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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

    日米決戦への道・再考    


―日本はなぜアメリカと戦う羽目に陥ったのか?-

Ⅰ 序説

 1 はじめに

    日米開戦は人智を尽くしても避けられない宿命だったのか?どこかで日本或いはアメリカなどの指導者が正しい政治的選択を為しておれば避けられたものだったのか?良しにつけ悪しきにつけ大東亜戦争の結末が戦後の日本社会に及ぼした筆舌しがたい影響を思う時、誰しも我が国が遭遇した歴史の皮肉と偶然に思いを馳せるのではないでしょうか。

 戦争や紛争は国家間に生じる相互作用であり、一方のみの作用によって起きるものでないことは誰しも理解できることです。日本にもアメリカにも戦争に至らざるを得ない事情や原因があったことだけは疑いようがありません。

 「戦争には多くの場合、複雑な史的背景と原因ありと信ずるがゆえに、斯かる一方的な日本断罪史観を認め得ないのである。戦争は多くの些細な累積因の上に発生するものだ。歴史の中には、他日戦争を導くことになる禍根が随所に散在する。それらの一つ一つが戦争と平和への道を分けてきたと云えるだろう」と故中村粲氏がその名著『大東亜戦争への道』の緒言で述べています。その論に従えば「些細な累積因」を事細かに調べることによって日米決戦への道を知ることが出来ることになりますが、本稿は些細な累積因を深追いすることなく、時代の大きな流れの中で捉えていくことにより日米決戦への道を俯瞰せんとするものです。

 20世紀初め、人類は第一次世界大戦を経験し、国際平和を維持するための集団安全保障体制たる国際連盟を発足せしめ、一国のみでは国際問題を解決できない相互関係が国際社会の中に醸成されつつあったときに、その不完全かつ未熟な集団安全保障体制を試すがごとく起きたのが、第二次欧州大戦であり大東亜戦争であったといえます。

 大東亜戦争は、日米両国の間に生じた軋轢の上に、両国を取り巻く国際社会の中に渦巻く様々な要因が折り重なり、化学反応を起こして発火したものです。それを当時の集団安全保障体制は抑止・消火できなかったゆえに世界戦史に類を見ないような激しい消耗戦へと突入せざるを得なかったわけですが、それほどの大血闘に至った理由もまた、日米両国の国家・民族の特質及び時代的背景といった大きな歴史的要因にあったと考えられます

 日米決戦は人類史最大の総力戦でありましたが、同時に国民国家として経験する最後の総力戦になったのかもしれません。日米激突が帝国主義・植民地主義の末期に起らなかったら、或いは日本、アメリカのうちどちらかが惰弱な国家・国民であったなら、「決戦」と言えるほどの大戦争にはならなかったはずです。

 クラウゼヴィッツが説くが如く「戦争は異なる手段をもってする政治の継続である」との観点に立てば、戦争は常に政治家の意思によって動かされ、国家意思決定者の個性が戦争の発生原因に大きく影響するという事実も見逃してはなりません。即ち戦争は必然的連鎖に人間の意思が組み合わされ反応して発生し、継続され、そして終結するものだということです。

 本稿は、我が国がアメリカと決戦せざるを得ない状況に追い込まれていった理由や原因を努めて広い視野から概観していくものです。細緻な原因に関しては既に各論において論じられてきましたし、今後も研究の要がありますが、我が国の如く長い歴史を有する国家・民族における行動や判断というものは、一つの時代の特異な出来事に止まらず、ある程度の奥行きのある時代の流れを見ながらこれを論じていく必要があると思われます。例えば日米開戦原因を、「ハル・ノート」にある、いや「ルーズベルト」だ、いや「日本の侵略主義」だといった一点のみで論じるのではなく、時間的にも地域的にも幅広い視点・観点から鳥瞰して考えることが大切だということです。

 ここでいう「地域的」とは、日本側の責任因子、アメリカ側の責任因子そして支那・朝鮮・ロシア・イギリス・ドイツ・フランスなど第三者の責任因子を指します。大東亜戦争は連合国との戦いであったのだから、支那・ロシア・イギリスなどは第三者ではなく当事者ではないかと思うかもしれませんが、大東亜戦争は明確にそれらの国々とは無関係に勝負が決したのであって、日米だけの決戦であったと断言できるが故に、アメリカ以外のすべての国は大東亜戦争においては第三者に過ぎないというのが本稿の立脚する大前提であり、それゆえ「日米決戦への道」と銘打ちました。

 2 時代的因子について

   大東亜戦争は我が国にとって不可避の試練であったとする考え方があります。大東亜戦争不可避論はいわば日本の宿命論であって、その萌芽は日清・日露戦争から、更に遡って明治維新から、更に遡って江戸時代から、更に遡って中世以前からさえあったとする考えがあり、どの時代においても共通するのは、進取の気性に富み、賢明かつ勤勉な日本人の民族性との関わりから説明されるものです。

 例えば1570年天草に上陸した宣教師オルガンティーノが、「ヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」、或いはフランシスコ・ザビエルが、「日本について今日まで私が観察したところを書き送ろう。第一に、この国民は、私が今日まで交際した限りにおいて、全て今までに発見された諸国民のうちで最良のものであり、異教の国民中、日本人に比すべきものあるとは考えられぬ。彼らは人と交わるにおいて非常に親切であり、一般に善良であって、悪心を抱かず、あらゆる他のことにまして名誉を重んじる」と本国へ向けて発信したように、日本人は時代が熟せばいつでも世界の覇権を争うことができる素質を秘めていたとする考えです。

 やや奇異に思われる中世からの宿命論によれば、西ヨーロッパの国々を除けば、本当の意味での封建制を実践し、同じ民族・国家の内側で封建領主たちが治世の優劣や武力を競い、切磋琢磨したのは世界において唯一日本しかなく、科学技術の発達に伴い世界が狭くなれば、必然的に日本は封建制を経て強力となった欧州世界即ち白人国家と争う宿命にあったとするものです。

 江戸時代の300年は、中世から引き継いできた日本人の素質に加え、安定した社会の中で独自に発達させた庶民文化、流通経済、異常に高まった識字率と民度、そして支配層の中に育まれた精神文化である武士道などによって中世よりはるかに日本国家・国民全体のポテンシャルが高まり、欧米帝国主義の東アジア侵出に対して世界のどこにも見られない高い反発力を養った時代だったとするものです。

 江戸末期、産業革命を経た西欧文明が蒸気船とともに来日した時、養われた高い反発力を持つ日本人の知恵と精神は激しく反応し、蒸気船を自らの力で製造しようとし、現に薩摩・宇和島・鍋島の各藩が3年後に造り上げました。司馬遼太郎はこれを「世界史的奇蹟」と表現しています。

他民族には見られない高い反発力を持つポテンシャルを内蔵する日本が、近代的な中央集権体制を完成させれば、それは必然的に欧米国家の覇権と衝突せざるを得ない不可避の宿命にあったとする考え方は、一応私たちを頷けさせるものです。

 一 広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 一 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

 一 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

 一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

 一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

との「五箇条のご誓文」は、慶応4(1868)年、明治天皇が天地神明に誓約する形式で示した国家運営の基本方針ですが、新国家がかような高邁な方針を掲げ船出したとき、その前に立ち塞がったのは、手前勝手な国際法と武力そして謀略を以て、ひたすら貪欲に富を得んとする帝国主義全盛の時代でした。

 旧幕府政権が世間知らずゆえに結ばざるを得なかった不平等条約を明治の新政権は不本意ながらも誠実に継承しつつ、帝国主義盛んなりし時代の中で耐え忍び、自力で富国強兵を成し遂げた時、それは欧米との摩擦・衝突への扉が開かれたことを意味していました。即ち、明治維新こそが欧米との武力衝突の出発点であり、第一次大戦前後から世界一の強国となったアメリカとの決戦は、明治維新の時、既に我が国の歴史手帳に書き込まれたのだとする考え方も有力です。

 そして何をおいても最も有力な時代的要因は、日清・日露戦争における日本の勝利にあるという見方です。我が国が日清戦争に負ければ、その後満洲や朝鮮半島をめぐってロシアと戦うこともなかったし、清国に勝っても日露戦争に負ければ、その後の日本は、白村江の戦いに負け、北九州北岸に防塁を構築して専守防衛に徹した古代大和朝廷の如く、ロシアの脅威に怯えて、とても欧米列強と干戈を交える身分にはなれなかったことは疑いようもありません。

 前出『大東亜戦争への道』は、その出発点を日清・日露戦争に置いています。この両戦役は、近代日本が外国の軍隊と本格的な戦をした初めての経験であり、当時の日本の有識者たちに「日本列島はとてつもない難しい地理的条件にある」ということを気付かせるものでした。

 天然の要害である海に守られていた江戸時代以前においては、とにかく内輪のこと、日本列島内のことに専念しておけば、日本の安全は保つことができたのですが、蒸気船の出現によって海の敷居は一気に低くなり、明治時代以降は、お隣の国のこと、特に朝鮮と支那の安全・安定もまた我が国の安全に大きな影響を及ぼすものだということを深く認識せざるを得なくなったのです。

 3 我が国の地政学的宿命

   封建制から脱却して世界に目を開き近代的な中央集権体制へ移行した日本が明治に入って目の当たりにしたのは、だらしない「むこう三軒両隣」の惨状でした。古代から続く前近代的な中央集権国家が陥りがちな典型的な腐敗と堕落を体現しているアジア的退廃と停頓、それが支那と朝鮮でした。東アジアにおいて時代的因子と地域的因子が融合して、我が国の安全を脅かす状況が生じつつあったのです。即ち1840年のアヘン戦争に始まる列強の武力侵出が古代から近世まで世界最強の超大国であった支那を食い荒らしつつあり、その火は、東シナ海あるいは日本海を越えて日本列島まで飛び火する恐れがあると維新の指導者たちは考えました。

 清国は衰えたといえ、当時の日本から見れば超大国であり、既に列強の権益が支那本土に根を下ろし始めている以上、これに関与する力は日本にはありませんでした。一方、朝鮮は小国であり未だ列強の手はついていなかったことから、日本の関与の余地は十分残されていました。「朝鮮国にしっかりしてもらおう、日本と朝鮮が団結すれば、なんとか欧米の侵出を食い止めることができるかもしれない」との思いが、我が政府指導者たちの中に深まったのは当然過ぎるほど当然です。

 明治元年、早速日本政府は、朝鮮国との国交樹立を希望する旨の外交文書を提示しますが、李氏朝鮮執政府は、旧套墨守極まった旧例などにこだわるとともに支那の王朝に服属せんとする小華意識から、日本の申し入れを拒否し続けました。

