく難を免れたのは、日本軍の兵営に逃げ込んだ120名だけであった。事件の全貌は次のようであった。「支那人は婦女、子供共に、全日本人を虐殺せむと企てた。婦人の多くはさらわれて、24時間虐待酷使された後、東門の外で殺されたが、そこまで連れて行かれるのに、足を縛られあるいは鼻や喉を針金で突き通されて引きずられたのであった。死骸は近くの池にぶち込まれ、ある者は強力な毒物を塗りつけられて顔がずたずたになっていた。」

  これは戦時国際法に対する重大な違反であった。外務省情報部長は事件から4日を経て、公式に支那兵の日本人虐殺・強姦・略奪を批判した。東京裁判でも弁護側からこの公式批判に関する書類が提出された。しかし理由不明のままウェッブ裁判長は却下している。「通州虐殺」は連合国にとり、触れてほしくない問題であったからである。

  しかしその却下にも関わらず、昭和22425日レビン弁護人は引き続き萱嶋高(元陸軍中将)を証人として喚問した。萱嶋は救援のため通州に急行した天津歩兵隊長および支那駐屯歩兵第2連隊長で、730日(事件翌日)16:00現地に到着した。次はその萱嶋連隊長の証言である。

「城内は実に凄惨なもので、いたるところ、無残な日本人居留民の死体が横たわっておりまして、ほとんど全部の死体には首に縄がつけられてありました。頑是無き子供の死体や婦人の虐殺死体はほとんど見るに堪えませんでした。」

また桂鎮雄(元陸軍少佐 第2連隊歩兵砲中隊長代理)は731日午前2時半、現地に到着していた。

「錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くとともに、死体より発する臭気に思わずいやな気持になりました。(略)次に帳場配膳室に入りました。ここに男1人、女2人が横倒れとなり、あるいはうつ伏せあるいは上向いて死んでおり、ここの死体は強姦せられたか否かはわかりませんが、戦った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣のようでありました」

「南城門の近くに日本人の商店があり、そこの主人らしきものが引っ張り出されて、殺された死体が路上に放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱しておりました」

また桜井文雄(元陸軍少佐)は730日、連隊主力とともに入城し、虐殺の模様を詳しく垣間見た、支那駐屯歩兵第2連隊小隊長である。

「まず守備隊の東門を出ますと、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっているのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当たりませんでしたので、夜半までもっぱら生存者の収容にかかりました。日本人はいないかと連呼しながら、各戸ごとに調査してまいりますと、鼻部に牛のごとく針金を通された子供や片腕を斬られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、ここかしこの屑箱の中や、壕の内、塀の陰などから、続々這い出してきました」

「東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を合わせて、それに8番鉄線を通し、一家6名数珠つなぎにして引きまわされた形跡歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃しました」

あまりにも残虐な虐殺法であった。しかしこれは古代支那から続く戦法であった。なお直前に通州の支那軍に関東軍が爆撃した際、誤爆により冀東保安隊に死者が出る事件があった(この件については、関東軍は冀東政府の長官に謝罪し、犠牲者の遺族に弔意を示し、解決している)。「通州事件」はその報復という説があるが、近年になって、通州事件は冀東保安隊第1、第2総隊の計画的行動であることが支那側資料によって明らかとなった。例えば張慶余(当時冀東保安隊第1総隊長)の「冀東保安隊通県決起始末記」や「冀東保安隊の決起について」などがある。

「昭和1011月に冀東防共自治委員会が成立して河北保安隊が冀東保安隊と改称されるや、第1総隊長・張慶余は河北省主席商震に指示を仰いだところ、しばらく表面を糊塗すべしと言われた。12月に冀察政務委員会が発足して宗哲元が委員長に就任すると、張慶余は第2総隊長・張硯田(チョウケンデン)とともに宗哲元と面会した。宗哲元は両名の抗日決意を「政府を代表して」歓迎すると述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれと命じ、それぞれに1万元を送った。2人が「委員長に従って国家に忠誠を尽くす」旨を述べると、宗哲元は「素晴らしい、素晴らしい」と言った。通州での決起はこの会見と関係がある。」こう張慶余は告白している。

