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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

          「今の日本は大丈夫ですか?」━今甦る特攻の真実              


Ⅰ 序

 1 はじめに

  今の日本人には勿論自分を含めてのことですが、特攻について語る資格があるのか?語ることが許されるのか?疑問を感じています。しかし21世紀に生きる我々には、特攻隊員達が日本及び世界に向かって遺した、言葉に出来ないほど高貴かつ限りなく人間的な精神、その日本人の心を後世に伝えていく責任があるようにも思えます。

 出陣を控えた特攻隊員の心を推し量ることは、70年を超えんとする長い平和と物質的豊かさの前に弛(タル)み切った現代の私たちの頭脳・感覚を以てしては限界があることは承知しながらも、敢えてこれに挑み、特攻の心を後世へ伝えていくための努力をすることは、日本を愛する国民の一つの義務とは言えないでしょうか。

 現自衛隊法においても、自衛隊員の在り方として「隊員は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、強い責任感をもつて専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて国民の負託に応えることを期するものとする」(第52条 服務の本旨)と定めており、防衛大臣以下全ての自衛隊員は、任務完遂の前には自らの生命さえも危険にさらすことを宣誓しています。

しかし先般の安保法案における審議に見られたように「集団的自衛権によって自衛官のリスクが増す」などといった本末転倒の考え方が、弛み切った現代思潮・世相故か、自然・当然のごとく語られ、いたずらに法案成立を遅滞させました。軍・軍人のリスクが増大するからという理由で、必要な安全保障措置を怠るのは、重大なる国民に対する背信であることに、現代日本の政治家たちはなぜ気が付かないのでしょうか?

 知覧特攻平和会館の初代館長板津忠正氏(大正14年生れ、第213振武隊隊員、昭和20年5月28日知覧から出撃、エンジン故障のため徳之島に不時着、その後2度出撃を試みるも天候不良のため断念、6月23日沖縄陥落で沖縄特攻作戦終結により奇跡的に生存)は、次のようなエピソードを語っています。

 どう見てもだらしない服装の長髪の若者たちが横柄な態度で会館に乗りつけた。タクシーの運転手に対しても「待ってろ!」の一言。数時間経ってその若者たちが会館から出て来たとき、彼等の態度は一変していた。「お世話になります」と静かにタクシーに乗車、鹿児島市内のホテルに着いた時も、「ありがとうございました」と丁寧な挨拶をして降車した。翌日、その若者たちは全員長髪を切り、身綺麗な服装に変わっていた。

 彼等が何に触発され、何に心を揺さぶられたかを議論する必要はありません。このエピソードは、特攻について知り、考えることは、人間如何にあるべきかを学ぶ最高の教育であるということを何よりも雄弁に表現しており、そこに特攻の真実が垣間見えるような思いがします。

2 特攻とは

 特攻隊は「特別攻撃隊」の略称であり、厳密には大東亜戦争末期の昭和19年に編成された「航空機、特殊滑空機(有人ミサイル)、高速艇、潜水艇」に爆弾を搭載し、搭乗員による操縦で敵艦船に体当たり攻撃を行う部隊を指します。

語源は、大東亜戦争緒戦に対米海軍力の不足を補うため海軍の編成した特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」に由来しますが、甲標的は、後の人間魚雷「回天」とは違い、確率は極めて低いものの生還を期すものでした。このような体当たり攻撃は大東亜戦争末期の特攻だけではなく、それ以前にも様々な形で行われています。例えば第一次上海事変において昭和7(1932)年2月22日、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二以下3名の一等兵が鉄条網で防御された敵陣を突破するため爆弾を抱えて突撃した「肉弾三勇士」も「十死零生」ではないにしろ極めて特攻的なものです。

 海外においても特攻的な戦術が実行されています。例えば、昭和16年6月、ソ連軍の航空機がドイツ軍の猛進撃を食い止めようとして、ドイツ軍爆撃機及び機甲部隊に対し体当たり攻撃を敢行しています。この8名の勇士たちは、「ソ連邦英雄」としてロシアの殆どすべての史書に載せられ、今もロシア国民の崇敬を集めています。 また、ドイツ空軍は敗北直前の1945年4月7日、我が神風攻撃隊に触発された「エルベ特別攻撃隊」約100機が、ドイツ北部上空で米軍爆撃機に体当たりを敢行して、約80名が戦死を遂げました。

勇敢なる兵士たちが身を挺して戦勢の挽回に寄与せんとする事例は内外の戦史の中に枚挙に暇がないほど見出すことができます。しかし、これらの事例を厳密には特攻とは呼ぶべきではありません。

終戦後の819日、満洲に侵攻するソ連機甲部隊に体当たり攻撃を敢行した谷藤徹夫少尉とその妻朝子及び大倉巌少尉とその婚約者スミ子、所謂『妻と飛んだ特攻兵』の特攻攻撃もまた厳密には特攻とは言えないでしょう。

前述の「エルベ特別攻撃隊」が唯一名称の通りほぼ特攻と呼ぶに相応しいと言えるかもしれません。

昭和1910月、米軍はフィリピン奪還のためその艦隊をレイテ沖に集結します。日本にとってフィリピンを失うことは、本土と南方資源地帯の連絡が完全に遮断されることであり、それは大東亜戦争の敗北を意味していました。日本にとっては絶対に負けることはできないフィリピン決戦において著しい戦力差をカバーするために考えられたのが「特攻」だったのです。

つまり「特攻」とは、戦闘の成り行きに伴い一勇士の英雄的行為として行われたのではなく、国家の命運を賭けて日本陸海軍が戦略目的のための一つの作戦として行ったものでした。それ故に後述するように特攻に対する毀誉褒貶は凄まじく、その作戦の壮絶さとその作戦任務に従容と就いた多くの日本人戦士の滅私報国の精神に世界は慄き恐れたのです。

3 統率の外道?

「特攻の父」と言われる大西瀧治郎中将が特攻を「統率の外道」と呼んだことは、よく知られています。大西中将が、「外道」という語をどういう意味で使ったかは明確にされていませんが、仏語であるとすれば、仏の教えに背く道、即ち統率の教えるところに背くと解するのが普通です。

「統率」という軍事用語は、通常「指揮」と「統御」の融合した意味を持つとされています。「指揮」とは、その言葉通り命令をもって部下・部隊を動かし任務を遂行させることです。「統御」とは、指揮官の全人格をもってして部下・部隊を心服させ、任務達成へ邁進させることです。

従って大西中将は、「統率」をどちらかと言えば「指揮」の意味で使ったのであり、昭和19年10月20日、大西中将が第1航空艦隊司令長官に内定し、「神風(シンプウ)特別攻撃隊」を編成したとき、海軍大臣米内光政や軍令部総長及川古志郎から「決して命令はしないように」と念を押されたように、「命令しないで部下・部隊を死地へ赴かせる」という「指揮の放擲」に特攻の本質が垣間見えるような気がします。この考えは陸軍中枢でも共有されていたようで、昭和19年春、陸軍においても特攻の必要性が認識されたとき、「軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し、正規部隊として天皇の名で命令するのは適当ではない」と判断され、特攻作戦はあくまでも第一線部隊指揮官の判断で行うものとされたことにも表れています。「指揮の放擲」は、指揮命令・上意下達を大原則とする軍隊においては「外道」であると言えなくもなく、大西中将はその意味で使ったのではないかと思われます。

一方、特攻を統御という面から考えればどうでしょうか。戦死した特攻隊員数は、陸軍、海軍合わせて総計8千名を超えています。特攻隊員を志望しながら指名されなかった隊員数は戦死者の数倍以上であったと推察され、多くの部隊においてそのほとんどが志願したことは事実として否めません。大東亜戦争末期、海軍省人事局で特攻隊員の応募に係わる職務あった鈴木利定氏によれば、特攻への志願状況は「熱望、望」が圧倒的多数であり、応募者の中から厳選して特攻要員に指名したということです。

昭和19年には、日本が既に大変な苦境に追い込まれつつあるということは、特攻隊員の遺書などに見られるように、陸海軍の下層部まで浸透していました。いずれは連合軍が日本列島に東日本大震災の巨大津波のように押し寄せる、その時、この美しい緑の国土は徹底的に焼き尽くされ、日本民族は絶滅の危機に見舞われるだろう、我が身を弾丸に変えても、この危機を防がなければならない、それが日本人として生を受けた男の、天から授けられた使命であると、心深く決意した日本男児がまぎれもなく存在したということです。そしてそのような日本の若者が多数を占めていたからこそ、世界史に例を見ない特攻作戦を可能としたのだと言えます。

逆に言えば、特攻志望者が少数であれば、「勅命なき特攻作戦」は実施できず、行われたとしても、一部勇猛果敢な兵士による散発的自殺攻撃に終わっていたでしょう。散発的自殺攻撃行動は世界戦史に無数に存在し、特別なことではありません。 かつて或る国の駐日武官が「神風は軍隊における統率の極致である」と称賛しました。この「統率」は「統御」を意味し、日本軍の殆どすべての将兵が「十死零生」の特攻任務に赴くことを軍人の誉れとし、男子の本懐としていたことは、日本軍全体が「統御の極致」に至っていたことを証明するものでした。 従って「特攻は決して統率の外道にあらず!」、統御という側面から見れば「統率の極致」と言っても差し支えありません。 但し、指揮を放擲せざるを得ないような統率は、軍の本質にもとることであり、勅命なき作戦を採らざるを得ない事態を招いた政府・軍最高指導部が免責されるわけではありません。

4 「強制」か?「志願」か?