 明治8年、朝鮮西岸の航路探査を行っていた日本の軍艦が飲料水を求めようとして江華島に近づいたとき、突然砲撃を受ける「江華島事件」という武力衝突が発生したことを契機に、終に朝鮮は日本との国交を開くことに同意しましたが、李朝執政府の指導者たちの頭の中には、これを機会に支那の軛から離脱し、世界に目を開いて、自主独立の新しい朝鮮国を建て直そう、などという前向きの考えは皆無に近く、清に従うか、露につくか、はたまた日本を恃むか右往左往、手を変え、品を変え李王朝内の権力争いに明け暮れる有様でした。

 現在の北朝鮮が、冷戦の敗北によって共産主義が否定され、自由市場経済以外では国家発展のないことが徹底的に証明された21世紀の今日においてさえも、金日成や金正日が唱えた主体(チュチェ)思想と先軍思想を金科玉条とし、弾道弾ミサイルと核兵器を備えて、極貧の国民で成り立つ金王朝が存続しているのにそっくりではないでしょうか。

 清国が欧米列強の干渉を跳ね返す力を持ち、朝鮮が自主・独立の気概を持ち、世界の趨勢に敏感に対応して近代国家を自ら造り上げることができたならば、日清・日露戦争は絶対に起る筈はなく、我が国が独り欧米帝国主義に立ち向かう必要はありませんでした。EUの如く支那、朝鮮、日本が手を携えて東アジアの自主独立を守り一つの経済圏を創ること、それが島津斉彬ら幕末の賢人が夢見ていたことであり、西郷・大久保ら維新の元勲たちが目指したものでした。

 しかし現実は余りにも悲惨でした。朝鮮と支那を愛しその近代化を求めてやまなかった福沢諭吉が「両国を見限り、我が国単独での富国強兵を図るべし」と激しく論陣を張った「脱亜論」に表された如く、余りにも無力な隣人の存在は我が国の置かれた悲運であり、地政学的宿命であったといえましょう。

 4 ロシアの南進と義和団事件

   我が国が軍事的に支那本土に重大な関心を持たざるを得なかった根源的理由の一つにロシアの南進がありました。ロシアの南進がなければ勿論日露戦争が起きることもなく、日本が満洲や支那本土へ領土的足掛かりを持つことにはならなかったでしょう。さすれば日支大事変も起きなかったでしょう。

 日露戦争がなければ日米対決に至らなかったかどうかはわかりませんが、アメリカが日本への警戒心を強めたのは日露戦争における日本の勝利にあったことだけは間違いありません。日本軍が旅順から満洲平野で連戦連勝している明治38(1905)年6月、親日家であったセオドア(T)・ルーズベルト大統領は「間違いなく日本の陸海軍は恐るべき敵であることを示した」と某上院議員に宛てた親書の中で述べています。T・ルーズベルトの「間違いなく」という言葉には、彼がまだ海軍次官であった1897(明治31)年に最初の「オレンジ計画」を創案し、日本を仮想敵国の一つに加えた自分の判断が間違っていなかったという感慨が込められたものと思われます。

 日露戦争の重大原因並びにその後の我が国の進路の最大の分岐点となる事件が明治33(1900)年北京で起きます。「扶清滅洋」をスローガンに掲げ、排外主義殊に西洋の文物を破壊・排除せんとする義和団という宗教秘密結社による暴動に端を発して、清朝政府がこれに便乗、北京の公使館区域が数万の義和団兵と清国兵士に包囲される緊急事態が起きます。「義和団事変」又は「北清事変」と呼ばれるこの事件は、日本を主力とする欧米7か国の派兵によって鎮圧され収束します。

 この事件は、支那の統治の不安定さ、清朝政府の統治の著しい信頼性の低さを露呈するものとなりました。同時に事変解決後の明治34(1901)年9月、日本・欧米11カ国と清国との間に北京議定書という条約が調印され、その条項において日本を含む英米仏露など8カ国は、北京から海岸に至るまでの12カ所に、自国の居留民を守るための駐兵を置く権利を認められました。つまり外国人市民の生命財産を守るに足る十分な治安維持能力の持たない清朝政府が、我が国に対し正式な条約に基づいて、北京周辺に軍隊を駐留する権利を認めたということです。

 本来は清朝政府に外国人の生命財産を守る国際法上の義務・責任がある筈ですが、清国には治安能力がないばかりか、守ろうとする意思さえ信頼できないことを明らかにしたのが義和団事変でした。そこで本条約が締結され、それに基づいて支那駐屯軍が支那本土に駐屯することになったのですが、これが後の盧溝橋事件へとつながり、そして上海事変、日支間の大事変へと進んでいったことを思うと、義和団事変は大東亜戦争への重要因子であったと言わざるを得ません。

 それに加え義和団事変は日露戦争の直接的な原因ともなりました。諸外国の公使館区域が義和団と清軍に包囲されて籠城戦を戦っている最中の明治33年7月から、ロシア軍は、列強の関心が北京公使館区域周辺に集中している隙を狙って大軍を満洲に侵攻させ、10月には全満洲を軍事占領下に置きます。義和団鎮定後もロシア軍は占領を続けたため、日英米が激しくロシアに抗議、露清間に満洲還付協約が結ばれますが、ロシアはいつもの如くこの協約を履行しませんでした。撤兵どころか逆に南満州及び朝鮮国境付近へ軍を増強するという始末で、支那本土、モンゴルそして朝鮮半島への勢力拡大の野望をあからさまにしたのです。いみじくもロシアの蔵相ウィッテが指摘したように、これが日露戦争の直接原因になったと断言していいでしょう。

 更に日露戦争は、世界史に重大な出来事を招来しました。それはロシア革命です。50万もの大軍団を極東まで送って多大な戦費を浪費し、連戦連敗が続く1905(明治38)年1月、首都サンクトペテルブルグで労働者の請願デモに端を発するロシア第一革命が起きます。

 「ロシア帝国の威信は、軍事的強大さ(特に陸軍)によってのみ成立している。それ以外にロシアはなく、軍事的強大さがなくなればすなわちロシアそのものがなくなるのだ」と蔵相ウィッテが明言しましたが、その陸軍が極東の新興弱小国・マカーキー(猿)と小馬鹿にしていた日本に連戦連敗し、海軍のバルチック艦隊までもが日本海の藻屑に消えたとなれば、ロマノフ王朝の威信は地に落ちたと言っていいでしょう。

 主たるロシア革命である2月革命、10月革命は第一次大戦中の1917年に起き、ロマノフ王朝が崩壊したのですが、日露戦争がなければロシア革命が成就していた可能性は少なく、既に立憲君主制への準備をしていたロマノフ王朝が一家全員銃殺というような悲惨な運命には陥らなかったことでしょう。

 この革命によって共産主義が、地球全陸地の1/6にあたる2,280万k㎡(日本の61.6倍)の国土と1億8154万人 (1916年)の現実の政治力・経済力を得たことは、その後の世界に甚大かつ悲劇的な被害を及ぼし、次に述べるように我が国もその影響から逃れることはできませんでした。

 義和団事変は直接・間接に三重の意味で大東亜戦争への道を拓く道標となったのですが、義和団事変がなくとも、いずれロシアは満洲へ軍事的膨張を企てた可能性が高く、その場合我が国との間に緊張関係が生じるのは明白です。そして日露間に軍事衝突が生じたかもしれませんが、その時期は1904年よりはかなり後年になるものと思われ、世界史はまったく違う道筋を辿ることになったでしょう。

 5 ロシア革命と共産主義

   1917(大正6)年、ロシアに共産主義革命が起きたことは、20世紀最大の重大事件であり、複数の観点から大東亜戦争の重要な一因になったことは明らかです。

 複数の観点とは、第一にロシアの共産主義は正常な国々に浸透して増殖せんとする悪性腫瘍的性格を生まれながらにして持っていたために、その病魔がロシア一国に止まらず世界に蔓延していったことです。

 第二に、その悪性腫瘍増殖機能の中には当然ながら秘密工作・謀略組織が強固に形成されており、その組織が欧米や日本などの主要な国々の中に深く病巣を宿し、その病巣は内部から他国の政府をコントロールするほどの能力を持ったことでした。

 そして第三に、プロレタリアート独裁と称する絶対権力によって軍事力主体の政治戦略をとり、強力な軍事独裁国家を造り上げたことです。

 そのためソ連と国境を接する国々は防共対策に腐心しなければならなくなりました。前出中村粲氏は「大東亜戦争は二つの大きな歴史的潮流の合流し、激し合うところに生起した戦争であると云ってよい。一つの流れは19世紀末以来の門戸開放主義を理念とする米国極東政策と、特に満蒙との特殊関係維持を主張する我が大陸政策との相克であり争覇戦である。これが主流である。ロシア革命以後は、共産主義から日本と東亜を守る防共の戦いという流れが合流してくることになる。日米大陸政策のせめぎ合いと共産主義との戦い―この二つが大東亜戦争の基本的性格であると考えられる」と構造分析をしていますが、日米決戦へ誘導した働きの強さと広さから言えば、共産主義が主犯であり、米極東政策は従犯であったと言えなくもありません。

 張作霖爆殺事件にはコミンテルンの影が見え隠れし、盧溝橋事件は蒋介石軍の中に紛れ込んでいた共産分子の策動であることはほぼ疑いなく、南京事件、済南事件、通州事件など支那に在住する邦人が虐殺された事件には必ずと言っていいほど共産分子の策動がありました。

 張学良に蒋介石を軟禁させ、国共合作を強要して、国民党軍をして抗日へと舵を切らせたのも支那共産党の策謀でした。

 さらには昭和12年の日支間の大事変へ発展・拡大していった第二次上海事変は、国民党軍の中の共産分子による日本人兵士の虐殺に端を発し、我が政府・蒋介石ともに事態拡大を望まなかったにも拘わらず、国民党軍の中に潜む共産分子の策動によって、終に日支間に和平の道は閉ざされてしまいました。支那大陸内に深く進攻した日本軍の軍事行動は、米政府内の対日感情を悪化させることになります。支那事変は間接的に日米が決戦への道を歩むことを促したのです。

 ソ連の謀ろうとする目的は明白です。我が軍と蒋介石軍を戦わせ、満ソ国境の脅威を減殺させるとともに、両方を疲弊させ、支那共産党の勢力を拡大、支那における共産革命を成し遂げることでした。

 逆にいえば、ロシアにおいて共産主義革命が成功しなければ、支那事変さえも起きなかったということです。

 このように共産主義が我が国に与えた直接・間接の不利益・被害を挙げればきりがないほどですが、その中でも最大のものはアメリカ政府の中に忍び込んだコミンテルン・スパイによる対日政策への影響だったと考えられます。

Ⅱ アメリカ側に存在する因子

 1 基本的命題(人種問題)