   翌昭和11年春には、張硯田の第2総隊内にすでに支那共産党支部が結成されていた。宗哲元との会見以後、冀東保安隊は第29軍(宗哲元軍長)と秘密裏に連携を保ったが、昭和127月盧溝橋事件が発生すると、張慶余は河北省主席・馮治安(ひょうちあん)に指示を仰いだ。馮は第29軍の開戦に呼応して通州で決起し、同時に一部保安隊で豊台を側面攻撃して挟撃の効果を挙げよと指示するとともに、第29軍参謀長張越亭と連絡せしめ、張越亭は直ちに冀東保安隊第1、第2総隊を戦闘序列に編入した。

   他方、張慶余、張硯田総隊長は、通州特務機関長細木中佐が第29軍の通州攻撃を防ぐために開いた軍事会議の席上、密かに示し合わせて細木機関長を欺き、分散していた配下の保安隊を通州に終結させるよう提案した。両名を信頼していた細木中佐はこれに賛成、かつ散在していた日本居留民を保護するため通州に集合させたのであった。かくして準備が整うや、728日夜12時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断して決起に移ったのであった。

   支那側の最新資料によれば通州反乱に至る事情は上のとおりである。「誤爆」などどこにも出てこない。通州事件は、2年間にわたる隠密裏の計画に基づく日本人襲撃事件だったのであり、日本機に兵舎を誤爆され疑心暗鬼となって保安隊が起こした事件などでは全然ない。

   事件は上述のごとく計画に基づく反日蜂起であったが、保安隊がその計画の実行に踏み切ったことについては、誤爆のような突発事件によってではなく、別の、もっと打算的な原理によって動かされたと見るべきであろう。南京政府は「日本軍敗走」というデマ放送を流していた。日本軍を破った宗哲元の第29軍が冀東に攻め込んできたら自分たちの運命はどうなるのか。この際、冀東政府(殷汝耕長官)についているのは、はなはだ危険である。機先を制して殷汝耕を生け捕りにし、これを宗哲元と蒋介石に献上するなら、必ず恩賞にあずかることができるに違いない。これが南京のデマ放送を信じた反乱者の思惑だったのである。そして、昨日まで友軍であった日本守備隊に対し、その兵力の最も手薄なときを見計らって蜂起、襲撃をあえてしたのであった。

保安隊のこのような動機は、信義を踏みにじっても強者につくという、権謀術数渦巻く戦乱に明け暮れてきた支那民族特有の叛服(はんぷく)常無き性格(背くことと従うこと)に根差すものであり、信義を重大なものと考えるわが国民の到底理解しがたいところである。

 

9.上海事変(昭和12年8月13日)

89日 「船津和平工作」の最初の会談が行われた日に「大山事件」が起こる。大山勇夫中尉が上海で支那保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ頭を青竜刀で割られるという事件である。支那側は大山中尉が支那兵を射殺したのが原因と主張するが、証拠の支那兵の死体は事件当初路上にはなく、後で置かれた。さらに大山中尉はピストルしかもっていなかった上に袋に入れたままであったが、支那兵の死因は後方より小銃で撃たれたものであった。(この事件により「船津和平工作」は頓挫してしまった。)

  上海は一触即発になった。日本は、上海市長や6カ国からなる停戦協定共同委員会に、事件について支那が陳謝することと停戦協定を守るよう求めるが、何も決まらない。戦いを決意している支那はもちろん謝罪するつもりはない。警備司令張治中中将は、先制攻撃によって、日本の陸戦隊を攻め、壊滅させるつもりでいる。日本軍の方は、支那軍の航空基地を攻撃し、制空権を得て奇襲攻撃によって地上軍を叩く、という作戦を考えていた。しかし、不拡大方針をとっている日本軍から攻撃する道は取れない。