特攻批判者の代表的文化人は保阪正康(昭和14年生、ノンフィクション作家・近代史研究家、元左翼運動家)です。彼は、学徒出身の数名の元特攻隊員の証言に加え、占領下の検閲で厳しく言論の自由が制限されていた昭和22年に刊行された『遥かなる山河に(東大戦没学生の手記)(特攻隊員の遺書・遺稿は6名/37名)』と昭和24年に刊行された戦没学生の『きけわだつみのこえ(特攻隊員の遺書・遺稿は12名/75名)』など意図的に偏った一部の資料にのみ依拠して、「特攻は国家・軍部によって強制されたもの」という論陣を張り、誤った特攻観を戦後日本に流布してきました。

保阪は、「特攻隊員たちの自己犠牲の精神は、軍国主義的空気が作り出したものであって、真の愛国心とは程遠いものだ」とし、「『十死零生』というような戦術を強行した軍事指導者は、近代日本の中の最も恥ずべき指導者」であり、「この作戦を特攻隊員たちの主体的意思であるかのように装った指導者も責任を問われるべき」だと述べています(『特攻』と日本人」)。

保阪は、「英霊論」と「犬死論」を共に否定しながらも、「太平洋戦争末期、すでに日本の軍事的、政治的敗北は明白だった。もし真に歴史の中に身を置いている事実、政治の指導者が存在したならば、戦争終結を早める努力をしたであろう。それはその時代の権力をにぎっていた指導者の当然の責務である。それなのにあろうことか、一億玉砕などという冷静な判断とは程遠いスローガンを呼号し、国民に無用な犠牲を強いた。国民だけではなく、それぞれの国の人たちにも無用な犠牲を強いた形になっている。その最も典型的なケースが、昭和19年10月から始まった特攻作戦である」と、結局は「犬死論」を支持し、特攻作戦によって損害を受けた連合国側の兵士も犬死だと述べています。

昭和19年特攻作戦を実施する以前に、我が国の指導者たちが、戦争の帰趨を見極め、敗北講和の道を探っていたことは、保阪が近代史研究者ならば当然知っているべきことです。また、歴史を当時の時代背景の中で叙述する場合、戦後GHQによって作られた「太平洋戦争」という語を使うのは、保阪自身が一定のイデオロギーに影響されてまともに歴史に向き合っていない表れとも言えましょう。

保阪は、特攻隊員の心に寄り添うふりをしながら、少数派の学徒出身の遺した軍隊と大東亜戦争を批判した手記を取り上げて、「国家から死を強要された学徒に私は涙が止まらない」とか、「彼ら特攻隊員の遺された遺稿は、人間が兵器になることを拒み続けた叫びである。・・・彼らが不条理な運命を受け入れる以外に道はなかったあの時代の真の残酷さを私たちは批判できるように思う」といった他人事的な特攻批判を繰り返し述べています。

仮に保阪のこの特攻に対する評価が間違っていなかったとしたら、連合国・枢軸国を問わず先の大戦で戦没した兵士たちは全員、永遠に浮かばれることはないでしょう。後述するように、我が国の特攻作戦によって、連合国側は我が特攻戦死者を遥かに上回る戦死傷者を出しているのです。 さらに保阪は、学徒出身の中で、特攻に対して否定的な見解を述べた少数派の遺稿だけを取り上げ、「特攻隊員は、特に学徒出身の特攻隊員は、こういう理不尽な作戦に当事者として反対であった。反対であったから、彼らは自らの肉体を爆弾として米軍の艦艇に体当たりしていった」とやや論旨不明の見解を述べています。特攻に賛成だったら、体当たり攻撃をしなかったとでも言いたいのでしょうか?

また戦後の言語空間を支配してきたメディアの代表である読売新聞グループ本社会長・主筆渡邉恒雄は学徒出陣で陸軍に応召された著名人の一人ですが、彼はニューヨーク・タイムズのインタビューに答えて、〈彼らが「天皇陛下万歳!」と叫んで勇敢に喜んで行ったということは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった〉或いは〈一部の人は立ち上がることができなくて兵士たちにより無理やり飛行機の中に押し入れられた〉と語っています。渡邉は、「特攻は殆ど全てが強制であった」という認識を世界へ広めました。同年代の青年たちが見事に散華したのに対し、生き残った渡邉恒雄には何らかのコンプレックスがあり、そのコンプレックスが国難に潔く殉じた同年代の若者の志を無にするような言葉を吐かせたとしか考えようがありません。

ここに、特攻は「強制」であったか、「志願」に基づくものであったかという難問・愚問があります。戦後、「志願」とは建前であって、実質は命令による強制であったという見方をする人たちが増えました。「部隊で志願制が採られたとはいえ、あくまで軍隊という上意下達の世界での志願であったことを見落としてはならない。上官や司令官が戦局の困難さを語り、軍の期待や意図を示唆したうえで参加の意思を問われれば、それを語る自由は当時の軍隊にはなかった」或いは「同僚、戦友の多くが志願する中で自分だけ志願しないことは、不可能ではないにせよ極めて困難であった」(東洋大学国際地域学部教授西川吉光氏)などといった、平和で豊かな現代感覚の中で考えた愚劣かつ浅薄な推論によって特攻は事実上強制であったとされ、特攻隊員たちを軍国主義日本の犠牲者と見ることが主流となっています。

強制か、志願か、本当のところは無意味に近い愚問です。なぜなら、完全なる自由意思による志願であったことが証明されたとしても、その志願は、忠君愛国の誤った国家観を国民に植え付けることによって、国家や軍がほぼ強制的に当時の若者たちから引き出したものだと、いかようにも特攻批判者は主張できるからであり、それ以前に愚論であるというのは、強制・志願を疑いそれを口にすること自体、国家・国民のためにその尊い命を捧げた彼らの思いを冒涜することになりかねないからです。

元桜花隊第3分隊長であった湯野川守正氏(元海軍大尉、海兵71期、戦後航空自衛隊に入隊、空将補、湯川れい子(9条の会呼掛け人)の実兄)は、「形式的志願制をとり、戦士を特攻に追い込んだとの意見を見受けるが、特攻の本質から見るとこれは一側面に過ぎないであろう。特攻は航空だけではなく水中、水上全部隊で、また陸海軍を問わず澎湃として発生している。戦局の逼迫とともに使命感、祖国愛、同胞愛に燃える戦士たちの間に発生するべく発生したものであると考えている」と述べています。

陸軍少年航空兵の元特攻隊員の一人(久貫兼資(クヌキケンジ)氏、元軍曹)は次のように語っており、これが時代を超えて通じる真実に最も近い心の叫びだと思います。

一番はね、特攻は嫌々、嫌々やらされたなんていうことを言われるのが、一番気に入らないんですね。嫌々で死にいけるはずがないんですよ。自分に納得しなければ。

また元陸軍特攻隊員の一人(吉武登志夫氏元中尉、陸士57期、昭和19年12月12日出撃、途中F6Fに迎撃され被弾するも生還)は当時の青年たちの気持ちを次のように語っています。

 私たちはかわいそうな人でも何でもありません。今の時代から見れば、そう考えるかもしれませんが、当時は国のために命を捧げることに大いなる価値があったのです。

人間魚雷「回天」の搭乗員だった小灘利春氏(元海軍大尉、海兵72)は、次のように証言しています。

 日本を守るためには非常の手段を使っても、アメリカの上陸を阻止しなければと思っていましたから、人間魚雷の一言で、これこそアメリカの上陸を止める非常の手段だと思いました。  聞いて喜んだんです。潜水学校からは私を含めて7人行きましたが、7人が一様に喜びました。我々は命を失わなければならないが、その代わりに千倍、何千倍の日本人が生き残る。  日本民族をこの地上に残すためには、我々が死ぬしかない。それができるなら命は惜しくはないと、その瞬間に悟りました。その夜、遅くまで将来の期待を語り合ったものです。その時の気持ちは今でも変わりません。

必死の作戦任務を目指す青年が、自分たちが死んだ後の日本の将来をどのように語り合ったのでしょうか。澄み切った心に満たされた天使たちが雲の上で将来の夢を語り交わしているかのような情景が瞼に浮かぶではありませんか。昭和19年10月20日、大西中将は最初の特攻隊員24名を前に「皆はすでに神である」と訓示しましたが、まさに彼ら特攻隊員は生きながらにして神の如き心境に達していたと言っていいと思います。