   アメリカはなぜ日本との戦争を望んだのでしょうか。アメリカの政治家も軍人たちも日本には米本土への進攻能力はないということを数値的に確認していました。つまり、日本の存在は米本土への脅威にはならないことは知り尽くしていたのです。アメリカの脅威になるとすれば、アメリカ軍が西太平洋に進出して、日本の国益を損ねるような行動をとろうとするときに限られていました。

 当時のアメリカは、モンロー大統領以来の不干渉主義を国是としており、自らの安全には関係ない第一次世界大戦の戦場で、約12万の戦死者と約21万の戦傷者を出したこともあって、95%以上即ち殆どすべての米国民は不干渉主義を強く支持していました。戦後のアメリカの如く、朝鮮、ベトナム、中東、アフガンなど遠隔地の問題にやたらと首を突っ込んで事態を複雑化・悪化させるようなことはしない国柄でした。そのアメリカがなぜ日米決戦を招来するような政策を次々と打ち出したのでしょうか。

 この基本的命題について、誰もが合理的な回答を見出すことはできないでいます。短期的には欧州戦線への介入の大義名分を得る為だったと言われます。「日米戦争の原因を冷静に遡ればヨーロッパで始まった戦争(1939年9月)に起因していることは間違いない」(渡辺惣樹)との見方は一面的であるにしろ的を外したものではありません。

 とはいえ日米の確執は第二次欧州大戦の開始よりずっと以前、前述の如く日露戦争終結直後に芽を吹きました。ポーツマス条約に不満を持つ東京の群衆が、講和斡旋に助力したT・ルーズベルト大統領を罵倒しながらアメリカ公使館に押し掛け、人力車で移動中の米国公使一行に投石し、13カ所の教会を放火・破壊したことでした。アメリカの新聞は「大統領の厚意溢れる斡旋に対し、日本人は、感謝とは全く逆の暴言と暴行によって応えた。今後数年間、我が国と日本との関係が好転することはないだろう」と批判しましたが、事態はその予測をはるかに超えて悪化しました。

 日露戦争の戦費を賄うための軍事外債を引き受けてくれたアメリカの鉄道王ハリマンの満鉄買収計画が、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相によって阻止されたことによって、アメリカ国民の対日感情はさらに悪化します。これ以降、日本人移民排斥問題等日米間に感情的な対立を醸成する気運が高まっていきました。

 それにしても遠く太平洋を隔てた米本土においてかくも反日気運が高まっていったのはなぜでしょうか。その思潮の基底に人種問題があったことだけは否定できないと考えられます。19世紀末頃からイギリスを中心に「優生学」の研究が本格化します。

 日露戦争後すぐの1907(明治40)年、イギリスに「優生教育協会」なる、現代感覚で言えば恐るべき考え方に立脚する組織が設立されました。この協会の目的は「『適者』である個人をえりすぐって繁殖させることによって、人類の遺伝子供給源を改善する」というおぞましいものでした。

 科学的知見に基づく遺伝子改良という考え方は、18世紀後半に誕生した新興国家であるアメリカ国民に受け入れ易いものであったため、優生教育協会の影響は急速にアメリカ社会に広まっていきました。「適者家族コンペ」なる人間品評会がアメリカ全土で開催されるようになり、我はと思う多くの家族が「適者」或いは「優生家族」即ち「遺伝的に優れた家族」に選ばれる栄誉を巡って鎬を削るということが行われたのです。

 1910年代から1920年代にかけてのアメリカでは、知的レベルが標準以下と思われる人々の「強制断種」が叫ばれるようになり、優生学はその理論的根拠を与えました。1910年頃から十数年の間、特に裕福な白人家庭で育ったアメリカ人は、大なり小なりその影響を受けたとみて間違いないでしょう。

 例えば、F・ルーズベルトは、1882年ニューヨーク州の北部の富豪、建国以来の名門であるハイドパーク・ルーズベルト家に生まれ、日露戦争開戦の年の1904年にハーバード大学、1908年にコロンビア大学ロースクールを卒業したという典型的なエリート育ちでした。曾祖父であるアイザック・ルーズベルトがアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーであったということを生涯の誇りにしたように名門意識の強いF・ルーズベルトがその青年時代に流行した優生学の強い影響を受けたとしても不思議ではありません。(因みに、ヘンリー・スティムソン陸軍長官1867年生、フランク・ノックス海軍長官1874年生、コーデル・ハル国務長官1871年生、ジョージ・マーシャル参謀総長1880年生)

 折も折、1898年ハワイがアメリカの準州扱いとなり米本土への渡航が自由化されると、米本土への日本人移民が急増し、アメリカ西岸の州を中心に移民排斥運動が高まり、日本人学童隔離問題や排日移民法が取り沙汰されるようになります。その動きは西岸の州にとどまらずアメリカ中部・東部の州へと拡大していきました。

 白色人種が世界を支配していた19世紀末から20世紀初頭において、有色人種国家の中で独り日本のみが白人国家であるロシアを打ち負かし、東アジアの片隅で大国ぶっていることは、白人種が優生学的に上位にあると信じられていた当時、多くの欧米人を不快にさせたことでしょう。

 ジェフェリー・レコード(米上院軍事員会専門委員、米空軍教官)は、その著書『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』の中で「日本人は自らが人種的にアメリカ人より優れていると信じていた。日本人は、我々アメリカ人は女々しく、政治的なまとまりもなく、人種や階級の問題を抱えた情けない人種だと考えていた」と述べています。彼のこの認識は日本人にとっては意外なことですが、穿った見方をすれば、アメリカ人(白人)には常に人種的矜持が根強く潜んでおり、日本人も自分たちと同じように人種的優越意識からアメリカに戦争を仕掛けたとの推測を捨てきれないでいるとも考えることができます。

 日本人よりも我々アメリカ人の方が優秀な人種であるということを一度教えてやらなければならないとの思いが、F・ルーズベルトに限らず20世紀前半のアメリカの政治を主導した白人エリートたちに共有されていたのではないか、それが、アメリカが日本との戦争を望んだ原点にあったと考えても当たらずとも遠からずというところだと思われます。

 2 国際協調の仮面をかぶったワシントン会議

   対等な国家間には如何なる場合においても国益上の対立があるのは当たり前ですが、お互いに主張すべきところを主張しつつも妥協点を探り、調整や話し合いの余地を残しつつ、全体としては友好関係を維持・向上させるというのが通常の二国間外交というものです。

 第一次大戦以降、日米対立の険しさは年を追って加速していきました。我が国にとっての20世紀前半はアメリカとの抗争に明け暮れた半世紀と言っても過言ではありません。アメリカは、原理主義的な門戸開放主義と不承認主義を掲げて、悉く日本の政策に難癖をつけ、対日関係の悪化を工作し続けました。

 国際協調の仮面をかぶった対日攻撃の第一弾は1921(大正10)年のワシントン会議開催でした。ワシントン会議は世界で初めて開かれた軍縮会議というイメージが強く、平和と安定を求めるアメリカ外交という幻想を多くの日本人は持っていますが、その実体は、砲弾が飛び交わない日米戦争でした。

 第一次大戦後パリで開催されたベルサイユ講和会議において、我が国は山東省の旧ドイツ権益の継承、南洋諸島の委任統治など多くの権益を手にしましたが、これを喜ばなかったアメリカは軍縮という平和の装いでもって、日本の躍進を阻止せんと企てたのがワシントン会議であり、経済力・産業力で圧倒的優位にあり、各国に対する債権国であるアメリカの思惑に、他の参加国は大筋として従わざるを得ませんでした。

 ワシントン会議の結果、三つの重要な条約が締結されました。一つは太平洋島嶼地域に所在する日、米、英、仏の領土権益を保障した「四カ国条約」です。条約の中身は当たり前のことを記したのみで問題はなかったのですが、我が国及び英米にとって極めて重要なことが付加的に書かれていました。それは日英同盟の廃止です。本条約を提案したアメリカの狙いはその一点にあり、以後、日本は孤立の道へと追いやられていくことになりました。

 二つ目の条約は「九カ国条約」です。この条約は、支那の主権、独立、領土的及び行政的保全の尊重、門戸開放・機会均等主義の遵守を約したもので、支那の主権、独立、領土的保全の尊重、支那における商工業上の機会均等主義の樹立と維持に努力することなどを取極めたものでした。同時に日本がベルサイユ講和条約で認められた山東省を支那へ還付することなどが決められました。

 アメリカは、この条約によって、米極東政策の原則を、拘束力ある国際条約として成文化し、列国に承認させることに成功したのですが、この条約は、日支の特殊関係を重視する我が国の大陸政策を否認する性格をもつがために、日本を拘束すること最も甚だしく、以後九カ国条約は大東亜戦争に至る日米関係において数々の争点を形成してゆくことになりました。

 大東亜戦争に至るまで、米国は九カ国条約を日本の大陸政策を非難する論拠として存分に活用することができ、満洲事変、上海事変、支那事変の際における対日非難の根拠を九カ国条約違反としたことでした。この対日非難を甘受してきた日本は、支那事変のさなかの昭和13年11月、九カ国条約の原則を正式に否認しました。

 戦後の極東軍事裁判で、日本の国際条約違反が裁断されましたが、日本が違反したとされる国際条約の一つがこの九カ国条約でした。この条約は、ワシントン会議以降、終戦後に至る四半世紀の間、執拗に日本を追及し続けたのです。

 九か国条約には基本的な問題がありました。それはこの条約が支那を対象にした取極めであったにも拘らず、中華民国の領域を明確に定めないままにその領土保全を認め、17世紀後半から18世紀前半の康熙帝や乾隆帝の清朝全盛時代に支那に服従せざるを得なかったモンゴル人、満洲人、チベット人、新疆ウィグル人らの周辺異民族が、その民族自決権を支那の政府に譲渡したものと看做したことです。それはその後の東アジア史における重大な禍根となり、21世紀の今日も支那周辺異民族を苦しめています。

 また、条約を結んだ九カ国には支那に隣接し強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を支那から独立させてその支配下におき、また国民党や支那共産党に多大の援助を与えるなど、本条約に縛られず自由に活動したことが支那の戦乱を助長し、我が国への負担を増大させることになりました。

 第三は「ワシントン軍縮条約」です。この条約で、戦艦、空母の主力艦の保有比率が決められ、日:英:米=3:5:5とされました。ただし、1922年時点での戦艦保有数は、日本が11隻であるのに対し、英30隻、米20隻、即ち日:英:米=3:13:9であって、決して日本が不利ということではなかったのですが、日本は対英米7割を主張しており、外交的敗北と見られました。