1014:30

呉と佐世保から特別陸戦隊応援部隊が送られることになり、1123:00に上海到着。

11

支那軍の偽装保安隊が上海停戦協定を無視して協定線内に侵入し陣地構築を開始した。

12日朝

支那軍が土嚢を築き出した。支那保安隊も午前中には上海北駅まで進出し、第88師(日本の「師団」に相当)と合わせて約2万人が配属されることになった。江湾鎮、市政府方面にも第87師の1万人が配備され、日本側の虹口(ホンキュウ)は包囲される形となった。さらに支那軍は、日本軍の上陸に備えて揚子江岸にも1000名ほど配置した。

  対する日本は、上海特別陸戦隊2200名、朝鮮からの特別陸戦隊300名、呉と佐世保からの特別陸戦隊1200名、出雲からの陸戦隊200名ほか320名の合計4000名余り。

  支那保安隊は通行人の検問を始め、バスの運行も止める。やがて支那軍は協定違反を承知で堂々と上海北駅から下車し始める。12時半頃、その様子を視察中の日本の憲兵が捕まって行方不明となった。

14:00

保安隊に殺害された大山大尉ら2人の合同慰霊祭が海軍陸戦隊本部で行われた。

17:50

日本海軍の第3艦隊が軍令部に電報を打った。「陸軍派兵を要請する」

 19:00

邦人保護のため、陸戦隊が要所に非常配備された。虹口(ホンキュウ)から人が消え、夜と共に日本人街は暗黒となる。

20:40

電報が東京から返ってきた。「動員が下令されても到着するまで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」

139:00

  閣議で派兵決定。

  一方、張治中司令は、13日の払暁に攻撃しようとしていたが、蔣介石から待つように命令が来て攻撃をとどまった。

10:30

支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせてきた。戦闘正面を拡大しないようにとの東京方針に従い、特別陸戦隊は応戦を避けた。

16:54

8字橋から支那軍が急襲してきた。爆破を伴う本格的なもので、日本軍もこれには応戦。17:00

特別陸戦隊に命令が下った。上海で戦闘が始まった知らせは直ちに東京にも届き、14日夕方、名古屋第3師団と善通寺第11師団に動員命令が下った。

(蔣介石から張治中司令に攻撃命令が来たのは14日早朝だったが、既に戦いは始まっていた。)

14

  支那爆撃機が上海の日本の陸戦隊や市街地、さらに共同租界・フランス租界を爆撃。これは第3国に被害を与えて対日非難をさせようという支那側の意図であった。日本軍も支那空軍基地を爆撃。 

15

第2次上海事変勃発。支那は総動員令を下令するとともに、蔣介石が陸海軍総司令に就任。上海の日本海軍特別陸戦隊に総攻撃をかけた。かくして全面戦争となる。同時に日本は、不拡大方針、領土的意図のないこと、南京政府の挑発的言動の停止要求などの「政府声明」を発表した。昭和4年に、蒋介石もパリ不戦条約に署名し先制攻撃はしないと言っていたので、蔣介石の行為は、国際法上「侵略=先制攻撃」となる。当時の日本人にも蒋介石の違法行為じゃないかという認識があった。マスコミにも「暴戻支那」「暴支膺懲」と書かれた。

92日 当初「北支事変」と呼んだ盧溝橋事件以来の紛争を「支那事変」と改称。

1020日 日本は「第10軍」を編成し上陸。

115日 日本は和平の仲介をドイツに依頼し、トラウトマン駐支大使を通じ和平条件を提示した(「第1次トラウトマン工作」)が、蒋介石はこれを拒絶した。

7日 「上海派遣軍」と「第10軍」を合わせ「中支那方面軍」とする。

9日 日本は上海全地域を制圧。

15日 広田外相はアメリカのグル―大使に仲介を依頼したが積極的な斡旋はなかった。

19日 南京の国民党政府は、首都を重慶に移すことを決定。

121日 大本営は、中支那方面軍に対し、南京攻略を命ずる。

 