久貫氏が語るように、特攻隊員のパイロットが敵の迎撃戦闘機の待ち受ける空域を強行突破し、対空火砲の銃弾渦巻く敵艦艇へ向けて「嫌々」としながら決死の体当たりを敢行できるわけがありません。本当に嫌なら、エンジン故障と称して、途中経路にある島々の浜辺にでも不時着することはいくらでもできたはずです。特攻という極限を究めた戦術は、心の底から自分の任務に納得しなければ到底できることではないことは、現代的感覚においても容易に理解できることと思い 191020日、大西中将は最初の特攻隊員24名を前に「皆はすでに神である」と訓示しましたが、まさに彼ら特攻隊員は生きながらにして神の如き心境に達していたと言っていいと思います。

久貫氏が語るように、特攻隊員のパイロットが敵の迎撃戦闘機の待ち受ける空域を強行突破し、対空火砲の銃弾渦巻く敵艦艇へ向けて「嫌々」としながら決死の体当たりを敢行できるわけがありません。本当に嫌なら、エンジン故障と称して、途中経路にある島々の浜辺にでも不時着することはいくらでもできたはずです。特攻という極限を究めた戦術は、心の底から自分の任務に納得しなければ到底できることではないことは、現代的感覚においても容易に理解できることと思います。

吉武氏が語るように「大いなる価値」のために命を捧げることができれば本望であり、この世に生を受けた使命を完遂できる、それは決して可哀そうだと世間から気の毒がられることではない、むしろ生命を燃焼するに不足のない大いなる価値を見出したことに喜びを感じたということは、緩み切った私たち現代日本人の精神をもってしても全く理解できないことではありません。 事実、特攻を拒否したパイロットは少なからずいました。戦後、航空自衛隊に入隊して航空幕僚長まで上りつめた山田良一氏(海兵71期、終戦時大尉)は、応募用紙に「否定」、「不望」と書いたと述べています。山田氏は熟練パイロットで、一発勝負に終わることなく、出来るだけ多くの空中戦闘を行い、1機でも多く敵機を撃墜することが“戦闘機乗り”というものだと考えていました。腕に自信のある熟練パイロットにその傾向が強かったようです。それは決して卑怯ではなく、非常な勇気がなければできない一つの正しい選択だったと考えられます。

中には特攻に再三志願したものの、技量が秀逸であったため、制空(防空)及び直掩戦闘機のパイロットとして不可欠な人材とみなされ、特攻希望を受理されなかったパイロットもいました。

また特攻を拒否した部隊(部隊長)も少なからずありました。源田実大佐(海兵57期、第3代空幕長、国会議員)もその一人です。もし特攻が上級部隊からの命令であれば、拒否即ち抗命であり、絶対服従を原則とする軍隊では軍法会議にかけられます。特攻を拒否したことについて、元陸軍士官学校教官の生田敦氏(終戦時大尉)は次のように述べています。

 特攻を拒否した部隊のすべてに、戦争の見透しや戦術上の判断において、或いは部下統率上の妥当な判断があった。決して卑怯な心情から出たものではない。むしろ特攻を志願するより勇気を必要としたかもしれない。しかし、特攻は休むことなく進められた。それは、「この一命に代えて、美しい故国、愛する父母、兄弟を救うことができるのは、自分だ」と信ずる若者が後を絶たなかったからである。

特攻隊員の選抜を依頼された部隊長の多くが、志願者の選抜にあたり、部下たちが最大限の自由意思で応募するように工夫し、志願書を提出させるようにしました。例えば、挙手形式では、周囲の雰囲気に左右されるため、「いついつまでに、不望、希望、熱望、大熱望と書いてその封筒を部隊長の机の上に置いておけ」といったやり方でした。

元桜花特攻隊員の長嶋茂樹(甲飛(昭和11年に設けられた海軍の飛行予科練習生) :13期)は次のように証言しています。

 (神雷部隊に)入隊希望者は手を挙げろと言われたが、艦攻、艦爆、陸攻、戦闘機専修全員が手を挙げた。募集人員が予め決まっている様子だったため、今度は、希望、熱望、大熱望の三段階を、渡された紙に書いて提出させられた。皆が大熱望だったらしく、再び紙を渡されて、自分が行きたいと思うだけ何重丸でも書けと言われ提出したが、これも全員が何重丸を書いて提出した。仕方なく、次は教員室に呼ばれ、一人一人口頭試問を受けた。翌日戦闘機専修者だけ対象に操縦検定があり、やっと決定され発表された。

 終戦後、元特攻隊員に対する米戦略爆撃調査団による事情聴取が行われました。その調査にあたったヘラー准将は当初「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇のために自殺しようとする考え方は理解できない」と言っていましたが、元特攻隊員たちがすべて「熱望志願」であった、或いは「一人息子ゆえに外したら、母親から息子を特攻隊員に選抜してほしいという嘆願書が来た」、「夜中に何度も教官を起こして嘆願した」などの話を聞くうちに、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らの言うことは理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と認識を改めたのでした。

 

Ⅱ 特攻に対する世界の見方・評価

1 特攻による連合軍の損害

  神風特別攻撃隊の初出撃は昭和191021日でしたが、天候不良などにより初戦果が出たのは25日でした。敷島隊の関行男大尉以下6機は、4度目の出撃で、1機が米の護衛空母セント・ローを撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げました。

10月26日、及川軍令部長が神風特攻隊の戦果を奏上し、天皇陛下から 「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜りました。また、10月30日には米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ」と仰せられたのです。

天皇陛下の特攻に対する思いは複雑なものがあられたようで、続く沖縄戦でも、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して、陛下は「そうか、本当によかった」と心から喜ばれている風ではありましたが、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、侍従武官の髪に何か触れるものがあったので、訝しんで武官が顔を挙げると、陛下が特攻隊の突入した地点に深々と最敬礼をされていたということです。 戦後、米海軍が公式に発表した『第二次大戦米国海軍作戦年誌1939-1945』には次のように報告されています。

   フィリピン方面

Ø  沈没16隻

護衛空母2、駆逐艦6、小艦艇4、その他4

Ø  損傷70隻

護衛空母13、戦艦5、重巡3、軽巡6、駆逐艦22、護衛駆逐艦4、小艦艇及びその他17

   台湾、硫黄島方面

Ø  沈没1隻

護衛空母

Ø  損傷9隻

正規空母4、護衛空母1、駆逐艦1、その他3

   沖縄方面

Ø  沈没15隻

駆逐艦8、小艦艇及びその他7

Ø  損傷202隻

正規空母12、護衛空母3、戦艦9、重巡3、軽巡8、駆逐艦116、小艦艇及びその他51

 上記被害数値は、最も控えめな数値で、その後行われた米国戦略爆撃調査団の報告書や秘密解除された米海軍極秘文書の公開によって明らかになったところでは上記以上の特攻戦果があったとされています。

 更に、他の連合国の艦艇も多大な損害を受けています。

u 英国:17隻

戦艦1、空母15、掃海艇1

u  豪州:16隻

重巡15、駆逐艦1

u  オランダ:1隻(商戦)

 フィリピン方面における特攻作戦の様相を、米軍従軍記者等の記録から拾ってみましょう。

 フィリピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊の米高速機動部隊に対する攻撃は、一層被害甚大であった。即ち19441029日には大型空母フランクリンが飛行甲板に40フィート(12メートル)の大穴を開けられ、米本国へ修理のため回航された。

 ついで、高速空母ベロー・ウッドにも、また特攻機が体当たりした。115日には大型空母レキシントンが日本爆撃機の体当たりを食って損傷し、死傷者182名を出した。              (写真11)

 レイテ島に上陸した米陸軍を支援していた米第51機動部隊は、上記のように連日襲ってくる特攻攻撃にさらされてパニックに陥ったようです。この身の毛がよだつほどの新手の攻撃に恐怖を感じた第3艦隊司令長官ハルゼー大将は、次のような証言を残しています。

 10月末、正規空母ワスプの搭乗員113の健康診断をしたところ、わずか30が戦闘に耐えうる状態で、他は全員過労のため、休養を必要とする状態だった。・・・が、これはそれから始まる地獄のほんの序章に過ぎなかったのである。

 また、フィリピン奪回作戦を指揮したマッカーサーは、その回顧録で次のように述べています。

 この一連の空襲で自殺攻撃の神風隊パイロットが初めて本格的に姿を現した。この驚くべき出現は連合軍の海軍司令官たちをかなりの不安に陥れ、連合軍艦隊の艦艇が至る所で撃破された。空母群はこの危険な神風攻撃の脅威に対抗するため、持っている飛行機を、自分自身を守ることに使わねばならなくなり、そのためレイテの地上部隊を掩護する仕事には手が回らなくなったのである。

 次に、硫黄島方面における特攻攻撃の戦果を米の著名な軍事評論家フレッチャー・プラットの回想録から見てみます。

 その夕刻、海上遥か日本本土より長躯飛来した神風特攻隊約50機が、突如低く垂れ込めた雨雲を突破して米艦隊を目がけて来襲した。そして護送用船空母艦群の中に殺到し、まず空母「ビスマーク・シー」の艦尾に1機が体当たりして、魚雷庫が大爆発を起こして転覆沈没、死傷者318名を出した。

 次いで空母「ルンガ・ポイント」も神風機の自爆のため両舷に大穴を開けられ、さらに大型空母「サラトガ」も4機以上の体当たりを食らって大損傷を蒙り、修理のため真珠湾軍港へ回航される始末だった。