 空母は当時誕生したばかりで運用法なども確立されていない艦種であったため、補助艦と見なされ保有比率を定めたもののあまり重要視されていませんでした。

 以上の如く、ほとんどすべてのことがアメリカの思惑通り進んだ会議でしたが、その背景には日本の外交電報暗号がアメリカによって解読されていたということがありました。まさにワシントン会議は日米決戦の前哨戦であったというべきであり、その後の十数年の世界を規定したワシントン体制は徐々に日本を追い詰めていくことになったのです。

 3 宣戦布告に等しい経済制裁

   アメリカには対日強硬論に対し良識派も無論いました。前極東部長マクマレーは、同じ年に作成した覚書の中で「日米戦争で米国が勝った場合、利益を得るのはソ連だけである」と結論付けていましたし、英国の学者G・F・ハドソンは1937年(昭和12年)に、「日本の勢力を破壊することはロシアを復活させ、また日本の行動は地理的に限定されているのに反して、支那における共産主義の勝利はあらゆる国家の革命勢力を新たに刺戟するであろう」と論じました。正に20世紀後半の世界の動きを洞察した卓見と言えましょう。

 アメリカは、1935(昭和10)年、戦争・紛争当事国に武器、軍需物資、軍需生産材の輸出を禁止する「中立法」を成立させます。支那事変において日支双方が宣戦布告しなかった一つの理由もこの法律にありました。米国議会内では支那事変に対し中立法を発動すべしという声が上がりますが、F・ルーズベルトは発動しませんでした。その理由をハル国務長官は次のように弁明しました。「中立法は交戦国双方への武器等の輸出を禁止するものである。中立法を発動すれば、より大きな不利益を蒙るのは武器の国産力のある日本ではなく、我が国からの輸入に頼っている支那である」と。

 昭和12年5月、「中立法」は、「戦略物資については、交戦国が現金で支払い、自国船で輸送する場合には輸出を認める」と改正されます。そうなれば益々海軍力・海運力に優る日本に有利になったため、F・ルーズベルトも支那事変を戦争とは看做さず、中立法の適用も拒否せざるを得ませんでした。

 また当面の現実問題としては、当時のアメリカの対日貿易額は対全欧州の2倍にも達しており、大口の輸出先である日本を失うことは米産業界の意向に反するという事情もありました。

 第二次上海事変勃発直後の昭和12年10月5日、F・ルーズベルトはシカゴにおいて演説し、「不幸にも世界に無秩序という病気が広がっているようだ。身体の病気が広がりだしたら、社会はその健康を守るため病人を隔離するものだ」と述べます。これが有名な「隔離演説」と呼ばれたものです。病人とは日独伊特に支那と交戦中の日本を指したものでした。つまりこれは日本を封じ込めるべきだと解され、軍事力を以て或いは経済力を以て日本を囲い込んで自滅させるべきだと受け止められました。突き詰めればアメリカが不干渉主義を棄て、東アジア問題に手足を出し、最悪日本との戦争も辞すべきではないという意味になります。

 当然ながら「隔離演説」は米国内に激しい反応を誘発し、演説の後、6つの平和主義団体が、「大統領は我々米国民を世界大戦の戦場へ連れて行こうとしている」との声明を出し、米国労働総同盟は「米国の労働者は欧州、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行いました。

 アメリカが対日経済制裁の検討を始めたのは昭和13(1938)年末頃です。昭和13年12月、国務省顧問のホーンベックがハル国務長官に「日米通商航海条約の破棄通告」を提案しています。同時期にイギリスからも対日経済制裁が提案されましたが、駐日米大使グルーはこれに賛成しませんでした。

 大の日本嫌いであったハル国務長官は、昭和14年1月~2月、「航空機及び部品の道義的禁輸」及び「対日クレジット禁止」という経済制裁措置を発動します。

 ハルがまっとうな国務長官であれば、彼が最も耳を傾けるべき職務に就いていたのは、グルー駐日大使であったことは論を俟たないはずです。グルーは日本が深く日米友好を望んでいることを知っており、日本と直接交渉すべきだと献言しました。一方近衛首相は、ワシントンでもホノルルでも出かけて行って、F・ルーズベルトと直接交渉することを望んでいました。対米戦争を回避するための妥協と譲歩の準備もしていました。

 我が国はアメリカに対し常に友好的であろうとし、アメリカとの戦いを避ける為ならば殆ど何でもするという姿勢、或る米歴史学者の言葉では飼い主の前で腹を見せて媚びる犬猫の如き態度を見せていました。日本の生存に不可欠な資源と市場が確保できるならば、可能な限り譲歩する腹積もりがありました。しかし、アメリカの日本叩き・日本いじめは加速することはあっても減ずることはなかったのです。

 昭和14(1939)年7月、アメリカは突如、維新以来(明治44年新条約に改変)続いてきた日米友好の絆と言うべき日米通商航海条約の破棄を通告してきます。そして半年後の昭和15年1月末、終に日米間は無条約状態に陥り、アメリカはいつでも好むときに対日貿易を制限或いは停止できることになったのです。冷静に考えれば、こういった通商条約を廃棄することはほとんど国交断絶に等しく、アメリカが日本を敵国と名指し・公表したのも同然だと言えましょう。

 昭和14年9月、第二次欧州大戦が勃発するやアメリカは直ちに中立を宣言するとともに、11月に中立法を改正し、事実上武器を輸入できるのは英仏のみとなります。さらに12月、航空機ガソリン製造設備、製造技術に関する権利の輸出を禁止する通達を出します。

 アメリカは大西洋では英仏に肩入れし、太平洋では対支援助を強化しつつ、我が国を徐々に窒息させる姿勢を露わにしたのでした。即ち、中立法の実態は、決して中立的ではなく、F・ルーズベルトの好む英仏と支那の側に立って、嫌う日独に不利益を与えようとする「反中立法」であったというのが実体でした。

 昭和15年7月、アメリカは国家防衛法を成立させ、ルーズベルト政権は国家防衛上危険と判断すればいつでも物資の輸出を禁止できることになります。これに基づき、日本に対する航空燃料、鉄鋼製品と鉄屑、潤滑油の一部の禁輸制限を発動、9月には鉄屑の全面禁輸に踏み切ります。12月に入ると禁輸品目は増やされ、鉄鉱石、鉄鋼、アルミニウムに加え、銅の輸出も禁止されました。その後も毎週のように禁輸品目が追加され、日本の工業は日増しに窮地へ追い込まれていったのです。

 昭和16年6月、アメリカは終に石油という我が国とっては死活的な品目の輸出規制に踏み切りました。ルーズベルト政権は、日本が石油の90%を海外に依存しており、そのうち75~80%をアメリカからの輸入に頼っているということを熟知したうえで発動した措置でした。当時のアメリカの産出量は世界の2/3を占めていたのです。

 更に経済制裁の圧迫は強化されます。昭和16年7月末、F・ルーズベルトは日本の在米資産凍結令に署名します。金本位制であった当時、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には1億ドルの金融資産がありましたが、アメリカ国内法によって没収されたのと同じでした。アメリカは対日経済戦争を宣戦布告したと見られても仕方がありません。

 そして8月、アメリカは日本への全面禁輸に踏み切ります。この措置はルーズベルトがチャーチルとの会談のためカナダに外遊中でホワイトハウスを留守にしているとき、内務長官イッキーズ、財務長官モーゲンソー、海軍長官ノックス、陸軍長官スチムソン、国務省ディーン・アチソンらの独断専行で行われたものでした。彼ら政府高官は揃ってルーズベルト以上の対日強硬派であり、石油の全面禁輸をかねてから主張していました。内務長官にいたっては日本への先制攻撃も必要だと主張していたほどです。

 イギリスとオランダがこの石油全面禁輸措置に追随します。日本経済は壊滅的な打撃を受け、貿易高は50%から75%も激減します。昭和16年11月初旬、駐日米大使グルーは「日本の経済活動は深刻な打撃を受けている。工業生産も急激に落ち込んでいる。日本の国富は大きく失われた」とハル国務長官へ報告しています。

 昭和12年から16年にかけてアメリカの行った我が国に対する様々な経済制裁は事実上の戦争であり、日米決戦へ誘導したメインルートであったと考えられます。11月26日、アメリカは最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」を突き付け、日本を挑発するためのルーズベルト政権の仕掛けを完成させたのでした。

 最後通牒というべきハル・ノートの存在は、長い間米国民は勿論のことスチムソンやノックスといったルーズベルトの取り巻き以外には伏せられてきました。議会も現地軍もつんぼ桟敷に置かれました。このような重要な文書を上院にも諮ることなく発出することは合衆国憲法下にあっては許されないはずの事でした。

 11月27日、ハルは軍事評議会においてハル・ノートを説明した際、「日本との間に協定に達する可能性は事実上なくなった」と述べ、太平洋艦隊及びアジア艦隊各司令官に対し「ここ数日内に日本が侵略的行動をとるものと予想される」と「戦争警告」を発しています。

 11月28日、ハルはイギリス大使に「日米関係の外交部面は事実上終了し、今や問題は陸海軍の手に移ったこと、アメリカその他の太平洋関係諸国は、日本が突然不意に行動をとり、あらゆる態様の奇襲を行う可能性を計算せずして、防衛計画を立てることは重大な誤りであること」を述べています。さらにオーストラリア公使が日米間の調停の労をとりたいと申し出ましたが、ハルは、外交段階はすでに過ぎたと断っています。日本政府はハル・ノートを事実上の宣戦布告であると受け取りましたが、アメリカ政府もまた、外交関係の決裂、即ち今後は力づくによって決めましょうとの明確な意思をもってのハル・ノートの発出であったことは寸分も疑う余地がありません。

 4 赤いホワイトハウス

   一国の政府中枢が他国の放ったスパイによって乗っ取られないまでも操られるということは当該国の良識ある国民にとって耐えがたいほどの恥辱です。前節で述べたアメリカの対日政策を追っていくと、奥歯に物が挟まったような不快感が襲ってきます。日本がアメリカにどんな不利益を与えたのか、なぜそれほど意地の悪い対日政策を実行したのか、理解に苦しまざるを得ません。アメリカの対日戦略の裏側に邪悪な意思がなければ、前述の如き対日経済制裁が行われるはずがないというのは考え過ぎとは言えないでしょう。

 昭和18(1943)年、既に日本の敗勢が決定的になっていた9月、ニューヨーク大主教であるスペルマン枢機卿はF・ルーズベルトと会談し、大統領の恐るべき発言を聞き、それを書き留めていました。

 支那が極東地域を、アメリカが太平洋地域を獲り、イギリスとロシアがヨーロッパとアフリカを分割する。イギリスが世界に植民地を確保していることを鑑みると、ロシアがヨーロッパの殆どを勢力下におくことになろう。