10.支那に軍事顧問団を派遣したドイツ

大正7(1918)年6月28日、第一次世界大戦において、ドイツと連合国との間でベルサイユ条約が締結される。締結といっても連合国側から一方的に押し付けられ、ドイツは領土の13%を失った。ドイツ軍も骨抜きにされた。徴兵制は禁止、参謀本部と陸軍大学も廃止、陸軍は10万人、海軍は15000人に制限された。飛行機、戦車、銃砲といった最新兵器も認められず、ドイツ参謀本部は崩壊の危機に見舞われた。このとき危機への対処を任せられたのがハンス・フォン・ゼークトだった。大正8(1919)年10月1日、ワイマール共和国が誕生し、文民の務める国防大臣が新設されると、ゼークトは国防大臣のもとに陸軍統帥部長官を設け、その下に4つの局を作った。陸軍統帥部長官には最高司令官の役目を持たせ、陰のドイツ軍総司令官とした。4つの局の1つ隊務局には参謀本部の機能を与え、禁止されていた参謀本部の機能を潜り込ませた。ゼークト自身は隊務局長に就任し、いわばワイマール共和国の初代参謀総長となった。4つの局のもう1つの軍務局には、やはり廃止された陸軍省の機能を持たせた。こうしてドイツ参謀本部の機能と精神は持続されたが、武器の禁止という問題が残されていた。ゼークトはこの問題を海外に移転することによって解決しようとした。

  革命が起こって連合国から離脱したロシアは、第1次世界大戦末期の1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約を結んでドイツと講和した。このためソ連は戦後のベルサイユ体制で中途半端な立場に置かれたが、重工業の建設が急がれるようになると、ドイツの機械工業に眼をつけ、ドイツに協力を求めた。対してドイツは、ソ連を支援する代わり、禁止されている砲弾や化学兵器の製造をソ連国内で行い、ドイツ将校が飛行機や戦車の訓練をソ連国内で受けられるよう求めた。

  こうしてゼークトはベルサイユ講和条約によって課せられた様々な足かせを克服するのだが、ソ連とのこのやり方はトルコやボリビアなど他の国とのやり方にも広がっていった。このようにしてゼークトはドイツ軍の退役将校が海外へ出ていき、その国で軍事指導をするという道筋もつけた。

  一方支那では、清の時代から、省ごとに民政と軍政を扱う責任者が任命され、やがて軍政を握る者が民政も支配し、地方の独自性が高まっていった。袁世凱が亡くなると、各地で様々な軍閥が跋扈し始める。軍閥は税金を徴収し、税金で兵隊を養い、それが軍閥の地位を高めていった。袁世凱亡き後の北京政府は、軍閥の合従連衡で、大正10年代は50余りの軍閥が支那で跋扈していた。軍閥には様々な外国人が顧問としてかかわっていた。袁世凱を支援したのはイギリスであり、呉佩孚を支援したのはイギリスとアメリカで、アメリカは孫伝芳も応援した。ソ連は馮玉祥を応援し、日本は張作霖を支援した。蔣介石は、孫文の方針に従って国共合作が進められていた最中にソ連を訪れた。しかし、合作がなると支那共産党は国民党を切り崩し、ソ連は北伐に反対し、蔣介石は共産党のやり方に納得いかないものを感じていた。大正15年3月、蔣介石は広東で反共クーデターを起こし共産党に対決する姿勢を明らかにした。北伐を進めて南京を首都とした後、昭和2年4月には上海のゼネストを弾圧し、共産党を排除した。7月国共合作は終わりとなり、60名に及ぶソ連の顧問団は国民党から去っていったが、顧問団は共産党の軍隊を訓練し始めた。国民党内の軍閥と支那共産党に勝利するため、蔣介石はソ連に代わる軍事顧問団を必要としていた。

  清朝はその末期に、ドイツの軍人を招き、ドイツ式の訓練を行ったことがある。日清戦争で日本と戦った北洋艦隊の旗艦定遠や鎮遠はドイツ製で、旅順の要塞建設もドイツがかかわっていた。したがってドイツから軍事顧問を受け入れることは蔣介石にとって自然な選択肢であった。ドイツ参謀本部のマックス・バウアーが国民党に招かれた。このようにしてドイツが軍事顧問として支那とかかわることになる。その後、ヘルマン・クリーベル、ゲオルク・ヴェッツェルと続き、昭和6年の第3次掃共戦や昭和7年の第1次上海事変での国民党軍の活躍から、ドイツ軍事顧問団は俄然注目されるようになった。昭和9年ヴェッツェルに代わりゼークトが顧問団の団長および支那軍事委員会の総顧問にも就いた。そして5人目の顧問団団長に就任したのがアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンであった。このようにして昭和2年のバウアー以来、ドイツ軍事顧問団は国民党軍を訓練し、装備を近代化し、軍閥と支那共産党との戦いでは作戦を指導した。30名で始まった顧問団は昭和12年5月には100名を超えるまでになった。もちろんこれらは世界に公表された事柄ではない。