しかし、この特攻機の決死の支援にもかかわらず、硫黄島守備隊の栗林中将は、3月17日大本営へ決別の電報を発し、25日最後の総反撃を決行して玉砕しました。

 最後に、特攻の主舞台となった沖縄方面における特攻攻撃について見てみます。

 昭和20年4月1日から6月22日まで、82日間にわたって繰り広げられた沖縄戦は、チャーチルをして「軍事史上最も苛烈で最も有名な戦い」と言わしめたように、第二次世界大戦の中でも、最も苛烈で、連合軍にとって最も損害の大きな戦いとなりました。

 米軍は当初、沖縄上陸を3月1日と計画していましたが、硫黄島を死守する栗林兵団の頑強な抵抗に遭って1か月の遅延を強いられたのでした。  米軍は、沖縄を占領するまでに、陸海軍と海兵隊を合わせて約55万人、戦闘艦艇318隻、人員揚陸用の舟艇を除く補助艦船1,139隻を投じてきました。これに対して日本軍は陸海軍合わせてわずか10万人の地上部隊と防衛隊2万5千人、鉄血勤皇隊1,761人、そして1,895機の特攻機を含む約1万機の航空機で迎え撃ちました。この沖縄防衛作戦に伴う航空作戦は、大本営の指示の下に陸海軍航空部隊が統合的に運用された初めての作戦で、「天号作戦」と呼ばれ、航空特攻を海軍では「菊水作戦」、陸軍では「航空総攻撃」と称しました。  以下、米軍指揮官等の沖縄戦に関する証言を列挙してみます。

〈アーネスト・J・キング海軍元帥: 米国海軍作戦部長〉

 3月26日、慶良間列島への上陸とともに、沖縄攻防の幕が切って落とされた。初めは、反撃はあまり大きくなかったが、4月6日から始まった日本機の攻撃は、今までかつてなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。4月6日から6月22日の間に、大規模特攻作戦が10回あり、空襲回数896回、ほぼその4,000機が撃墜され、うち1,900機が特攻機であった。

 6月21日、沖縄における日本軍の組織的抵抗は、すべて終わった。が、沖縄に払った米軍の犠牲は、決して少なくなかった。陸上では戦死行方不明7,213名、戦傷31,081名であり、海上では戦死行方不明4,907名、戦傷4,824名であった。艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。

 

〈チェスター・W・ニミッツ海軍元帥: 米太平洋艦隊司令官〉

 4か月にわたる沖縄作戦中、残存日本海軍と強力な米第5艦隊が矛を交えたことは一度もない。だが我が海軍が蒙った損害は、戦争中のどの海戦よりもはるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9,000人以上が死亡、行方不明または負傷した。  この大損害は、主として日本の航空攻撃、特に特攻攻撃によるものであった。

 

〈ユージン・バレンシア海軍中尉: グラマンF6Fパイロット〉  1945年4月16日、給油を済ませた第58機動部隊を100機以上のカミカゼが襲った。この日、日本軍はカミカゼ専用に作られた自殺爆撃機「桜花」を使用した。  その破壊力は、一般のカミカゼに比べて比較にならないほど大きく、それが効果的に使用された場合、米海軍に与えるであろう大きな損害は、ちょっと想像もできないくらいだった。  さらに、空母ヨークタウン上の我々は、目前で空母イントレビットが1機のカミカゼの直撃を受け、別の1機にも小破を与えられたのを目撃し、カミカゼ攻撃が、もはや容易ならぬ事態まで我々を追い込んだことを切実に知らされたのである。  我々の任務は、決まったように上空のパトロールである。つまり、カミカゼのお出迎え役なのだ。飛行情報将校のマフィー中尉が、今日もまた激しいカミカゼ攻撃があるだろう、とスピーカーで注意している。カミカゼの攻撃には、我々は完全にお手上げである。いくら撃墜しても、あとからあとからやってくる。我々がちょっとでも手を抜こうものなら、たちまち、空母の甲板に大穴があくことになるのだ。

 1945年4月16日、給油を済ませた第58機動部隊を100機以上のカミカゼが襲った。この日、日本軍はカミカゼ専用に作られた自殺爆撃機「桜花」を使用した。

 その破壊力は、一般のカミカゼに比べて比較にならないほど大きく、それが効果的に使用された場合、米海軍に与えるであろう大きな損害は、ちょっと想像もできないくらいだった。

 さらに、空母ヨークタウン上の我々は、目前で空母イントレビットが1機のカミカゼの直撃を受け、別の1機にも小破を与えられたのを目撃し、カミカゼ攻撃が、もはや容易ならぬ事態まで我々を追い込んだことを切実に知らされたのである。

 我々の任務は、決まったように上空のパトロールである。つまり、カミカゼのお出迎え役なのだ。飛行情報将校のマフィー中尉が、今日もまた激しいカミカゼ攻撃があるだろう、とスピーカーで注意している。カミカゼの攻撃には、我々は完全にお手上げである。いくら撃墜しても、あとからあとからやってくる。我々がちょっとでも手を抜こうものなら、たちまち、空母の甲板に大穴があくことになるのだ。

 2 特攻の戦果と本土防衛に果たした役割

  特攻作戦は無意味な戦いで、特攻隊員は日本軍指導部の無能さの犠牲となったという趣旨の話が戦後の日本の言語空間を支配してきました。果たしてそうだったのでしょうか。

 昭和20年1月19日大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を奏上、陛下に「全軍特攻化」を説明します。2月、硫黄島攻防戦が始まると、全軍特攻化を発動、戦闘機操縦者の他は特攻攻撃に特化した操縦教育が始まり、練習機を特攻機に使用することも決定されました。

 しかし意外なことに、全軍特攻化以降も、特攻機よりも通常攻撃機の出撃数が2倍近くも多いのです。これは特攻要員が種々の条件によって厳選されたこと、特攻を拒否したパイロットがたくさんいても部隊長は少しも困らなかったことを裏書きするものです。

硫黄島の戦い(昭和20年2月14日)から沖縄戦終了(6月22日)までの海軍航空隊の延べ出撃機数は、特攻機が1,868ソーティーであるのに対し、通常作戦機は3,647ソーティーと多いのですが、攻撃成功率は特攻機が遥かに高かったということが証明されています。

昭和19年10月から昭和20年6月までの特攻機と通常攻撃機の有効性について、下記の分析結果が米海軍から報告されています。

 

特攻機

通常攻撃機

命中までの平均攻撃回数

3.6

37

命    中    率

27

2.7

命中までの平均損失機数

3.6

6.1

U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary  Table Ⅵ)

 特攻作戦は、極めて有効かつ効率的な戦術であったことを上記データは簡明に証明しています。米軍は、特攻を「米艦隊が直面した最も困難な対空問題」であると指摘したうえで、次のような分析をしています。

Ø  従来の対空戦術は、特攻機に対して効力がない。

Ø  特攻機は、撃墜されるか操縦不能に陥るほどの損傷を受けない限り、目標を確実に攻撃する。

Ø  目標となった艦船の回避行動の有無にかかわらず、損傷を受けていない特攻機は、どんな大きさの艦船にも100%命中できるチャンスがある。

Ø  特攻機は、片道攻撃で帰還を考慮しないため、進出距離が長い。

Ø  特攻機は、爆弾を積んでいなくても、その搭載燃料で強力な焼夷弾になる。

Ø  特攻機パイロットは、精神的にタフである。

昭和20121日台湾東方洋上で特攻攻撃を受けた空母タイコンデロガの艦長キーファ大佐は、シカゴの新聞記者会見で「特攻機は通常航空機の45倍の命中率を上げており、特攻機以外の爆撃から逃れるよう操艦するのはさして困難ではないが、舵をとりながら接近してくる爆弾から逃れるよう操舵することは不可能」と述べていますが、米国の戦史研究家カリグ大佐も「操縦者と飛行機と爆弾とを頭脳がコントロールする飛び道具の中に完全に合体させる急降下爆撃ならば、100%の命中率が得られる」と述べています。換言するならば、特攻兵器は、最高度のコンピューターと極めて精確な画像認識のできるセンサーがついた爆弾と同じ理屈で、現在の精密誘導爆弾よりも遥かに優れた未来兵器であったということです。

 特攻の戦果は諸説ありますが、昭和1612月から昭和208月まで44か月間行われた第二次世界大戦における米軍の戦闘の中で、終盤のわずか10か月の日本軍との戦闘において、米軍全損傷艦船の約半分、全沈没艦船の約15が特攻機によって失われたというのが米の公式統計です。

 英軍従軍記者で空母フォーミダブル乗艦取材中に特攻で負傷した経験を持つ戦史研究家デニス・ウォーナーは、「航空特攻で撃沈57隻、戦力外となって失われたもの108隻、船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻、軽微な損傷206隻」だとし、「特攻作戦は、連合国の間に誇張する必要もないほどの心理的衝撃を与え、また米太平洋艦隊に膨大な損害を与えた。アメリカ以外の国だったら、このような損害に耐えて、攻勢的な海軍作戦を継続することはできなかったであろう。日本軍の特攻機だけがこのような打撃を敵に与えることが可能であっただろう」と述べています。