 もちろん希望的観測と言われるかも知れないが、ロシアの勢力圏の下にあってもその支配のやり方は穏健になるだろう。共産主義の勢いは今後とも強まるであろう。

 ロシア経済が見せた驚くべき躍進を見逃すことはできない。ロシア経済は健全である。ロシアの勢力下に入るヨーロッパ諸国はロシア的システムに舵を切るのに激しい変革が必要になろう。ヨーロッパ諸国は、つまりそれはフランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェーに加え現在の敵国ドイツとイタリアも含むのであるが、ロシアの影響下で生きることに耐えなければならない。10年いや20年経てばロシアとうまくやれることを期待しながら、頑張らねばならない

 ルーズベルトが如何に容共的であったにしろ上記発言内容は異様に過ぎます。第二次大戦後の世界特に欧州の枠組みについて彼自身が考え出した構想とは考えられず、ルーズベルトを取り囲むブレーンの感化を受けた可能性は100%近いと思われます。例えば首席秘書官であったラクリン・カリーは、ルーズベルトの外交顧問でもありましたが、後に親共産主義者ではないかと糾弾され、コロンビアへ逃亡しました。

 ルーズベルトの信頼が厚かったためか、財務省次官補でありながら国務省マターであるハル・ノート草案を起案したハリー・ホワイトは、ソ連諜報部(GRU)と深い関係を持ちながら、ソ連に有利かつ日独には不利な政策を立案し、これを実現させています。1941年のソ連を厚遇した武器援助法も彼の立案したものでした。ホワイトは1948年、ソ連のスパイではないかとの嫌疑を受け、議会の追及を受けた直後、ジギタリス大量服用による心臓麻痺で死去しましたが、強く自殺が疑われています。1953年、米司法省は、ホワイトはソ連のスパイであり、機密文書をモスクワへ流していたと告発しました。

 共産党のスパイだったことが暴露された国務省高官にアルジャー・ヒスというルーズベルトの側近がいます。彼は1948年、雑誌記者によって告発され、議会の召喚を受けて偽証したため5年の懲役刑を受けました。

 ルーズベルト側近中の側近であった商務長官ハリー・ホプキンズは、ニューディール政策における社会主義的政策を推進し、ルーズベルトの絶大な信頼を獲得、非公式な特使としてカイロ、テヘラン、ヤルタ会談に随行、チャーチルやスターリンとの調整役を務めましたが、特にソ連の要人と頻繁に接触、スターリンからも絶大な期待と信頼が寄せられたといいます。彼がルーズベルト時代に推し進めた外交政策の多くが共産圏の維持と拡大への支援となっていたという事実に照らして、ソ連のスパイではなかったのかと噂されるに至りましたが、戦後すぐ胃癌で死去したため追及されることはありませんでした。

 1940年の三選をかけた大統領選挙投票日の1週間前に行われたボストン演説において、ルーズベルトは「我が子を戦場へ送ることを心配しているお父さん、お母さん。全く心配することはありません。前にも何度か約束したことをもう一度はっきりさせておきます。あなた方のお子さんが、外国での戦争で、戦うことは決してありません。何度でも何度でも繰り返して約束いたします(I shall say it again and again)」と述べました。そのわずか2カ月後、ルーズベルトの命で訪英したハリー・ホプキンズは「大統領は、貴国とともに戦う決心をいたしました。・・・我が国はどのような方法を使ってでも、またどれほどコストがかかろうともこの約束を実現させます。大統領に出来ないことは何一つありません」と、公式晩餐会の場でチャーチルにアメリカ参戦の意思を伝えました。

 ルーズベルト政権・第3期(1941.1~1945.1)つまり日米開戦11ヵ月前から終戦半年前までの副大統領ヘンリー・ウォレスもまた親共産主義者でした。彼は、欧州で共産革命が起きた方がよいとまで述べています。ルーズベルトが1945年4月死去したことにより、第4期の副大統領トルーマンが大統領に昇格しますが、第4期の商務長官であった前副大統領のウォレスは、トルーマンにソビエト外交の在り方を指南すべく文書を出し、それが新聞に公表されました。その内容は、ソ連の要求に徹底的に妥協すべきというものでした。トルーマンはウォレスに辞任を要求、ウォレスは翌年ホワイトハウスを去りました。

 1950(昭和25)年、マッカーシー上院議員が「国務省に潜む共産党員の名簿を入手」と爆弾発言、容共政策を進めたマーシャル総参謀長、支那問題の学者であり蔣介石の顧問を務めたジョージ・ホプキンズ大学教授オーエン・ラティモアらはソ連に通じており、支那共産党政権の樹立を支援したと批判します。スパイと名指しされた人物が次々と自殺したこともあって所謂「赤狩り」と批判され、十分な確証が得られないままに半世紀を経過した1995(平成7)年、米国家安全保障局(NSA)から「ヴェノナ文書」という機密文書が公開され、マッカーシーの指摘したことが大筋において的外れではなかったことが証明されました。

 ヴェノナとは1943年~1980年の間、米英の情報機関が協力して極秘裏に「ソ連が第二次大戦後半に使用した暗号文の解読」を行ったプロジェクト名のコードネームです。この文書の公開によってアルジャー・ヒスをはじめとする200人以上の共産党員又はその協力者とみられる官僚らが、アメリカ政府内において働いていたことが判明しました。

 要するにルーズベルト政権下のホワイトハウスは、RedではないにしろPinkに半分染まっていたのですから、真にアメリカの国益に適う政策、例えば最大の貿易相手国である日本との友好を維持するといったことはないがしろにされ、米国内企業や米国民にはメリットの少ないソ連と支那に有利なアイデアが採用されたのは当然の成り行きです。

 ソ連にとって極めて重要な問題、それは当時まだ精強であった関東軍の存在であり、日本が北満やモンゴルからシベリア方面への軍事行動に移らないようにすることでした。更に突き詰めればアメリカの力によって日本を無力化できればソ連にとっては申し分のない最高の結末だったということです。

 なぜ、ホワイトがピンクに変わったのでしょうか?簡単に共産主義者たちがホワイトハウスに近づけるほどアメリカのセキュリティーはいい加減なものだったのでしょうか。やはり主犯はF・ルーズベルトの個性とその政治信条にあったようです。彼はアメリカ的自由主義、すなわち自己責任を第一とし、自助を原則とするフロンティア精神を前面に打ち出して、彼にとって初めての大統領選挙(1932年)を戦いました。彼は選挙戦でこう訴えました「どのようなお金であっても、失業者やその家族に福祉担当の役人がお金を配るようなことはしてはならない」と。

 ところが大統領に当選すると大変身、過激な共産主義や社会主義思想にかぶれた学者や政治家をワシントンに連れてきました。そしてアメリカは官僚主義的で社会主義的な福祉国家へと変貌していきました。要するにルーズベルトは、リベラルを標榜する政治家にありがちな、ソ連式の計画経済がアメリカ的な自由市場経済よりも優れていると考えたがる統制志向の強い思想・性格を本来的に有していたということです。合衆国憲法に定めがなければ、共産国家式の思想・言論統制さえやりかねない頭脳を持っていた大統領がF・ルーズベルトでした。

彼は共産主義者の友人がいると認め、スターリンを親愛なる友人だと公言していました。敬虔なキリスト教信者であることを除けば共産主義者だったと言っていいのかもしれません。このような人間が1932年から1945年までの我が国にとって最も厳しい時代に、世界最強国のアメリカ大統領として君臨したことが日本の極めつけの不幸でした。

Ⅲ 日本側に存在する因子

 1 支那事変処理問題

   勿論結果論ですが、我が国が支那事変に深入りし過ぎたことは、戦略的失敗であったことは明白です。我が方に深入りする積極的理由は全くありませんでしたが、事の成り行きに徐々に拘束され、引くに引けない状況に追い込まれていったというのが真相に最も近いと思われます。

 アメリカとの和解を為すには日本が支那から撤兵することが不可欠の条件でしたが、「十万の英霊に対してそのようなことを言って申し訳が立つか!」の一喝には如何なる理性的な議論も封じられてしまいました。

 昭和6年の満州事変、昭和7(1932)年の第一次上海事件以来、支那とりわけ上海における排日侮日運動は過激化し、日本政府は約2万7千人の居留民に引き揚げを勧告していました。

 昭和12年7月頃、上海周辺に在住していた邦人は約4万人でしたが、政府は婦女子約3万人を帰国させたものの約1万人の民間人が在留していました。

 第一次上海事変の日本側戦死者は決して少なくありませんでしたが(769人)、約2カ月後に停戦交渉が整いました。しかし、その5年後の昭和12(1937)年8月12日に始まる第二次上海事変は、その1ヶ月前に起きた盧溝橋事件以降日本軍への襲撃事件や通州事件(7月29日)など惨劇が繰り返されたこともあって、日本側の怒りが爆発、石原莞爾ら不拡大派の意見は通りませんでした。「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との大義名分に反対できない空気が日本中に醸成されていたからです。

 盧溝橋事件直後、日本が華北の二大都市・北京と天津を制圧したにも拘らず、日支間に全面戦争への動きが見えないことに危機感を抱いたスターリンは、終に国民党軍の中に長期にわたって穏健な将軍として冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせます。それが張治中です。張治中の指示によって大山海軍中尉、齋藤1等水兵が惨殺されるという事件が起こされ、さらに彼の独断によって上海租界区域の警備に当っていた海軍陸戦隊への先制攻撃がなされ、港に停泊していた軍艦・出雲に対する空爆が敢行されました。

 8月には蒋介石とスターリンの間で不可侵条約が締結され、ソ連は直ちに航空機約500機とソ連軍パイロット及び操縦教官を送り込み、国民党軍を裏から支援する姿勢を見せます。

 我が国は松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を派兵、空軍力も動員して上海方面の制空権を奪取して、本格的な戦闘状態へ突入しました。

 第二次上海事変における国民党軍は、ドイツ軍事顧問団の指導もあって約2年間かけて上海方面の各要地に堅固な陣地を構築、ドイツ製・チェコ製の銃器、ドイツ製鉄帽などを装備し、訓練を積み重ねていました。それに加え、約200機の空軍力も備え、航空偵察も行う能力もありました。

 精強化された約10倍の支那軍を相手にした上海方面での戦闘は激烈の度を加え、日本軍はわずか3カ月で戦死者約1万、戦傷者約3万の大きな人的損害を蒙りました。支那側は我が方の6倍以上の損害を受け、首都南京方面へ退却を開始、我が軍はすかさず追撃戦へ移りました。

 陸軍中央は、戦局の拡大と和平交渉の相手を失う懸念から、南京への進撃を止めるよう命令しますが、激戦の末多くの兵士を失った現地軍としては断固継戦、首都陥落が解決の早道であり、戦果の拡大が必要と主張します。軍事的判断としては当然至極のことであり、中央は追認してしまいました。この時現地軍の進撃を止められたのは、唯一天皇陛下の勅命だけだったでしょう。

 これ以降日本は支那本土での泥沼の戦いに足をとられ、九カ国条約違反、不戦条約違反などを以て国際連盟及びアメリカの対日非難と締め付けは厳しさを増し、トラウトマン工作など幾度となく和平交渉の機会が訪れるものの、悉く実ることなく大東亜戦争へと導かれていったのでした。昭和16年12月31日、ルーズベルトは蒋介石を支那戦区連合軍総司令官に就任させ、支那事変は大東亜戦争の一局面となりました。

 昭和12年から16年にかけての支那本土における日本軍の戦闘は如何なる意味があったのでしょうか?