  ヴェッツェルがかかわったのは戦術だけであったが、続くゼークトとファルケンハウゼンは戦争指導にまでかかわるようになっていた。しかも対日敵視政策、対日強硬策を自ら進言し出した。

  「日本に対して支那が強くなるためには武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編成し、国防軍を動かした経験からするならば、今最も支那がやらねばならないことは、支那の軍隊に対し、日本に対する敵愾心を養うことだ。」支那軍の強化策を蔣介石から問われたゼークトはこのように答えた。この考えは、蔣介石だけでなく支那の軍人の思想を貫き、それが核となり、やがて支那人全体の反日感情となっていった。秘密警察組織である藍衣社が特別な力を持つようになったのも、ゼークトの権限による日本敵視政策を取り入れるようになってからである。

  昭和101935)年1月、ファルケンハウゼンは「支那国防基本方針」と題する対日戦略意見書を蔣介石に提出した。「日本が攻撃してきたとしても、日本は極東に戦略的地歩を求めるソ連に備えなければならず、支那に経済的関心を持っている英米とも対立することになり、日本の財力はそういった全面的な国際戦争に耐えられない」とファルケンハウゼンは分析し、支那は長期戦に持ち込んで、できるだけ多くの外国を介入させるべきだ、という戦略を示した。またファルケンハウゼンは、北支での戦いを主な対日戦と考えており、支那軍が近代戦に適応できないことを認めるとともに、長期戦に持ち込むためには支那政府の抗日姿勢が大切だ、と説いている。また昭和101935)年10月1日には漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進言していた。漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。日独防共協定締結の約1年前に、ドイツ人が支那にこのように献策していたのだ。

  ファルケンハウゼンは支那の敵を、日本が第1、共産党が第2と考え、日本軍を叩く過程において支那軍が勝利を収めていけば、共産党を消滅させ得ると予測していた。しかし蔣介石は安内攘外であり、主要な敵は誰であるかという基本が違っていた。ファルケンハウゼンの進言を受けて蔣介石は何応欽軍政部長と相談するが、何応欽も直ちに日本と戦うというファルケンハウゼンの考えに反対だった。

「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外国人顧問は外国人顧問であり、無責任な存在に留まる。国運をゆだねるべき相手ではない」何応欽はこう指摘した。

  しかしファルケンハウゼンの対日戦の進言は執拗に続けられた。昭和111936)年4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだと蔣介石に進言する。

  「ヨーロッパに第2次世界大戦の火の手が挙がって英米の手がふさがらないうちに、日支戦争に踏み切るべきだ。1ヵ月半前、2.26事件が起こって日本軍部が政治の主導権を握り、軍部の意向が阻害される可能性は少なくなり、その一方ドイツがラインラントに進駐してイギリスの関心はヨーロッパに向き、支那の争いに介入する余裕がなくなった、そのため、英米の関心が少しでも支那にあるうちに支那から日本との戦争に踏み切るべきである。」と言うのである。

  このとき日本の航空戦力の飛躍的増強で黄河での抗戦は難しくなったとも判断し、日本軍が支配している地域でゲリラ戦を展開し、支那内のみならず、満州、日本本土にも情報収集と破壊工作を展開するスパイ網を設けるべきだという新たな戦術も示した。これらの献策は蔣介石のとるところとならなかったが、9月3日、広東省北海市で日本人が殺害される事件が起こり、日本軍からの攻撃が予想されるようになった9月12日、ファルケンハウゼンは改めて河北省の日本軍を攻撃するよう進言した。