 英国軍事評論家のバリー・ピットは、次のように述べています。

 こうした日本軍の特攻戦法を、狂信的だからできたのだとか、まったく無駄なことであったと単純に片づけることは賢明とは言えない。日本軍の特攻攻撃が、いかに効果的であったかと言えば、沖縄決戦中、延べ1,900機の特攻機の攻撃で、実に14.7%が有効であったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき高率であると言えよう。

 事実、沖縄作戦開始直後の段階では、米軍の海軍士官の中には、神風特攻が連合軍の進攻阻止に成功するかもしれないと、真面目に考え始める者もいたのである。

 政権が国民の選挙投票で決められる民主主義国アメリカにとって最大の苦しみとなり問題となったのは、特攻による人的損失であったことは言うまでもありません。特攻だけによる死傷者の公式統計はありませんが、英の戦史研究家ロビン・リリーによれば、「特攻による米軍の戦死者は6805名、負傷者9923名、計16,728名に上る」と推計しています。その他の推計では戦死者が、7,000名超或いは連合軍全体で12,260名とするものもあります。いずれにしろ、連合国側の戦死者数は出撃した特攻隊員数より多く、負傷者も含めば連合国側の人的損失の方が圧倒的に多かったことは事実です。

 特攻による連合軍の死傷者の中には、高級将官も多く含まれていました。英軍のラムズデン中将、米軍のチャンドラー少将らです。沖縄戦では旗艦の空母バンカー・ヒルで艦載機の発艦準備を視察していた第58任務部隊指揮官ミッチャー中将の至近6メートルの甲板に特攻機が命中し、奇跡的にミッチャー中将自身は無傷でしたが、随行していた幕僚13名が戦死しました。ミッチャーは旗艦を空母エンタープライズへ移しましたが、これも特攻攻撃を受けて大破、空母ランドルフに旗艦を変更しました。ミッチャーはその後特攻対策での心労が重なり、体重45㎏と激ヤセ、上官の第5艦隊司令長官スプルーアンス大将と同様に、沖縄戦のさなかに異例の指揮官交代となりました。

 米軍従軍記者ハンソン・ボールドウィンは、沖縄戦における特攻が米海軍乗組員に与えた心理的圧迫について次のように語っています。

 4月末になっても、菊水特攻隊の作戦は衰えを見せなかった。ぶっつづけに40日間も毎日毎日空襲があった。その後やっと悪天候のおかげで短期間ながらほっと一息入れたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭はいつしか照準器の上に垂れ、神経は擦り切れ、誰もが怒りっぽくなっていた。

 艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号を解読し、その意図を判断する海軍のマジック班の活躍によって、艦隊は敵の大規模攻撃を正確に予測することができた。

 時には攻撃前夜に乗組員たちに戦闘準備の警報がラウドスピーカーで告げられた。しかし、これは止めねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によって一層生々しく心に迫り、そのためにヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神耗弱状態に陥った者が何人もいたからである。

 特攻は戦術的に連合軍に深刻な大打撃を与えただけではなく、戦略的にも大きな役割を果たしました。

猛将と謳われた機動部隊指揮官・第3艦隊司令官ハルゼー大将は、フィリピンでの上陸支援作戦終了後、昭和191111日から艦載機による大規模東京空襲を計画していました。ところがフィリピン沖で同艦隊が特攻により空母3隻大破、航空機約90機損壊、戦死者328人などの大損害を蒙ったため東京空襲計画は中止に追い込まれました。ハルゼーは「いかに勇敢なアメリカ軍兵士といえども、生き残るチャンスがない任務は決して引き受けない。切腹の文化があるというものの、まことに効果的なこのような部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々は信じることができなかった」と衝撃を受けたということです。

5艦隊司令長官スプルーアンス大将は、増え続ける特攻からの被害に音を上げ、海軍上層部に対して「九州及び沖縄の飛行場に対して、実施可能なあらゆる攻撃を加える」よう意見具申しました。その強い要請を受け、陸軍第20空軍のB-29は日本本土の都市や工場等への戦略爆撃任務を外され、特攻基地への爆撃に振り向けられましたが、巧みに偽装された小さな目標である特攻機を撃破することはほとんどできませんでした。戦略爆撃機を戦術目標攻撃に使用するのは戦理に反することで、効果が上がらないのは当然だったのです。

そのため第20空軍は本来の戦略任務に戻ろうとしましたが、スプルーアンスの切実な意見具申を受けた米海軍作戦部長キング元帥は陸軍に対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、引き続き第20空軍による特攻基地攻撃を応諾させました。そのため1か月半にわたって日本本土への戦略爆撃が軽減されたのです。

沖縄攻略機動部隊指揮官ニミッツは、昭和205月上旬、本国参謀本部に宛てて「沖縄上陸作戦は、特攻による損害が著しいために、上陸を中止し他方面へ向かいたい」との暗号電報を打っており、それがニミッツ麾下の第5艦隊の兵士たちの間で噂話にまでなったようです。

昭和2072日、スティムソン陸軍長官は、トルーマン大統領に対し「日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗に遭い、アメリカに数百万の被害が出る」と話し、「天皇制くらい認めて降伏させるべきである」と意見具申しています。

以上述べてきたように、一つの軍事作戦としてみたとき、特攻には無駄など微塵もなく、戦術的には勿論のこと戦略的にも大きな役割を果たしたと言えます。特攻は、戦勢を挽回し敗戦を防ぐことはできませんでしたが、日本を救い、日本国民を救い、国体を護持するうえで重要な意義を持ったことを、後世の日本人は心の底深く銘記しなければなりません。

 3 特攻に対する世界の見方

   人命至上主義に立つ欧米的価値観殊に自殺を禁ずるキリスト教的宗教観から見れば、「特攻は、敗者の自殺戦法に過ぎない野蛮な行動である」と酷評する見方もあることは事実です。しかしその一方で欧米人の中には、特攻隊員の自己犠牲の精神に「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし(「ヨハネ伝」第15章第13)と説いた聖書の教えと同じ価値観を見出して、称賛の言葉を惜しまない人々もいます。

 おそらく大西中将も散華した特攻隊員たちも、後世、かつての敵国人からこれほどまでの畏敬の念を持たれるとは夢にさえ見なかったに違いありません。

 特攻隊員の心を当人たち或いは日本人以上に的確に理解したフランス人がいました。彼の名はベルナール・ミロー(1929年生)というジャーナリストです。

 ミローは著書『神風』のなかで、欧米人の理解が「特攻隊員たちは人間らしい感情を持たない、人間の尊厳について無感動で、集団心理に踊らされた動物」というのが一般的であったのに対し、特攻の本質を次のように分析しています。

²  ほんの一握りの狂燥的人間なら、世界のどの国にだって必ず存在する。彼ら日本の特攻隊員たちは全くその反対で、冷静で、正常な意識を持ち、意欲的で、かつ明晰な人柄の人間だったのである。

²  これらの調査(戦後行われた特攻隊に関する調査)のほとんど全部が一致して報告していることは、特攻に散った若者の圧倒的大多数の者が、各自の家庭にあって最も良き息子であったということの発見である。極めて稀な少数の例外を除いて、彼らのほとんどは最も愛情深く、すれてもひねくれてもいず、生活態度の清潔な青年たちであった。そして両親に最も満足を与えていた青年だったのである。

²  日本の自殺攻撃の本質的な特徴は、単に多数の敵を自分同様の死に引きずり込もうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵にとびかかるという、その行為にあるのではない。その真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、時として数週間、数か月も前から、予めその決心がなされていたという点にある。

²  そうしたものの美学が我々を感動させることはあっても、我々の精神にとってはそのようなことは思いもつかぬことであり、絶対にあり得ないことである。

むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれを敢えて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民になったと考える。

²  確かに我々西洋人は戦術的自殺行動などという観念を容認することはできない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。

彼らを勇気づけていた論理がどうであれ、彼らの勇気、決意、自己犠牲には、感嘆を禁じ得ないしまた禁ずべきではない。彼らは人間というものが、そのようであり得ることが可能なことを、はっきりと我々に示してくれたのである。

²  これらの英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、取り出して見せつけてくれたのである。

 戦後、フランス第五共和国の情報相、文化相を務め仏文壇の巨人として活躍したアンドレ・マルローは次のように語っています。

 日本は大東亜戦争に敗れはしたが、その代わり何ものにも代えがたいものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。スターリン主義者たちにせよ、ナチス党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特攻隊員たちは狂燥的だったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。

 代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

 戦後にフランスの大臣として初めて日本を訪れたとき、私はそのことを陛下に申し上げておいた。

 フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人の中には、特別攻撃隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなに少ない撃沈数なのになぜ若い命をと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。『母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺められると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのを黙って見過ごせるものだろうか?』と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべて乗り越えて、潔く敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の精神と行為の中に男の崇高な美学を見るのである。

 以下、特攻に対する外国人の見方を列挙・紹介します。

 マルコム・マックガバン(米海軍大尉)

 我々の空母の飛行甲板を貫いたこの男は、私より立派だ。私には到底このようなことはできない

 