 近衛内閣は「戦争目的は排日抗日運動の根絶と日本満洲支那三国の融和」にあるとしましたが、果して納得のいく戦争目的であったのか「?」を付けざるを得ません。また「支那膺懲」という空気が国内メディアをはじめ日本全土を覆っていましたが、国家戦略としてはやや情緒的で幼稚な感は否めず、どこかで思い直すことはできなかったのか悔やまれて仕方がありません。

 「原発」の如く、冷静かつ科学的・合理的な議論がマスメディアなどによって作られた空気によって抑え込まれてしまうことは、現代の日本でも少なからず散見できる現象です。

 2 日独伊三国同盟の誤算

   明治以降、日独は国益の衝突しない無風関係にありましたが、三国干渉の恨みがあるとはいえ、第一次大戦において、ほぼ一方的に対独参戦し、膠州湾や南洋諸島など在アジアドイツ権益を奪った日本に対して、ドイツ国民は当然とはいえ悪感情をもっていました。従って満洲国も承認せず(昭和13年防共協定締結後承認)、支那国民党軍に軍事顧問団を派遣、支援するなど、どちらかと言えば反日的姿勢を示していました。

 一方、強固な反共産主義であること及び共に国際連盟を脱退していること、さらに言えば勤勉かつ賢明な国民性だという共通点があり、昭和10(1935)年7月の第7回コミンテルン大会において、ソ連が日独を敵と規定したこともあり、日独接近の環境が整いつつありました。

 ドイツ国防軍および外務省は基本的に親支那的であり、日本との協定に反対の姿勢を明確にしていましたが、その障壁を乗り越え昭和11(1936)年11月「日独防共協定」が締結され、翌年イタリアが、その後スペイン、満洲国などが加盟して多国間協定となりました。

 この防共協定がその後の三国同盟の下敷になったわけですが、三国同盟は、コミンテルンの間接侵略に対する防衛を謳う防共協定とは異なり、ソ連以外の他の先進国に脅威を与える恐れがあることから、ドイツの同盟締結申出に対し日本政府は遅疑逡巡しました。

 かかる中、昭和14年8月、突如防共協定と相矛盾する独ソ不可侵条約が締結され、平沼内閣は「複雑怪奇」なる言葉を残して総辞職、跡を襲った阿部内閣は、陛下より「外交は英米との協調をとるべし」との御沙汰を受けます。昭和15年1月米内内閣が成立し、阿部内閣と同様に英米との協調を求める中道外交を推進しますが、前述の如くアメリカの態度は硬化する一方で日独関係も冷え込み、我が国の孤立感は深まるばかりでした。

 昭和15年7月、第二次近衛内閣が発足、9月にドイツのポーランド侵攻により第二次欧州大戦が始まり、ドイツが欧州を席巻する勢いを見せると、日本国内に三国同盟締結の要望が沸騰します。

 近衛内閣の外相・松岡洋右は、13歳で単身アメリカへ渡り、下僕のような仕事をしながら優秀な成績で法学士号を取得、23歳の時帰国したという長い在米経験から、アメリカの恐るべき国力・底力の前に、日本は敵とはなり得ないことを知悉していました。ドイツもまた日本と同様アメリカには敵し得ない、イタリアは問題外だと見ていました。日独伊三国でもアメリカを威圧することはできない、しかしそこにソ連が加われば、アメリカもテーブルに着かざるを得ないだろうというのが、松岡の構想したところでした。着想はまあいいとしても、ルーズベルト政権の内情に余りにも疎かったと言わざるを得ません。

 若杉要ニューヨーク総領事が、昭和15年7月松岡外相宛に「米国内の反日援支運動」という報告書を提出、「コミンテルンとアメリカ共産党によって、大統領や議会に対し強力な反日・援支運動が行われ、スターリンによるアジア共産化の陰謀が進んでいる」との貴重な情報が伝えられましたが、近衛内閣殊に外相が耳を傾けなかったことは、松岡の米国通自慢の副作用と思われ、痛恨の極みと言えましょう。

 御前会議・枢密院会議において、日独伊三国同盟を結んだ場合のアメリカの出方やドイツを信頼できるかなどさまざまな利不利について慎重な議論が繰り返され、否定的な意見も多く出されましたが、議長が議論の尽きたとみて賛否を求めると全員が起立したのでした。政治的信念が国内の空気に屈したということでしょうか。昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結によって日本の反米姿勢が鮮明化したことになり、日米決戦への道を更に一歩進めることになりました。

 翌昭和16年、松岡はモスクワ、ベルリン、ローマへの外遊の途に就きます。その目的は言うまでもなく、ソ連を三国同盟へ参加させ、四国同盟とするためでした。モスクワでは日ソ中立条約の締結に成功しますが、ベルリンでのヒットラーとの会談では、四国同盟への発展について何ら具体的な進展はないばかりか、その時既にヒットラーは独ソ不可侵条約をかなぐり捨てて対ソ攻撃に踏み切る決心をしていました。スターリンとヒットラーから見れば、松岡は本当の事を何も知らず独り芝居を演じている道化師に見えたかもしれません。

 12月8日、病床にあった松岡は、日米開戦を聞いた時、「三国同盟は僕の一生の不覚だった」と言って涙をこぼしました。

 3 真珠湾攻撃

   マッカーシー上院議員の告発以来、ルーズベルト外交を批判する米歴史学者が続出します。モーゲンスターン、タンシル、チェンバレン、グリーヴィス、ランドバーグ、ニューマン、サンボーンといった論客です。核兵器開発競争でソ連に追いつかれ、支那に巨大な共産主義国家が誕生し、朝鮮戦争が勃発して約50万の米軍を投入、4万以上の戦死者を出す、こういった戦後アメリカの重大な国益損失の原因は、ルーズベルト政権の進めた外交がもたらしたものであることは明らかでした。しかし、アメリカにおいても、「真珠湾攻撃は、日本の軍国主義と頑なな外交姿勢に起因しており、太平洋地域における戦争は、日本の侵略主義を打倒するための戦いであった」とするのが、正統な歴史観とされ、タンシルらルーズベルト政権を批判する歴史家は「修正主義者」と呼ばれ、研究活動を阻害されたり、中傷誹謗されたりすることもありました。

 アメリカが日本を日米決戦へと追い込もうとしたことは、前述した如く90%以上の確率で間違っていないと言っていいのですが、「真珠湾攻撃」がサプライズ・アタックであったのか、ルーズベルトは日本による真珠湾攻撃が差し迫っていることを知りながら、ハワイの太平洋艦隊に警報を出さず、日本の機動部隊による奇襲を許したのかについては、別の視点からの考察が必要となります(「再び日本近現代史を勉強する」・シリーズ 第6回「真珠湾の陰謀―正統派歴史学と歴史修正主義―」で詳述予定)。なぜなら、真珠湾攻撃によって民間人57人を含む2,500人ほどの米側犠牲者が出ており、そこまでのリスクを負ってまでサプライズ・アタックを偽装する論理がルーズベルト政権にあったのかという素朴な疑問があるからです。但し、真珠湾がサプライズであったとしても、日米決戦を招いたルーズベルト政権の重大責任が免罪されるわけではありません。

 ルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知らなかったとする最大の根拠は、1941年12月の時点では日本海軍暗号が解読できていなかったとするものです。確かに日本海軍の暗号が解読されていたかどうかについては意見が様々ですが、日本外務省が精巧さを誇る「パープル暗号」は英米のコード・ブレイカーたちによって昭和16(1941)年2月に解読されていました。さらにはパープルに比し簡易な領事館用暗号「J-18,19」もそれよりはるか以前に解読されており、米側は東京からホノルル日本領事館に送られた機密電報を傍受できました。その電報は、真珠湾に停泊する米軍艦艇等の情報を調査して、本国へ報告するよう命じたもので、アメリカは日本が真珠湾に関する軍事情報に強い関心を持っていたことを承知していました。海軍は別にして、外務省を通じてやりとりされる日本陸海軍の軍事情報は筒抜けになっていたということです。

 ハル・ノートが手交された2日後、外務省からワシントン日本大使館に日米緊急事態の際の合図、即ち国交断絶の際には、ラジオ放送の中に天気予報の形で「東の風、雨」と二回繰り返されるので、それを聞き次第暗号関連資料等を破棄すべしとの指示電報が打たれました。12月4日、ラジオ放送に「東の風、雨」が流れると、ホワイトハウスは、日本が対米交渉を諦めたことを察知します。勿論、東京がワシントン日本大使館へ送ったハル・ノートへの回答内容(パープル暗号化の交渉打切り通告書)も大部分解読され、12月6日の午後にはルーズベルトに報告されました。そのときルーズベルトは「これは戦争だな」とハリー・ホプキンズに話しました。そして回答の最終部分「米国政府への通告を7日1300までに行うようにとの指示」の部分が7日の朝には解読されました。しかしアメリカ軍最高司令官であるはずのルーズベルトは、太平洋に展開する米軍のどの司令官にもそのことを知らせることはしませんでした。

 ワシントン時間7日1300は、真珠湾攻撃開始時間の30分前という意味でした。しかし日本大使館員の不手際で、日本大使からハル国務長官に手交されたのは1時間20分遅れの1420で、真珠湾攻撃はその1時間前に開始され、我が国は騙し討ちの汚名を着ることになりました。

 仮に現在の日本が、国力ぎりぎり最大の軍事力を保有していたとしても、アメリカと総力戦を戦って勝てると考える日本人がいるとしたらそれは狂人としか見られないでしょう。戦前の日米の国力差は現在の数倍以上あり、軍需物資等の生産力はどんなに多く見積もってもアメリカの1/10以下でした。三国同盟に徹底的に反対していた山本五十六は、同盟締結に至ったとき「アメリカと戦うことは全世界を相手に戦うのと同じようなものである。おそらく私は長門もろとも死ぬことになるだろうし、東京は灰燼に帰すこと三度、ともいえる壊滅的な状況になるだろう」と語っています。