  こうしてドイツ軍事顧問団の指導の下、支那は対日戦に向け、最新式の陣地を構築し、ほぼ万全の準備を整え、日本との開戦を待っていた。

 

  大場鎮(上海の重要地)が陥落すると、内地では提灯行列が行われ、国内中が慶祝に沸いた。それからまもなく、日本軍は上海を封鎖した。昭和初期の経済不況が癒えた上、戦争景気もあって、日本中が酔った。

  その戦勝の陰で、予想もしなかった犠牲者が出ていた。公式発表されることがなかったから、国民が知ることはなく、戦後になっても大東亜戦争の犠牲者の陰に隠れて知られることはなかったが、4万1000余人もの戦死傷者を出していた。名古屋駅に帰ってくる白木の箱が途切れることはなかった。最初の悲しみが過ぎると、そのうちの何柱かは、遺族によって石像が造られ、名古屋市の月ヶ岡墓地に建立された。呼びかける人がいて、遺族が戦没者一時金を出し、石工が協力して作り上げたのである。倉永辰治連隊長から兵隊まで、およそ百柱の英霊。そこは月ヶ岡軍人墓地と呼ばれるようなり、上海で倒れた若者に対して、遺族だけでなく市民たちも悼み、戦争中は、お参りする人が引きも切らなかった。彼らの武勲は「支那事変忠勇列伝」としても刊行され、あるいは、大場鎮に「表忠塔」が建立され、松井対象の発願により熱海の伊豆山に「興亜観音」が建立され、慰霊された。

戦争に負けると、進駐軍は石像の撤去を命令し、その後命令は撤回されたものの、彫られていた字が消されることもあった。さらに、長い年月の間に、墓地は荒れるままになった。平成7年11月、区画整理のため墓地が取り払われたとき石像群は愛知県知多半島の中之院に移されることになった。

石像の多くは既に無縁仏となっていて、上海戦がいかに激しかったか知る人がほとんどいなくなったように、やがて石像群の存在もほとんど忘れられた。日本軍が多大な犠牲者を出した大きな要因がドイツ軍事顧問団の働きだったことも、ほとんど知られていない。ゼークトもファルケンハウゼンも、なぜあれほど支那指導層に反日を煽ったのか、いまだもって明らかではない。ドイツ軍事顧問団と上海戦線を目の当たりにしていた宇都宮直賢大尉は、戦後こう述べている。「支那におけるドイツとソ連の軍事工作振りから見たら、大東亜戦争に入る前の英・米の動きなどまだまだ紳士的だと言える。」

大東亜戦争後半、米陸軍のウェデマイヤー大将は、支那戦線のアメリカ軍司令官兼蔣介石参謀長に任命されたが、その回顧録で次のように話している。

「もしも日支戦争の勃発が、2年ほど延びていたら、支那は日本軍の侵略を阻止するために、ドイツ式訓練を受けた60個師団を投入できていたかもしれない。空には支那軍の標識をつけたメッサーシュミット機やシュッカ機が飛び、海上では支那人の乗り組んだ潜水艦が狼群戦法(潜水艦が集団をなして敵の船団を襲うやり方、第2次大戦中、ドイツのUボートが採用して戦果を挙げた)で日本船舶に襲いかかっていたことであろう。あとで明らかになったように、日支事変の頃の支那軍の装備の大部分はドイツ製であり、支那軍の多数の将校はドイツ式訓練を受けていた。またその軍事組織と工業施設はすべてドイツ方式を取り入れたものであった。もしも支那がドイツ軍の方式、装備を採用した努力が国内にいきわたり、その効果を上げさせるようにするため、さらにあともう少し時間的余裕が与えられていたと仮定したら、日本軍ははるかに強力な支那軍と対戦することになっていたものと思われる。あのまま、ドイツ軍の装備、訓練方式が支那において引き続き実施されていたら、やがて支那はドイツの同盟国となって、支那の膨大な人的資源をまったく別な方向に向けることとなり、その結果、世界の情勢はおそらく大きく変わっていたかもしれない。」

 

「重光葵 外交回想録」

「日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ」 阿羅健一著 小学館

「近現代史の必須知識」渡部昇一・水野靖夫 PHP