 バリー・ビット(英国戦史・軍事評論家)

 日本軍の神風特攻精神を狂信的だと言って非難することは簡単だが、この考え方はいささか独断的すぎるのではなかろうか。

 特攻機や「桜花」爆弾に搭乗して連合軍艦船の甲板目指して飛び込んでいった日本の”若鷲”たちは、その目的の正しさを信ずるがゆえに飛び込んだのであり、その目的を少しでも達成することを願ったがゆえにこそ、喜んで生命を捧げようとしたのである。

 軍人としての義務を全うするため、勇敢に己が生命を捨てて顧みない、尽忠至誠の発露でなくて何であろう。

 

 スイス紙「トリビューン・ジュネーブ」(194579日付)

戦争では殺されずに人を殺すということが常識だが、死を覚悟、死を喜ぶことが最大の効果を発揮することがある。

 破壊せんとする目標物に時速千キロの速度で突入する操縦士は危険この上もない。しかし尊敬すべき敵だ。

 昭和12年英植民地下でビルマ(現ミャンマー)の初代首相になるなどビルマ独立に奔走したバー・モウは、「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。今後数千年の長期にわたって語り継がれるに違いない」と述べています。そして昭和43年に出版した『ビルマの夜明け』の中で次のように書いています。

 ここで、我々の最終勝利を確信している第三の理由を挙げよう。それは、全世界を驚かせたもの、我々の東アジア革命の基本的精神と意義とを示しているもの、即ち神風の精神である。それは、新しい東アジアの真の基礎となりつつあり、いかなる敵も打ち破ることのできない甲冑で武装された自己犠牲の精神、生か死かの精神、勝利のために死を厭わない精神である。私は台湾とフィリピンでの神風の偉業を読んだ時ほど、心を動かされたことはかつてなかった。その時、私はカミカゼの精神が滅びない限り、東アジアも滅びない、と自らに語った。

昭和52(1977)年、アメリカ合衆国海外戦役退役軍人会レインチェス元大尉が日本へ旅行するクーパー夫人に依頼して、和歌山市に在住する故特攻隊員・陸軍航空兵曹長・江波正人の妻・江波たつゑに亡夫正人の遺品を届けました。その話を聞いた退役軍人会代表のジョン・F・リットマンが感動して、江波たつゑ宛に手紙を書きました。その要旨は次のようなものです。

 親愛なる江波夫人へ

 …()…

 私は、レインチェス大尉が沖縄本島、残波岬の沖で海面に漂うカミカゼの中から発見し、クーパー夫人が日本へ旅行されたとき、貴女にお渡ししした一冊の小さな赤い手帖を見る光栄に浴しました。…(中略)…

 先日、日本の旅から帰ったクーパー夫人が、貴女が手帖のお礼と感謝の心を込めて贈られた美しい日本人形をレインチェス氏に手渡した時、私はその場に居合わせる特権に恵まれました。

 レインチェス氏は、この手帖は当然持つべき人、即ち貴女自身と貴女のご家族に、亡きご主人の想い出としてお返しすべきだと願っておりました。クーパー夫人が持ち帰ってきた日本の新聞の切り抜き記事は、大変興味深く拝見しました。その記事は、温かい人間愛に満ちたお話を物語っていました。私たちアメリカ合衆国海外戦役退役軍人会第7175分会の会員は皆、心温まる想い出を貴女及びご家族にもたらすことができたことについて感慨ひとしおで、この幸せを分かち合いました。そして、改めて美しい日本の人々と私たちアメリカとの友好関係を確かめました。

 私自身は今までにアメリカ海軍の兵役にある間、度々貴女の美しいお国を訪問する光栄に良くしました。…(以下略)…

 この記事は、あれほど特攻で苦しめられた元米海軍の軍人たちが、国に殉じた特攻隊員たちへの憎しみをひとかけらも持っていないということを表しています。前述のマルコム・マックガバン海軍大尉の「私より立派だ」という言葉と軌を一にしたものと言えるでしょう。

 

Ⅲ 遺書と遺稿が語る特攻の真実

  特攻隊員たちは、一体どんな気持ちで志願し、どんな心意気で出撃していったのか、彼らの遺した遺書や遺稿から少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 「神風(シンプウ)」の名付け親であった猪口力平中佐は「下士官のものは比較的単純であり、同型のものが多い。海兵出身の将校は、特別に書き遺したものが奇妙に少ないようである。それは、平生からその心構えを備えており、ことさらに最後に書く必要がなかったのかもしれない。『言あげせぬ』武士(モノノフ)の伝統に生きたともいえようか」と述べています。

 神風特攻の初陣を飾った関行男海軍大尉(海兵70期、23)指揮下の敷島隊中野磐雄・一飛曹(甲飛10期、19)の絶筆は次のようなものです。

 お父さん、お母さん。私は天皇陛下の子として、お父さんお母さんの子として、立派に死んでいきます。

 喜んで行ってまいります。

 では、お身体を大切にお暮しください。

 父上様へ

 母上様へ

 海兵出身の関大尉の遺書もまた簡潔な文章です。

 西條の母には幼児よりご苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許しくださいませ。

 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。

 鎌倉のご両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其のご恩に報ゆる事も出来ず往く事を、お許し下さいませ。

 本日帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ない、君恩に報ずる覚悟です。皆様お身体大切に。

 父上様、母上様

*関大尉は愛媛県西条市生、鎌倉の医者渡辺家の長女満里子と結婚。満里子は、関大尉戦死後、西条に来て義母サカエの身の回りの世話をしていたが、サカエや周囲の者の勧めで広島の医師と再婚、関家から除籍した。

 昭和20427日、沖縄戦において宮古島から発進、慶良間諸島付近で熾烈な対空砲火をかいくぐって米輸送船に体当たりした、大橋茂伍長(18)の遺書もまた簡明ですが、大変心を打たれます。

 お父さん、お母さん、喜んで下さい。祖国日本興亡の時、茂も大命を拝しました。心身ともに健康で、任務に就く日を楽しみに、日本男児と、大橋家に父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な文化国家を再建してくれる事を信じて、茂はたくましく死んでいきます

 親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。お世話になった皆様方に、宜敷お伝え下さい。この便りが最後になります。

  身はたとえ南の空で果つるとも とどめおかまじ神鷲の道

それに対し学徒兵のものは、複雑な心の曲折を表現し、国家の危機に対する冷静な分析と憂国の情、更には出撃の目的・目標を心の奥深く刻み付けようとしているものが多いようです。昭和20429(天皇誕生日)に沖縄戦に特攻戦死した小泉宏三海軍少尉(予備学生14期、22)は次のような遺書を遺しています。

 お父さん、お母さん、私が特攻隊員と判って随分驚かれたことと思います。

 予め私の命は無きものと覚悟されておられた事と思いますが、それでも私が戦死することが確実となれば、更(アラタ)めて私に就いて未練のような情けも起り、仲仲あきらめもつかぬ事と思います。(中略)

 然しお父さんお母さん。

 今日本は正に存亡の秋にあります。米国はその兵力の殆ど大部分を集中して、沖縄に侵攻してきました。

 これに対して日本も、その全兵力を傾けてこの撃滅を期しているのです。そして凡ゆる点に於いて困難な条件の下にこの戦局を打開し、一大攻勢に転ずるには、その方法は唯一つ、特攻による外はなくなったのです。

 この沖縄決戦に集中して来た敵大機動部隊の大部を屠り得たらその時こそ、日本の勝利は疑いありません。要言すれば勝敗の一大神機は正にこの沖縄決戦にあるのです。

 この秋に当り日本を救う道が特攻隊以外になかったとしたら、お父さんやお母さんは如何なる道を執られますか。言うまでもなく光栄ある特攻隊員の一員となられて祖国日本の為に立たれると思います。私の選んだ道が即ち之です。

 何も私がやらなくとも特攻隊員となる搭乗員は幾らもあるだろうに、と考える人もあるかも知れません。だがそういう考へ方は私の心が許しません。この戦争遂行に一体何万の尊い人命が失われた事でしょう。これら靖国の神々の前にも、そして幾多の困苦を闘いつつ生産に敢闘しつつある人々に対しても、絶対かかる私的な考は許されません。

 俺がやらなくて誰がやるか、各々がこの気持ちで居なかったら日本は絶対に負けると言っても過言ではありません。

 そして国が破れて何の忠がありましょうか、七生報国の決意を果たすべき時は今、正にこの一期に掛かっているのです。

 お父さん、お母さん、私を失われる事は悲しいでしょうが、このような事情をよくお考えになって下さい。

 そしてこの決戦の一ツの力に、自分の子がなった光栄に思を及ぼして下さい。

 ベルナール・ミローが述べているように、確実な死を目前に、これほど冷静かつ論理的に自分の死の意義を父母に語ることができる青年が実際この世に存在したこと自体が奇蹟であり、人間の偉大さを遺憾なく証明しています。小泉少尉は、父母が息子の死に納得し、「宏三、よくやった」と心の底から思ってもらうことが、先立つ不孝を許してもらうことになると考えたのではないでしょうか。