 その山本が真珠湾攻撃を実行に移したのはなぜでしょうか?アメリカ相手に戦うにはこれしかないと考えていたことだけは間違いなく、昭和14年8月、連合艦隊司令長官に就任して以来、一貫して開戦劈頭ハワイ方面の米太平洋艦隊の戦艦群を撃滅して、米艦隊の西太平洋における行動を制約せんとする信念を持っていたようです。それでアメリカに勝てるとは考えていなかったようですが、「後は天に任せて何とか講和を」以上の目論見はどんなに探しても見つかりません。

 山本がいろいろな場で話していた対米海軍戦略をアメリカの諜報機関が見逃していたとは軍事常識的には考えられません。古今東西、作戦計画を立案する際の敵指揮官情報は極めて重要な見積要素だからです。敵指揮官の性格・能力・考え方などの個人情報は、敵軍の侵攻様相を予想し、対処構想を立案する際に考慮すべき重要な要素となります。山本が連合艦隊司令長官に着任する1ヶ月前にアメリカは日米通商航海条約の破棄を通告してきており、1カ月後の9月に第二次欧州大戦が勃発したタイミングを考えると、将来太平洋で戦うことになるかも知れない山本五十六提督とは如何なる人物であるかの調査が行われないなど万が一にも考えられません。

 多くの歴史家や軍事専門家が、真珠湾攻撃を「戦略的愚行」と評しています。しかし我が国が対米決戦を決意すれば、連合艦隊司令長官としてはこの戦略以外にはなかったのかもしれませんが、問題は、真珠湾攻撃は誰の決心に基づいたものか、言い換えれば、天皇陛下の勅裁を得たものだったのかという疑問が残ります。陛下が決済されたものは、昭和16年9月6日及び11月6日に御前会議で審議された「帝国国策遂行要領」及び12月1日の「開戦決定」であり、「現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設するためこの際対米英蘭戦争を決意する」ということのみです。そのとき陛下が杉山参謀総長と永野軍令部総長に質されたのは、南方作戦の成算などについてであったと『昭和天皇実録』には記されています。

 11月3日に永野軍令部総長と杉山参謀総長が陸海両軍の作戦内容を上奏しており、後日真珠湾を攻撃した場合の被害予想をご下問されていることから、陛下が真珠湾攻撃計画を御存じなかった筈はありませんが、優れて政略性の濃い真珠湾攻撃を軍令部だけで決めたのは重大な過誤でした。

 対米戦を決意することと先制攻撃を仕掛けることは別の話ですが、山本連合艦隊司令長官にとっては同義語であったのでしょう。緒戦においては、「南方の英蘭に対しては攻勢をとるも、米に対しては守勢をとる」という戦略も考えられたはずです。事実、昭和16年10月に「南方作戦陸海軍中央協定」が策定された際、陸軍は、マレー半島~スマトラ~ジャワ~フィリピンの順で攻略する作戦案を主張し、アメリカへの攻撃を遅らせることはできないかを視野に入れていたようです。

 日本がアメリカの領土や国益に対して直接攻撃することを極力回避する、或いは絶対に回避しつつ英蘭の植民地における南方資源を確保するという戦略を採った場合、果たしてアメリカは英蘭を助けて日本への先制攻撃ができたか?欧州戦線においてドイツがイギリス本土を攻撃しても、アメリカは手を出せないでいるという、アメリカの国内事情に関する研究が不十分であったとしか思えません。陸軍に比し英米をよく知る筈の海軍において「英米は不可分」と見て、開戦劈頭からの米軍事力への先制攻撃が主張されたのは不可解としか言いようがありません。軍事的に最も効果的と考えられた真珠湾攻撃が、ルーズベルトに裏口から堂々と第二次欧州大戦へ参戦する絶好の口実を与えたのであり、正に「戦略的愚行」でした。12月8日、ルーズベルトは有名な「恥辱の日」演説を行い、日本への宣戦布告の決議を求めました。

 昨日、1941年12月7日、将来「恥辱の日」として記憶されることになるだろうこの日に、アメリカ合衆国は突如、日本帝国海空軍による意図的な攻撃を受けました。

 合衆国はかの国とは平和状態(?)にありました。また、日本側の懇請により、日本政府及び天皇との間に、太平洋における平和を維持するための交渉を続けていたところでありました。

…(中略)…

 日本とハワイの間の距離に鑑みて、この攻撃は何日も、いや何週間も前から、意図的に企てられていたものであることは明白であるということを銘記しておくべきでありましょう。交渉の期間を通じて、日本政府は、
平和の継続に関する偽りの声明や意思表明をもって、意図的に合衆国を欺こうとしていたのであります。

…(中略)…

 私は、1941年12月7日、日曜日に日本が行った、こちらの挑発なしに行われた(?)卑劣な攻撃の時点から、
アメリカ合衆国と日本帝国との間に戦争状態が存在することを宣言することを、ここに議会に対し求めるものであります。

 この演説を聞けば米国民は、ルーズベルト政権が日本への厳しい経済制裁を行っていたこと並びにハル・ノート即ち日本への最後通牒があったことなど信じられないことです。真珠湾の二人の司令官、キンメル提督とショート将軍は軍法会議にかけられることなく更迭され、キンメルは大将から少将へ、ショートは中将から少将へ降格され軍籍を去りました。1995年、上院で二人の名誉回復が議決されましたが、クリントン、ブッシュ共に署名を拒否しています

 4 大日本国憲法

   我が国が日米決戦へと追い込まれていく過程を辿っていくと、いくつかのターニング・ポイントで国家意思決定過程の曖昧さが見られます。

 一つは、日露戦争後のアメリカ鉄道王ハリマンの満洲鉄道共同経営について桂太郎首相以下閣僚等全員が賛意を表し仮契約を済ましていたにも拘らず、これを小村外相が白紙撤回させたことです。一見これはアメリカにとっては一民間企業の海外進出に関する件のようですが、相手が日本の民間企業ではなく日本政府全体だったことが問題でした

 日露戦争前の1899年(明治32年)、アメリカは英独露日伊仏6か国に対して、支那に租借地や勢力範囲を持つ列国が、その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、またその勢力範囲において関税や鉄道運賃の面で他国に不利な待遇を与えないことなどを謳った「門戸開放宣言」という通牒を発し、支那における通商上の機会均等の原則を提唱していました。

 支那に特殊権益を持たないアメリカにとって、自国以外の列強が巨大で豊潤に見える支那に特殊権益を拡大していく様子を、指をくわえて眺めているという構図は愉快な事ではありません。支那に接するという地理的に有利な条件と日清・日露・第一次大戦の勝者となって益々在支権益を増大させる日本を牽制することがアメリカの極東政策の主眼とされました。

 満洲政策にアメリカを一口かませておけば、支那が如何に度し難い国であるかをアメリカ自身が身を以て体験し、日米関係にまた違った展開が開けたのではないかと惜しまれてなりません。首相が決めたことを外相がひっくり返すということは、たとえ外相の判断が正しくとも日本国憲法下では考えられません。明治憲法下では、その第13条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」により外交権は天皇大権の一つと考えられ、首相にその意思を貫き通す権限がなかったことが招いた不手際でした。

 一つは三国同盟です。前述した如く三国同盟締結の是非については、政府・軍部・枢密院において、アメリカを本当の敵に回す危険性を指摘する意見が少なからずありました。当時の首相近衛はその手記で「同盟締結決定について陛下に申し上げたところ、『今暫く独ソの関係を見究めた上で締結しても遅くはないではないか』と仰せられたことにつき、陛下の御思慮の深きに今更ながら敬服し奉る」と記しています。憲法13条により条約の締結は天皇大権に属することですから、近衛は天皇の御懸念を持ち帰り、再度慎重に協議すべきでした。そして意見がまとまらないなら、御叡慮に従い今暫く独ソ関係を見究めた上で締結の是非を論ずるべきでした。

 我が国独特の戦争指導制度に「大本営」があります。大本営は明治26(1893)年即ち日清戦争の前年に憲法外の機関として条例によって設置された有事における戦争指導組織であり、天皇御臨席の下、陸海軍軍令部の首脳(総長、次長、作戦部長、作戦課長)によって構成され、陸軍大臣、海軍大臣も出席しましたが、発言権はありませんでした。首相、外相、蔵相も出席しないという外国或いは現代感覚から考えれば、驚くほどの欠陥を持った戦争指導組織でした。

 かくの如き組織が存在し得たのは、憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を額面通り解釈したからです。理論上は、憲法第4条により「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬ス」ことになっているわけで、政治と軍事の統合・調整が天皇によって行われるとすれば必ずしも不都合とは言えませんが、そんな機構は天皇周辺にはありませんでした。明治の御代には政治と軍事を統合調整できる識見豊かな元勲が元気でしたので、その憲法上の欠落部分を埋めることができましたが、昭和になるとその問題が顕在化してきました。天皇は大本営会議に大元帥として御臨席されましたが、発言しないことが慣例であり、皇室の伝統即ち立憲君主の在り方として陛下御自身が自ら所信を述べることを慎まれていました。

 支那事変が拡大した昭和12年11月大本営が設置されるとともに、大本営政府連絡会議が新設され、政府(内閣)と統帥部との意思疎通・統一の場が設けられました。政府からは首相、外相、蔵相、陸海大臣、企画院総裁、統帥部からは陸海の総長、次長がメンバーとなり、議長は首相が務めることになっていましたが、会議をリードできる権限はなく、政府と統帥部、陸軍と海軍の対立が頻発し、十分に機能を発揮することはできませんでした。

 大東亜戦争の局面が悪化してくるにつれ政府と統帥部の対立が先鋭化、昭和19年2月にはその対策として東条首相が陸軍大臣と参謀総長を、嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼任するという異常事態が現出しましたが、これは人事によって制度上の不備を補完しようとしたもので、運用によって憲法の欠陥を繕おうとしたものでしたが遅きに失したと言えましょう。

 憲法第11条は、昭和5年(1930)ロンドン海軍軍縮条約調印を巡り海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定したのは天皇の統帥権を犯すものだとして、犬養毅や鳩山一郎らが政局化した所謂「統帥権干犯問題」に端を発して軍部独走の弊害を生みましたが、本質的な問題は、憲法に規定する政府の仕組みに不具合があったことでした。軍政と軍令は別だとしても、戦争の遂行には国の様々な資源、特にお金がなければできません。軍令的には如何に優れた作戦であっても、軍政的にそれを支援できなければ作戦の実施は不可能です。また、戦局の推移によっては外交的手段により局面を打開することを考えるのが近代戦ですから、財務・経済・外交閣僚が出席しない戦争指導会議など素人が考えてもあり得るわけはありません。

 予算(お金)を除く国の運営に関する重要な事項を天皇大権に集約している明治憲法には根本的な欠陥があったということです。この憲法には「内閣総理大臣」という職名さえ出てきません。国務大臣の一人に過ぎない首相には、多少の優越権があったにしろ、リーダーシップを発揮する上に常に制約が伴い、その制約の最たるものが軍部をコントロール出来ないことでした。

 大日本帝国憲法は「五権」即ち立法、行政、司法、陸軍、海軍の「五分立」と言われますが、法理上は天皇に全ての権限が集約されており、天皇がロシアのツアーリの如く「皇帝」として振る舞うことができれば何の問題もありませんでした。ところが憲法第55条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス 」及び「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」並びに平安時代の摂関政治以来培われてきた皇室の在り方としての伝統「君臨すれども統治せず」に従い、その実体は現憲法とほとんど変わらない「立憲君主制」であったことに、この憲法の本質に内在する如何ともしがたい矛盾がありました。つまり、戦前の日本は外見上「大日本帝国」であってもその実質は「大日本国」だったのです。

 自衛隊は実質的には揺るぎない軍隊ですが、憲法上は軍隊ではなく警察や海上保安庁と同じ単なる実力組織であるがために軍隊としての行動規範に制限があったり、一般司法と考え方を異にする軍法会議を設置できなかったりする不具合があります。幸いにも戦後70年、防衛出動が下令されるような厳しい紛争事態が起きていないためにその問題が放置されていますが、大日本帝国憲法も日米決戦の如き究極の有事がなければ何の問題も意識されず、改正されることなく21世紀を迎えたのかもしれません。

Ⅳ おわりに

   古代は別として近代に入って隣接する国の支配を受け、苦難の道を歩まざるを得なかった民族国家はたくさんありますが、ポーランドはその最たるものと言えます。東にロシア、西にドイツ、南にオーストリアという強国に挟まれ、分断・消滅・独立を繰り返してきた気の毒な国家です。日露戦争の頃、ナポレオン戦争後のウィーン条約(1815年)に基づき、ポーランドは分割されその領土の大半をロシアが支配していました。

 日露戦争中、旅順や満洲の激戦が予想される前線には、ロシアの支配下にある非ロシア人が優先して送られ、多くが捕虜となり日本内地に送られました。ロシア軍捕虜総数は7万人以上いましたが、そのうちポーランド人は4,600人以上いました。内地の捕虜収容所は29カ所に設けられ、最初に出来たのが瀬戸内海に面した温暖の地・松山でした。松山の捕虜収容所記録はたくさん残っており、当時の日本人がロシア軍捕虜に対して如何に“おもてなしの心”を以て人道的措置を超えた温かい接遇をしたか具体的な話が無数にあります。捕虜の中には看護婦を慕い、帰国したくないから戦争が長く続くことを願う者、日本への帰化を望む者など日本を離れたくない捕虜が少なからずいたことも記されています。

 第一次欧州大戦でドイツとロシアの主戦場となったポーランドではたくさんの難民が流浪の旅に出ざるを得ず、シベリアにその孤児たちが残されました。そのポーランド人孤児たちを救ったのが、シベリア出兵で当地に駐留していた日本軍でした。ポーランドの救助要請にこたえて1920年から1922年までの約2年間、日本軍はシベリアの大地において孤児を捜索・救助、2歳から16歳まで765人を敦賀港に迎えました。貞明皇后(大正天皇の皇后)は孤児たちの保護活動の先頭に立たれ、全国からも慰問や寄付が贈られ、温かい看護によって栄養失調状態にあった孤児たちはみるみる元気を取り戻したのでした。「日本人の親切を忘れてはならない」「日本への感謝の念を忘れてはならぬ」これが孤児たちの合言葉になり、現在もポーランドはトルコ、台湾に決して劣らない大親日国になっています。

 このポーランドが大東亜戦争の一因を作ったと聞けば、多くのポーランド国民は涙を流すことでしょう。ポーランドの北海沿岸にダンツィヒ(ポーランド語ではグダニスク)という港町があります。歴史的経緯からここには多くのドイツ系住民が住みついていました。第一次大戦の結果、この町は何処の国にも属さない自由都市として国際連盟の保護下に置かれましたが、人口の90%がドイツ民族であり、住民はドイツへの復帰を望んでいました。ダンツィヒの問題は、ドイツに残されたベルサイユ体制の瑕疵解消の最後の懸案事項でした。ポーランドはドイツのその希望を理解しており、国の存亡を賭けるような国益ではないということはわかっていたはずです。

 ナチスドイツはこのダンツィヒの原状回復を求めてポーランドとの交渉に入りましたが、英仏の支援を受けた時のポーランド政府は頑なに交渉に応じようとしませんでした。そのためドイツはソ連と不可侵条約を締結、ポーランド侵攻に踏み切り、第二次欧州大戦の火蓋が切って落とされたのです。

 ドイツもソ連もイギリスが東ヨーロッパの外交問題に口出しすることを嫌っており、イギリス自身もそのことを理解していました。それにも拘わらず第一次欧州大戦の再現を恐れていた英仏が、なぜそんな危険な保証をポーランドに与えたのでしょうか。

 1930年代の在ポーランドアメリカ大使の報告書がその謎を解き明かしてくれました。その日付は、1939年1月16日付となっていますから、第二次欧州大戦の始まる半年ほど前です。

 「フランスとイギリスは全体主義国と如何なる妥協もしてはならない。それがルーズベルト大統領の断固たる考えである。両国はどのような形であれ、現行の領土の変更を狙うドイツとの交渉に入ってはならない。その要求の代償として、両国に対してアメリカは倫理的な約束をしている。それは、アメリカは孤立主義を止め、戦争が起きた場合には積極的に英仏の側に立って干渉するというコミットメントである」

とする報告書の内容です。このアメリカの言質がなければ、英仏はポーランドに対して保証を与えることはなかったでしょう。そうなればどうなったか?ポーランドは欧州最強の陸軍を擁するドイツと妥協し、ポーランドの独立はドイツの軍事力によって保障され、ヒットラーは西方には目もくれず東方へと大進撃を開始し、独ソの二つの全体主義国家、ヒットラーとスターリンの二人の独裁者が血みどろの戦いを始めることになったかも知れませんが、西欧やアメリカの平和は維持されたでしょう。

 我が国は防共協定の精神に基づき何らかの措置をとることになったかもしれませんが、基本的には西欧諸国と同じく、戦乱に巻き込まれることなく傍観者の立場で居られたものと考えます。

 第二次欧州大戦が起きなければ、大東亜戦争も起きることもなかったでしょう。この東西の大戦争をF・ルーズベルトが作為的に導いたと言ってもいいというのが本稿の一つの結論ですが、言うまでもなくそれだけが日米決戦への道ではなく、前述した如く様々な要因が折り重なった結果として日米決戦を回避することが出来なかったというのが正しい見方だと考えます。

 大東亜戦争で誰が一番得をしたか?誰が一番損をしたか?得をしたのははっきりしています。スターリンと毛沢東が一番得をしました。その次に得をしたのは、戦後独立を果たした東南アジア、南アジアなどの西欧の植民地の人々でしょう。

 一番損をしたのはどこかというと、これは少し難しい、ひょっとしたらほとんどの植民地を失うことになり、大国ではなくなったイギリスやフランスかも知れません。チャーチルはイギリスの植民地を守ることをルーズベルトから何度も約束されていましたが、結果的には大東亜戦争の嵐の中でさら地にされてしまいました。

 日本も樺太・台湾・朝鮮・南洋諸島などを失いましたが、かえって身が軽くなって戦後急激に経済成長を成し遂げ、物質的には得をしたことになるかも知れません。戦前は多くのお金や人材を外地に投入して鉄道・道路・学校・病院などを造り、内地に十分なインフラ整備が行き届きませんでしたが、戦後は国内にのみ目を向け、徹底したインフラ整備を全国隅々まで行うことが出来るようになり、国民生活は豊かかつ便利になりました。戦後我が国が、樺太など外地に領土を維持していたとしたら、民族問題など複雑な問題を抱えた上に、広域の国防に多大な経費を要し、戦前の如く例えば九州新幹線や北陸新幹線よりも「朝鮮新幹線」や「台湾新幹線」が優先されるなど四国・九州・北海道・沖縄などのインフラ整備は二の次にされていたと思われます。

 ただし日本は目に見えない非物質的なものを失いました。その最たるものが「東京裁判史観」です。私たちは今なお東京裁判史観から派生してくるところの様々な精神的な問題を克服できないでいます。

 さて、先の大戦で最も損をしたのは誰か?おそらくアメリカであると断言してよいと思います。その後の米国民が背負った様々な試練・不幸、例えば朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、9.11、アフガン戦争は、欧州大戦と大東亜戦争の置き土産として米国民へプレゼントされたものと考えてよいのではないでしょうか。

 人類史における最大の犯罪の一つと言っていい第二次世界大戦を演出した一番の立役者は、ヒットラーでもスターリンでもましてや東条英機でもなく、米民主党の第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(右写真)であったと言えます。ヒットラーは約600万人のユダヤ人、スターリンは粛清等で約1,000万人、毛沢東は大躍進や文化革命等で7,000万人余の人々を死に追いやったと言われていますが、F・ルーズベルトは、2,200万~3,000万人の軍人並びに戦禍に巻き込まれた3,800万~5,500万人の民間人、合計すると6,000万~8,500万人の人々を死に至らしめたことになります。(終)

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* 参考文献等

①『ルーズベルトの開戦責任』ハミルトン・フィッシュ(訳渡辺惣樹) 2014年9月17日草思社

②『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか(「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦)』
 ジェフリー・レコード(訳渡辺惣樹) 2013年11月27日草思社

③『インテリジェンス1941(日米開戦への道・知られざる国際情報戦)』山崎啓明 平成26年7月25日NHK出版

④『大東亜戦争への道』中村粲 平成2年12月8日 展転社

⑤『マオ(誰も知らなかった毛沢東)』ユン・チアン、ジョン・ハリディ(訳土屋京子) 2005年11月17日講談社

⑥『コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾(迫り来る反日包囲網の正体を暴く)』江崎道朗 平成24年12月8日展転社

⑦『世界はこれほど日本が好き(№1親日国ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」)』
 川添恵子 平成27年11月10日祥伝社

⑧『松岡洋右 夕日と怒濤』三好徹 1999年7月21日学陽書房

⑨『ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎』吉村昭 昭和58年5月25日新潮社

⑩『戦争論』クラウゼヴィッツ(訳篠田英雄) 1968年2月16日岩波書店

⑪『フロイスの日本覚書』エンゲルベルト・ヨリッセン(訳松田毅一)1983年10月25日中公新書

⑫『アダムの旅(Y染色体がたどった大いなる旅路)』スペンサー・ウェルズ(訳和泉裕子)2007年2月5日バジリコ(株)

ⅹ.ウィキペディア