 昭和20525日、沖縄戦における陸軍航空総攻撃の一員として散華した大塚要(学徒兵(中大)破邪隊2式高等練習機、23)は、次のような日記と遺書を遺しました。合わせて読むと、自分の果たすべき役割と宿命をしっかり受け止めていることがわかります。

昭和20125

 特別攻撃隊に志望するや否や、論を待たず我が身あるは国あるが故なり、国なくして家なし、生あらば死あり、特別攻撃隊に参加して玉砕するは、我にとりて最上の死場所ならむ、敵は我等の間近にあり、彼を撃滅せずしては我が理想たる、大東亜の新秩序はならず。

昭和20328

 特攻隊と簡単に謂い、一機命中と云うが、その中には一人の人間の神の如き精神と肉体がある。俺も特攻に当たり前のとして征けるか、凡てを超越してもっとも、超越すべき何物もない。

 俺の感情は多分に退廃的ではないか。皇軍の将校か。将校は軍隊の根幹なり、日記は人に見せる為に書くものでなし。自己を偽るなら書かぬ方がましなり。書いて自分の向上を計る文句を云うな。之は俺の日記だ、書け、思う存分。偉い人の真似をする必要はない。偉そうなことばかりは書かぬ。俺は何も偉くなんかないのだ。俺は皇国の一男子なのだ。只それだけだ、義務、権利、そんなものは問題でなし、俺は皇国の男子として当たり前のことを為してゆけばいい。昔から決まっているものを、やればいいのだ。航空隊に志願したのもそれだ。国家は空中勤務者を必要とする故、男子たる俺は当然志願した。敵を撃滅するのが俺の任務だ。

 国家が特攻を必要とする。俺は志願した。俺は信ずるままに進むのだ。悟りを開くなんて大それた気持ちはない、悟りなんて分かる筈がないのだ。敵は沖縄に上陸せり、と。大言壮語する万人の操縦士より、黙々と実行する一人の操縦者を現在の国家は要求している。我は信ず、日本男子は浅薄なるヤンキー青年に負けず、征かん、突き進まん。

昭和20411

 軍隊に入りて2回目の誕生日を迎う。満23歳。

 午後命令を受領す。小西少尉を長として15名。快なるかな。誕生日に死ぬことの定まる。我は励まん、一途に。生を享けて23年、皇国の将校なり、男子の本懐。

  一すぢにただ一すぢに大君の醜の御楯と散るぞうれしき

昭和20420

 戦友の中に特攻隊員として、敵に当り砕けるときの話がはづむ。要するに凡人である以上、いよいよ打ち当る時は、夢中なるべしと。心境の変化なき者は、聖人か馬鹿なるべしと謂う。だから馬鹿は聖人に近きものなりと。如何ならんか、今の俺に分かる筈のものにあらず。必要なるは旺盛なる精神力なるべし。本人より知ることを得ず。

昭和20524

 明日出撃と決定す。本日は機体の整備をす。無線にて、我突入すと打つ任務を受く。ただ征かんのみ。篠崎、永井来る。

  海原に敵をもとめて我征かむ明日を思ひて気静かなり

 そして、次の遺書を遺しました。

 母上様

 要は、特攻破邪隊第三隊の一員として征きます。

 母上様もこの一事あるは覚悟されていたことと思います。要は航空に志願する時よりこの如きことあることを思い、敢えて志願したのでした。

 父上亡きあと、母上が如何に御苦労されたか、一番よく知っている自分です。しかし国あっての家です。国のお役に立つ、君の御楯となる。男子としてこれ以上の光栄がありますでしょうか。母上には申訳ありません。家はお願いします。要が居なくてもまだ男3人、男3人が国に斃れたら、せい子に家を継がせてください。

 要が先にいったからとて、母上は決して悲しまないでください。また身体を悪くされたりすると死んで死に切れません。健康に充分注意して決して無理せず、強く生きてください。

 特攻隊編成以来、ずいぶん盛大に見送られてきました。女子通信隊の8人から、指を切って描いた血染めの日の丸も頂きました。

 母上強く生きて下さい。日本の勝つ日を思います。必勝

 『きけわだみのこえ』の巻頭に掲載され、学徒出陣の特攻隊員の代表とされている上原良治少尉の遺書と「所感」と題する遺稿をとりあげてみたいと思います。上原隊員は、昭和18年、慶応義塾大学から入営、昭和20511日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として「飛燕」に搭乗し、知覧基地から出撃、嘉手納沖の米海軍機動部隊に突入して戦死、享年22歳でした。

 生を享けてより20数年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かきご両親様の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送ることができました。そしてややもすれば我儘になりつつあった事もありました。この間ご両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。それが何のご恩返しもせぬ中(ウチ)に先立つことは心苦しくてなりません。

 空中勤務者としての私は毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで果して死ぬだろうか、否、どうしても死ぬとは思えませんでした。そして何かこう突っ込んでみたい衝動に駆られた事もありました。私は決して死を恐れていません。むしろ嬉しく感じます。何故なれば、懐かしい龍兄さんに遭えると信ずるからです。

 天国における再会こそ希ましい事です。

 私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。

 戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は火を見るよりも明らかであると思います。

 私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。

 離れにある私の本箱の右引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出してください。

 ではくれぐれもご自愛のほど祈ります。

 大きいお兄さん清子はじめ皆さんに宜しく、

 ではさようなら、ご機嫌良く、さらば永遠に。

 上原少尉は、上の遺書とは別に出陣の際、整備兵の手を通して次の遺稿を遺しました。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。

権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。

真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。

こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。

飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で。

 出撃の前夜記す。

  人の世は別れるものと知りながら別れはなどてかくも悲しき

 反戦主義者が絶賛する遺書・遺稿と言われていますが、上原隊員は決して現代の左翼の如き亡国思想の持ち主ではなく、愛国者であると思います。自由主義こそ国家を隆盛に導く思想であるという彼の考え方は当を得たものであり、それこそ日本の保守の原点であると言っていいでしょう。

認識の是非はともかくとして、当時の政府軍部の中に「真に日本を愛する者」がいなかったことを悔やんでいることにその思いが充溢しています。「世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人」が彼の理想であり、現在の日本のように「自国を貶める」ことに快感を覚えているかのような進歩的文化人とは対極にあると断言できます。

 

Ⅳ おわりに

  元NHKアメリカ総局長で40年以上にわたって米国及び日米関係を見てきた米ハドソン研究所主席研究員・日高義樹氏は、その著書で次のように述べています。

 アメリカの人々が日本を恐れているもう一つの理由は、神風特攻隊である。日本の国と人々を守るために、死ぬのを承知で体当たり攻撃を仕掛ける日本の兵士たちの存在は、アメリカ人にとっては理解不能で、そのため心から恐れた。

 戦後のアメリカは、こうした日本の強さを失わせたままにしておくために、日本を守り大事にしたが、このやり方はある意味で敵の牙を抜く戦略だったと言える。アメリカはあらゆる戦略を使って、滅ぼした日本を再び敵に回さない努力をしたのだ。

 アメリカは勝者として驕りつつも、敗北させた日本に一目置いてきた。そうした思いが日本に対する関心となり、日本贔屓につながったとも言える。とにかくアメリカは心の底では日本を敵にしたくない相手だと考えている。

 東条英機以下軍部指導者は、特攻に依らざるを得なくなり、その末に敗戦した戦争指導の不手際、無能さに対する批判に対しては、甘んじて受けざるを得ないことを十分納得していたことは東京裁判の記録するところで明らかになっています。

しかし振り返って考えてみますと、国力に圧倒的な差があった当時の日本と米国が、対等な作戦で勝つ或いは引き分けにすることは、物理的かつ客観的に見れば殆ど不可能なことでした。つまり、アメリカ側から見れば、“お茶の子さいさい”で勝てる見込みで始めた戦争だったと言えます。ところが実際にはそうはならなかった、アメリカは「太平洋戦争は、薄氷を踏む思いで戦った戦争であり、幸運と日本の失敗によって勝つことができた」と反省したのです。そのように思わせたのは特攻でした。仮に特攻が日本の一大作戦として行われることをアメリカが戦争前から予測していたとしたら、F・ルーズベルトは現在の米政府の如く「日本を敵に回さない」国家戦略を選択していたかも知れません。少なくとも元々、対日戦争に大反対であり、特攻の主目標となる恐れが大きい米海軍は、米国民世論に訴えても徹底的に反対したでしょう。

 やや牽強付会の誹りを受けることを承知で敷衍すれば、アメリカによる抑止力によってもたらされた戦後70年の我が国の平和は、特攻のおかげとさえ言っていいのではないでしょうか。

そして大橋茂伍長(14)が遺言した「後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な文化国家を再建してくれることを信じて」の言葉にある通りの日本が再建されました。

 しかし、その文化国家の実態は、今の我々より心身ともに優れ、優秀な頭脳を持ちながら国家に殉じた特攻隊員たちに恥ずかしくて見せられそうもない?「今の日本は大丈夫ですか?」と怪訝な顔をされそうで、「大丈夫!」とはとても言えそうにありません。

 冒頭で紹介した知覧特攻平和会館を訪れて変身した青年たちの耳にも「今の日本は大丈夫ですか?」と訊ねる特攻隊員の声が聞こえたのかもしれません。

 昭和19年から20年にかけて特攻隊員が次々と散華しているとき、日本は国を挙げて特攻隊を称えていました。身内に特攻隊員がいるということは、当時の国民にとって最高の誇りでした。近所や町村役場の人たちからも「たいしたものだ」と称賛されました。従って、戦死公報が届いても、遺族は「名誉なことだから、涙を見せてはいけない」と歯を食いしばりました。葬儀は役場が行う町村葬として村中の人々が引きも切らず会葬するといった盛大なものでした。

 関大尉ら敷島隊が出撃・散華した直後の昭和191029日の「噫(アア)忠烈」と題する朝日新聞社説を紹介します。

 神機に投じた決戦の数々であった。敵撃砕の燦然たる戦績がここに生まれた。しかも、陸海空の全軍、粛然として驕らずと聞く。敵また襲いなば我再び撃滅せんのみと、戦意いよいよ堅しと云う。宜(ウベ)なり、昨日の決戦は今日の決戦に続き、今日の決戦は明日の決戦に繋がるが故である。けれども前線将士力戦奮闘の忠勇義烈に対しては、昨も今も、ひたすら心奥の肝銘、満腔の感謝を捧げずにはおれぬ。ましてや、神風特別攻撃隊敷島隊員に対する連合艦隊司令長官の布告に接しては、われら万感切々として迫り、この神鷲忠烈の英霊に合掌、拝跪すべきを知るのみ。

 それは必死必中の、更にまた必殺の戦闘精神である。征戦は、これをもって勝ち抜く。神州はこれによって護持される。忠誠洵(マコト)に『万世に燦』たるものがある。謹んで、生還を期せざる烈士の高風を仰ぎたい。いな征(ユキ)いて帰らざるを予(アラカジメ)て心胆に徹したる神鷲の崇高さに、ひしひしと全身を、全霊を、みそぎはらいせらるる思いである。清澄無比、透明の極致である。聖慮、神意へのひたぶる帰一の境涯である。関大尉等五勇士の雄魂は、これによって驕慢なる敵戦力を挫いた。邪悪なる敵の非望をも斬った。まず己に克ち、妄想を絶ち得たからである。かくてこそ、この大御戦(オオミイクサ)は必ず勝つ。この殊勲、この精神に我らは勝機を見た。

 敗戦後、日本人は醜く変貌しました。全ての責任を、戦犯をはじめとする戦争に斃れた人たちにかぶせ、被害者面をし始めたのです。GHQに阿諛追従する官庁・官僚・役所・教育界そして新聞・ラジオ、その中にはGHQの占領政策に加担して高収入を得る知識人、「日本をアメリカの州に加えてほしい」などとGHQへ手紙を書く日本人、さえ現れました。この変節・軽薄は絶対的な権力者GHQという時世の中で多少割り引くことができるとしても、許せなかったのは新聞・ラジオや一般国民までもが、特攻作戦に散華した殉国の士を「軍国主義者」と罵倒したことでした。

特攻に殉じた青少年の至誠に世間が報いたのは「裏切り」と「嘲罵」でしかありませんでした。さらに許せないのは、GHQが去り我が国が主権を回復した後も、多くのメディアや歴史学者等は“似非平和主義”の美名の下にその変節を継続していることです。

特攻隊員の遺族は「特攻隊は国賊だ」と非難され、その無念さに母・娘が抱き合って泣くという光景もありました。昭和191127日、レイテ湾において米艦船に突入した善家善四郎少尉の妹、田辺さだ子さんはその思い出を次のように語っています。

 敗戦後、心無い人に特攻隊は国賊などと言われました折、母と私は抱き合って号泣いたしました。あまりにも無残な言葉でした。…(中略)…戦争中、母は空襲のサイレンの中、兄の勲章や、記事が載った新聞を大事に小さなトランクに入れて、背負って逃げ回りました。それが今、わずかな兄の形見となりました。母は何かというと、それを取り出して眺め、これが善四郎だと申して涙を流しておりました。

前述した関行男海軍大尉の母、サカエさんの場合も例外ではありませんでした。関大尉戦死当時は、海軍中佐へと2階級特進するとともに正6位に叙せられ、功三級金鵄勲章を授与され、現在で言えば500万円以上の一時金も支給されました。遺族年金も支給され一人暮らしのサカエさんには十分でしたが、昭和21年にGHQの指令により旧軍人恩給制度が廃止され、無収入状態に追いやられます。大事にとっておいた弔慰金は戦後のインフレで紙屑同然となります。

「軍神の母」はいつしか「戦争犯罪人の母」と批判されようになり、それまで面倒見てくれていた親戚の家も追われ、引っ越した借家にも石が投げ込まれて、転々、知人宅の物置小屋に3年近くもかくまってもらう境遇に陥りました。そして孤独な老後を送りつつも、食べていくために畑仕事の手伝いや薪拾い、草餅を作って行商といった落ち着かない生活を送らなければなりませんでした。彼女はその後、愛媛と高知の県境近い石鎚山麓の山間部の小・中学校に住み込みで働く小使さんで暮らしていましたが、昭和2811月、55歳でこの世を去りました。

旧軍人に対する恩給復活法案が可決成立したのは、昭和288月、「わたしにも年金が下りることになったんよ。老後の心配をせんでもようなる」と嬉しそうに話していた矢先の他界でした。国家の為に、家族の為に「十死零生」の任務に敢然として出撃していった特攻隊員。彼らの思いに戦後の日本及び日本人は少しでも応えたのでしょうか、いいえ余りにも冷淡非情に過ぎるのではないでしょうか。

 特攻隊の生みの親・大西瀧治郎中将は、昭和20816日未明、日本刀をもって割腹自殺を遂げました。0245自刃、夕方死亡、15時間余の激痛に耐えながらの旅立ちでした、享年満54歳。

 〈遺書〉

特攻隊の英霊に臼す

 よく戦ひたり、深謝す

 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共

 其の信念は遂に達成し得ざるに至れり

 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

 次に一般青年に告ぐ

 我が死にして、軽挙は利敵行為なると思ひ

 聖旨に副ひ奉り

 自重忍苦するの誡めともならば幸なり

 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ

 諸子は国の宝なり

 平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持

 日本民族の福祉世界人類の和平の為最善を尽くせよ

()

 

*参考文献等

①『日本人はなぜ特攻を選んだのか』平成251130日 黄文雄 徳間書店

②『世界が語る神風特攻隊』平成24730日 吉本貞昭 ハート出版

③『今日われ生きてあり』平成5725日 神坂次郎 新潮社

④『「特攻」と遺族の戦後』平成20625日 宮本雅史 角川学芸出版

⑤『特攻還らざる若者たちへの鎮魂歌』平成1586日 神坂次郎 PHP研究所

⑥『「特攻」と日本人』2005720日 保阪正康 講談社

⑦『指揮官たちの特攻』平成1681日 城山三郎 新潮社

⑧『きけわだつみのこえ』1982716日 日本戦没学生記念会(わだつみ会) 岩波書店

⑨『はるかなる山河に』19511215日 東京大学学生自治会(戦没学生手記編集委員会) 東京大学出版会

⑩その他ウィキペディア

 

 

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〈余記〉

 フランスでの同時多発テロの発生を受けて、「カミカゼ」或いは「ハラキリ」などの我が国由来の言葉がメディアに登場しています。

 平成13(2001)年にアメリカで起きた9.11同時多発テロの際にも「カミカゼ・アタック」とか「パール・ハーバー」という言葉が使われました。

 世界で異常な出来事が起きると、それを日本軍国主義になぞらえて、我が国の自虐史観を刺激せんとする勢力が内外に存在しているということです。

 ISに代表されるテロと特攻は、その目的と目標において全く異なる次元にあります。ISなどテロ組織には守るべき国家や国民があるわけではありません。敵対する政府や団体等を破壊或いは殺戮すること自体に目的が存在し、敵対する組織・個人を壊滅させたとしても、それによって得られるものは彼らの宗教的満足心に過ぎず、自爆テロで自死を遂げるテロリストたちもそれによって自己の信仰心を完結して神に召されることに喜びを感じるというものです。

 特攻の目的は言うまでもなく国家・国民の防衛です。即ち自分一人が死ぬことによって、侵攻する敵戦力を減殺し、ひいては何十、何百、何千、何万人という自国民の命を守りたいということであり、自分が特攻で死ねば天国に召されてあの世で幸せになれるなどと考えた特攻隊員は一人もいませんでした。むしろその多くは自分ではなく、生き残った家族、恋人たちの幸せと祖国日本の発展を願っての出撃だったのです。

 

攻撃の目的

攻撃の目標

法的性質

 

テロ

敵対する政府や団体等の破壊又は殺戮

抵抗が弱い民間人・民間施

設・民間車両など攻撃が容易なもの

(ソフト・ターゲット)

 国際法及び刑法上の犯罪行為

 

特攻

国家・国民の防衛

防御力の強い主に空母等の軍艦等軍事装備、軍事施設

(ハード・ターゲット)

 国際法上の合法行為